Prologue
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生意気って、いったい何だろうか。
美山涼は、常々そんな疑問を感じていた。
なぜなら自分が、たびたびそう言われるから。
両親や教師や親戚などの、周りにいる大人全てに。
私は今までの人生においてずっと、『お前は生意気』と、指摘され続けてきたのだ。
その発端となるのは、大抵何らかの説教である。
人が話しかけているのに、返事をしないのは良くないだろう、とか。
ちゃんと挨拶をしなさい、相手に対してすごく失礼だから、とか。
明らかに自分の方が悪いのに、なぜ素直に謝れないんだ、とか。
屁理屈をこねて反抗するのは、幼稚な人間のやることだからやめなさい、とか。
言葉使いが暴力的で、印象が悪いから変えた方がいい、とか……
私は何度も何度も、そんな風に叱られ、振る舞いを改めるよう促された。
しかもひどく高圧的な、有無を言わさぬ口調で、極めて一方的に。
そしてそれに反発すると、決まって『子どものくせに生意気だ』と言われた。
直接面と向かってはっきりと、あるいは遠回しに嫌味ったらしく。
私は周囲の大人から、ごく頻繁にそういう扱いを受けていたのだ。
だから自然と、思うようになった。
なぜ自分は、そんな風に言われるのだろう、と。
どうしてみんな、私を生意気だと感じるのだろう、と。
何とかその状態を改善したい、生意気だと思われないようにしたい――そう、心から願うがゆえに。
ちなみに辞書を引けば、生意気というのは、『自分の立場や能力を考えずに、尊大な言動や態度をとること』……と書いてある。
どうやら私は、他人からそういう人間だと認識されているらしい。
一応、それに自覚が無いというわけではない。
実際態度が悪いことや、やたらに反抗すること、加えて屁理屈をこねることは良くあった。
そんな自らの振る舞いについて、反省することも多いのである。
しかし一方で、大いに不満を抱えてもいた。
だってそう言った行動の全てに、実は明確な理由があったから。
自身の事情を理解してもらえないことに、私は猛烈な葛藤を感じていたのだ。
まず、話しかけられても返事をしなかったのは、そういう気力が無かったから。
考えることや悩むことが多くて、つい人との関わりを億劫に感じ、反応が薄くなってしまったのである。
心が疲れていたせい、と言い換えてもいいだろう。
次いで挨拶をしなかったのは、別に無視したからではなく、何となく気が引けていたから。
自分発信で相手に関わっていく、という行為が、いつの頃からか少し怖くなってきたのだ。
良くないことだとわかってはいても、そこから一歩踏み出すのは、決して簡単ではなかった。
あと悪いことをしたのに謝れない、というのは……ほとんどその通りだ。
そう指摘された時、確かに私は、相手に謝罪ができていなかった。
しかも自分の側に非がある、と十分に自覚していながら、である。
ちなみにそうして、私が意固地になっていた原因は、単に頭の中が整理できていなかったから。
私は謝罪よりも先に、まず『自分の何が悪いのか』を、自分できちんと理解しておきたかったのだ。
だってそうでなければ、ただ理由もなく他人に従うことになってしまうから。
自分の行動の根拠が、自分の外にできてしまうことになるから。
その行為が、どこか自分の意志を薄めていくように思えて、どうしても嫌だったのである。
そんなこんなで、謝罪の要求を拒むことになったわけだが……まあ客観的に見れば、駄々をこねる子どものような振る舞いだ。
これに関しては、本当に言い訳のしようもない。
またそれと似た話だが、やたらに屁理屈をこねることがあったのも、理由としてはほぼ同じである。
私は言い争いで負けたくない時に、大抵そうして無理を押し通そうとするのだ。
自分は本当は間違っているのかもしれない、と心のどこかで感じながら。
なぜ私が、そんな自覚のある愚行に及んだのかと言えば、それもやっぱり『怖かった』からだ。
