Interlude
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『おっ、貸し切りじゃ~ん』
不意の来客が発した、その遠慮の欠片も無い声を聞いて、私は思い切り体を強張らせた。
どう好意的に解釈しても、そこに『ゆっくり本を読みに来た』という、真っ当な意志を感じ取れなかったから。
声の主が、暇つぶしに興味本位で訪れたことは、火を見るよりも明らかだった。
となれば当然、この静謐な時間と空間は、完膚なきまでに破壊されるに違いない。
そう予測した私は、その被害を小さくするため、可能な限り気配を消すことにした。
しかし『彼』は、そんな私をあっさり見つけ、何の気兼ねもない様子で話しかけてきた。
『なあなあ、あんたって図書委員?』
そして家族以外の人と話すのが久しぶりで、つい慌ててしまった私に――
『は……はい。そうですけど』
そのままひどく一方的に、調子良く自分のトークを繰り広げた。
『いや~、やっぱいいよな~、図書委員って。
知的なイメージあるわ~。憧れる~』
私はそんな彼の言動に、どうしようもなくいい加減で軽薄な男、という印象を受けた。
当然のように鬱陶しかったし、会話自体が苦痛とさえ感じていた。
とにかく早く帰ってくれ、という思いしかなかったのだ。
なのでさっさと話を打ち切るため、私は感情を抑えつつ、彼に来訪の目的を問いかけた。
『あの……どんなご用ですか?
何か本をお探しですか?』
しかしその気持ちは、相手に全くと言っていいほど伝わらなかった。
『ん? んー、いや、ただの暇つぶしなんだけど。
少し話そうよ~、図書委員さ~ん』
本を読む場所、という図書室の存在意義を、真っ向から否定したわけだ。
その堂々と失礼な態度には、さすがの私も呆れて、珍しく少し注意したりもした。
『……図書室は本を読むところであって、お喋りをするところではありません』
ただその結果として、彼にわりと痛いところを突かれてしまった。
『堅いこと言わないでよ~。
ほら、他に誰もいないんだし。
相手してくれたっていいじゃ~ん』
確かにその時、図書室の中には、私達以外誰もいなかった。
唯一の利用者である以上、相手をするのが義務ではないか、という彼の主張には正当性があったのだ。
例えどれほど、当人同士の相性が悪かろうとも。
そんな状況に、私は心から落胆し、自身の恵まれぬ境遇を嘆いていたのだが。
しかしそうしてため息をこらえつつ、もう一度眼前の相手を観察した瞬間、私はふと気づいた。
彼が自分のクラスメイトだ、という事実に。
名前は確か、や……やな……やな何とか君……くらいの曖昧な覚え方だったものの、しかしその存在は把握していた。
いつも教室の中心で多くの友達と喋っている、いわゆる『向こう側』の人だ、と。
自分とは異なる世界の人間、という風に認識していたのである。
無論、絶対に関わりなんて持ちたくはなかった。
話題も考え方も合うはずないし、どれだけ頑張って会話しても、いつかは気まずい沈黙が訪れるに決まっていたから。
だから頭の中では、その場から離脱するための言い訳を、ただひたすらに考えていた。
しかし私が、そうして黙り込んでいた隙を突くかのように、次いで彼は最悪の質問を放ってきた。
『そういう図書委員さんは、何読んでるの?』
その問いかけを聞いて、私の全身は凍りついた。
なぜなら読んでいた本が、あまり他人に内容を知られたくないものだったから。
実はその時、思い切り女性向けの特殊な本を読んでいたのだ。
具体的には何というか、ちょっと表には出しづらい、非常にアレな感じの、本屋の中央に置くのはためらわれるやつ……である。
一人だから油断した、ちゃんとカモフラージュしておくべきだった、と私が深く後悔したのは言うまでもない。
当然そうした事実が露見すれば、恐ろしい未来が待っていたことだろう。
相手の性格から考えて、クラスで公然とイジられたりする可能性があったのだ。
そんな事になったら間違いなく切腹ものだ、と心の底から怯えずにはいられなかった。
そこで私は、焦りからパニックに陥りつつも、必死にごまかす方法を模索した。
そしてとっさに、受付に置いてあった本を掴み、彼の方へと突き出した。
返却処理を終え、収納待ちだった一冊である。
内容もタイトルもわからなかったが、実際読んでいたやつよりはマシなはず、と考えてそうしたのだ。
すると彼は、私が差し出したその本を見て、実に呑気な感想を述べた。
『えーと……あ~、「雪国」かあ~。
へえ~、俺でも聞いたことのある名作的なやつじゃ~ん。
さすがは図書委員さん、って感じだね~。
ま、俺は読んだことないけどさ~』
なんとも幸運なことに、おそろしく無難なタイトルだったのだ。
それでいかにも図書委員っぽい、と彼も納得してくれたらしい。
要は紙一重で、絶体絶命の窮地を脱することに成功したのである。
その文句なしの結末に、私は全身の力が抜けるほどに安堵した。
ただその直後、なんと今の衝撃に匹敵する驚愕のセリフが、彼の口から飛び出してきた。
『て言うかアレだね、自分の名前が入ってるやつとか読んでんだね~』
そのせいで思わず、私は間の抜けた呟きを漏らしてしまった。
一瞬、目の前の相手が何を言っているのかわからなかったから。
『は……?』
彼はそんな私の態度に、ちょっと怪訝そうにしてから、妙に必死な口調で矢継ぎ早に質問してきた。
『えっ……? いや、えっ?
