1 つかの間の平安
渋谷からなだらかな坂を駆け上がりその先に見える丘の上。聳え立つ聖なる尖塔。そこには天が祝福したこの世のすべてを学ぶ大学があった。
復活節の春の風の中、その大学に千人以上もの新入学徒が昇っていく。そのなかには、三年遅れて大学生となった二人、黒木ユウトとチエもいた。
「あの丘に、俺たちはこれから通うことができるんだ。あの丘の上を見ろよ、人間の作った幹線道路とその街並みを覆い尽くして、まるで神殿の中庭のように風の輝きを反射している」
「あなたがいてくれるから、あの輝きも見える。あなたがいてくれるから、あの風を感じられる。あなたがいてくれるから、あの喜びを共にできる。あなたがいてくれるから、あなたとのこの時を迎えられる。私には過ぎた幸せ…。もう、これで十分だわ」
「何を言っている? 俺たちはこれから学びの時、あの丘での平安の時を共に過ごすんだ。君の喜びがあればこそ、俺は喜べる・・・。俺にはそれしか残されていないんだから・・・・」
四翼の騎士となったユウトは、失ったものも多かった。彼は自分に関することで喜ぶことはなく、怒ることもなく、悲しむこともない。感情の多くを失っている。残されたものは、ただ、目の前の伴侶の思念を映す鏡のみが彼に残された唯一の感情だった。すなわち、チエの喜びが自分の喜びであり、チエの悲しみが自分の悲しみであった。
入学式は春日を静かに浴びながら、きらきらとしめやかに行われている。二人にとって、それは祝福された礼拝の時であった。そして、二人だけの式がその直後に行われた・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ユウトの古代工学部 巫蠱制御工学科、そしてチエの学ぶ修道部究道学科は、ともにほとんど希望者のいない学科だった。あまり入学試験も難しくはなかったが、聖杯城発行の特殊な推薦書のない限り入学が許されるものでもなかった。聖杯城から派遣されたリディータ ウォッセン師によれば、ユウトは六翼の騎士となってしまう前に人間としての学びを完成する必要があった。また、チエは今まで何度も呪いの仕打ちを潜り抜けてきたものとして、呪いを受けた者たちがいかに生きるべきかを究め、普及させる究道僧となる道を、選ぶことが運命づけられていた。
二人の式の終わりに、リディータは祈りとともに祝福を述べた。
「二人の結びつきは固くされ、二人の人生は祝福のうちに勝利を得るでしょう。チエはユウトの心の中をすべて知ることができるゆえ、ユウトの配慮に従うだけでいいですが、ユウトはチエの心の不安を知ることができるのですから、チエを自分の体のように配慮し、将来を考え、愛し尽くさなければなりません。それが二人のこれからの戦いに必要なことであり、勝利を得るための唯一の道です。二人に天からの愛、恵み、聖霊の交わりが限りなくあるように」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「これからお二人をエチオピアにお連れします」
式の終わったばかりの庭で、リディータのその言葉は二人にとって突然だった。
「聖杯城にて謁見の儀が用意されているのです。それは勝利を得た者たちを祝し、さらに勝利を得させるための臨在の儀なのです」
チエにとって、聖杯城、謁見の儀、臨在の儀などと言われても聞きなれないことばかりだった。驚き、頼るような眼をユウトに向けたのだが、ユウトは慣れているらしく平然とした顔をしていた。
「さあ、すぐに出発です」
チエはあれよあれよという間に物事を進められていることに戸惑いと不安を隠せず、ユウトの衣を思わずつかんでいた。
「大丈夫だよ」
ユウトはチエの不安な心を理解していた。初めてのところ、初めての儀式。それも、彼女が主人公の一大イベントなのだから。ただ、その盛大さと荘厳さを、チエはまだ知らない。チエの横に立ち続けて不安を和らげることこそ、今のユウトの存在意義だった。いや、ユウトにとってそれは喜びだった。
アムハラの空は砂を含んでおり、平野部からアブナヨセフの全容を隠している。しかし、アブナヨセフに近づいてみると、その中腹に設けられた城壁は、荒野の周りの岩野原と同じ色合いでそびえたっていた。つむじ風のように城壁の前に降り立つと、門が開く。
見知らぬ白い被り物をした僧がチエとユウトを待ち受けていた。
「お待ちしていましたよ、チエさん」
チエばかりでなくユウトも驚いた。そこに立っていたのは、究道僧田岡ミツルだった。
「ここから僕もチエさんをエスコートするのです」
「私をエスコート?」
「そう、君が僕たち二人を従えて、大会堂に入っていくのさ」
「え、何よ。それ・・・」
「君は天の栄光を現したからね。だから、謁見の儀、そして臨在の儀が行われるんだよ」
「みんなで受けるなら、怖くないけど・・・・」
「え、僕たちは単にエスコートするだけだよ」
ユウトがそう言うと、チエは急に不安そうな顔をした。
「だ、大丈夫。エスコートするからにはそばにいるから・・・」
「きっとそばにいてね。」
そんなやり取りの終わったころ、リディータがやってきた。
「さあ、チエさん、行きましょう。これから式の準備があるのよ」
「え、どういうこと? なぜ私だけ? ねえ、ユウト、助けて。もう不安がいっぱいなんだけど」
「これは、チエさんだけの式なんだよ…。覚悟してね」
「さあ、お召し物を頂戴します。・・・ユウト、いつまでチエを眺めているの? 男子は外へ」
チエは侍女たちのなすがままにされ、頭のてっぺんから手の先足の先まで丁寧に手入れされた。
「さあ、お疲れさまでした。おつきの人はいらっしゃい」
リディータの声を聴いて、ユウトとミツルが再び控室へ入って来た。
「きれいだ」
ユウトはそういうと、見ることに耐えられなくなったように顔を赤くしながら横を向いてしまった。ミツルはそれを見て少しからかい気味に声をかけた。
「お二人さん。妬けるねえ。チエさん、晴れの舞台だから気張っていきましょう」
「他人事だと思って・・・・」
「俺は傍にいるから」
「僕もそばにいるから」
そう言いつつ、チエは気を静めて、ユウトとミツルを従えて大会堂へと出かけていった。
控室から洞窟の奥へ続く道、その洞窟のさらに奥が大会堂だった。
やはり先ほどから、チエは足が前に進まない。大会堂の扉が開くと、チエは足がすくみ始めていた。すでに、左右に白の服の司祭、赤の服の司祭たちが中央のじゅうたんに沿って奥までまっすぐにずらりと並び、その最奥に小麦粉を練ったものと赤い飲み物とが用意されている。
チエが進み、そのあとにユウトとミツル。そのあとに白と赤のそれぞれの司祭たちが、ユウトとミツルの後に続いた。
謁見の儀、臨在の儀が滞りなく執行された。