Epilogue
更新履歴 21/10/13 文章のレイアウト変更・表現の修正
眼前の床に、みんなで作った旗が、しわくちゃの状態で打ち捨てられている。
その惨憺たる有り様を眺めながら、望月和歌は思っていた。
(誰かがこれを倒した、ってことだよね……)
この旗は、教室に入り込んだ何者かによって倒されたのだ、と。
私達がレクリエーションルームで、斉川君の帰りを待っているその間に。
それがいったい誰だったのか、という問題はあるものの、やはり原因はそうと見て間違いはない。
実際その旗の上には、人の形にも見える跡がついている。
まるでつい先ほどまで、そこへ誰かが寝そべっていたかのように。
おそらく自分が転ぶ際、咄嗟に旗を掴んで、一緒に倒れたからこうなったのだろう。
要はするにこれは、不慮の事故――直しもせず放置していったのが腹立たしい、という程度の、取るに足りない事態と言うわけだ。
しかしなぜか、単にそれだけのこと、とはっきりわかっているはずなのに――
(痛、い……)
私の胸は、心臓を握り潰されたのか、と思うくらい激しく痛んでいた。
まるで心を引き裂かれるほどの悲しいことが、突然目の前で起きたかのようだ。
何ひとつ心当たりなど無いというのに、おそろしく不可解な反応である。
そんな風に私は、独り謎の苦痛に苛まれていたのだが。
そこでふと、旗のすぐ側に屈み込んで、その詳細を調べていた志藤さんが立ち上がる。
そしてこちらへ向き直りつつ、この事態の原因について、ひとつの仮説を披露――
「……どうやらつい先ほどまで、ここに誰かがいたようですね。
もちろん『誰か』と言っても、クラスメイトの一人になるのですが。
ここには私達と倉田先生以外、生きている人間はいないわけですから。
そして、その誰かはたぶん……」
また次いで、どこかためらうような素振りを見せつつも、その結論を私に告げた。
「……もう、生きてはいないのだと思います。
他のクラスメイトや倉田先生が、この件に無関係なのは確認済みなので、可能性としてはそれしか……
おそらくその人物は、先ほどの戦いを終えて帰還した後、しばらく自由に行動していたのでしょう。
しかし戦闘中に重傷を負っていたせいで、こうして教室に戻った際、時間差で力尽きたのだと思います……」
その悲しい話を聞いて、再び私の胸が、思わず声を上げそうになるほど痛む。
あたかもここにいた誰かの死を、心の底から悼んでいるかのように。
大切な友人を失ったみたい、とさえ言えるだろう。
実際その所感は、たぶん間違っていない。
だってそうでもなければ、こんな気持ちになることはないはずだから。
きっと私は、また忘れてはいけない誰かを忘れ、それをこうして嘆き悲しんでいるのだ。
だと言うのにやっぱり、その人のことも思い出せはしない。
名前も顔も、人柄も居住まいも、全て彼方に消え去ってしまった。
失ってこうも苦しむくらい、大切な相手だったはずなのに。
ああまたなのか、またこの空疎な気分が繰り返されるのか、と絶望せずにはいられない。
しかし一方で、今回はひとつだけ、これまでと明らかに違う異なる部分があった。
具体的にそれが、何なのかと言うと――
「ああ、それから……ここに書かれている新しいメッセージも、その人が残したものだと思います。
そこに望月さんの名前があったので、こうしてお呼びしたのですが……
何か、心当たりはありませんか?」
そう志藤さんが語る通り、ここで消えた誰かの意志が、はっきりと残されていたのだ。
クラスの旗の、皆が寄せ書きをした部分の脇に、やたらと歪んだ字で。
これはどうやら、例の人物が命尽きる間際、遺言として書いたものらしい。
私は眼前にある、その自分の名前が入ったメッセージを、声には出さず読む。
胸の奥底で、何かが激しく鳴動し始めるのを感じながら。
『わたしはおもいだせた のどかもあきらめないで』
その瞬間、さらに大きく心が揺さぶられた。
送られてきたメッセージが、今まさに抱えている重要な問題に、明確な回答を示していたから。
そう、私はこのメッセージによって、『記憶は取り戻せる』ということを知ったのである。
これを残した人自身は取り戻せたから、という心強い事実を根拠にして。
だからか自然と、塞いでいた私の心に、勇気にも似た感情が湧いてくる。
それに押されるようにして、私は志藤さんの方へと向き直り、その問いに答えた。
「心当たり……と言えるほどのものは無いです。
それからこのメッセージをくれた人のことも、あまり良くは思い出せないんですけど……
でもこれが、自分に宛てられたものなんだ、っていうのはわかります。
何か大切な事を伝えようとしてたんだ、っていうのは強く感じるんです」
すると彼女は、そんな私の考えを肯定しつつ、自身の推測を述べてくる。
「そう、ですか……ならきっとこの方は、無事に記憶を取り戻せたんですね。
そしてそれを望月さんに伝えるため、このメッセージを残した。
自分の経験が、必ずあなたの役に立つと信じていたから」
つまり例の誰かは、自分が命の危機に瀕しているにも関わらず、私を気遣ってくれていたわけだ。
よほど私と、親しい間柄だったらしい。
そんな相手を忘れるなんて、薄情にも程がある、と改めて申し訳なさを感じずにはいられない。
ただ次いで、そう落ち込む私を見た志藤さんが、不意に何か思い出したような表情を浮かべた。
そして珍しく、少し自信なさげに喋りながら、何かを差し出してくる。
「ああ、それとここからは、完全に私の憶測になるのですが……
この方が記憶を取り戻すきっかけとなったのは、おそらくこれでしょう」
そんな彼女の手のひらに、すっぽりと収まっていたのは――
(……ビデオカメラ?)
