Section-8
更新履歴 21/11/13 文章のレイアウト変更・表現の修正
視界の内にある物体全てが、大きな音を立てて軋みながら、激しく振動している。
自分の体も足元の床も、そこに置かれている机や椅子も、そして教室の壁や天井すらもだ。
まるで建物ごと巨人に掴まれ、目一杯揺さぶられているかのように。
その突然起きた、地震と良く似たこの現象に、私は明確な覚えがあった。
(敵の……攻撃!)
以前、母艦が直接攻撃を受けた際の現象と、ほぼ同じものだったのだ。
おそらく私が旗を例の眺めている間に、敵が艦の付近に到達、そのまま攻撃を仕掛けてきたのだろう。
こうなると当然、後はいいように蜂の巣にされて、あえなく撃墜される未来が待つのみだ。
だってこの艦を守る者は、すでに誰もいないのだから。
要は今ここに、終わりの時が訪れた、ということなのである。
そう認識した瞬間、私の体は完全に硬直する。
同時に肌に冷や汗が噴き出すような感覚も生じ、さらには手足が自然と小刻みに震え始めた。
何やら内側から、徐々に全身が凍りついていっているような気分だ。
その原因は、言うまでもなく恐怖である。
すぐそこへ迫った死の足音に怯え、体が縮こまってしまっているわけだ。
何だかもう、目を閉じ耳を塞ぎ、子どものように膝を抱えてうずくまっていたいとさえ思う……
しかしそうして、押し寄せる死の恐怖に、心を潰されそうになりながらも――
(駄目……まだ……!)
私は必死にそれを振り払い、気持ちを立て直して踏み止まる。
まだここで逃げ出すわけにはいかない、だからもう少し頑張らなきゃ、と己に強く言い聞かせながら。
なぜなら例え終わりが間近だとしても、自分はまだ生きているから。
動く体も感じる心も、考える頭も物言う口も、全て残されているから。
それすら奪われた皆のため、私は最後まで己の使命を果たさねばならない、ということである。
そこで私は、何とか湧き上がる恐れを抑え込み、改めて思考を巡らした。
自分に残された、この最後の短い時間で、いったい何をすべきなのかを。
何を成し遂げるのが、最も意義深い仕事であるのかを。
その答えを見出すために、私はいったん窓際へと移動する。
校舎の外がどうなっているのか、それを自分の目で確認しようとしたのだ。
何であれまずは、周囲の状況を把握することが重要だろう、と考えたから。
ただそのまま窓に駆け寄り、そこから外を見た私の目に、容赦なく飛び込んできたのは――
(世界が……無くなってる……!)
目に見える風景が、端から崩れていっている、というおそろしく現実離れした光景だった。
それは別に比喩ではなく、視界に捉えた世界そのものが、本当にひび割れ砕け散っているのだ。
まるで精巧なガラス細工を、勢い良くハンマーで叩き割っているかのように。
そしてその結果、世界が崩れ去った場所には、闇だけが残されている。
いつか見た、学校に空いた穴の底にあったのと同じ、底の知れぬ深い闇だ。
おそらくあれに落ちれば、二度と明るい場所へは戻れまい。
しかもその現象せいで、どんどん世界は狭くなっていた。
広がる闇が、校庭を侵蝕しながら、徐々に校舎の方へと迫ってきていたからだ。
このペースだと、もう間もなくこちらへ到達することだろう。
当然そうなれば、私はそれに呑み込まれて、永遠にこの世から消え去ることになるはずだ。
そしてどう足掻いても、その運命からは逃れようがない。
わかっていたことではあるが、こうして目に見える形でそれを示されると、やはり心は大きな絶望に包まれてしまう。
しかし幸い、その恐ろしい光景の中にも、ひとつだけ光明があった。
それはこの絶望的な状況の中で、どこかにあるかもしれない希望を探して、上を向いた私の目に映る――
(あれ……まさか!)
すでに青さが失われ、宇宙と見紛う漆黒の闇となった空に輝く、無数の小さな光だ。
それらの光は、それぞれが不規則に動き回りながら、繰り返し何度も瞬いている。
その側で凶暴な輝きを放つ、より多くの大きな光に抗おうとするかのように。
あれはおそらく、戦闘によって発生している光だろう。
ひょっとしたら橘君と同じように、命を懸けて敵の足止めを行う、と決意した人が他にもいたのかもしれない。
希望を載せて新天地へと旅立つ、自らの仲間を助けるため、今も奮闘中というわけだ。
であれば当然、その戦いの勝利を期待したいところだったが――
(ああ……どんどん減ってく……)
しかしその小さな光達は、みるみる内にその数を減らしていった。
敵であろう大きな光に押されて、為す術なく後退を続けながら。
どう見ても多勢に無勢だし、これだと間違いなく勝ち目はあるまい。
するとそんな様子を見たせいか、ふと心にある衝動が芽生えてくる。
(応援しなきゃ……!)
