金の斧と銀の斧と妻の頭をかち割った鉄の斧
夜も深まり、深夜の夜食がたまらない時間の事でありました。
人目を避け、草木を踏む足音すらもはばかる様に、一人の木こりが泉に斧をそっと沈めました。
水面に映った月が波紋で揺れ、木こりはそっと背中を泉に向けて静かに歩き出しました。
「お待ちください」
驚きで、木こりの体がビクンと強く揺れました。
「あなたが落としたのは、この【金の斧】ですか? この【銀の斧】ですか? それとも……こちらの【血の着いた鉄の斧】ですか?」
木こりの体から、冷たい脂汗が止め処なくあふれ出し始めました。
つい先程の事です。木こりは些細な夫婦喧嘩の末に、仕事道具である鉄の斧で、思い切り妻の頭をかち割ってしまったのです。
「カップの置き場なんて、別に何処でも良かったじゃないか……」
木こりはグッと恐怖心を押さえつけ、振り向いて泉の女神へ引きつった笑いを見せ付けました。
「私は何も落としてません……」
「そうですか」
木こりは足音を荒くして、小屋へと戻りました。
妻の血がリビングの床を酷く汚してしまったので、妻の亡骸をブルーシートに包み、床板を剥がし、荷車に載せて再び泉へと向かいました。
ゆっくりとリビングの床板を泉の中へと沈めていく木こりの前に、泉の女神が姿を見せました。
「あなたが落としたのは、この【金の床板】ですか? この【銀の床板】ですか? それとも【二人で建てた思い出の小屋の床板】ですか?」
夫婦が三年半かけて作り上げた小屋には、苦労の数だけ想い出が詰まっていました。
──シンディ! 指を切ってしまったよ!
──ボブったら、気をつけてね。
小屋作りの最中は、どんな苦労も喜びと期待で胸が膨らむばかり。夏の汗も、完成した時の嬉し涙も、二人で共に過ごした日々も……その全てが輝いておりました。
「……シンディ」
木こりはそっと、ブルーシートに包まれた愛妻を泉へと浮かべました。やがてゆっくりと沈んでゆく妻の姿を、片時も目をそらすこと無く、ずっと見つめ続けました。
「あなたが落としたのは、この【金のシンディ】ですか? この【銀のシンディ】ですか? それとも、こちらの【かつて愛を誓い合ったシンディ】ですか?」
泉の女神が水面から引き上げたシンディは、無傷のままかつての美しさを保っており、木こりは思わず泣き出してしまいました。
「おお、シンディ……!! 私が悪かった……!! どうか哀れなこの私を許してくれ……!!」
「あなたは正直な人ですね。ですので全てのシンディを差し上げましょう」
木こりは泣いて喜びましたが、金と銀の妻は辞退しました。
「妻が生き返ってくれただけで私は幸せだ。これから私は妻のために一生を捧げるよ」
妻をそっと荷車に載せ、木こりは小屋に向かって歩き出しました。
「……あなた?」
「ああ、目が覚めたかい?」
「私は……いったい?」
妻は木こりとの口論すらも憶えてはいませんでした。
木こりは女神の優しさに、そっと涙を流しました。
「大丈夫だ。何でもないよ」
「そう……」
「ああ……ただ、ちょっと踏み抜いちゃってね。少しだけ穴が……ハハ」
木こりは小屋へとたどり着くと、目が覚めたばかりの妻をベッドへと運び、自分はその間に床板の張り直しへと取りかかりました。
「……お?」
剥がした床板の下にキラリと光る何かが見えました。
木こりがそっと手で土を払うと、金と銀の自分の頭が現れました。
木こりは思い出します。カップの置き場で喧嘩になったのは、これで二度目だった事を…………。