2.巳那の記憶
『こんな世界なんて滅んでしまえばいい』
沢野巳那はそんな事を常に思っている女子高生だった。勿論本気で滅んで欲しいわけでは無く、ストレスだらけの日常に対して中二病的な思想を持っているだけだ。クラスでの影は薄く、成績も普通。内気で口下手なので友達も少ない。特技といえば漫画やアニメの流行に少し敏感なだけ。会話をしても大体受け身でつまらない子というイメージだった。
巳奈は将来の夢も薄く、好きなアニメや漫画に関われればいいなという俗っぽい思いはあれど叶わない事も分かっていて、それが彼女のネガティブな感情を更に増幅していた。クラスに友人がいない訳でもないが、その友人も一緒に遊びに行ったり家に泊まったりするほどの仲ではない。話題のアニメや漫画の話でたまに盛り上がるぐらいだった。
「ねえ、この漫画最初に面白いって広めたのあなたなの?」
高校の休み時間、教室の隅でラノベを読んでいた巳那は珍しく話しかけられた。巳那が顔を上げるとそこには明るい茶髪の小柄な少女が立っていた。彼女の名前は宮野璃奈。巳那とは真逆で明るくクラスの女子の中心にいるような少女だ。まともに璃奈と会話した事が無かった巳那は少し動揺してからようやく口を開いた。
「そうだけど、どうかした?」
璃奈がスマホで見せてきた漫画は今話題でアニメ化も決定したネット連載のバトル漫画だ。巳那自身はそこまで興味を引かれ無かったが、絵柄と漫画の展開から人気が出そうだと思って友人の一人に薦めたのだった。その数ヶ月後、一気に人気になり今は注目の話題作と呼ばれている。そういう嗅覚に関しては巳那も少し自信を持っていた。
「本当にそうなんだ。
ねえ沢野ちゃん、他におススメの漫画とか無いの?」
璃奈の顔は一気に笑顔になり、興奮気味に巳那に詰め寄る。小柄で明るく、可愛い。クラスの人気者なのも分かると巳那は思った。しかし、見た目がギャルっぽい璃奈に漫画の事を聞かれるとは思ってもいなかった。
「お薦めって言っても私は宮野さんの好みとか分からないし……」
「えーと、じゃあ最近読んで面白かった漫画は―」
璃奈は3つほど漫画のタイトルを挙げる。確かに通好みの最近の名作だけど、そこが逆ににわかっぽい、と巳那は思ってしまった。なのでとりあえず頭に浮かんだ漫画の名前を出す事にした。
「うーん、ネットで今人気の宇宙怪獣転移無双とかは?」
「それは読んだよ。でも、面白いのは最初だけで、その後の展開は間延びしてるなって」
璃奈の感想は巳那と全く一緒だった。それなりに漫画を正確に評価出来るんだと巳那は思った。じゃあと巳那は自分も面白いと感じた最近の漫画をいくつか挙げてみる事にする。
「だったら―」
「話題になってたから全部読んだよ」
そうなると巳那はお手上げだった。巳那が固まってしまったので璃奈は口を開く。
「何でもいいよ。とりあえず読んでみるから。
じゃあ、沢野ちゃんのお気に入りの漫画を教えてよ」
「私の?」
そう言われて巳那は動揺する。自分の好きな物が他人も好きとは限らない。そういう好みの相違を巳那は今まで何度も思い知らされてきた。だから友人と話す時もなるべく友人の好みに合わせて話すようになったのだ。
「うん。ジャンルはどんなのでもいい。あたしは今新しい刺激を求めてるだけだから」
「刺激……」
璃奈は最近漫画を読み始めて色んな漫画をとにかく読みたいのだと巳那は理解した。巳那も昔そういう時期があったのを思い出す。だったらと一つの漫画が巳那の頭に思い浮かんだ。
「昔の漫画で電子版が無いのだけどいい?」
「いいよ。タイトル教えてよ買ってみるから」
「買わなくていい。というか、多分もう売ってない。明日持ってくるから」
「貸してくれるの?ありがとう」
