美香里の夢
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すっかり夜も更けて、洋間では理恵果も美香里もベッドで寝息をたてている。正面に浮かんでいた月が、やや西に傾いた時に1つのベッドから何やら物音が発せられていた。
美香里のベッドだった。彼女は眠ってはいたが、その表情は安らかというよりは苦しそうだった。
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「美香里ー。ちょっとトイレに付き合ってくれない?」
「真波? さっき私トイレに行ったばかりなんだけど?」
「いいから、いいから。ちょっと相談したいこともあってさ」
「……。分かった、いいよ」
私をトイレに誘ったのは、同じクラスの女子の千和真波だ。私よりも背が高くて同じ中2で、もう170cmは達しようとしている高身長だ。おまけにバレー部に入っているので、このままだと180とかいきそうな感じだ。
真波の後ろには中村眞由裡もいた。彼女は私と身長は同じくらいだろうか、中2では平均的な150cmちょっとだ。私のほうを見てにやにやしている。
真波と眞由裡は仲良しだ。仲良しついでに、よく私につっかかってくる。理由は分からないけど、私の何が気に入らないのか。
私はイヤイヤながらに真波達に付いていって、女子トイレに入っていった。2人が終わるまで鏡で自分の姿を確認して、耳の下で2つくくりにした髪ゴムを調節して整える。その内に水の流れる音がして、真波と眞由裡が個室から出てきた。
「美香里ー。何か急にきちゃった。今、応急でトイレットペーパーを当ててるんだ。ごめんだけどナプキン持ってない?」
「うん、あるけど。羽なしだけど良い?」
「全然良いよ。ありがとう、ふー助かった」
私はポーチの中から1つナプキンを取り出すと真波に手渡した。それを「ありがとう」と言って受け取ろうとした真波の大きな体が、一瞬、すばやく動いた。
「痛い! そんなに腕を引っ張らないで」
「いいからちょっと来て?」
なんなの?と思いながら真波に個室へ連れられると、後ろから何か頭の上が、粘り気のあるひんやりとするものをかけられた感触がした。眞由裡が私の頭の上から、掃除に使う液状の洗剤をかけたのだ。液が顔にまで伝わって、口に入って思わず咳き込む。
「う、ゲホゲホっ! な、に、ごれ?」
「うん? なんかトイレに汚いものが見えたから、キレイにしようと思ってぇ」
私が振り向くと、にこにこしながら、でも瞳の奥は笑っていない表情の2人が見えた。どこか冷徹な表情だ。そんな事を思ってたら、不意に頭を前に向けさせられて、洋式の便器近くまで無理矢理に押された。私と真波とでは、真波のほうが10センチ以上は背が高い。部活でのスパイクの練習で鍛えられた腕は、何か強そうな気がする。私は押さえつける真波の力に抗えなかった。
「眞由裡、トイレブラシ貸して?」
「はいよ、真波。何? 便器を掃除するんだ、えらいねえ」
「サンキュ。美香里~、あんた少し汚いみたいだから、私が頭を掃除してあげるよ?」
「な、なにすんのよ!」
「あー、うるさいなーもう」
眞由裡が追加の洗剤を私の頭にかけてきて、髪がドロドロに汚れてしまった。そして後ろから、また頭を押されて完全に便器の中に頭がスッポリと入ってしまった。
「んぐ……。やめて! やめてよ!」
「汚いのは黙ってるの! ほら、お掃除を始めるよ~」
「真波ってば掃除熱心で感心しちゃうな~」
眞由裡がそんな事を言いながらケラケラと笑っている。真波は私の頭に、眞由裡に持ってこさせたバケツを受け取って、中の水を更に私の頭にかけた。
バシャー……。洗剤と水をかけられて、私の髪はぐちゃっと濡れてしまって気持ちが悪い。
「眞由裡、私がコレ抑えてるから、髪ゴム取っちゃって?」
「おっけー。美香里、かわいい髪ゴム。ちょっとみーせて?」
学校では髪ゴムは黒か濃い茶色と校則で定められている。かわいい髪ゴム等、派手な物を着けていると注意されるのに……。何を言ってるの?
