Section-5
更新履歴 21/11/10 文章のレイアウト変更・表現の修正
「機体の調子はどう? 志藤ちゃん。
整備は万全のはずだから、問題ないと思うんだけど」
母艦の外に広がる宇宙空間を、一人静かに漂う志藤明へ、柳井満はそう呼びかけた。
職員室の倉田の席に陣取って、その机に置かれたPCを使い、彼女の機体のコンディションを確認しながら。
志藤ちゃんはその俺の問いかけに、機体の状態を確かめるように一回転してから、丁寧に回答する。
『はい、大丈夫です。ありがとうございます』
ならばとそれに応じて、俺は母艦を軽く操作し、例のブースターを射出した。
「はいよ、じゃあこれ!
こっちも問題ないか、確認しといてよね!」
彼女はすぐさまその声に反応して、艦から出てきたブースターを器用にキャッチすると、同じく異常が無いかをチェックし報告してくる。
『はい……こちらも大丈夫です』
そうして二人で行っているのは、もちろん旅立ちの準備である。
これから月へと向かう予定の、志藤ちゃんの機体の状態を確認しつつ、同時に必要な装備を渡しているのだ。
万が一の事があってはいけないので、可能な限り入念かつ慎重に。
また当然その作業の対象は、志藤ちゃんだけではない。
実際彼女の報告の直後、俺の元には、もうひとつ別の声がかかった。
『柳井。こっちも頼む』
志藤ちゃんとは逆の方向にいる、橘幹也からの依頼である。
こちらはこれから、先ほど来た道を逆に辿って進み、その先で迎撃戦闘を行う予定だ。
絶対に勝ちを望めないほどの、強大かつ膨大な敵の軍勢を相手にして。
要は自分が必ず死ぬ、とわかった上で、敵軍の足止めをしようとしているわけだ。
その決断を自発的に下した、こいつの相変わらずの強靱な精神には、心底驚嘆せざるを得ない。
とは言えそんな感想、今ここでわざわざ告げることでもない。
なので俺は、すぐ橘の依頼に応じ、何事も無かったかのような口調でブースターを射出する。
「はいよ! 受け取ってくれ!」
橘はそれを受け取ると、手際良く稼働具合をチェックしてから、淀みのない答えを返してきた。
『こちらも問題なし。行けそうだ』
するとその直後、ふと俺達の間に沈黙が訪れる。
今までスムーズに進んでいた会話が、突如完全に途切れてしまったのだ。
まるで三人揃って、喉に何か詰まりでもしたかのように。
理由としてはやはり、会話を先に進めたくなかったからだろう。
ひと通り準備が完了したことで、別れを告げねばならぬ状況になったものの、皆それを切り出しづらいのである。
もちろん本来であれば、今のいつ敵に追いつかれるかわからぬ状態で、のんびりしている暇など無いわけだが……
ただ次いでそこに、そうして尻込みする俺達を後押しするような、優しい声が響いた。
「あの……二人とも、どうかご無事で。
その想いが遂げられるよう、私も微力ながら祈っています」
作業に勤しむ俺の後ろで、ずっと静かに控えていた望月さんが、志藤ちゃんと橘に声をかけたのだ。
その言葉通り、二人の道行きを心から祝福するように。
それでどうやら、両者とも気持ち的に吹っ切れたらしい。
まず橘の方が冷静に、続いて志藤ちゃんが名残惜しそうに、自らの出立を告げてくる。
『ああ。行ってくる』
『はい……私も行ってきます』
望月さんはそれに、離別の悲しみを微塵も感じさせない、穏やかな口調で応じた。
きっと二人の旅立ちが湿っぽくならぬように、と配慮をしたのだろう。
「はい。行ってらっしゃい」
ゆえに俺も、そんな彼女に合わせて、明るく二人の旅立ちを祝った……のだが。
そこでなぜだか、突然妙な事を口走ってしまう。
