Section-1
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「ずるいよ、先生」
志藤から出撃を指示された直後、レクリエーションルームへ向かおうとしていた俺の耳に、ふとそんな声が聞こえてきた。
責めるような言葉とは裏腹の、どこか悲しげな春日井真那の呟きだ。
それに反応して、俺が声の方を振り返ると、棒立ち状態の春日井の姿が目に入った。
その表情がいつになく暗いのは、きっと倉田のことで、心をかき乱されているせいだろう。
実にらしくない振る舞いだが、まあこれだけ色々な事が立て続けに起こったのだ、さすがに無理もないというところか。
とは言えあいつが、そういう感情を口に出すことは決してない。
周りの人間――特に俺――に頼るとか甘えるとか、そんな発想自体を持たぬやつだから。
どれほど精神的に追い詰められていようと、弱音を吐くことは絶対に無いのである。
ゆえにそんな春日井を心配し、軽く声でもかけておこうか、と一瞬思ったのだが――
(……そんな柄じゃないな)
すぐさまその、似合わぬ思いつきを振り払った。
下手な気遣いをして、かえってあいつを傷つけたら元も子もない、と感じたから。
俺はそこまで、自身のコミュニケーション能力を信用してはいないのだ。
またこの異様な状況の中で、何を言うべきなのかわからなかった、という事情もある。
どうすればその負担を減らし、彼女な支えとなれるのか、さっぱり見当がつかないのだ。
どうしようもなく無力な男、と己を卑下するばかりである。
もっともこういう状態は、実のところさして珍しくもない。
思えば春日井に関することになると、俺はいついかなる時もこうであった。
あいつが何をしようとも、周りからどんな扱いを受けようとも、じっと傍観するのみなのだ。
なぜなら自分に、あいつを救うことができるとは思えなかったから。
自分の知恵と力で、あいつに望むものを与えられる自信が無かったから。
それで結局、ただ側に突っ立っているだけの、石像にも等しい存在に成り果ててしまうのである。
しかしそれでいて、こちらの心はいつだって春日井に揺り動かされる。
激しく掻き乱され、いいようにもてあそばれ、簡単に手玉にとられてしまうのだ。
玩具のような扱い、なんて言ったっていいだろう。
俺とあいつは、出会ってからこの方、ずっとそういう関係だった。
要はこちらの意志が全く届かぬのに、向こうは何もかも思うがままに振る舞う……という一方的な間柄なのである。
手を触れることすら許されぬ、天女か女神のような存在、と例えるに相応しい。
だと言うのに、その俺にとっては遥かに遠い、あいつの自由な心を――
(倉田は……動かした)
あの日あの時あの瞬間、倉田は目一杯に動かしてみせた。
たった一度の授業で、春日井の心の中に、揺るがぬ居場所を確保してのけたのだ。
もちろんその授業は、当時あいつのクラスにいた俺も、しっかり聞いていたわけだが。
そこで俺の頭に浮かんだのは、『これはすごい』という、珍しく素直な感想だった。
だって今までに、言葉についてのああも深い考え方を、一度も聞いたことがなかったから。
どんなに高名な学者だろうと口にせず、どれほど権威ある学術書にも書いていない、この世の真実――だいぶ大げさだが、そんな風に感じたのである。
いやひょっとしたら、単に俺が知らないだけで、誰かが語っていたのかもしれないが。
それでも俺にとって初耳の、感服すべき哲学だったのは事実だ。
こいつこんなにすげえやつだったのか、と俺が倉田を見直したのは言うまでもない。
またそう感じたのは、どうやら春日井も同じだったらしい。
だってあいつは俺と話す時、頻繁に倉田の話題を出してくるから。
いつになく楽しそうな表情で、声にもはしゃいだ雰囲気を漂わせながら。
俺も含めた、他の有象無象のことなんか、ほとんど気にもかけていないというのに。
そんな春日井の態度に接して、俺は倉田に強い嫉妬を覚えた。
あいつの心に居場所を確保した、倉田公平という男を激しく妬んだ。
あいつに気にかけてもらえる倉田のことが、心底羨ましくてしょうがなかったのだ。
だから実は、倉田に対し、嫌がらせのような発言をしたこともある。
例の授業の少し後、胸に悪意を秘めた状態で、つまらぬちょっかいをかけたのである。
『こんにちは、先生。いやあ、この前の授業面白かったですね』
具体的には、まず授業の称賛から入り、相手がそれに反応したところで――
『え? そうかい?
