Section-2
更新履歴 21/10/20 文章のレイアウト変更・表現の修正
(急げ……急げっ!)
走る、走る、走る、走る。
軋む廊下を踏み鳴らしつつ、一切振り返ることなしに。
絶対に離してはいけない手を、固く握りしめながら。
自分達が生き延びる、ただそのためだけに。
俺は力の限り、前だけを見て走り続けた。
その最中、俺の胸に去来していたのは、ひとつの根本的な疑問だ。
(……なんで、こんな事になったんだろうな)
どうして自分は、『クラスメイトから逃げる』などという、おそろしく馬鹿な事をしているのか。
何が理由で、そうしなければならなくなるような、切羽詰まった境遇に追い込まれてしまったのか。
そんな感情が、突然胸の奥から湧き上がってきたのだ。
まるで目の前の異常な現実から、心が逃避したがっているかのように。
そこで思い出されたのは、今の事態をもたらしている元凶――この戦いが始まって以降、俺の身に降りかかったあらゆる災難のことである。
(そうだ……あれは……)
そもそもの事の発端は、例の『順化調整』とか言うやつが解除されたことだ。
より厳密に言えば、その後に戦いへ赴くため、初めて宇宙空間に出た時の経験だろうか。
その時に俺は、否応なく思い知らされたのだ。
自分が今までやっていたのは、とてつもなく恐ろしい行為だったらしい、と。
だって、飛び立てなかったから。
母艦の格納庫を出て、眼前に広がる、底深い漆黒の宇宙空間へ。
そこへ今にも吸い込まれてしまいそうだ、と激しく恐怖したがゆえに。
今までにないその心の動きが、『順化調整』の解除による現象、と知ったのは少し後のことだ。
恐怖を鈍らせる洗脳が解けて、感情がまともに戻ったせいでそうなった、という話である。
要は目の前の光景を、ゲームではなく現実と認識した瞬間、すっかり怖じ気づいてしまった……ということらしい。
その圧倒的な恐怖により、俺はようやく、自分が戦争をしていると実感したのだ。
ただその感覚のせいで、為す術なく硬直する俺をよそに、他の皆は次々と飛び立っていった。
橘も斉川も春日井も、比較的臆病そうな栗原や望月さえも。
ある者は平然と、ある者は苦しみながら、見事に成し遂げていったのである。
またそこには、なんと雪子も続いた。
いかにも彼女らしく、さんざん逡巡はしていたが、それでも最終的には飛び出していったのだ。
何ひとつ自らを支えるものの無い、不安定な宇宙空間へ。
未だ動けぬままの、情けない俺を置き去りにして。
そんなクラスメイト達の背中を見ながら、俺は独り思っていた。
嘘だろう、と。
何でそんな事ができるんだ、と。
頭おかしいんじゃないかこいつら、と。
信じがたい気持ちで、仲間達の後ろ姿を眺めていたのだ。
だって、そうだろう。
果ての見えない暗闇に、自ら飛び込んでいくなんて、飢えた猛獣の口に頭を突っ込むようなものではないか。
素人の学生が、命懸けの戦場に赴くなんて、死神の鎌の前に首を差し出すようなものではないか。
しかも敵は、人類を滅ぼせるほどに強大な存在なのだ。
それに挑もうなんて、タイムリミット寸前の時限爆弾を抱き締めるような、無謀で狂った行為でしかない。
普通の人間であれば、怖くてできないのが当然である。
なのに皆は、それをやり遂げてしまった。
俺が怯えてすくみ、行動を起こせないでいる内に。
自分には到底成し得ない、身震いするほどの恐ろしい難行を。
だからこそ俺は、そんなクラスメイト達の姿に、激しく驚き動揺したのだ。
そしてその衝撃と同時に、残酷な現実を突きつけられることになった。
それは俺こそが、このクラスで一番臆病な人間、という事実である。
みんなが出来ることを一人だけ出来なかったのだから、やはりそう解釈するのが妥当だろう。
つまりはそこで、自分が強くもなければ勇敢でもなく、ましてや特別なんかであるはずがない……と、はっきり自覚してしまったのだ。
男として底辺と証明されたも同然であり、俺が猛烈なショックを受けたのは言うまでもない。
それでもその時は、遅ればせながらクラスメイト達に続けたので、何とか事なきを得た。
自分の臆病さを知られるのが怖い、という一心で踏ん張り、どうにかごまかすことに成功したのだ。
しかしもちろん、それで万事解決、というわけにはいかなかった。
だって戦いはその先も続いたのに、俺はそこへ参加できなかったから。
全身を縛り付ける、己の恐怖心に打ち勝てなかったせいで。
つまりは結局のところ、弱い人間だということは露見してしまったのである。
みんながそういう俺をどう思ったのかは、今さら言及するまでもないだろう。
俺は自らのそんな立場が、ただただ情けなく、また何よりも辛かった。
そんな風に追い詰められ、すっかり精神的に不安定となった俺に、次いで再び厄介な事態が発生した。
あの悪魔が突然、俺が一人悩んでいるところへ、妙に気安く話しかけてきたのだ。
『やあ、柳井君。
実はちょっと話があるんだけど、少し時間いいかな?』
そしてあたかも、先生が生徒へ軽い雑用を頼む時のように――
『実は君に、少し頼み事があるんだ。
いや、そう身構えなくてもいい。本当に、本当に簡単な事だから。
それが具体的に何かって言うと――』
悪辣にもほどがある、恐ろしい提案をしてきた。
『クラスのみんなの様子を、こっそり私に教えて欲しいんだ。
私はどうも、生徒達に嫌われてるみたいだからね。
君を通じて知った方が、より真実に近い姿がわかるはずなんだよ。
それでクラスに変化があるたび、その内容を報告して欲しい、と思ったんだけど……
どうかな?』
つまりは――
『それって……俺にスパイになれ、って言ってるのかよ?』
内通者――いわゆるスパイへの誘いである。
洗脳が解けて管理が難しくなったから、今度はスパイ行為でそれを補おうとしたのだろう。
いかにも倉田らしい、卑怯で卑劣な発想である。
当然俺は、そんなふざけた申し出、すぐに断るつもりだったのだが。
しかし奴は、次いでやたらと白々しい言い訳をしてから――
『おやおや、人聞きの悪いこと言うなあ。
これは先生と生徒の橋渡しをして欲しい、っていうただそれだけの話だよ?
