Section-1
更新履歴 21/10/23 文章のレイアウト変更・表現の修正
色褪せた古い床を、一人そっと踏みしめつつ、春日井真那は静かな廊下を歩いていた。
そこで目に映るのは、年季の入った校舎と、窓から差し込む眩しい日差し。
またその窓の外には、緑深い森と、抜けるような青空が見えている。
要は絵に描いたかのような、穏やかさ溢れる学校の日常風景、ということである。
もし仮想空間でなければ、鳥のさえずりでも響いてきそうな雰囲気だった。
そんな環境であれば、この歩くたびに軋む床も、風情があって悪くはない。
なので私は、その響きを音楽のように奏でながら、さらに散歩を続けていく。
その最中に抱く感想は、言うまでもなくひとつ――
(んー……平和!)
あまりにも呑気でのどか、というものである。
安穏とし過ぎていて、戦争のことなど忘れてしまいそうになるくらいに。
まあそもそもの事情を思えば、ここは兵士のリラックスのために作られた空間のはずだし、そうなっていて当然なのだが。
殺伐としていたらそれこそ大問題、ということである。
そんな考えをぼんやり巡らしつつ、私は戦いと戦いの合間に訪れた、わずかな休息の時間を満喫していた。
しかもそうやって、機嫌良く余暇を過ごしているところへ、さらに喜ばしい事態が発生する。
ふと廊下の先に、よく知る後ろ姿を発見したのだ。
ゆえに早速、軽やかな足取りで歩み寄りつつ、その人物に声をかけた。
「志~藤さんっ!」
するとそれに反応し、彼女がこちらを振り向く。
同時に深い色合いの瞳がこちらに向けられ、長く艶やかな黒髪も、細い体へ巻き付くように流れた。
相変わらずの古式ゆかしい、冴え冴えとした美貌である。
それでいてその表情は、どこか無垢にも思える。
誰も足跡をつけてない雪原というか、きちんと整えられたベッドのシーツというか、いわゆる『手つかず』な印象を強く受けるのだ。
見ているだけでからかいたくなってくる相手、なんて言ってしまってもいいだろう。
そこでさらに彼女へ近づいた後、元気に挨拶しながら、勢い任せに抱きついてみた。
きっと動揺するだろうな、と内心で期待しながら。
「やっほー、元気?」
ただそんな私の突撃は、思いのほかあっさりと受け流されてしまう。
「春日井さん……急に抱きついたりしたら危ないですよ」
その冷静な対応に、私はかなり拍子抜けした。
声音にも態度にも動揺を見せない、彼女の落ち着いた振る舞いが、ひどく意外だったからだ。
何だか軽くあしらわれたようで、ちょっと悔しさを感じなくもない。
なのでこのままでは終われぬ、とばかりにもうひと押ししてみた。
「大丈夫大丈夫、志藤さんやわらかいから」
しかしやはり、彼女に慌てる素振りはない。
「もう……仕方のない人です」
ちょっと困った様子で、優しげに微笑むだけだったのである。
これではまるで、本当に子ども扱いでもされているかのようだ。
ゆえに思わず、私は正直な感想を述べてしまう。
「あれ……? なんか、反応が大人~。
前までと全然違うなあ」
それに対して彼女は、一瞬考え込むような素振りを見せた後、その理由についての予測を告げた。
無理なくごく自然に、しかしどこかに拭えぬ悲しみを覗かせながら。
「それは……そうですね。『色んなこと』がありましたから。
ひょっとしたら、少しくらいは大人になったのかもしれません」
そこで初めて、私は自分の失言に気づく。
志藤さんの返事によって、『本当に』色々あったということを思い出したから。
どうやら気分の良さに流されて、ちょっとはしゃぎ過ぎてしまったらしい。
なのでその失態を取り繕うため、慌てて彼女の言葉に同意した。
「あ……うん、そうだよね。色々、あったもんね」
しかし結局、その後が続けられなくなり、二人の間に変な空気が漂い始める。
体勢も抱き合った状態のままだし、端から見れば、さぞかし滑稽だったことだろう。
そんな状況に困り果て、どうしたものかと悩んでいると――
(……あっ!)