璃奈の笑顔が眩しく、巳那は少しだけ心が弾んだ。翌日の巳那のカバンはいつもよりズシリと重かった。
巳那が瑠奈に漫画を貸した二日後、放課後の教室で瑠奈が話しかけて来た。
「貸してくれた漫画凄い良かった。あんな漫画あるの知らなかった!」
身を乗り出して興奮気味に語る璃奈。圧に押されつつも、巳那は貸してよかったと実感していた。
「あれね、私が小学生の時に初めて自分のお小遣いで買った漫画なの」
「これを小学生で?」
「うん、表紙になんか惹かれて」
巳那がその漫画を買った時はまだ漫画をそれほど読んだ事は無く、手にしたのはたまたまだった。その漫画は一般受けはしないものの、隠れた名作として一部の人には有名な漫画だった。その漫画との出会いから巳那の漫画の好みが決まったといってもよい。
「ねえ、他にも漫画教えてよ」
「分かった、じゃあ―」
それから巳那は自分の好みの漫画を貸したり、読めるサイトを教えたりしていった。2人の関係はクラスメイトから友人に変わり、連絡先を交換してからは頻繁にメッセージを送り合う仲になった。
《今度巳那の家に遊びに行っていい?》
数週間後、2人はメッセージ上は名前で呼び合い、やり取りをするようになっていた。
《いいけど面白いものなんて無いよ》
《毎回選んで漫画持ってくるの大変でしょ?》
《それは別に》
《ねえ、行っていい?》
《分かった、片付けとく》
璃奈が一度決めたら意志を曲げない子だという事を巳那も理解してきていた。そうして璃奈は初めて巳那の家に遊びに行く事になった。
ある日の放課後、巳那に連れられて璃奈は巳那の家へと向かった。2人の家は同じ路線の4駅違いで、巳那の家の方が学校から遠い。家に集まるなら璃奈の家の方が近いが、璃奈は家に人を呼ぶ事は無かった。「散らかってて人を呼べる状態じゃない」というのが璃奈がよく言う回答だった。
「お邪魔します」
「今日は夜まで誰も帰って来ないから大丈夫」
「へー、良い家じゃん」
璃奈は巳那の家の玄関でキョロキョロと周りを見回す。巳那の家は住宅街にある一軒家で、庭は無いものの、十分立派な家だった。巳那の祖父母が元々住んでいた家をリフォームしたと聞いたが、巳那は生まれた時からこの家に住んでいるのでよく分かっていない。そもそも巳那自身はこの家が好きでは無かった。
「私の部屋はこっちだから」
「うん」
巳那は他の部屋は見せずに2階の自分の部屋まで璃奈を案内する。どこをどう使おうと怒られるわけでは無いが、自分の家族のプライベートを友人に見せたく無かった。部屋に璃奈を案内すると買っておいたお菓子とジュースを持ってくる。巳那の部屋は6畳の洋間でベッドと本棚が部屋の大半を占めていた。勉強用の小さなテーブルと家を出ていった兄が置いて行ったテレビとゲーム機が辛うじて別の娯楽としてあるぐらいだ。
「凄い、色んな漫画読んでるんだ!」
「今は電子書籍で買ったり読む事が増えたけど、好きな漫画は本で買ってる」
璃奈は部屋の本棚を興味津々で物色し始めた。巳那は漫画を大事にしてはいるが、他人に読んでもらうならどう扱われても問題無いと思っている。
「つまんない部屋でしょ?」
「そんな事無いよ。巳那らしい部屋だなって」
巳那が部屋に友達を呼んだのは小学生以来だった。小学生の高学年になると、お洒落なものやゲーム機の無い巳那の部屋はつまらないと言われ、それ以来人を呼ぶ事は無かったのだ。
「あ、この漫画面白そう」
「ちょっと待って、それを読むならその前に―」
巳那はオタクらしく漫画を読む順番を説明する。まさかこんなに自分の好きな漫画を薦められる日が来るとは巳那は思っていなかった。
「いいなー。ここに住みたいぐらい」