言うなればそう、学級委員みたいなものかな?
みんなのためになる、すごく素敵な仕事だろう?』
ふと思いついたように、ひとつの取引を持ちかけてきた。
『ああ、そうそう。
もしこの仕事を引き受けてくれるんなら、ひとつ君に、みんなの知らない特別な情報を教えよう。
学級委員の特権、みたいなものだね。
どう? 知りたくないかい?
その話だけでも聞いてくれると、こちらとしては助かるんだけどなあ』
それはまさしく、悪魔の囁きだった。
だって皆の知らぬ情報を持っていれば、それを利用して自身の立場を確保できるから。
例の一件ですっかり自信を失っていた俺には、決して抗えぬ誘惑だったのである。
それで俺は、喉から手が出るほど欲しいその情報のため、奴の言葉に乗っかり――
『……まあ、話を聞くだけなら』
そのまま倉田と共に、職員室を訪ねたところで、とんでもないものを見せられることになった。
『それで情報って言うのは……これだね。
スプリガンの内部構造だよ』
それは俺達の搭乗する機体、『スプリガン』を映した映像だった。
奴の机の上に置かれた、やたら古臭いデザインのノートパソコンの画面に、そいつが表示されていたのである。
その映像には倉田の言葉通り、機体の内部が透けて見えていた。
ロボットを撮影したレントゲン写真、と例えればわかりやすいか。
何となくだが、コンディションチェックのためのシステムか何か、という風に見えた。
中でも特に目立っていたのは、機体の上半身中央に収められた、卵型の物体だ。
ほのかに輝くその内部には、うっすらとだが、膝を抱える人間のようなシルエットが見えていた。
そいつの正体は、詳しい説明がなくとも容易に察しがついた。
そう映像へ注目する俺に、倉田は言わずもがなの説明をしてきた。
『それが何なのか気になるかい?
もうわかっているかもしれないけど、機体のコックピットだよ。
君達はみんな、そこにおとなしく収まっているわけだね。
そして、こうすると――』
それから次に、軽く何らかの操作をした後、何気ない仕草でキーボードを叩いた。
するとその瞬間、突如先ほどの卵型の部分が暗転、同時に中の人間も見えなくなった。
まるで電気が届かず停電してしまった、マンションの一室のように。
その謎の現象の意味が、すぐにはわからなかったので、俺は倉田に訝しげな視線を送ったのだが。
奴はそれに対し、普段通りの軽い口調で応じた。
本当に何でもないことのように、人の命を左右する重大な話を始めたのだ。
『実はあの機体、ここから遠隔操作が可能なんだ。
今みたくワンタッチで、君達の生命維持装置を止めてしまうこともできる。
いやあホント、便利なシステムだよねえ』
とてつもなく恐ろしいその話の意味に、驚愕し怯えた俺は、慌てて奴の行動について問い質した。
『じ、じゃあ、今のは……まさか!』
すると倉田は、乾いた笑いを上げてから、その疑問をあっさりと否定した。
『ハハハ。いやいや、今のはあくまでデモンストレーションだよ。
そんな事、本当にやるわけないじゃないか。
……理由もないのに、さ』
ただし最後のところだけ、意味ありげに低く声を落としながら。
理由があればやるぞ、とはっきり宣言したに等しい言いようである。
実質的な脅迫、ということだ。
そしてその威圧に対し、震えながら真意を問い返した俺に――
『お……脅す気かよ?』
かつての昼行灯っぷりを、表面上だけは取り戻しながら、自らの意図を説明し――
『ああ、ごめんごめん。
君をおどかすとか、そういうつもりはなかったんだよ。
ただほら、こういう状況になってしまった以上、何かトラブルが起きたっておかしくないだろう?
それはこちらとしても、すごく困るわけだよ。
みんなの命がかかっているわけだからね。
私はそれを、何とかして防ぎたいんだ』
その最後に、いつもの白々しいまとめを付け加えつつ、再度自身の依頼を伝えてきた。
『だから君には、そのトラブルを未然に防ぐ働きをしてもらいたい。
彼らの動向を、こっそり私に報告することでね。
そうすれば皆が戦いに集中できるから、生存確率も自然と上がる。
ほら、クラスのためになるいい仕事だろう?』
それはあまりに厚かましいと言うか、都合の良い表現をしていると言うか。
とにかくまあ、到底受け入れがたい申し出だったわけだが。
しかし当時の俺には、その要求に抗うという選択肢は無かった。
なぜならこいつに、完全に命綱を握られている、という事実が判明してしまったから。
その気になればすぐこちらを殺せる相手に、真っ向から逆らえるわけがなかったのだ。
であればどれほど不満があろうとも、唯々諾々と従うより他はない。
そう現実を認識し、心身共にすっかり縮こまってしまった俺へ、倉田は最後の一押しをしてきた。
こちらの肩に手を乗せながら、余裕たっぷりに、断られることなど微塵も想定していないような口調で。
『頼むよ。これも君達のためだから、さ』
その瞬間、俺は――
(やるしか……ない……!)
静かに密やかに、クラスメイト達の敵となった。