「はいよ! じゃあ二人とも……祝福と幸運に満ちた、良い旅を」
結果として橘に、怪訝そうな声で突っ込まれる羽目になった。
『……なんだそれ』
もっともその理由は、自分でも良くわからなかったので、ぼんやりとした答えを返すしかなくなる。
「いや……なんか、急に思いついたから言ったんだけど……何だろ?」
しかしそこは志藤ちゃんが、何か察した風に助け舟を出してくれた。
『いえ、良いと思います。
私もみなさんの旅に、祝福と幸運があることを願っていますから。
きっと、また会う日まで』
その言葉に思うところがあったのか、橘は珍しく感傷的な雰囲気で、それに同意する。
『そうか……そうだな。
俺もみんなの旅に、祝福と幸運があるよう願ってる。
……また、会う日までな』
するとどこか嬉しそうに、望月さんもそんな二人に続いた。
「はい……私もです。
どうかこれからのみなさんの旅に、祝福と幸運がありますように。
また会う日まで」
そのやり取りを聞きながら、俺は真剣に思う。
(ホント……そうだよな)
これからのみんなの旅路に、尽きることのない祝福と幸運があればいい、と。
そしてまた会うその日まで、どうかそれが続いていてくれ、と。
例えその旅が、再会なんて決して望めぬような、遠く果てないものだったとしても。
残酷なほど残りわずかの、とてつもなく短いものであったとしても。
先に死のみが待つ、絶望的な道のりであったとしても。
それでも心底、嘘偽りなしに、皆の幸せを願っているのだ。
ゆえにそれらの想いを込めて、泣きそうになるのをこらえつつ、俺は二人に離別の言葉を贈る。
「ん……また会う日まで……な……」
その言葉を合図に、橘と志藤ちゃんが、それぞれ抱えているブースターを起動させた。
そして徐々に加速し、みるみる内に母艦から遠ざかっていく。
二人ともが己の使命を果たすため、この学校から旅立っていったのである。
俺はその凛々しい姿を、完全に捕捉できなくなるまで見送ってから、次に望月さんへ声をかけた。
これから彼女はどうするのか、それを確かめるために。
「さて、と……こっちはどうする?」
望月さんはその質問に、静かに落ち着いた口調で答える。
どうやって死を迎えるのか、という重たい問いであるにも関わらず、ひどく気丈にだ。
「私は……教室に戻っていようと思います。
やっぱりあの場所には、一番たくさんの思い出が残っていますから。
柳井君はどうしますか?」
そんな望月さんの回答を聞いて、不意に思いつくことがあったので、俺はそれを素直に告げた。
最期を迎える場所を選ぶのなら、思い出の場所と似たところがいいだろうな、とぼんやり考えながら。
「俺は……図書室に行こうと思ってる。
もうちょっとだけ、ここでやることやってからだけどな」
望月さんは詳細を一切聞かぬまま、あっさりとそれに応じる。
何かしら事情がある、と察してくれたからだろう。
「そうですか……では、私はこれで」
またその際、別れの言葉がシンプルなのは、きっともう全て済ませた後だから。
今さら名残を惜しむこともない、ということである。
ゆえにこちらも同じく、さっぱりとした別れの挨拶を返した。
「ああ……これで」
すると望月さんは、笑顔で軽く一礼してから、速やかに職員室を出て行く。
迷う素振りの全く見えぬ、いやむしろ迷いを振り切ろうとするかのような、決然とした足取りで。
俺はそんな彼女の後ろ姿を、やはり見えなくなるまで見届けてから、自分の作業に戻った。
母艦のコントロールを、自動航行に切り替えておこうとしたのだ。
管理する者がいなくなっても、しばらく現状の維持くらいはできるように。
ただし、その途中で――
(ぐっ、あ……体、が……!)
