8 長白 蠱喰魔虚空
今までにない規模の黄土の襲来だった。それがチエを襲い、聖杯城近くまで襲い来た。その事実はユウトをいら立たせていた。
「なぜ、チエさんを、なぜ聖杯城を、なぜみんなをこうまでして襲うのか・・。悪衆羅許すまいぞ」
ユウトは怒りのあまり、察知したばかりの長白山へガルガリム球体ユニットを飛翔させた。その後ろには無言の六翼の騎士。
「待って、先輩…」
確かにチエの声を聞いたのだが、ユウトは怒りのあまり我を失っていた。ユウトも、彼自身が長白山へ迫ることが悪衆羅の怒りを呼ぶことを知っていたはずなのだが・・・。
今回は、黄土の巨雲がわき始めた。だが悪衆羅の姿が見えない。それでも黄土のオーラがユウトのガルガリムユニットを囲んだ時、自動機械のように反応した六翼の騎士が辺りを震わせた…。それが引き金だった。
長白山が鳴動し始め、そのときになってユウトは大噴火を察知した。これがユウトの怒りがもたらしたアスラたちの怒りの発動、悪衆羅たちの新たな攻撃手段の始まりだった。
「南部から西部、そして北部にかけては中国側の営みの地域…。このままでは、営みの濃い地域が危ない」
「これが俺のやるべきことなんだ。六翼の騎士、熾天使…」
ユウトは、六翼の騎士を乗せたまま、ホバリングしたユニットの位置を長白山北西に移動させた。それに伴って六翼の騎士の力場が北西へとずれる。その時、先ほどまでユウトがいた空間めがけて山が巨大な火を噴いた。それとともに・・・・。
ユウトのしゃがれた声に熾天使は手を挙げて応え、六翼を光らせた。長白山から発せられた大きな光の柱は、六翼の騎士の強大な力場によって南東へと曲げられた。同時に光の渦を発した複数のプロトン爆発とともに、長白山の噴火口も南東斜面もすべて融解したガラス質の岩石によっておおわれ、融解させた。
「これで、われらをもう襲うことはあるまい・・・・」
疲れ切ったユウトはそういうと意識を落として知った。それを見た熾天使は、ゆっくりとガルガリムユニットを下田の鍋田浜におろした。
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長白山に人影のような動きが昇っていく。その先には、天池を泳ぎ潜っていく人影。一人 二人、当然のように湖の中に消え去っていく。その一人に日本人がいた。その名は灰田ヒロアキ。彼は前後にいる人間たちと同様に優雅に泳ぎながら、突然フウっと水中に消えていく。
長白山は、長らく噴火はおろか噴煙すら見られることがなかった。その天池水面下の洞窟の奥に、特殊な空間が形成されていた。ある力によって空気をとどめた広大な空間。黙示録に言う946番目の言葉である「嫌悪」の年の大噴火の際に形成された渦動結界空間。いや渦動結界の広大なこの空間が形成される際に、渦動結界の発動の弾みとして946年の大噴火が用いられていた。
それ以来、長白山を中心とした円弧上の帯域には、その洞窟空間から発する大結界の最大振幅が生じ、その上に位置する日本列島、アムール川流域、北京、上海などに、叡智や明龍、いまでは悪衆羅の働きが強く及んでいた。
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ヒロアキは、北京大学大学院地脈学専攻博士課程に在学していたはずだった。そうであれば、彼がこの長白山に来るのは不自然ではなかった。彼の研究テーマが岩石圏渦動とマグマそして動物への影響というものであるがゆえに、彼はこの地にあった地脈学教室練習場を起点として歩き回ることも頻繁だった。その時に迷い込んだ洞窟に、この声が響いていた。
