薬を持って
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「ねぇ、みかりん」
「……うん」
「会えるって分かると、逆になんか不安だよね」
「……まあ、そうなんだよね。はぁ」
「正直な気持ち、なに喋っていいか分かんないけどさ」
「私だって、分かんないよ。訪問サービスの人と一緒って、お父さんは言ってたけど」
「子供の頃の記憶しかないけど、みかりんのお母さん、優しそうだった」
「でも、今もそうだとは限らないし病気だし。どう接していいのかな」
「うーん……分かんない」
「りえりんも一緒にいてね。なんか心臓がもちそうにないから」
「うん、それは全然いいし。私も今のみかりんのお母さん、どんななのか知りたい」
「りえりんは、どうなの? 一応は仲直りできそうなんでしょ?」
「それは……そうだけど」
「……私は、いつから母に会ってないんだろう?」
「小6の時にみかりんのお父さんが亡くなって、お葬式して、それからだったよね。冷たくしだしたのって」
「うん……お父さん死んじゃってから、おかしくなりだしたんだ」
「時間にしたら1年か2年かもだけど、中学では色々あったし」
「……そうだよね」
離れに帰ってきて、私たちは洋間に敷いたラグの上で、ぺたんこ座りをしながらお喋りをしていた。
いつ手にしたのか、くまちーのぬいぐるみを撫でたりふわふわな触感を無意識に確かめていた。美香里もサリサリのぬいぐるみをじっと見つめていて、なにか思いつめた表情をしている。
くまちーの目を見ながら思いをめぐらす。執行猶予中のママ、どんな暮らしをしているんだろう。美香里のお母さんは、統合失調症だっけ。どんな症状なんだろう。訪問サービスってなんだろう。
あれこれ考えていたら、少し頭が痛くなってきた。
どれくらい時間が経ったか分からないけど、玄関から音が聞こえた。チャイムの音だ。誰だろう? のそのそと玄関に向かって歩いて、ドアを開けた。
「あ、おばさん」
「理恵果。なんだか顔色が悪いけれど、大丈夫?」
「え? うん、大丈夫だよ」
「……その様子じゃあ、ごはんは作れなさそうね。本宅へいらっしゃい。美香里は?」
「あ……みかりんは洋間。ラグに座って考え事」
「そう。ちょっと上がるから」
「うん」
おばさんが玄関で靴を脱いで、洋間に向かう。私は玄関に立ったままぼうっとしている。洋間のほうで美香里の声を聞いて我に返った。悲鳴みたいな、何ともいえない声のする方へ向かった。
「……みかりん?」
少し呼吸を整えながら洋間に戻ると、美香里がおばさんにしがみついて何かを言っている。おばさんは必死に美香里を宥めている。私はさっきから心当たりのある、ぼうっとした感覚をずっと感じ取っていた。あの、何となく幼児退行しそうな感じがするときの意識がぼやける感じ。勉強机の上に飾ってあるおばあちゃんの写真をフォトフレームから出して、胸に当てて心の中でつぶやいた。
(おばあちゃん、たすけて)
少し震える手で引き出しの中のルーズリーフを開いて、おばあちゃんの遺書の入っている封筒を鼻に当てて匂いを嗅いだ。後ろからおばさんの、「理恵果、大丈夫?」という声が聞こえた気がした。
あ、そうだ。チョコレート。
写真と遺書を手に持ったままダイニングに行って、棚にあった板チョコレートを1枚取り出して、貪るように食べる。ママが子供の頃していたみたいに、舐めずに噛み砕くように。きっと、他の誰かが見たら、異常な行動に見えるかもしれない。自分でも普通じゃないって分かってる。でも、そうしないと幼児退行しそうで怖かった。結局、1枚全部食べちゃった。
ふー……何とか落ち着いた。ダイニングの椅子に座って、テーブルに力なく顔を伏せる。うん、大丈夫。ぼうっとして意識が遠くなりかけたのが治った。もしも、おばあちゃんとママの助けがなかったら今頃……。
「理恵果、どうしたの?」
「あ、おばさん」
「本当に大丈夫なの?」
「うん、もう大丈夫。みかりんは?」
おばさんの後ろを見ると、美香里がいた。目が少し赤い、泣いていたの?