急に猛烈なめまいを感じて、俺はやむなく作業の手を止める。
そしてその感覚が消え去るまで、しばしじっと動かずに耐え続けた。
歯をきつく食いしばり、お願いだからもう少し我慢してくれ、と自分を必死に励ましながら。
結果として何とか、体が自由を取り戻してくれたので、急ぎ作業に復帰する。
自身の不調には構うことなく、艦の航行に関する設定を行ったのだ。
その際は、できるだけ敵から離れるよう、進路を月に向けておいた。
同時に付近に敵を感知したら、全ての出力を防御に回すよう設定もしておく。
とりあえずはこの辺が、安全上最善の選択だろう。
これで晴れて俺の役目は終わり、後は自由に振る舞うのみ、ということである。
しかしそう決めて、俺が立ち上がろうとしたその瞬間、通信越しに遠慮がちな声が聞こえてきた。
『……まだそこにいるか、柳井』
先ほど出立したはずの、橘の声だ。
すでに母艦から大きく離れたあいつが、なぜか今になって連絡をしてきたわけである。
となるとひょっとして、機体かブースターに、何か深刻な不具合でもあったのだろうか。
そう心配になった俺は、慌てて橘に、トラブルの有無を問いかける。
「橘か? いったいどうした?
何か事故でもあったのか?」
ただし向こうは、その俺の危惧を否定した後、妙に歯切れ悪く質問をしてきた。
『いや、そうじゃないんだが……お前に少し聞きたいことがあってな。
何て言うか……さっき、何か感じなかったか?』
そしてそのおかしな問いかけに、首を傾げながら応じた俺へ――
「何か感じなかったかって……ずいぶん曖昧だな。
それにさっき、っていつのことだよ?」
いかにも悩んでますという風に、やたらと曖昧な説明をしてくる。
『さっきってのは……みんなで歌ってる時……の話なんだが。
実はその間中ずっと、近くに何かいるっていうか、誰かが側にいるような気がしててな。
もちろん気のせいだと思うんだが、ひょっとしたらお前も、と思って……』
『みんなで歌っている時』とはつまり、卒業式の最後の合唱のことだろう。
どうやら橘はあの時、側に誰かがいるような感覚があったらしい。
その口振りからして、自分でも気のせいかと思うほどの、はっきりしないものだったようだが。
ただ残念ながら、俺の方には何の覚えもない。
教室には確かに四人しかいなかったし、他に誰かがいる気配なんて一切無かった。
きっとこいつは、あの場の不思議な空気に影響されて、何か妙な勘違いをしているのだろう。
しかし内心でそう思いつつも、俺は橘の問いを肯定した。
これは嘘だと自覚した上で、堂々と相手に同意したのである。
「ああ、感じたぞ。
確かに誰かいるような気がした」
橘はそれに、ひどく訝しげに応じてきたが――
『……本当か?』
俺はそんなあいつを押し切るべく、まるで見てきたかのように、卒業式の事を語って聞かせる。
もしあの時、こいつの側で誰か歌っていたのであれば、きっと彼女であろうと固く信じながら。
「本当だ。お前の側に、ちっさくて可愛くて、めちゃくちゃ元気そうな女の子がいたぞ。
それでお前の袖をちょこんと掴みながら、力一杯あの歌を歌ってた。
いやあ、あれは中々幸せそうだったな~」
要は栗原真希のことを念頭に、完全な作り話をしたのである。
自分の命と引き換えに、『順化調整』の鎖から解き放たれた俺は、まだ彼女のことを覚えているから。
であればやはり、嘘だろうと何だろうと、これが今の俺の為すべきことだろう。
そんな想いの元に語られた、俺の誠意が詰まった嘘に、橘はかなり間を置いてから答えた。
いつも通りの冷静な口調で、ただ少しだけ曖昧に。
『……そうか。言われてみれば、そんな気もするな』
その同意が、俺の言葉を本当に信じてのものなのか、それとも信じたふりをしているだけなのかはわからない。
俺の気持ちを汲んで、表向き合わせてくれた、という可能性は否定できないのだ。
こいつは無愛想に見えて、意外に気遣いもする男だから。
とは言え例えそうであっても、俺は自分の為すべき事を為したはずである。