そこにとある人物が、都合良く通りかかった。
私はこれ幸いにと、すぐ志藤さんから離れ、その相手に声をかける。
「あ、望月さん。
やっほー、どうしたの? こんなところで」
同じくクラスメイトの、望月和歌さんだ。
彼女は私の呼びかけに対し、ちょっと意外という表情を見せてから、すぐに落ち着いて応じた。
「春日井さん……と志藤さん。
はい、今は倉田先生に、まとめたデータの報告をしに行くところです」
それに私が、ごく普通の反応を返すと――
「あ、そっか。先生の仕事手伝ってるんだよね」
望月さんもまた、ごく普通の反応を返してきた。
「はい。ただの事務作業ですけど」
いわゆる当たり障りの無い会話、というやつだ。
要は彼女と、ごく一般的で他愛のない雑談を交わしたのである。
私が今までの人生で、いつも知り合いの女子達とそうしてきたのと同様に。
ただまあ、そうなってしまうのも当然だろう。
私と望月さんは、そんなに仲が良いわけでも、頻繁に会話を交わす仲でもないのだから。
元はと言えば、友達どころかクラスメイトですらなかったのだし、話題が平凡になってしまうのも無理はない。
それでも、望月さんに対する私の印象は、今まで周りにいた女子達とはかなり違っている。
妙な気安さを感じるというか、自分でも不思議なくらい心の距離が近いのだ。
きっと異常な状況を共にくぐり抜けてきた、という連帯感があるからだろう。
もちろんこれは、非常に珍しい現象である。
私は基本的に人嫌いなので、表面上はともかく、他人に気を許すことなど滅多に無いから。
志藤さんや他の皆にも似た感覚があるし、どうやらこのクラス、私にとって居心地の良い場所に変わりつつあるようだ。
その平和な感覚に押されて、私はまた、ちょっとだけ踏み込み過ぎてしまった。
「そう言えば……望月さんも雰囲気変わったよね」
私のそんな、何の考えもなく放たれた感想に、少し驚いて答えた彼女と――
「そう……ですか?」
やはりどこまでも呑気で、全く配慮の無いやり取りをしてしまったのだ。
先ほど、志藤さんにそうしたのと同じように。
「うん。落ち着いたって言うか……
なんか、強くなった感じ?」
「だといいんですけど……まだまだで……」
「そんなことないって。すごく変わったよ~」
ただその直後、私はまたしても気づかされることになった。
望月さんにもまた、『色々』あったに違いないという事実を。
なぜなら彼女が、『すごく変わった』という私の発言を聞き、それを静かに肯定したから。
「そう……かも、しれません」
しかも強い意志を感じさせる、ひどく大人びた笑顔を浮かべながら。
何となく気弱なイメージがあったので、かなり意外という印象である。
その複雑な反応によって、私は再び自分が失言したことを自覚し、改めて己の無遠慮さに呆れる。
またそれと同時に、強く思わされもした。
(……みんな、変わっていってる)
志藤さんも望月さんも、精神的に成長しているのだ、と。
きっとここでの異常な経験を糧に、それを乗り越えることで逞しくなったのだろう。
ひょっとしたら私が知らぬだけで、他のクラスメイト達もそうなのかもしれない。
そんな想像がふと、自分だけが置き去りにされている、という感覚を生み出す。
私だけ進歩が無い、変化も無い、何より成長していない。
二人の落ち着いた佇まいを前に、そういう劣等感が湧いてきてしまったのだ。
そのせいか少しばかり、居たたまれない気分になった私は、慌てて二人に別れを告げた。
内心を気取られぬよう、いつも通りの自分を装いながら。
「あ、届け物の最中なんだっけ。
仕事の邪魔しちゃったね、ごめんごめん。
じゃあ二人とも、またね」
そして穏やかに見送ってくれた彼女らから離れ、また廊下を一人歩み始める。
特に当てもなく、二人の進行方向とは逆を目指して。
そんな私の周囲に広がるのは、先ほどと同じ、穏やかな学校の風景のみ。
しかし抱く心境の方は、これまでと大きく異なっていた。
何となく落ち着かず、妙に浮き足立った気分になってしまうのだ。
そのせいなのか自然と、とりとめのない物思いが頭を駆け巡る。
(私は……何がしたいんだろうな)
自分の望みは何なのか、これからいったい何をすべきなのか。
珍しくそんな、青春の悩みのような考え事をしてしまったのだ。
成長していくクラスメイト達の姿を前に、自分もそうならなければならない、という衝動が芽生えてきていたから。
ただし無論、その結論は本来考えるまでもない。
やるべき事もやりたい事も、実のところは最初から決定済みなのだ。
今までは単に、とある事情から、意図的に目を逸らしていただけである。
私がずっと心に秘めてきた、その切なる願いと言うのは――
(……あ!)