「住むのは困るけど、漫画を借りて行ったり、たまに遊びに来るのは全然いいよ」
「やった!」
璃奈の笑顔で巳那は癒される。璃奈は本を探す手を止め、ジュースとお菓子で談笑し始めた。
「ねえ、どうやったらこういう面白漫画を見つけられるの?」
「うーん。ネットや雑誌の紹介とかで知る事もあるけど、やっぱり本屋や古本屋で試し読みして見つけたのが多いかな」
「そういえば本棚にアニメ化されてる人気漫画とかは少ないよね」
「そういうのも読む事は読むけど、私的にはそこまで好きじゃない事が多くて。どうしてもキャラ人気が先行して物語が引き延ばしになるのも多いし」
「分かる。もっと早く完結させてあげればいいのにって漫画あるよね」
2人はくだらない漫画談義で盛り上がった。巳那が自分の好きな漫画を人に薦めなくなったのは絵柄が気持ち悪いとか、話が暗い、キャラが可愛くないとか言われたからだ。巳那も勿論そういう要素も重要だとは思っているが、漫画の面白さは絵柄より漫画の見せ方や話の作り方だと思っていた。だけど、それを共感出来る友人には今まで出会えなかった。
それから2人は更にお互いの嗜好を共有し合った。そこには勿論好みの違いや考え方の違いがある。だけど2人はそれぞれの好きを否定せず、素直に話を聞き合った。
「私最初は璃奈は話題作好きのにわかなんじゃないかと思ってた」
「酷いなー。誰だって初めの頃はみんなにわかでしょ。あたしは好きになるのに浅いも深いも無いと思ってる」
「そうなんだけど、私は頭が固いからどうしても」
「巳那はもっと気楽に考えるようになるといいよ」
巳那は確かに自分が偏見で物事を考えているところがあるなと思った。でも、そういう指摘は璃奈から聞かなければ納得しなかっただろうと。
「ねえ、あたし達ってこんなに気が合ったんだね。名前の語感も似てるし、もしかして前世で双子だったんじゃない?」
璃奈が冗談めかして言う。“さわのみな”と“みやのりな”、確かに似てるなと巳那は感心した。ただ、小柄で可愛い顔立ちの璃奈と背が高めで美人寄りの巳那の見た目はかなり違っている。
「でも、見た目も性格も似てないよ」
「あたしが言ってるのは魂の部分が似てるって事」
「璃奈はそういうオカルト信じてるの?」
「ぜんぜん。でも、なんか巳那といると安心するんだよね」
巳那も口には出さないが同じ気持ちだった。巳那は璃奈が初めて出来た親友だと思えた。
それから2人の仲は更に良くなり、今度は璃奈が巳那に色々薦めて来るようになった。見た目がギャルなのに反して、アニメもゲームも巳那がよく知らない物を璃奈は知っていた。最近の流行りのゲームは一通り手を出しているようだ。
《璃奈は意外とゲームやってるんだね。お金かからない?》
《うちはお小遣いだけは多いから、これぐらいは全然。巳那はゲームしないの?》
《自分で買おうとは思わなくて。兄貴が置いて行ったゲームをたまに触るぐらい》
《じゃあ今度ソフト持って行くから一緒にやろ!!》
璃奈はゲームの話をする友達はいなかったようで、楽しそうにゲームの話題を出していた。巳那も興味が出て、璃奈にゲームを借りるようになった。巳那はようやく生きていて楽しいと思うようになっていた。
それは巳那と璃奈が仲良くなって数か月後の事だった。
「沢野さん、宮野さんが教室で呼んでたよ」
休み時間、トイレから出て来た巳那は友人の高田佳子に声をかけられた。オタクの友人の1人ではあるが、佳子は交友関係が広く、巳那は最近あまり話していなかった。巳那と璃奈はメッセージでのやり取りが主で、学校で直接話かける事は無くなっていた。巳那は不思議に思いつつも、急用かなと思い足早に教室へと向かう。