いやあ、そう言ってもらえると嬉しいなあ。
ありがとう、斉川君』
ごく自然に、好意的な風を装いながら、その手応えについて聞いた。
『その後はどうです? 他の生徒から何か反応ありました?』
すると倉田は、決まり悪そうな苦笑いをしながら応じた。
『いやあ、ハハハ。……君が最初かなあ』
そして俺が、その回答にわざとらしく驚いてみせると――
『おや、全然反応は無かったんですね』
倉田はますます、残念そうな表情になった。
『情けないことにね。
うーん、結構いい話だったと思うんだけどなあ……』
一応そのやり取りは、だいたい予想した通りのものであった。
俺は倉田がそう答えるだろう、と見込んだ上でその質問をしたのだ。
なぜなら例のあの話は、確かに価値あるものだったとは思うが、ちょっとばかり常識から外れすぎていたから。
みんなはきっと、あれをどう受け取り、どんな評価をしたらいいかわからず、すぐにはリアクションをとれなかったのだろう。
結果、そうこうしている内に時機を逸し、感想を伝えぬまま日常に戻ってしまったのだ。
倉田に落ち度はなかったと思うが、まあ人間――特に高校生なんてそんなものである。
俺はその辺りの事情をわかった上で、あえてこの話題に触れたのだ。
言うまでもなく、相手がショックを受けるだろう、と期待しての行動である。
我ながら性格が悪いな、と冷笑するより他はない。
それでも当時の俺は、そんな倉田にさらなる追い討ちをかけた。
春日井の件により、少なからず自分を見失っていたので、あまり自制が利かなかったのだ。
『そうですかぁ……残念でしたねぇ……
じゃあつまりあれですか、先生のやったことは、全部無駄な努力だったってことになるんですね』
だがそこからは、こちらの予想通りの展開とはいかなかった。
『全部無駄、か……そうだね、君の言う通りかもしれない』
なんと倉田が、俺の卑劣な嫌味をあっさり受け入れた上で、さらに立派な哲学を披露してきたからだ。
『でも実は教育って、わりとそういうものだと思うんだよ。
その場ですぐ役立つっていうよりは、後々必要な時に思い出して助けられる……みたいなさ。
だからあの授業が、みんなにとってのそういう存在になってくれればいい……とは思ってる。
都合の良い期待だろうけどね』
当然俺の方は、さらに惨めな気分になるばかりだった。
互いの覚悟の違いと言うか、信念ある者と無い者の差を、はっきりと突きつけられてしまったからである。
なのでそのミスを取り返すため、俺は皮肉を交えつつ、何とか倉田をやり込めようとしたのだが――
『へえ……手応えもないのに、良く頑張れますね。
折れない心ってやつですか。立派なもんですよ』
結局それも、いつもの笑顔を浮かべたあいつに、ひどくあっさり潰されることになった。
『いいや、手応えならあったよ。
だってほら、君が面白かったと言ってくれたからね。
今はもう、それで十分さ』
皮肉ごとまとめて、まっすぐに肯定されてしまったわけだ。
絶対的な敗北感と言うか、どう足掻いても勝てない相手、と感じずにはいられなかった。
あいつは情熱と包容力があって、それでいて高圧的なところのない、本当にいい先生だったのである。
そうして倉田の人柄に触れ、俺は改めて、自身の卑小さを自覚させられることになったわけだが……
実はそれをきっかけに、死ぬほど柄じゃないことを考えるようになった。
なんとあいつに対し、あれだけ悪意を持って接しておきながら――
(自分も努力すれば、あんな風になれるのだろうか)
そんな願望と言うか、向上心みたいな意志を抱いてしまったのだ。
この俺みたいな、どうしようもないひねくれ者がである。
今こうして振り返ってみても、大声で叫んで暴れ回りたくなるくらい恥ずかしい。
まあそれはきっと、憧れのようなものだったのだろう。
人の悪意ばかり見てきた人間が、初めて本当の善意ってやつに触れたから、ついつい羨望の念を抱いてしまったのだ。
本当にお笑い草な話だが、果ては自分も教師になろうかな、なんて考えることさえあった。
だからこそ、怒りは深かった。
自分が倉田に騙されて、戦争に送り込まれていたのだと知り、経験が無いくらいに荒ぶった。
きっと珍しく心に芽生えた尊敬の念を、無惨に踏みにじられたからだろう。
それほど俺は、あいつに入れ込んでいたわけだ。
まあ結局その話には、倉田も俺達と同じように、洗脳されている被害者だった……という落ちがついたわけだが。
しかしそうとわかった今でも、複雑な気持ちは残っている。
なんで簡単に洗脳なんてされたんだ、もっとうまくやれなかったのか。
お前が頑張っていれば、春日井は傷付かずに済んだんじゃないのか。
身勝手とわかっていながらも、そんな風に倉田を責めずにはいられなかったのである。
もっとも本来、俺にそんな事を考える資格は無い。
側にいるのに何もできぬのは、むしろ俺の方なのだから。
ここはやはり、自分で運命を動かす力の無い者として、それに相応しい振る舞いをすべきだろう。
ゆえに俺は、回想をそこで打ち切ると、未だ立ち尽くす春日井の方へ視線を戻した。
他にすべき事が見つからなかったので、じっと黙って、再び動き始めるのを待つことにしたのだ。
憂いを帯びた顔で佇むその姿を前に、己の無力さをこれでもかと噛み締めながら。
すると間もなく、春日井がこちらを振り向き、毅然と自らの意志を告げてくる。
「大丈夫。行こう、斉川君」
その立ち姿は、呆れるほどいつも通りの、強く美しい春日井真那だった。
要は誰の助けも借りず、あっという間に自力で立ち直ったわけだ。
俺の気遣いなど、端から不要だったということだろう。
そんな自身の現状に、この上ない情けなさを感じながらも――
(いや……今は、やるべき事をやるだけだ)
それも慣れたこと、と自らを納得させ、呼びかけてきた春日井に頷き返す。
そして間を置かず、彼女と共に走り始めた。
何よりも今、自分の為すべき事がある場所――
あの戦いで満ちた、漆黒の宇宙を目指して。