仲間達の未来のため、今も頑張っている彼らに何かをしてあげたい。
共に戦えないのならせめて、力を尽くしてその応援をしたい。
そういう気持ちが、猛然と湧き上がってきたのである。
結果としてそれをきっかけに、私は気づいた。
今の自分が、自らの願望を叶えるのに相応しい物を持っている、という事実に。
(そうか……これ……)
それは今まさに抱きかかえている、クラスの旗のことだ。
実際『応援』という行為に、これ以上適した物など無い。
ならばやはり、これを力の限り振るって、あの宇宙での戦いにエールを送るべきだろう。
もちろん私がここで何をしたって、戦況が変わらぬどころか、向こうから見えさえしないわけだが。
しかしそれでも、ここで何もせず死を待つよりは、ずっとずっと有意義な行為のはずである。
最後まで抵抗を続ける彼らに倣って、私も諦めず自分の戦いをする、ということだ。
そう固く決心した私は、早速次の自分の行動を決定する。
(できるだけ近い場所へ行こう!)
少しでもあの空に近い場所――具体的に言えば、以前に登った裏山の頂――へ向かおうと決めたのだ。
例えあちらにこちらの姿が見えず、また声も届かぬのだとしても、その戦いに最大限寄り添うべきだと思ったから。
今も命を懸ける彼らへの、私なりの誠意の示し方として。
その決意を胸に、私は一人走り出した。
まず教室を飛び出してから、人気のない廊下を駆け抜け、さらに校舎の玄関へと向かったのだ。
迷いなく脇目も振らず、一心に目的地だけを目指して。
だがそのまま玄関をくぐって、校舎の外に足を踏み出した瞬間、私はふと立ち止まる。
「……あれ?」
それはなぜだか突然、このまま一人で行動していいのだろうか、という疑問が芽生えてきたから。
他にも誰か、声をかけるべき相手がいたのではないか、という気がかりに似た感覚が生じたから。
しかもあれほど前向きだった気持ちが、急激に迷いに満ちたものとなるくらいに、強く色濃くである。
ちなみにその相手は、スズや木原君のような、失われたクラスメイト達ではない。
もっと近く、この学校のどこかに、誰かがいた気がするのだ。
本当に本当に、つい先ほどまで……
もっとも残念ながら、その誰かについて、いくら考えを巡らしても――
(……駄目、わからない)
結局のところ、正体はわからなかった。
いったい誰に声をかけるべきと感じたのか、全く思い当たる節が無かったのだ。
まるでその相手自体が、記憶から消えてしまっているかのように。
だからやむなく、私はその疑問を、胸にこびりつく違和感ごと振り払う。
『誰かのことを忘れる』という現象が何を意味するのか、これまでの経験に照らし合わせて、何となく理解してしまったから。
どちらにせよ取り返しがつかない以上、今は前に進むのみ、と考えたわけだ。
そう決断を下して、再度裏山を目指して走り出した私は、間を置かずそのふもとへ到達した。
幸いそこにはまだ、例の崩壊が到達していなかったので、山道は問題なく歩けそうである。
これなら全てが闇に吞まれる前に、山頂へとたどり着くことができるかもしれない。
しかしその甘い目論見は、私が勇んで登山を開始した直後、あっさりと覆されてしまう。
(揺れが大きくて、まともに歩けない!)
ずっと続いている地震が、時間の経過と共に、ますます強まってきたからだ。
そのせいでもはや、走るどころか、まっすぐ歩くことさえ難しい状態である。
当然こんなペースでは、山頂への到達なんていつになるかわからない。
そこへたどり着く前に、あの世界の崩壊に巻き込まれる見込みが大きくなった、というわけだ。
今も戦う仲間達の応援をする、という自らの使命を果たせぬままに。
そうして状況の悪さを肌で感じた私は、ならばと一層足に力を込め、走るスピードを上げようとしたのだが――
(あっ……!)