そうらしくもなく思い詰めながら、廊下をさらに進んだ瞬間、私はまたも顔見知りに突き当たった。
(斉川君!)
何とも絶妙なタイミングで、前方の廊下の先から斉川君が現れのだ。
しかもただでさえ強面な顔を、さらに抽象画のようにしかめつつ、しきりに首を傾げながら。
いかにも困り果てています、といった様子だ。
彼のそんな姿を見ていると、自然に私の中のイタズラ心がうずいてくる。
(ちょっとぐらいは、いいよね)
軽く冗談を言ってからかおうかな、なんて考えが浮かんでしまったのだ。
慣れぬ悩みにより生まれた、精神的なストレスを解消するために。
当人には迷惑千万な話だと思うが、まあわりといつものことだし、きっと大丈夫だろう。
なので早速、私はその見つけた格好の獲物……ではなく楽しい玩具……でもなく大切な友人に、あえてハイテンションに声をかけた。
「さ~いか~わくん!」
しかし斉川君は、その私の呼びかけを聞いても動揺せず、ふと気づいたという風に返事をしてくる。
「ああ……春日井か」
おそらくは彼、よっぽど重要な考え事をしていたのだろう。
それに気を取られるあまり、私のわざとらしい態度に反応が無かったのだ。
その軽い扱われ方が気に入らなかったので、私はさらに彼をからかったのだが――
「どうしたの? なんかすごく陰気だよ?
まあいつものことだけど」
やはりそれにも応じず、斉川君は次いで、ひどくおかしな質問をしてきた。
「ああ……実は倉田が見当たらないんだ。
職員室だけじゃなく、学校のどこを探しても。
春日井は何か、心当たりとか無いか?」
もちろん思い当たる節は無かったので、素直に知らぬと答えようとした……のだが。
しかしちょうどその瞬間、私は不自然な感覚に襲われる。
(……あれ? なんか……揺れてる?)
なぜだか突然、全身が小刻みに震動しているように感じたのだ。
例えるならば、自分がバイブレーション機能を起動したスマホになったよう、というのが適切だろうか。
無論、何が起こっているのかわからず、大きく首を傾げるのみである。
ただそうこうしている内にも、さらにその揺れは強まっていった。
視界に映る学校の風景も、激しくブレて見えるような有り様だ。
その感覚を抱いているのは同じなのか、眼前の斉川君の表情も、ますます怪訝そうに歪んでいる。
ただその辺りで、ようやく私は気づいた。
この謎の震動の原因が、良く良く考えてみれば当たり前の、だが決してあり得ないものだということに。
(空間全部が揺れてる……これって、まさか!)
そう、なんとこの仮想空間内にある、作り物でしかないはずの学校に――
(地震!?)
突如、大きな地震が発生していたのだ――