そう反論しようとした時、トイレブラシで頭を強く擦られた。ブラシの毛先の硬い繊維が柔らかい頭皮に刺さってとても痛い。
「痛い痛い!! ほんとに止めて!」
「うん? 何か聞こえない? 便器の中から声がするー。こわいよ~アハハ」
真波は私を押さえつけながら、髪をトイレブラシでごしごし擦って笑ってる。それを見ている眞由裡もにやにやしながら見ていて、止めようもしない。
「眞由裡、ホース持ってきて?」
「はいよー。すぐ持ってくる」
眞由裡は掃除用具室からホースを持ってきて、真波に渡すと蛇口に繋いでから、栓をひねって水を送り出した。ホース口から水が出てきて私の頭に冷たい水がかかる。
思わず「ごほっごほっ」と咳き込むけれど、真波は「さあキレイキレイしましょーね~」と言いながら、ブラシで私の頭を再び擦る。痛くて冷たくて苦しくて、止めて欲しい。でも、水の勢いで咳き込んでしまい声が出ない。
「うんうん、トイレの便器が綺麗になった。美香里、ナプキン、ありがとーね?」
真波はそう言うと、新品のナプキンの包み紙を剥がして本体の粘着部分を私の頭にベタリとくっつけて擦る。じゃあねぇとケラケラ笑いながら、眞由裡と一緒にトイレから去っていった。
「ぅ……。ごほ、げほ……!」
私はようやく解放されて、押し付けられていた便座から離れる。濡れて洗剤まみれになった髪の毛。貼り付けられたナプキン。ペリっと剥がすと頭皮に痛みが走った。
目に涙を浮かべながら、私は洟をすすって落ちていた髪ゴムを拾う。それから背中のセーラー服の襟に付着している洗剤の液を持っていたハンドタオルで綺麗にした。
3本線の入ったセーラー服の襟。まだ液がついてる。よろよろと個室から鏡のあるところまで歩く。それから鏡を見ながら穢れた襟をハンドタオルで拭う。口の中も変に苦い。蛇口から出る水で口をすすいで、解かれて乱れた髪を結びなおそうとしたが、手が震えてなかなか元通りに結べない。
トイレの壁の近くには、私のポーチがホースの水がかかって濡れたまま落ちていた。
どうして? なんで、こんな事をするの? 私が何かあなたたちに悪いことでもしたの?
鏡に映る自分の顔は、悲痛な表情を浮かべていて、問いかけの言葉を口にしようとしても、ただただ涙が流れるばかりだった。
ぐすっ……。もう何回目だろう。
一度は担任の高村先生に相談したこともある。でも、真波達は用意周到で、けっして手や足など見える身体の所には傷をつけるような事はしなかった。今の私の姿を見れば「掃除のとき、転んでしまって偶然洗剤がかかちゃったんですー」と言い訳をすれば、それで高村先生は納得してしまう。
ひどい。ひどいよ! 真波、眞由裡! 何が気に入らないというの?