朝倉さんでしょ? 朝倉雪子さん。クラスメイトの。間違えてないよね?
それともまさか、俺のこと覚えてない?』
どうやら彼、私の名前を覚えていたようなのだ。
それで『雪国』に対し、『私の名前が入っている』という感想を持ったらしい。
言うまでもないことだが、私にとっては全く予想外の事態だった。
だって彼とは、自己紹介どころか、まともな会話すら交わした記憶が無かったのだから。
そんな相手のフルネームを覚えているなんて、これが社交性というものなのだろうか、と私はいたく感心した。
その感動を胸に抱えつつ、次いで私も、無事に思い出せた彼の名前を告げた。
『い……いえ。クラスメイトの、柳井君ですよね』
彼はその答えに、心底ホッとした様子で応じ、自分の名前をやかましく連呼した。
『そうそう柳井柳井!
いや驚かすのやめてよ~、忘れられてるかと思ったじゃ~ん』
どうやら彼のような人でも、相手が自分のことを覚えてない、という状況にはショックを受けるらしい。
そのあけすけな反応に、ちょっとだけ罪悪感が湧いた私は、正直に事情を話した。
『あの……ごめんなさい。
柳井君の方が、私を覚えているとは思わなくて』
それを聞いた柳井君は、すっかり調子を取り戻した風に、笑いながら応じた。
『そんな事ないよ~。クラスメイトなんだし、ちゃんと覚えてるさ~。
ま、ほぼほぼ喋ったことはないけどね~』
そんな彼の言葉と笑顔は、なぜだか私の心臓を落ち着かなくさせた。
緊張しているわけでも、動き回っているわけでもないのに、なぜだか急に鼓動が速くなったのだ。
突如として自分の体に、そういう異変が起きた理由を、当時の私はまだ知らない。
ただし次いで、その奇妙な時間は、唐突に終わりを告げることになった。
ふと辺りに軽快な電子音が響き渡り、それに応じてスマホを覗き込んだ彼が――
『あっ! ごめ~ん、ちょっと呼び出しかかったみたいでさ。話はまた今度ね~。
それじゃ!』
そうあっさり別れを切り出してから、さっさと出入口に向かい歩き始めたから。
こちらに対して、欠片の未練も見せることなく。
どうやら友達に呼ばれたので、そちらに顔を出すことにしたらしかった。
しかもあまりに急なその事態の推移に、私が呆気に取られているところへ――
『ああ、それと!
良かったら次来る時までに、俺でも読めそうな本選んどいてよ~。図書委員さんのオススメ!
んじゃ、よろしく~』
彼は去り際、そう一方的な要求を出してから、瞬く間に廊下へと消えていった。
まさに台風一過、後に残されたのはいつもの静寂のみである。
私はその静けさの中で、押し寄せる疲労感に潰されたかのように、受付の椅子へともたれかかった。
慣れぬ相手とのやり取りに、ごく短い時間ながらも、すっかり憔悴しきっていたのである。
状態としてはもう、指一本動かせぬほどの疲れ具合だった。
ただ頭の中では、『次来るまでに』という柳井君の言葉が、繰り返し響いていた。
これは再会の約束というやつでは、彼はまたここを訪れるつもりなのだろうか、などと物思いに耽っていたのだ。
ほんの少しばかりの、胸の高鳴りと共に。
もっとも、本当にその言葉通りになる、と期待していたわけではなかった。
どうせ気まぐれに放った一言だろうし、真面目に聞くのは馬鹿らしい……とか。
今日が特別おかしかっただけで、きっと明日からはまた、いつも通りの生活に戻るのだろう……とか。
そんな風に、本音では思っていたのである。
そう、静かで平穏で、そして感動も変化も無い、あの退屈な毎日に。
私は一人、自分にお似合いの、地味で孤独な日常に帰っていくのだ……
……という私の予想は、しばらくして見事なほどに外れた。
なぜなら意外にも、彼がそれ以降――
『おっす~、元気~? 図書委員さ~ん』
ごく頻繁に、図書室を訪ねてくるようになったから――