焦りからそんな風に、強引な動きをしたのが良くなかったらしい。
結果としてその直後、私は大きく体のバランスを崩した。
揺れの中を無理に走ろうとしたせいで、足をもつれさせてしまったのだ。
このままであれば無論、為す術なく地面に叩きつけられるのみ。
例の旗を胸に抱えていて、両手が完全に塞がっているのだから当たり前だ。
本来なら今すぐにでも、旗を手放して自分の体を支えねばなるまい。
だがそうとわかっていながらも、私は決して旗を離さず、むしろさらに力強く抱き締める。
だってみんなの想いが詰まったこれだけは、絶対に傷つけるわけにいかなかったから。
例えその結果、自分の身がどうなろうとも。
もっとも結局のところ、その覚悟はあっさりと空振りに終わった。
実は私も旗も、一切傷つくことがなかったのである。
ちなみにそれは、体勢を崩した私が、地面に激突するその遥か前で――
(……え? あれ?)
急に体が、何かにしっかりと支えられ、空中で完全に静止したからだ。
まるで誰かが、倒れる私を受け止めてくれたかのように。
実際その感触の通り、私のすぐ隣には、人がいるような気配がある。
それを訝しんだ私は、その気配の正体を確かめるため、すぐさま隣へと視線を向けた。
ここにはもう、自分以外誰もいるはずがないのに、と大きく首を傾げながら。
ただ同時に、そんな場所で誰かと出会ったという事実に、淡い期待を寄せながら。
結果として私は、まっすぐ正面から見つめ合うことになる。
もはや二度と会えぬと諦めていた、遠く愛しい想い人と。
(ああ……木原、君……)
視線の先で、彼が笑顔を浮かべてこちらを見つめていたからだ。
その逞しくも温かい腕で、私をしっかりと支えながら。
『俺が絶対に守ってみせる』という、いつか交わした約束を、全力で果たしているかのように。
それがただただ嬉しくて、あまりの幸福感から動けなくなる私へ、木原君はさらに励ましの言葉をかけてくれた。
『頑張れ。あと少しだ』
その言葉に力を貰うと同時に、自分に果たすべき使命があることを思い出した私は、慌てて体勢を立て直す。
彼に支えられるままではなく、もう一度自らの足で、しっかりと大地に立ったのだ。
そして互いの意志を確かめるように、木原君と深く頷き合ってから、山頂へ向け進んでいった。
二人で支え合いながら、揺れる大地を踏みしめて、一歩一歩着実に。
するとその途中で、私はまたも、懐かしい人達と巡り会う。
(あっ……二人とも!)
なんと山道の脇の木陰に、スズと結城君が立っていたのだ。
二人はぴったり寄り添って、ごく自然に手を繋ぎながら、笑顔でこちらを応援してくれていた。
『頑張って、望月さん!』
『大丈夫、のどかならできるよ!』
私はこちらからも手を振りつつ、そんな二人にお礼を返す。
その幸せそうな様子を、心の底から喜びながら。
「ありがとう! ありがとう!」
おかげでますます力が湧いてきたので、私はより軽い足取りで前へと進んだ。
何だか歩く度に、自分が強くなっていくような気分だった。
しかもその想いは、進んだ先にいた見覚えのある人達のおかげで、さらに大きくなっていく。
(ああ……! みんなも……)
雰囲気は柔らかいのに、どこか芯が強そうな印象のある男の子。
目一杯に元気で、ちょっと落ち着きのない小柄な女の子。
軽さを感じるくらい人懐っこそうな男の子と、その隣に立つ物静かで控えめな女の子。
太陽と月のように対照的な、輝かしく美しい女の子と、妙に影がある風の男の子。
要はあの卒業式で見た、きっと私のクラスメイトであろうみんなである。
そんな彼らが、口々に私のことを応援してくれていたから、私は力を得られたのだ。
『頑張れ』『あと少し』『負けるな』と、必死に声をかけてくれていたから、もっと頑張ろうと思えたのだ。
おかげでもはや、自分を阻めるものは何も無い、とさえ感じるようになっていた。
結果として、どうにか全てが崩壊する前に――
(着いた……!)