骨董品を引っ張り出してきたのか、と思ってしまうくらい古い型の、シンプルで飾り気のない、ハンディサイズのビデオカメラだった。
もちろん、見覚えなどはまるでない。
それを見て首を傾げる私に、志藤さんはその詳細を語りながら、中身を確認するよう促してくる。
「このビデオカメラは、望月さんの隣の机の上に、起動したまま放置されていた物です。
例のメッセージを残していった方は、たぶん……その……
自分が消える直前、これを見ていたのだと思います。
何かわかるかもしれないので、いったん中の記録映像を確かめてもらえますか?」
私はそんな彼女の勧めに、少し戸惑いつつも頷いた後、そのビデオカメラを受け取った。
そしてすぐさま起動し、備え付けのディスプレイに映し出された、動画の撮影者であろう相手を注視する。
すると、その画面の中の人物が喋り始めた、まさにその瞬間――
『えーと……誰がこの映像を見ているかは、わからないんだけど――』
(あ……)
自分が同じ制服を着た友達らしき人々と、四人ほどで固まって、楽しげに会話している情景が頭に浮かんできた。
しかもその様子は、気心の知れ具合が良くわかる、たいへん仲睦まじそうなものだ。
無論、そこで話している相手の顔も声も、はっきりと思い出すことができる。
要は突然、かつての記憶であろうものが蘇ってきたのだ。
これは妄想でも勘違いでもない、と明確に認識可能なほど鮮やかに。
まるで結露で曇ったガラスを拭いて、向こう側の景色が見えてきた時のような爽快さであった。
急に私の身に、そんな不可思議とも言える現象が起こった原因――それはきっと、見覚えがあったからなのだろう。
例のビデオカメラの画面に映し出された、同い年くらいの温和そうな男子生徒に。
実は今しがた思い出した、過去の記憶らしき映像の中にも、彼の姿があったのだ。
どうやらその存在が引き金となって、失われた思い出が復活しつつあるらしい。
ゆえに当然のごとく、私は続く彼の話に意識を集中し、慎重に耳を傾けていく。
さらなる記憶の手掛かりが、その中にあると期待して。
そこでまず始まったのは、本人の自己紹介である。
『じゃあ、改めて。僕の名前は――』
その最初に彼が告げてきた、『結城悟』という名には、何となく覚えがあった。
確か私が好きな人の友達で、片想いに悩む者同士だった気がする……という曖昧な感触があるのだ。
これはやはり、知り合いと考えて間違いないだろう。
そう手応えを得る私の前で、彼は話を継続し、例のゲーム……と『思われていた』ものについて語り始める。
自身の抱える違和感を、曖昧ながらも訴えかけてきたのだ。
どうやら彼、私達よりもずっと早く、状況の不可解さに気づいていたらしい。
のんびりした見た目に似合わず、中々に勘が鋭い人のようだ。
もっとも、だからこそ犠牲になってしまった、という可能性もあるわけだが……
……などと私が、ディスプレイの人物に思いを巡らす最中、不意に事態が急変する。
彼の話の中に、決して無視できぬ、ひとつの名前が出てきたからである。
『ああ、本当に駄目な奴だよな、僕は。
やっぱり怖がらず、カイトに相談しておけば良かった』
すると、その一言をきっかけに――
(え……? あ、あああ……!)
胸の奥から、熱いものが一気に溢れてきた。
『カイト』という言葉が鍵となって、固く閉ざされていた記憶の扉が、勢い良く開け放たれたからだ。
その激しさは、まるで台風の時のダムから放出される濁流のよう、と例えるに相応しい。
結果として、私の脳裏に浮かんできたのは――
(この……人……は……)
無邪気な少年のように、明るく弾ける笑顔。
迷いも怯えも無い、まっすぐに澄んだ眼差し。
意気と情熱に溢れた、陽気で力強い声……
つまりはようやく『彼』について、余さず思い出すことができたのだ。
私は蘇ったその記憶に、目眩がするほど心を揺さぶられながら、絞り出すように彼の名を呼ぶ。
(木原……くん……)
それと同時に、かつて彼が発した言葉達も、次々と頭に浮かんできた。
『失敬な。元気が無い友の心を、ちょっとでも盛り上げてやりたい…という、この俺の巧みな気づかいがわからんのか?
まったく、これだからガサツな女は。
もう少し思いやりってもんがないのかよ』
『いやー、すまんすまん。
ほら、望月さんが可愛いからさ、ついつい見とれちゃって。ハハハ……』
『大丈夫! 君のことは、俺が絶対、絶対に守ってみせるから!