もしこの論争で負けてしまえば、自分の価値観が否定されるかもしれない。
その結果として、心が他人に支配されてしまうかもしれない。
そういう根源的な恐怖があって、つい意地になっていたのである。
こちらもやっぱり、弁解の余地無き、極めて幼稚な行動というしかないだろう。
最後に言葉使いが悪かったのは、そういう色々なストレスにより、鬱屈が溜まっていたから。
それが遠因となって、些細なことで感情が高ぶり、思わず口調が荒っぽくなってしまったのだ。
そのせいで家族に対し、自分でも驚くほどきついことを言ってしまって、激しく後悔した経験も多い。
だから私の日常生活は、いつだって自己嫌悪と共にあった。
それに心を痛めつけられ、ますます物腰や言動が荒れていったのは言うまでもない。
そうした様々な事情こそ、私が普段、あまり良くない態度を取っていた理由である。
改めて振り返ってみると、確かに情緒不安定なこと甚だしい。
生意気という指摘にも、十分な正当性があると言えよう。
だからかそんな私に、周りはもっと厳しくなった。
さらに執念深く、徹底的に私を『教育』しようとしてきたのだ。
ほとんどの場合、『脅迫』や『侮蔑』という、決して褒められたものではない手段を用いて。
『そんなに言うことが聞けないのなら、この家を出て行きなさい』
『自分の力で生きていけない人間が、何を偉そうなことを言ってるんだ』
『協調性を身につけないと、将来ちゃんとした大人になれませんよ』
それらは全て、『お前は劣った存在だ、だからより優れている自分の言うことを聞け』……という意味に聞こえた。
あるいは『お前の考え方になど何の価値も無い、自分の価値観を受け入れればそれでいい』……そういう意味にも聞こえた。
人間性そのものを、根こそぎ否定されているような気がしたのだ。
当然そのいずれもが、ひどく屈辱的な扱われ方であり、耐え難い人格への攻撃でもあった。
そう告げてきた相手を、暴力を振るいたいと思うほど、憎んだり恨んだりしてしまうくらいに。
無論実行に移すことはなかったが、大きな心の負担になったのは確かである。
ただもちろん、自分が未熟である、という事実に反論は無い。
改めるべきところが多数ある、という自覚もきちんと持っている。
指摘自体が間違い、とは思っていなかったわけだ。
それでもやっぱり、その要求を受け入れることはできなかった。
だって私にそう言った相手の方が、『ちゃんとした大人』ではなかったから。
急に声を荒げたり、明らかな屁理屈をこねたり、果ては自分の過ちを認めなかったり。
感情を制御できている、という印象がさっぱり無かったのである。
要は私に対して、幼稚な行為だと注意してきた、数多くの至らぬ点――彼らはそれを、そっくりそのまま自分でも抱え込んでいたのだ。
こっちは大人でそっちは子ども、というスタンスを維持しながら。
そういうちぐはぐな態度は、私の中にある大人への不信感を、ますます増大させていった。
だからその後も、私の振る舞いに変化が生じることはなかった。
何ひとつわかってくれない相手を、信頼することなどできなかったせいで。
認めていない相手の発する言葉が、心に響くことはなかったせいで。
結果として私は、固く自分の殻に閉じこもるようになった。
大人に何を言われても、残らず無視して受け流し、心を開くのは数少ない友達だけ。
そんな風に、コミュニケーションそのものを拒絶し始めたのだ。
なぜなら大人と関わるのが、ものすごく面倒になっていたから。
どうせわかってもらえないんだし、何をしても無駄なら、最初から何もしなくていい。
そういう諦めに囚われ、全てを投げ出してしまったのである。
それはある種の強がりであり、また自己防衛のための思考なのだと、一応今ならわかるのだが。
しかし当時としては、本当にどうしようもなかった。
私はずっと、そういう孤独の中で、鬱々と毎日を過ごしていた。
そんな時だ。
そうしてすっかり心が固まりきって、もう何もかもどうでもいい、という暗い感情に囚われている時だったのだ。
『彼』が、私の前に現れたのは――