必死に目指してきた場所、山頂へとたどり着くことに成功する。
かつてこの世界の調査――実際には息抜き目的だったらしいが――のため、みんなで登ったここへ、再び舞い戻ってきたのである。
その時と同じ、いやそれ以上に多くのクラスメイト達と共に。
もっとも当時と今では、そこから見える風景は大きく違っていた。
周りの山々も、広い校庭も、皆で過ごした校舎も、そのほとんどが崩れ去り、深い闇に吞まれているのだ。
崩壊はすでにふもとにまで到達しているし、おそらくもう間もなく、山ごと消えてなくなるのだろう。
しかし一方、上空では未だ、多くの小さな光が瞬いている。
抵抗を諦めていない仲間達が、確かにそこにいるわけだ。
ならば後は、自らの成すべき事を成すだけである。
そこで私は、少しでも彼らに近づくため、山頂の最も高く見晴らしの良い場所に移動した。
次いで木原君と共に、しっかりと足を踏ん張ってから、二人で旗を高く掲げる。
スポーツ観戦の際、応援団の人がそうするように。
そして宇宙の果てまで届けとばかりに、声を限りにエールを送った。
「頑張れ! 頑張れー! みんな頑張れーっ!」
もちろん木原君や他のみんなも、口を揃えてそんな私に続く。
それこそ運動会で、自分達の組を応援する時みたいにだ。
『行けーっ、やっちまえ! ぶっ飛ばせーっ!』
『カイト! 応援の仕方が荒……ああいや、みんな頑張ってー!』
『大丈夫! まだやれるよ!』
『諦めないで! 頑張って!』
『みんなーーっ! 頑張れーーっ!』
『行ける行ける! まだまだ行けるよーっ!』
『み、みなさーん! 頑張ってくださーい!』
『みんなカッコイイよーっ! 頑張ってーっ!』
『しっかりしろよ! 橘ーっ!』
しかしその声援も空しく、味方と思われる小さな光は、次々と敵らしき大きな光に吞まれていった。
もはや残りはほんのわずか、味方の軍は壊滅寸前という状態である。
そんな様を見て、何か思うところがあったのか。
不意に控えめな女の子が、隣にいた元気な女の子に話しかける。
相手を励まし、勇気づけるような明るい口調で。
それを聞いた元気な女の子は、少し考える風を見せてから、心を決めた顔で頷き返した。
次いでこちらへ視線を向けると、一度大きく手を振った後、急にふわりと飛び上がる。
まるで背中に翼の生えた、妖精か何かのように。
そしてそのまま、軽やかに空を舞いつつ、まっすぐに進んでいった。
上空に瞬く、小さな光のひとつを目指して。
詳しい事情は不明だが、きっとあの先に、彼女の大切な人がいるに違いない。
終わりの訪れを悟り、会いたい人の元へと向かったのだろう。
するとそんな様子を見た、ひねくれた風の男の子も、隣の綺麗な女の子に何事か喋りかける。
女の子の方は、それに軽く驚いた顔をしてから、軽く微笑んで男の子のおでこを小突いた。
どうやら『生意気だぞ』とか、『似合わないぞ』とかいう風に、その言動をからかっているらしい。
ひと通りそんなやり取りを終えてから、綺麗な女の子は、満足げな顔でこちらを振り返った。
そして軽く手で合図を送ってきた後、先ほどの元気な女の子同様に飛び立つ。
女神と見紛うような、優雅かつ軽やかな身のこなしで。
ただし彼女が目指したのは、漆黒の空ではなく、大地に空いた深い穴だ。
かつて学校のあった場所、今は闇に包まれているそこへ、ためらうことなしに飛び込んだのである。
大切な人へ会いに行くためなら、何も怖いことはない、とでも言わんばかりに。
ひねくれた風の男の子は、そんな女の子を優しい笑顔で見守った後、こちらへ軽く手を振った。
そして踵を返して歩き出すと、ただ独り、深い森の中へと消えていく。
その足取りは、もう未練など何も無い、と背中で語るような堂々としたものだった。
そんなみんなの行動を見て、同じく踏ん切りが付いたのだろう。
そこで不意に、柔らかい雰囲気の男の子が、私に対して深く頭を下げてくる。
どうやらあれが、彼なりの別れの挨拶らしい。
男の子はそれから、静かに顔を上げると、他の誰とも違う方向――戦闘が起きていない側の宇宙――へと飛び立った。
まるで遥か遠くへ向かう、大切な誰かを追いかけていくように。
その表情には、かすかな迷いすら見て取れない。
であれば彼は、きっとこれから長い旅をするのだろう。
大切な人が、平和な新天地へたどり着くのを見届けるために。
その道行きに幸あれと、私も心から願うのみだ。
ただそうこうしている内にも、みるみる世界の崩壊は進んでいく。
もうこの世界に残っているのは、山頂周りのわずかな領域のみである。
後は全て、底知れぬ闇の中に沈んでしまった。
また空に瞬く小さな光の数も、すでに数えるほどしか残っていない。
あまりに少なくなりすぎて、風前の灯火と例えることすら躊躇われるほどだ。
きっとあの光が全て失われると同時に、私達もこの世界から消え去るのだろう。
その実感が強い恐怖を呼び、再び私の体を蝕んでいく。
思わず旗を振る手が固まってしまうくらいの、体の芯の深いところまで。
(っ……!)