怖いのはわかるけど……でも頼む、俺を信じて任せてくれ!』
『ああ、わかった。絶対無事に母艦まで送り届けるから、安心して任せてくれ』
私はその思い出の奔流に晒されて、止めどなく涙を流し続ける。
ずっと求めて止まなかった、掛け替えのないものが戻ってきた幸せを、思う存分噛み締めながら。
(良かった……本当に、思い出せた……)
しかもそれに次いで、さらにもうひとつ、大切な名前が手許から聞こえてきた。
『美山涼さんのことが、好きです』
映像の中から発せられた、そのまっすぐな愛の告白が、またも眠っていた記憶を呼び覚ます。
(あ……)
凜としている、という以外に表現しようのない佇まい。
磨き上げられた宝石のように、曇りなく透き通った瞳。
冷たそうに見えて、しかしどこかに優しさを秘めた表情……
思い浮かんだその姿に向けて、私は心の中で、力の限り絶叫した。
(スズ……! ああ、スズ! スズっ!)
それに導かれるように、彼女からもらった思いやりの数々が、猛然と頭の中を巡り始める。
『だから今度、そいつらが何かしてきたら、すぐ私に言ってよね。
適当にやっつけて、追い払ってあげるから。
私そういうの嫌いだし、遠慮はしなくていいよ。
それじゃ、また明日』
『大丈夫……大丈夫だからね……大丈夫だよ……』
『大丈夫。全部わかってるから。
心配してくれて、ありがとう。
……それじゃ!』
『それにほら、私はこうしてここにいる。
しっかりのどかの記憶に残ってるし、学校から消え去ってもいない。
つまりは生きてる、ってことでしょ?
だからなんにも、心配はいらないんだよ』
その励ましや気遣いは、喜びに打ち震える私の全身に、隅々まで染み渡っていった。
今はそれに揺さぶられ湧き上がってきた、怒濤のごとき感情の波に溺れそうな状態だ。
本当にこのまま、息が止まってしまうのではないだろうか……
そんな風に私が、動揺と歓喜の入り交じった、複雑な精神状態に陥る中――
『以上、結城悟でした』
映像の中の彼――結城悟君のメッセージが、唐突に終わりを告げる。
後に残されたのは、真っ暗になったディスプレイと、それから――
(あり……がとう……ありがとう……)
胸一杯に満ちる、感謝の気持ちだ。
このメッセージが残っていたこと、それが私の元まで届いたこと、そして何もかもを思い出せたこと……
その事実と、そこに関わってくれた全ての人に、心からありがとうと言いたかった。
ゆえに私は、例のカメラを抱き締めつつ、思い出せた友人達の名を繰り返す。
溢れ出るこの想いが、彼らにも届くよう願いながら。
(スズ……木原くん……結城くん……)
おかげでもう、心は幸福感でいっぱいだ。
これまでの懊悩も、流した涙も、してきた努力も、全て報われる気がしたから。
私はただただ、自分が迎えたこの結末に満足していた。
しかし、その一方で――
(でも……みんなはもう……)
悲しみもまた、際限なしに膨れ上がっていく。
自分は大切なものを失ったのだ、という実感が、改めて湧いてきたから。
そのせいか、幸せを感じているにも関わらず、頬には冷たい涙が流れ落ちていた。
そんな私の様子に驚いたのか、志藤さんが心配そうに声をかけてくる。
「望月さん? 大丈夫ですか?
辛いようなら、これ以上は……」
しかし私は、即座にその気遣いを断り、涙を拭いながら毅然と告げた。
一切の迷いなく、己の定めた決意を言葉にして。
「……いえ、大丈夫です。ちゃんと、向き合えますから」
それから必死に、ともすれば弱気になりそうな、自分の心を奮い立たせる。
(そう、大丈夫。スズがいなくても、木原君がいなくても、私は大丈夫。
もちろん辛いのは事実だけど、立ち止まったりはしない。
前みたいに泣いてばかりで、そのまま何もできなくなったりはしない!)
だってスズも木原君も、そんな私を望んではいないはずだから。
彼らに心配をかけないよう、これからの私は、強くあり続けなければならないのである。
加えてもうひとつ、私には大事な役割がある。
それはもう二度と、この思い出を忘れないこと。
あの四人の時間を覚えているのが、私だけになってしまった以上、私が忘れたら全て終わりなのだ。
だから今後は、例え何があろうとも、記憶を失うわけにはいかない。
大切なその思い出達を、この暗い宇宙に呑み込まれてしまわないように。
それを守り抜くことこそ、私に与えられた最大の使命、とも言えるだろう。
その決意の元、私は自分の弱さを振り払うように、心の中で力一杯呼びかけた。
もう記憶の中にしかいない友人達に、返事が無いとわかっていながら、それでもどこかに届くと信じて――
(スズ! 木原君! 結城君!
私……私、頑張るからね!)
以上をもちまして、『美山涼・望月和歌編』の完結です。次回からは、世界一みっともなくて格好いい戦いが繰り広げられる、『朝倉雪子・柳井満編』を開始いたします。