もちろん嘘なんかつかずに済む、もっと良い方法もあったのかもしれないが、しかし自分として精一杯のことはできた。
完璧ではなくとも、それで十分に満足なのである。
ただそうして、自らの働きに満足したその瞬間、ふと胸に強い衝動が湧き上がってくる。
それは橘に対して、もう一度謝罪……と言うか、懺悔をしておきたいという気持ちだ。
きっと今、栗原の話をしたことがきっかけとなったのだろう。
俺はそれに流されるまま、つい橘に、ひどくつまらぬ事を聞いてしまった。
「なあ……俺のこと、軽蔑してるか?」
橘はその出し抜け、かつ意図不明な質問に、特に動揺もなく応じる。
『……どうした? 急に』
そのいつも通りの落ち着いた態度に、俺は許しを得たような気分になり、結果として自分の話が止まらなくなった。
堰を切ったように、と例えられそうな勢いで、己の心の内を語っていったのだ。
「いや……俺ほら、前にその……みんなを置いて逃げようとしたことがあったじゃないか。
それで部隊に犠牲者が出たから、戦力が減って……後の戦いもキツくなった。
だからあれがなければ、もっと生き残れる人数は増えたんじゃないか、誰もいなくならなくて済んだんじゃないか、ってずっと思ってて……」
しかし途中で、結局は言葉に詰まって黙り込む。
自らの過ちで犠牲者が増えた、という事実に怯え、それへの罪悪感で溺れそうになっていたから。
実際俺のあの行動がなければ、巻き込まれただけの雪子は死ななかっただろうし、俺の機体が使えなくなることもなかった。
またそれにより戦力が減らなければ、斉川や春日井が助かったかもしれないし、栗原だって生きていられたかもしれない。
要は俺の弱さのせいで、死ななくてもいい人間が命を落とした可能性がある、というわけだ。
改めてそう思うと、罪の意識が後から後から湧いてきて、精神状態は悪化していく一方である。
そうして独り苦しむ俺に対し、橘は少し考えるように間を取った後――
『そう、だな……』
先ほどの質問の答えとして、あまりにもこいつらしい、容赦のない一言を浴びせてきた。
『まあ、根性の無い奴だとは思ってるな』
その強烈な一撃を食らって、俺はさすがに深く落ち込み、ぼんやりとした答えしか返せなくなる。
相手の指摘が事実だとわかってはいても、これほどはっきり肯定されるのは辛かったから。
「……そう、だよなあ……やっぱり……」
ただしそんな俺をよそに、橘はすぐ話を続け――
『でも……』
ひどく予想外の、今度はおそろしくこいつらしくない、温かな慰めの言葉をくれた。
『……俺がお前の立場だったら、同じことをしていたかもしれない。
そういう風にも思うな』
それへの驚きで、俺はまたしても言葉に詰まる。
今度は先ほどと違う、嬉しさが原因の沈黙だ。
そんな風に言ってくれる、とは思ってもみなかったせいで、すぐには反応できなかったのである。
ただし当然、黙ったままというわけにもいかないので、俺は慌てて橘に礼を言った。
陰気な懺悔に真面目に応じてくれた、その心意気に強く感謝をしながら。
「そ、そっか……ありがとよ」
もっともあいつの方は、普段通りあっさりと対応するだけだったが。
『……別に、礼を言われるようなことはしていないんだがな』
おかげで何とか、こちらもいつもの調子を取り戻せたので、とりあえず素直な感想を述べておく。
「いや……やっぱりお前はすごいよ」
するとそれに照れた、というわけではないのだろうが、橘が不意に黙り込んだ。
俺の賞賛に対し、何か思うところでもあったかのように。
そしてしばしの後に、自らその沈黙を破り、急にひどく曖昧な質問をしてきた。
『……お前、少しおかしくないか?』
ただその意図が不明瞭過ぎて、すぐには掴めなかったので、俺は首を傾げながら聞き返したのだが――
「おかしいって……なんだよ? どこが変なんだ?」
そこへ橘は、おそろしく鋭い指摘をぶつけてくる。
『何て言うか……妙に声が弱くて、まるで重傷を負った怪我人みたいに聞こえるんだよ。
ひょっとしてなんだが……お前も今、俺と同じような状態なんじゃないのか?』