「親愛なる蠱喰魔虚空院学生諸君。はるかな昔、この山にてこの世を一番に震わした爆発が起こされた。そして、末法の世をもたらしめる動きが始まった。明龍が進化する悪衆羅によってそのエネルギーを得る君たちこそ末法の世の救い。すべての人間たちを残らず涅槃へと導く時。君たちは人間ではあるが、自らの修行によって悪衆羅の力を得るのだ。これからは、学び、鍛え、そして心を冷たく整えよ。君たちはすでに物事の空なることを明むることができた。私、明龍が悪衆羅の力を授ける力によって働け。いずれ、もう一度長白山にて大噴火を起こすことによって、渦動結界が爆発的にこの惑星全体へと拡大する。その時には、全ての人間たちも災害や飢餓、戦争によって絶望し、明むることによって涅槃へと連れ込むことができる。それによって末法を完成させるのだ。」
康煕老人の声とともに、そこに集められた人間たちは、学びと修業を始めていた。その学びは、多数分裂した明龍の一つをまるで依り代のように取り込んでいっては悪衆羅となっていくためのものだった。そして、偶然迷い込んだ洞窟の中でこの声を聴いたヒロアキは、心を捕らえられ、その場で今までの記憶を失い、盲目的に学びと修業を始め、いまに至っていた。
悪衆羅の力さえ退けられたいま、その長白山が彼らの最後の砦だった。彼らは末法の世を来たらしめるために、長白山に秘められた大地の基いたる巨大なエネルギーを利用して再び攻勢に出ようとしていた。どよめく悪衆羅の声。
多くの悪衆羅の中にヒロアキだがいた。彼はほかの悪衆羅とは異なり、心の隙間に再び叡智の心が閃いていた。
「なぜ邪魔をする。なぜ涅槃を妨げる。なぜ十万億土の極楽を・・・・。なぜ寂静を犯すのか」
ヒロアキの心は迷いとともに、そしてほかの悪衆羅とともに自分の持ち場へ向かった。それは、彼が地学者ゆえの、気象のプロゆえの気流操作術、巨大な黒い放射能雲ペクトクラウドの操作術の席だった。
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チエは、ユウトとともに下田へ戻った。あれ以来、ユウトは警戒心をすっかり解いている。その様子を見てチエも安心していた。それ以来、二人は毎日海を楽しんでいる。
今日も、海から上がって来たユウトが何かを叫んでいる。彼が漁ったのは、サザエなどの貝類とウニ。彼は得意だという剣術で獲物を漁っているらしい。
「先輩、振り回しているのは単なる棒切れなんでしょ?」
「そうだよ、このひと振りさえあればいいんだ。俺は剣士だからね」
「うふふ、おかしいわ。剣は戦うためのものでしょ」
「そうだが、これは人を生かす剣。まあ、今は人を食べさせる剣かな」
「そうなの?」
再び二人で過ごす穏やかな生活、それを彩るのは鍋田浜の蒼い海だった。任務ではないとはいえ、ユウト自身はチエを脅かす悪衆羅を一掃したと考えていた。まだ白いドレスを脱ぐことができなかったが、それでも流れ込んでいた悪衆羅の思念はすっかり消えていた。確かに、チエは朗らかな表情を取り戻していた。
「待って、ユウト。今はまだその時ではないわ」
ユウトとチエのもとに、ミツルとリディータの連絡が届いた。ユウトは驚愕したまま、反論した。
「チエさんは幸せになる権利があるはずだ。それに俺だって・・・・」
チエは、ユウトのこわばった顔を見て、全てを理解した。無言のチエの代わりにリディータの声が響く。
「そう、誰だって幸せになる権利があるわ。でもいまではないの」
「でももう俺たちには十分だ。俺たちはやっと婚約者から結婚に至れるのに・・・・」
「でも、それはいまではないのよ。今は熾天使による戦いがまだ終わっていないの」
「どうして?」
「彼らの本拠地に動きがあったの。長白山が噴火して大きな黒雲が形成されたの。それが・・・・、放射能を帯びた死の灰の雲なの」
「まさか…・」
ユウトは絶句した。
長白山の爆発は周辺の核爆弾を誘爆させ、黒い雲を成層圏にまで巻き上げた。成層圏にまで達した放射能雲は死の雨をもたらす黒雲、ペクトクラウドとなった。それはまるで意思を持った生き物のように北半球を蹂躙し、すでに日本の北東北、サンフランシスコからニューヨーク、ピレネー山脈、ローマへと至っていた。もうすぐイスタンブールに達する。このままではトルクメニスタンを通過すると再び北京を含む中華圏北部一帯…そして再び日本へ。
