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僕は犬だけど英語がしゃべれるよ

作者: 天野げる

 僕は焦っていた。

 さっきからテーブルに体重を預ける前足は棒のようになって動かないし、人用の椅子に乗り、体を支える後ろ足も震えが止まらない。

 せっかくの晴れ舞台だからとブラッシングしてもらった毛並みも、緊張のあまり色あせていることだろう。

 

 いかにも値が張りそうなホテルの広間。

 天井は見上げるほど高く、その奥行も100頭は軽く入れそうなほど広い。

(一般的なドッグランの半分ほどの広さだといえば伝わるだろうか)

 床には絨毯が敷き詰められ、意図的に明かりが抑えられているのか全体的に薄暗い空間。


 わかりやすく言うと、芸能人が会見を開くときによく使っている広間、あの広間だ。

 選ばれしイエイヌの皆なら、一度はテレビで見たことがあるんじゃないかな。

 僕だって、つい先日までテレビの向こうの景色だと思っていた。


 その広間の最奥で、本日の主役はこちら! と言わんばかりに、スポットライトに照らされているんだ、この僕が。


 ライトアップされたまま微動だにしない僕を、記者たちが扇状に囲んでいる。

 数えきれないほどのカメラはそのすべてがこちらを向き、スーツ姿の人間たちも歴史的一瞬を逃さぬように、固唾をのんで見守っていた。


 僕がしゃべる瞬間を……犬が流暢に英語(・・)を話すその姿を!


 きっと歴史上初めてだろう。英語を話す大型犬なんて。

 彼らだけではない。世界中が僕に注目していた。

 カメラの向こうでは、地球の裏側の人間までもがモニターに釘付けになっていると聞く。それほどのビッグニュースなのだ。


 ……だが、どうしたものか。

 こんなにたくさんの人に集まってもらっておいてあれなのだが……僕は英語が話せない。

 その瞬間のために連日お昼のテレビは特集を組み、町ではごん太ちゃん饅頭なるものが発売され、挙句の果てに商標登録までされかけるほど盛り上がり、あとは僕が話すだけというところまできたのだが――肝心の僕が英語を話せないのだ。

 

 なぜ今まで黙っていた、このようなことになるのなら事前に誰かに相談しておくべきだっただろうと思われるかもしれないが、一介のゴールデンレトリバーに過ぎない僕の立場になってすればそれが難しいというのは想像に(かた)くないはずだ。



 とにかく、この土壇場で話せるようにならないかと、さっきからマイクに拾われないように唸ったり祈ったりしているのだが、いかんせん犬の声帯とは英語を話すようにできていないらしく、一向にアルファベットが飛び出す気配がない。