俺はそれに図星を突かれ、返す言葉が全く出てこなくなった。
なぜなら橘の言った通り、俺の体調はすでに、死を意識せざるを得ないところまで悪化していたから。
具体的に言うと、まず視界が半分ほど闇に覆われており、しかもその闇は徐々に広がっている。
脳の視覚野とかその辺りが、じわりじわりと機能を停止し始めているかのように。
加えて全身に強い倦怠感があり、動かそうとすると鉛のように重い。
こちらは体のあちこちに、巨大な鉄アレイを括り付けられているみたいな感覚である。
さらには頭痛がひどいし、めまいもひどいし、吐き気だって常に感じていた。
風邪と脳振盪と乗り物酔いが同時に来た、と例えればわかりやすいだろうか。
要は体の異常が、遠からず自分は死ぬのだろう、と確信を持てる段階まで来ていたわけだ。
それでもみんなの前では、無駄な心配をかけぬように、どうにか気を張って隠していたのだが。
その頑張りも空しく、ちょっとした声の異変で、橘には見抜かれてしまったらしい。
他人に興味無いような空気出してるくせに、そいうところは鋭いやつだよな、と改めて舌を巻くばかりである。
とは言えまあ、今となってはもう、自身の不調を隠す理由も無い。
そこで俺は、正直に己の抱えた事情を白状する。
「うん……実はお前に助けてもらった時、大怪我したみたいでな。
その時からずっと体がおかしくて、しかもどんどん悪化してるんだ。
正確にいつまで生きてられるのか、ってのはわからないけど……
たぶん、ここに敵が来るまでは持たないかな、と思う」
すると橘は、何か納得したように一言呟くと、そのままじっと沈黙した。
ひょっとしたらだが、今の俺の話に驚き、言葉を失っているのかもしれない。
『そう、か……』
そんな相手の反応に、何となく気詰まりを覚えた俺は、冗談っぽい自虐で場の空気をごまかそうとする。
「ハハ……ま、自業自得だけどな。
いやホント、根性無いよなあ、俺」
しかし橘はそれに、またもこいつに似合わぬ、嬉しい励ましをくれた。
『いや……そんな状態でずっと戦ってたんだから、立派なもんだ。
俺はそういうお前のこと、結構すごいやつだと思ってるぞ』
その言葉に胸を突かれ、俺は今度こそ本当に泣きそうになる。
普段の態度が無愛想なだけに、突然こういう事を言われると、余計に感動してしまうのだ。
ホントにギャップの力って恐ろしいよな、なんて場違いな感想を抱かずにはいられない。
とは言えそうして感動するあまり、この最後の会話が湿っぽくなってしまうのも、たぶん俺達には似合わないはずだ。
そこで自らの涙を隠すため、俺はあえて、話題を軽いものに切り替えようとした。
「あ~あ、なんか話が辛気臭くなっちゃったな。
もっと明るい話がしたいぞ、俺は! 何かないのかよ?」
そしてそれに応じた橘と、これまでと何ひとつ変わらぬ、どこか間の抜けたやり取りを繰り返していく。
『明るい話……?』
「そうそう! テンションがパーッと上がって、楽しくなるやつ!
ひとつくらいはあるだろ?」
『……俺にそんなものを求められても困る』
「なんだよ~、ホントにノリ悪いな~。
たまには付き合えよな~」
『そんなのはいつもの事だろうが。今さらだぞ』
「冷たいわ~、ホントに冷たいわ~。
外の宇宙空間くらい冷たいわ~」
またその果てに、俺達は二人揃って吹き出し、抑えきれぬとばかりに笑い合った。
まるで昔の、何も知らない頃に戻ったかのように、腹の底から思い切り。
同時にこの会話のおかげで、一時だけでも苦痛を忘れていられることに、心から感謝をしながら。
だが次いで、そんな楽しい時間の終わりを告げるように――
「うっ……」
突如として俺は、無視できぬ体の異常に襲われ、思わず苦悶の声を漏らす。
ずっと続いているそれが、ますますその度合いを強めてきたのである。
どうやら本格的に、命のタイムリミットが迫っているらしい。
そんな俺の呟きを聞いて、こちらの状態を察したのか、橘が話を切り上げようとした。
『……じゃあそろそろ、俺は行く。まだやる事が残ってるからな。