「みかりん、ごめん。傍にいてあげたかったんだけど、幼児退行しそうになったから……」
「そっか……私は母親に会えるって裁判所の人の話を思い出して、それで動揺しちゃって、お母さんに助けてもらってたの」
「私も今、おばあちゃんとママに助けてもらってたとこ」
「……あっ、それでチョコレート食べてたんだね。遺書とか写真とか持ってるし」
「うん。これ無かったら今頃、子供に戻ってたかも」
私たちの話を聞いていたおばさんが、特に私を心配そうに見ていたので、事の経緯を説明した。おばあちゃんのこと、ママのこと、裁判所であったこと。退院できて傷も治ってきて、ママの事情も理解できているけれど、心のほうはまだ治りきってないということ。
隣の席に座っているおばさんは話をちゃんと聴いてくれて、「そうだったの、辛かったね」と宥めてくれた。それが嬉しかった。
一通り話し終えたら、いつの間にかダイニングが薄暗くなってるのに気づいた。おばさんが席を立って明かりをつける。キッチンの窓の外は、もう日が暮れて真っ暗だ。向かいの椅子に座ってる美香里はテーブルに頬杖をついて、じっと俯いている。時計の針は、もうすぐ8時だと知らせている。
「本宅でごはん、そう思っていたけれど、ここで簡単に料理を作って食べましょう」
「つかおじは?」
「さっき連絡をしておいたから、じきに離れに来るんじゃない?」
「うん……」
おばさんはキッチンに立って、ごはんを作る支度を始めている。私たちは何とはなしに座ったままで、手伝うという発想がわかなかった。
てきぱきと調理をするおばさんをぼうっと見つめる。そして、手元にある写真と遺書を何となく見る。視線を戻すと、一瞬、おばさんとママが重なって見えた。小さい頃、テーブルの椅子に座りながら、ごはんが出来るのを待ってたっけ。
─きょうね、またみかりちゃんと、遊んだんだ。
─そう。よかったね。
─それでね、いっしょにごはん食べよう、ってさそったんだ
─そう。
─でも、みかりちゃん、じぶんのおかあさんが待ってるからって
─……。
─ねぇ、きいてる?
─聞いてるよ。
─でね……。
「りえりん、どうしたの?」
「えっ?」
「なんか、独り言をぶつぶつ言ってたから」
「あはは、思い出してたんだ」
「何を?」
「小さい頃、こうしてごはんが出来るのを待ってたっけかなって」
「そうなんだ」
「でも、あの時のママそっけなくって。私イライラしてたなぁって」
「その時は、DVされてなかった時?」
あれ? どうだったっけ。自分でもよく分かんない。私って所々、記憶が抜け落ちちゃってるから。思いついて、着てる服をめくってお腹を見てみる。蹴られたりした辺りの皮膚は、普通の肌色。いつだったかの、青いような黒いようなアザにはなってなかった。入院中に治してもらったんだよね。
「元気かな、青木さん……」
「りえりん、話が飛んだ」
「色々と思うところがあるから。退行しかけていたし」
「そっかぁ。いろいろ大変だね」
「みかりんだって、さっき泣いてて。大丈夫なの?」
「うん。だいぶ落ち着いた」
それから、つかおじが離れに来て、私たちは夜ご飯を食べた。つかおじと話し合ったのは、ママと会う日についてと、美香里の母親に会える予定について。それに千和たちが謝罪に来る日にちについてだった。今度の土曜日に本宅に来るらしい。その日はどこかに出掛けても良いという事だった。
今度の土曜日……。あいつらがくる。美香里の反応を思うと、やっぱりその日は外に出掛けてた方がいいね。また、ショッピングモールにでも行こう。それを美香里に提案したら、賛成してくれた。
食べ終わって食器を洗うのを手伝った私たちは、離れを後にするつかおじとおばさんにお礼を言った。今度は本宅でごはん食べたいな。
それからお風呂に入って、明日の支度をして早めに眠りについた。
そして土曜日。
私たちは、朝起きて出掛ける支度をした。洗顔して軽く朝食を食べてから、お気に入りの服に着替える。ちょっとネイルも塗ってみた。まぁ、100均のだけど。姿見で確認してから離れを出る。鍵をちゃんと閉めるのを忘れないように。
本宅に寄って、つかおじとおばさんに挨拶をしてからバス停まで歩いていった。もうすぐ3月だけど、外はまだまだ寒い。肩にかけた小ぶりのショルダーバッグには、コンパクトなビニール製のトートバッグを折り畳んで入れてあるから、何か荷物が出来たときに役に立つ。美香里もおそろいのを持っている。
バス停に着くと、何人かが既に待っていたので、私たちは後ろに並んで待つ。
「みかりん、何か買いたいものとかある?」
「んー……。ルーズリーフとかの文房具が欲しいな」
「私も何か文房具買おうかな。ついでだから」
「うん。ショッピングモールの中に100均ってあったかな?」
「えっと、あったかな。とりあえず、ぐるぐるまわってみる感じ?」
「そだね、今日は逃げの日だから」
「……はぁ」
「なに、りえりん。ため息ついて」
「本当は文句の1つも言ってやりたいけど。あいつらに」
「私は、なんか怖いな。会いたくない」
「そりゃあそうだよね。あー! やめよ、とにかく楽しまなきゃ」
「うん。そうだね」
悪いほうに考えると、陰鬱な気持ちになる。つかおじたちがどんな対応するのかは知らないけど、とにかく今は楽しもうかな。
10分くらい待っていると、バスがやってきた。土曜日だからか、けっこうバスの中は混んでいる。私たちは席を探して、空いている1番後ろのほうに並んで座った。気分が悪くなったときの為に飲む頓服の薬は、ちゃんとかばんに入っている。何かあったら、おばさんにメッセージを送ればいいし。
バスに揺られながら、私たちはショッピングモールへと向かっていった。ぼうっとしていたのか、私はおばさんからのメッセージの着信に私は、まだ気づいていなかった。
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