 どうしてこんなことになってしまったのだろうか。


 このまま口を開いて「すみません。実は英語が話せないんです」と謝っても、きっと彼らは許してくれないだろう。


 きっかけはたった一つの嘘だった。


 あの日に戻ることができたなら……今からちょうどひと月前の8月31日に。



 ◇


 その日は晴天だった。

 なんてこともない昼下がり、僕はリビングでくつろいでいた。

 いつものクッションに身をゆだね、お気に入りのボールをかじりながら腹を掻く。

 外からはミンミンとセミの鳴き声が窓を震わせ、あまりの暑さのせいか、向こうの景色は歪んで見えるほどだった。


 こんな日ほど、自分が勝ち組であることを自覚するときはない。

 猛暑の中掘っ立て小屋で丸くなりなんとか暑さをやり過ごす外犬がいる一方、選ばれしイエイヌは涼しいクーラーの効いた部屋でテレビを見ていられるのだ。


 ドッグフードで膨れた腹を撫で、緩やかな午後の睡眠に入ろうかと思ったとき、ふといつもと違うことに違和感を感じる。

 見渡せば、テーブルについて何やら作業をしている存在に気づいた。


 名はゆう君。

 彼は僕の主人の子供で、家族からはゆう君と呼ばれている。

 一度リビングでスーパーボールを投げて電球を割ったときは『ゆう太ァ!』と呼ばれていたが、それ以外はいつも『ゆう君』なので、彼の名前はゆう君なのだろう。


 ゆう君が食事のとき以外にダイニングテーブルに座ることはめずらしいのだが……

 机に積まれたテキストの山を見て僕は、はは~んと納得する。

 宿題だ。毎年夏の終わりになると、ゆう君はさぼっていた宿題を終わらせようと必死になるのだ。


 その光景は、散歩中に見かけるひっくり返ったセミと並んで、僕の中で夏の終わりに見られる風物詩の一つとなっていた。


 毎日コツコツやればいいのに。

 なんでいっつも最後にやるんだろう。

 不思議に思っていると、座ったまま振り向いたゆう君が(ひたい)を抑えて、ため息交じりに言った。


「ごん太はいいよな、いっつも寝てるだけで。ああ俺もごん太みたいに食っちゃ寝だけして生きていきたい」


 突然のことに言葉が出なかった。

 僕が人間だったら屈辱のあまり赤面していただろう。

 あろうことか僕を、誇り高きイエイヌである僕をプー太郎扱いとは!


 僕は散歩の度にマーキングを欠かさずご近所づきあいにも精力的だし、毎朝『ごん太新聞とってこい!』と号令がかかれば一目散にポストに駆け出すし、この自慢の毛並みで皆の疲れを癒してあげているというのに。

 主人ならともかく、夏休み最終日まで宿題をさぼり、現在進行形で英語のテキストの答えを丸写ししているゆう君に言われるのは我慢ならなかった。


 だから僕は感情にまかせてつい言ってしまったのだ。


「僕は犬だけど英語がしゃべれるよ」


 シーン……とリビングが静まり返った。

 しばらくテレビCMの軽快な音楽と、かすかなセミの音だけが流れていたが――


「…………しゃ、しゃべ……え? いや、マジ? えっドッキリ!?」


 ゆう君は大層驚いていた。

 そうだろう、そうだろう! いくらイエイヌとはいえ、自分にはできない英語がしゃべれると聞いたらびっくりするだろう。

 僕は得意げになった。

 ……ホントは英語なんてしゃべれないけど、英語が苦手なゆう君にはわからないからな。


「ちょばっ――――カメラ!」


 ゆう君は素っとん狂な声をあげると、ドタバタとリビングから出て行った。

 そして戻ってくると、ぜいぜいと息を切らしながらスマートフォンを僕に向けた。


 ゆう君、それはカメラじゃなくてスマートフォンだよ。

 僕はそう教えてあげようと思ったが、これ以上同居人に恥をかかすのも忍びないと思い、口をつぐんだ。


「ご、ごん太。さっきの言って? もっかい言って?」


 小さなレンズの横に、青いライトがチカリと光る。

 嘘はいけないことだが、ゆう君相手ならバレないだろう。

 いいとも、何度でも言ってあげようじゃないか。


「僕は犬だけど英語がしゃべれるよ」


 この時の僕は知らなかった。

 目の前のスマートフォンに、テレビと同じくらい情報を拡散させる力があるだなんて。

 もし知っていたなら、口が裂けても『英語がしゃべれる』なんて嘘はつかなかった。


 僕の軽はずみな発言は想定した範囲をはるかに上回り、海を越え、国境を越え、光の速さで世界に伝搬されてしまったのだった。



 ◇


 回想の海に逃げこんだところで今陥っている窮地はどうにもならなかった。

 舞台はなんら変わらずホテルの広間。

 椅子に座った記者たちは、今なお身を乗り出さんばかりに期待を募らせこちらを見つめている。


 ……タダでは帰りそうもない。


 どうだろう、ここは一つ僕の十八番(おはこ)の落語を聞いてお(ひら)きというのは。

 主人の書斎に入り浸ったおかげで、寿限無(じゅげむ)くらいならそらんじることができるのだが……。


 ダメだろうな。

 (そろ)いも(そろ)って、英語を聞くまでは帰るつもりはないって面構えをしている。


 なにか、なにか言わなければ……。

 今までの犬生(ワンセイ)の記憶をさかのぼり、どうにか話せそうな英語を探し始める。

 いくら相性が悪いとはいえ、一つや二つ犬でも発声できる英単語があるはずだ……。

 熟考の末、僕はなんとか親和性の高いアルファベットを絞り出すことに成功した。

 それは英語圏の人でなくとも知っている簡単なフレーズ。

 妙に発音しやすいことから我々の間でもしばしば話題になっていた。

 通るっ、これなら通るはずだ。これで通ってくれ――――。


 覚悟を決めて、大きく息を吸う。

 記者たちがおおっと目を見開いて歴史的瞬間を目に焼き付けんとする。


 僕は大きな声で、会場の隅っこにまで聞こえるように声を張り上げて言った。



「――――ワン!!!」


 

 みんなずっこけた。

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