「すでに北半球の北緯40度の一帯が死の灰に襲われたわ。それが少しずつ南下しながら周回しているわ。このままでは東京も、名古屋も大阪も、サンフランシスコ…果て北半球のすべてがやられてしまうのよ」
リディータの声は、半分泣いていた。
「でも、俺たちは…助かるんじゃないの。せめてチエさんだけでも助けたい」
「だめよ、このままだとどこにチエさんをかくまっても危ない。彼らは放射能雲で我々を混乱させ、隙を突く形でチエさんを狙ってくるでしょうね。確実に・・・・」
「どうしてだよ、どうしてチエさんをそこまで追い詰めるんだよ」
ユウトはしばらく黙っていた。
「ユウト、今は熾天使と意思疎通を図れるのは、どうやらあんただけよ。あんたしかこの事態を解決できないのよ」
「うるさい、黙っていてくれ・・・・・」
やがて、ユウトは顔を上げてチエを呼んだ。
「チエさん、お願いがあるんだ。あの別荘の地下室にシェルターがある。そこへ隠れていてくれないかな」
「どうして・・・・。また私を置いて行っちゃうの?」
チエは不安そうな顔をユウトに向けた。ユウトはチエを思わず抱きしめた。
「僕はチエさんのために生きて来たし、これからもチエさんのために生きる。これからやろうとすることはその一部なんだ。だから、お願いだから、俺の言うことを黙って聞いて…」
「いやよ」
ユウトはその言葉を待たずにチエを気絶させ、シェルターへと運び込んだ。
もうすぐリディータたちも来る。
「わかってくれたのね」
リディータの声にユウトは苦々しく答えた。
「これは、俺の仕事なんだね」
ユウトはそういうと、六翼の騎士、すなわち熾天使を乗せたガルガリムユニットを飛び上がらせて、西へ飛び立っていった。
トルコ上空。真正面に迫ってくるのはペクトクラウド。通常の積乱雲ではなく、上下左右に幾重にも重なる黒い積乱雲。それらは真っ直ぐユウトに向かってくる。彼の目の前の黒雲は。立ちはだかる山のように、成層圏まで大きくそびえたっていた。
ユウトはホバリングさせたまま、ユニットの風防ガラスを開けて立ち上がった。広げた4つの翼。ユウトは祈りを込めてひと煽りをぶつけた。一瞬にして黒雲の大部分が吹っ飛んだ。それでおしまいのはずだった。だが、幾重にも重なった黒雲が吹きとばされた奥から現れたものは、オーラで包まれた黒雲。それは無傷だった。
「もう一度」
ユウトは翼を最大限に広げ、最大限の力であおった。何回も崩し、何回も挑んだ。しかし、オーラで包まれた黒雲は破壊できなかった。
「もう、このまま繰り返すことはできない。燃料はいつまで続くのか・・」
その時、無口なはずの六翼の騎士、熾天使が手を挙げていた。
「俺を呼んでいるのか」
ユウトはためらいながら翼をたたみ、操縦席の後ろを見た。すると熾天使はユウトを操縦席に押し込みながらユウトの上に立ち上がり、六翼を光らせた。そして瞬時に目の前のオーラの黒雲は霧散した。
それがカスピ海の上空だった。
「危なかった」
ミツルがユウトに声をかけた。
「破壊できた・・・。でも俺の仕事じゃなかった。俺は何もできなかった。彼、六翼の騎士がやってくれたんだ」
「でも熾天使は黒木先輩の言うことに従った。黒木先輩でなければできなかった」
「いや、俺なんか・・・・」
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ミツルの奥でリディータの声がした。
「ユウト、チエがどこにもいない…」
『俺はシェルターに寝かせたんだ。あんたたちがすぐ来るだろうと見込んだから・・』
「でも、彼女はどこにもいない」
「どうして・・」
「黄土のオーラ、チエは彼らに連れ去られたんだ」