ただそうして、またも動きを止めた私に、木原君はすかさず声をかけてくれた。
いつかと同じく、頼もしく力強い言葉で、怯える私のことを励ましてくれたのである。
『大丈夫、俺がずっと側にいる。大丈夫だ』
おかげで自然と、胸の内の恐怖が和らぎ、心が平静を取り戻していく。
もう彼が側にいるだけでいい、怖いものなんて何もない、と思えるようにさえなっていた。
ゆえにまた、私は旗を持つ手に力を込める。
例えこれから何が起きようとも、己が消え去る最後の瞬間まで、自分で決めた自分の仕事を果たすために。
隣で寄り添いながら支えてくれる、自らの想い人と共に。
そんな私達の後ろで、控えめな女の子が、人懐っこそうな男の子に体を預けた。
怯えていることがはっきりとわかる、ひどく不安げな表情を浮かべながら。
きっと私と同じように、迫る終焉が恐ろしくて、そうせずにはいられなかったのだろう。
それを見た男の子は、一瞬何か考えた後、突然彼女を両腕で抱え上げる。
そしてそのまま、女の子を空高く掲げつつ、ゆっくりと回転し始めた。
満面に笑みを浮かべながら、まるで小さな子どもと遊んでいる時のように、何度も何度も。
女の子は男の子のそんな行動に、ひどく驚いた表情を浮かべたものの、すぐさま笑顔を浮かべる。
彼と見つめ合うその顔には、もはや不安の影などどこにも見当たらなかった。
想い合う二人の、幸せな空間がそこに生まれていたのである。
さらにその横では、手を繋ぎあっていたスズと結城君が、ふと顔を見合わせる。
滅び行く世界の中で、愛しい互いの存在を求め合うように。
その偶然に照れて、恥ずかしそうに頬をかきながらも、懸命な様子で何か喋りかける結城君。
一方内心を隠すように、いつも以上の澄まし顔で視線を逸らしつつも、彼の手は離さないスズ。
そんなすれ違っているようで、確かに通じ合った二人の関係は、どこまでも微笑ましい。
ただ次の瞬間、ふと結城君が真剣な顔になって、スズに何かを言った。
それを聞いてスズは、いったん驚いたような表情を浮かべた後、しばらく時間を置いてから一度だけ頷く。
そしてそのまま二人は、緊張した様子で、徐々に顔を近づけていき――
(あっ……!)
そっと静かに、口づけを交わした。
互いの想いを確かめ合い、もう決して離れぬと誓うように。
まるでこの場所が、彼らのために用意された教会であるかのように。
それを見た私の胸に湧き上がるのは、結婚式に招待された友人のように、二人を心から祝福する気持ちばかりだ。
またそれに続いて、なぜか先ほど飛び立った元気な女の子が、橘君の胸に飛び込む姿も見える。
遠い彼方で起きているはずのその光景が、突然幻のように頭に浮かんできたのである。
その幻の中で橘君は、抱きついてきた女の子を優しく抱き締め返し、そっと頭を撫でていた。
女の子はそんな彼を、今にも泣き出しそうな顔で、目一杯に強く抱き締めている。
ようやく会えたこの奇跡を、決して手放すまいとしているのだろう。
そんな三者三様の、想いの通じた者同士が睦み合う様は、どこまでも幸せそうであった。
今この瞬間に時が止まれば、永遠に彼らは幸福でいられるのに、なんてつい願ってしまうほどだ。
しかしその願いとは裏腹に、彼らはすぐ世界の崩壊に巻き込まれ、深い闇の中へと吞まれていく。
彩り鮮やかな美しい絵画が、黒い絵の具で隅々まで塗りつぶされるように。
容赦なく無惨に、その幸福を蹂躙されてしまったのである。
結果全てが、跡形もなく消え去った。
緑に覆われた山々も、そこに息づく人の気配も、空に瞬く命の輝きも、何もかもが徹底的に。
後に残ったのはもう、一切の温もりなき虚無でしかない。
加えてその時にはもう、山頂にまで崩壊が押し寄せていたので、自然と私達の体も闇に吞まれ始める。
この感じだと、残された時間は本当に後わずかのはずだ。
そんな状況の中、ふと木原君が手を掲げ、遠くの空を指差した。
そこには私達から離れていく、ひとつの光――きっと新天地へ向かう艦だろう――が必死に瞬いている。
どうやら最後はあれを応援しよう、と私へ提案しているらしい。
もちろん、異存は無い。
ゆえにそれに向かって、旗を力の限り振り、同時に全力で叫びながら――
「頑張れ! 頑張れ! みんな、頑張れーっ――」
私は木原君と二人、互いを支え合うように寄り添ったまま、静かにこの世界から消えていった……