教室に入ると璃奈は彼女の友人の山田美海と話している最中だった。話を中断するのも気まずいと思い、巳那は教室の後ろの方の自分の席で話が終わるのを待つ事にした。その時、璃奈と話している美海が巳那の方をちらりと見た気がした。
「ねえ、璃奈さあ、最近付き合い悪く無い?」
美海は周りに聞こえる大きな声で話す。その声は聞き耳を立てなくても巳那にも聞こえた。
「そんな事無いよー。この間も一緒にカラオケ行ったじゃん」
「でも、買い物誘った時はダメだったよね」
「あの日は用事があって」
2人の会話を聞きながら巳那は何か嫌な予感がした。
「ねえ、最近沢野さんと仲良いんでしょ?この間幸恵が一緒にいるの見たって」
「別に、沢野さんとはたまたま好きな漫画が一緒で」
「えー、あのオタクと?」
美海はわざと大きな声で反応する。璃奈は人気者で、仲良くなれば嫉妬する人が出る。巳那だってそんな事は分かっていた。巳那は今すぐ教室を出るべきか迷った。だが、身体は動かなかった。
「別に凄い仲が良いってわけじゃないよー」
「そうだよね、そんな理由で誘い断ったりしないよねー」
「うんうん、そう。ちょっとからかって話合わせてただけだよ」
「良かったー。
ねえ、沢野さん、璃奈はもう一緒に遊ばないって」
突然巳那の方を向いて美海は話しかける。璃奈も気付いたのか巳那の方を振り向く。その表情は固まっていた。
「うん、分かった」
巳那はそれだけ言うと教室を出ていった。璃奈は追っては来なかった。
璃奈からメッセージが届いたが、巳那にそれを読む勇気は無かった。巳那ももう子供では無いから、璃奈がああいう返答をした理由も分かる。だけど、直接言葉にされるとダメージは思ったよりも大きかった。何より、クラスメイトに目を付けられたから璃奈と今までと同じ関係ではいられなくなった。今回の件も佳子と美海が仕組んだのは明白だ。これがエスカレートしていくといじめになるのも分かっていた。
巳那が家に帰ったのは夜8時を過ぎてからだった。学校を出た後どこをどう歩いていたか覚えていないが、ふらふらと時間だけが経過していたようだ。
小さく「ただいま」と言っても返事は無く、リビングではいつもの両親の言い争いが行われていた。ドアを開けてそれを止めに行く気力は無い。両親の喧嘩は日常茶飯事だ。巳那の兄もそれが嫌で就職が決まったらすぐに家を出ていったのだ。兄が帰って来るのは用事がある時だけで、年に1度あるか無いかだった。巳那は足音を立てずに自分の部屋へと移動した。
『こんな世界なんて滅んでしまえばいい』
巳那は本気でそう思った。家にもクラスにも居場所は無い。親友はもう親友では無くなってしまった。言葉は呪いになり、呪いは自らに返って来る。そんな話をどこかで聞いた事を巳那は思い出す。呪われるならそれでいい。巳那はベッドに沈み込み、そのまま眠ってしまった。
呪いは本当に存在するのかもしれない。自分の意識が薄れていく中、巳那はそんな事を思っていた。
寝落ちする前、巳那はスマホに充電ケーブルを刺した。ケーブルはたまたま巳那の首の周りをぐるっと回っていた。寝てる最中に地震か車が通った振動かで、スマホがベッドから下へと落下した。同時に投げやりにベッドの上に置いたカバンがスマホの上に転げ落ちた。カバンには返してもらった漫画が入っていてかなり重かった。巳那の首のケーブルがカバンの重みできつく閉まっていく。寝ぼけてもがいたのか、首のケーブルはどんどんきつくなる。それでも息苦しさで目が覚めたなら首のケーブルを振りほどけただろう。でも、巳那は金縛りになり、手が思うように動かせなかった。巳那の意識はどんどん薄れていく。
そうして巳那はこの世界での命を失った。
「後悔の無い選択を」
眩い光の中で巳那はそんな声を聞いた気がした。