お前もそうしろ』
俺は力を振り絞り、やっとの事でそれに答える。
「ああ……任せた」
直後、一切の余韻を残さずに、通信は途切れた。
実にあっさりした態度だが、まあ残り少ない時間を無駄遣いさせまい、とあいつなりに気を回してのことだろう。
ならば当然、俺がやるべきことはひとつである。
そのらしくもない気遣いに、精一杯応えることだ。
例えこの体が、もう満足には動かぬ状態だとしても。
そう決意すると、俺は全身に力を込めて、机に手を突き立ち上がる。
そして重い体に鞭打ち、それを引きずるようにして歩き出した。
さらにそのまま職員室を出て、校舎の廊下を通り抜けつつ、一心に図書室を目指して進む。
まるで深海にでもいるかのような鈍さで、しかし着実に一歩一歩、折れそうになる自分の心を奮い立たせながら。
(あと少し……あと少しでいいんだ……)
結果その奮闘の甲斐あって、俺は何とか、力尽きる前に図書室へ到達できた。
なので続けて、最後の力を振り絞って受付の椅子に近づくと、そこへ倒れ込むようにして腰かける。
それこそ、糸の切れた操り人形か何かのように。
その時にはすでに、体は限界を迎えていて、一歩たりとも動けなくなっていた。
どうやらここまで、ということらしいが……ただ当初の目的は果たせたし、これ以上頑張る必要もあるまい。
そう割り切ると、俺は全身の力を抜き、押し寄せる苦痛に抗うのを止める。
すると自然に、意識が曖昧になっていき、同時に睡魔のようなものを感じ始めた……のだが――
(……そう言えば)
その根深い倦怠感の中で、俺はふと思い出した。
つい先ほど、橘から聞かされた不思議な話を。
(歌の時、誰か側にいた気がする……か)
卒業式の最後に歌っている時、誰かが自分の側にいたような気がする、というあいつの話だ。
それが今になって、妙に強く心に引っかかったのである。
だってその現象が、改めて考えてみると、とてつもなく素敵なことだったから。
『もしあの卒業式に、いなくなったみんなも来ていたら』という想像を、素晴らしいものと感じたわけだ。
実際本当にそうだったら、どんなに良かったことだろう。
ただでさえ感動的だったあの卒業式が、さらに思い出深いものになっていたはずなのだから。
それを感じていたあいつには、少なからず嫉妬と言うか、羨ましいという気持ちを抱かずにいられない。
ただし仮に、現在の俺にその現象が起こったとしても、実は何の意味も無い。
なぜならもはや、俺の世界は完全な暗闇に閉ざされていたから。
目の機能に限界が来て、明るさを感じることさえできなくなっているのだ。
また同時に耳もやられたのか、聞こえてくる音がひどく遠い。
先ほど椅子に倒れ込んだ際、その衝撃で響いたはずの音でさえ、聞き取れるかどうかギリギリの状態なのだ。
これではもし、誰かにすぐ近くから話しかけられたとしても、気づくことは困難だろう。
要は雪子が側にいたとしても、今の俺には、その姿を見ることも声を聞くこともできないわけだ。
手探りでしか互いの存在を感じ取れぬ、月明かりすら差し込まぬ、深い夜の闇の中にいるように。
何とも悲しい人生の終幕だが、まあ結局のところは、自業自得と諦めるより他はない。
そう強引に割り切りつつ、次いで俺は目を閉じた。
叶えようのない未練を捨て去って、ただただ静かに。
自身を食い尽くしていく穏やかな暗黒に、そっと己の全てを委ねながら。
しかしそうやって自らの運命を受け入れ、人生に幕を引こうとした、その瞬間――
(……ん?)
ふと何か、温かさのようなものを感じる。
光も音も捉えられなくなったこの体を、熱を持った何かが包み込んでいる、という感覚が生じたのだ。
まるで見えない誰かが、自分を抱き締めてでもいるかのように。
そしてその謎の現象に対し、かすかな希望を抱いた直後、俺は確かに見た。
すでに闇に閉ざされているはずの、光なき己の目で――
(ああ……やっと、会えたな)
今にも泣き出しそうな、それでいて心底嬉しそうでもある、愛しい人の笑顔を……