段々怒りがこみ上げてきて、泣きながら頭から剥がしたナプキンをくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に叩きつけるように捨てた。そして、声を上げて泣いてしまった。
「ふんふんー♪」
誰かが鼻歌を歌いながら、トイレの中に入ってきた。
私の唯一の友達の理恵果だった。彼女とはクラスが違うため、お互いの教室は離れているから使うトイレも違う。
偶然だったのか、そうでないのか……。
理恵果の目が、私の無残な姿を捉えるとピタリと足が止まった。それから段々と目がまあるくなって驚いていった。
「……。みか、り? 美香里なの?」
「ぐすっ……」
理恵果が鏡の前で泣いている私に駆け寄る。
「美香里!! どうしたの? その制服の襟。それに髪が濡れているじゃない! 何があったの!?」
「りえ……か……。う…ぅ……わたし……」
「誰かに虐められてたんだね? そうでしょ??」
「ぅ……。りえかあぁああああ!!!」
私は我を忘れて理恵果に泣きついた。
翌日には私の髪と頭皮は荒れてしまった。それが繰りかえされて、私の髪と頭皮は次第にひどく痛んでいった。今現在、私が頭皮や髪を念入りにケアをしているのは、こうした辛く苦い体験があったからだ。
*************
「美香里! 美香里!! どうしたの?! 大丈夫?!」
「ぁ……? え? りえ、か? 私、どうしてここに?」
「美香里……。もしかして、あの夢を見ていたの?」
「……わかんない。あれ? どうして私はここにいるの?」
「美香里! 大丈夫?! ここはうちらの離れで、何か声が聞こえると思ったら、美香里がベッドの上で暴れるようにもがいていたから……」
「夢……。あぁ、あの時の。あれ? 髪が濡れてない。どうして?」
「ちょっと美香里!! しっかりして!」
私は美香里の肩を揺さぶったけれど、まだ夢の中にいるみたいで目はうつろで涙が頬を伝っていた。その顔をみて思わずぎゅっと美香里を抱きしめる。
「美香里。だいじょうぶ、だいじょうぶよ。もう嫌な人たちはいないから、安心してね」
「お、おか……おかあさん?」
「美香里?」
「おかあさああん! 怖かったよう!」
「ちょっと美香里? 私は……」
「こわかったよぅ! ふぇぇぇーん」
美香里の意識は悪夢の中に閉じ込められてしまって、自分を見失ってしまっている。私をお母さんだと思っているんだ。美香里は母に捨てられたって聞いてた。あんな人、お母さんじゃないって言ってた。
それなのに、こんなにもお母さんを求めている。
美香里、たとえ捨てられても、お母さんが恋しいんだね。そうなのね? 美香里?
「おかあさーん。こわかったよお、学校で……わたしいじめられれれ……ぐすっ」
「よしよし、お母さんはここにいるから。ほら、今あなたを抱きしめているでしょう? 私はあなたのお母さん。そばにいるから、安心して泣いてもいいのよ?」
お母さんを演じてあげる事しか、私には出来なかった。泣きじゃくる美香里を、母を求めるこの子をただただ、抱きしめてあげて一緒にいてあげなきゃ。そう思いながら美香里を包み込んで優しく抱き続ける。
時計を不図みると、夜中の3時くらいかな。悪夢め、美香里の身体から早く出てゆけ!
「みかりちゃん? まだ泣き足りない? お母さん、ずうっと一緒に居てあげるから、気の済むまで泣いていいのよ?」
そう言って美香里の頭を撫でたり、背中をさすったりしてあげる。頬を伝う美香里の目尻を指でそっと拭う。それでも次から次へと涙はあふれて来ていて、私は何度も何度も拭う事を繰り返した。美香里が泣き止むまで、ずっと。
「ぐすっ、ぐすっ……。あれ? お母さんは? え? 理恵果? どうして?」
「安心した? 私はここにいるよ?」
「理恵果? 私を宥めてくれてたのは理恵果だったの? 私、お母さんのまぼろしを見ていたの?」
「うん? 美香里、落ち着いてきたのね。大丈夫、大丈夫」
「……。ありがとう、理恵果。私、悪い夢を見ていたみたい」
「そうね。とっても苦しそうだった。辛かったね」
「理恵果……。ふぇぇーん」
また思い出し泣きをしたみたい。可哀想に。美香里をここまで苦しめたあの子達を私は許さない。そしてこの子を捨てた母も!
でも、美香里は心の底では、母親の愛を求めていたんだ。それは私にも分かる。
私だって……。
小さく時計の秒針の音がチクタクと聞こえて、美香里のすすり泣く声も段々なくなってきていた。明日は無理して学校行くこともないかな。別に休んでも遅刻してでも、どちらでもいい。美香里には私が傍に居てあげないと。
そして私も美香里の傍なら……。
出窓には真っ暗だった景色が、段々と昇りゆく朝日によって少しずつ明るくなってきている様を映している。
私は美香里を胸に抱いたまま、美香里のベッドで添い寝をしてあげた。彼女が少しでも安心出来るように。そして、もし再び悪夢に取付かれそうになった時に助けてあげないと。
涙で濡れていた美香里の顔におだやかな寝顔が戻ってきた。それを見た私も安心して、眠くなってきていた。
そして、そのまま2人はベッドの中で抱き合ったまま眠っていた。朝が来るまで。