病室で
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「ん…………」
気がつくと、天井みたいなものがぼんやりと見える。離れの洋間のとちょっと違うような……。辺りをよく見回すと、自分の置かれている状態が少しずつ分かってきた。ここ……病室?
なんで、私……。
ベッドの柔らかい感触、静かな空調の音。左側には何か透明な管が見えて、それが自分の左腕に繋がっている。どこかから規則的に聞こえる電子音の方に首を向けると、色のついた数字を表示している機械みたいなのがある。
「……」
自分がベッドに寝ているのは分かった。病室にいる事も分かった。分からないのは、どうして病室にいるのかって事。
左腕を動かそうとすると、チクリとした痛みを感じた。これって、点滴……?
寝返りを打とうとして軽く体をひねったら、下半身に違和感を感じた。確かめようとして手で触ってみると、ここにも何か管みたいなのがある。なに……これ?
その管を触ったり、左腕に刺さっている針の感触を確かめていると、締め切られていたカーテンがゆっくりと開いて誰かがこちらを見ている……看護師さん?
「あの……」
「意識、もどられたみたいですね」
「……私……」
「ご自分のお名前、分かりますか?」
「……高梨、理恵果」
「結構です。あ、点滴の針には触らないでくださいね」
「え?」
「ちょっと失礼しますねー」
看護師さんはカーテンを閉め切ってから、私の寝ているベッドまで近づいてきた。辺りは静かで、歩いてくる靴音の他には空調と電子音以外は聞こえない。パチという音がして、頭上のベッドライトが点けられると、ベッドの周りが柔らかい光に包まれた。
掛け布団をめくられ、「今からカテーテルを抜きますね」と言われた。管が抜かれる時に、なんとも言えない感覚があって少し気持ち悪かった。それから陰唇を何かでそっと拭かれた。看護師さんは手袋を外してから、しゃがんで何かをしている。
「今、おしっこの管を抜いて、ばい菌が入らないようにキレイにしました。溜まっていた尿バッグは回収しますね」
「……」
起き上がろうと肘と手に力をこめてみる。何だか体が重たい……。上体を半分くらい起こしたとき、眩暈がしてバランスを崩してしまうのを看護師さんが支えてくれた。
「大丈夫ですか?」
「はい……」
「まだ寝てた方がいいですよ。少し手足をマッサージしますね」
ベッドに仰向けに寝ながらマッサージを受ける。しばらくすると、点滴の針の刺さっている辺りの血の巡りが良くなる感じがした。
空を見ながら、今までの事を振り返ってみる。
そういえば、たしか……皮膚科に行っていて、美香里の頭を診てもらって、私の傷痕の事でつかおじに聞かれた。その時に何かおかしな気持ちになって、気が遠くなるのを感じたんだよね。それで今、病室に寝てる……どれくらいの時間がたったのかな。
マッサージされたお陰で、体の感覚がだいぶ戻ってきた。手を開いたり閉じたりしていると、看護師さんが私に訊いてきた。
「今、尿意はありますか?」
「……よく分かんないです」
「分かりました。車椅子でトイレまで行きましょう」
看護師さんは近くに折りたたんであった車椅子を組み立ててから、私の体を器用に支えて車椅子に乗せる。見た所、私と同じくらいの身長だけど、けっこう力があるんだって思った。再びカーテンが開けられて辺りが明るくなると、病室の隅にトイレがある。病室の中にトイレ……?
「あの、重たくないですか?」
「大丈夫ですよ。コツがあって、力がなくても車椅子に乗せることは出来ます」
「そうなんですか……」
「それじゃあ、行きましょうか。あと、ご両親には目が覚めたことをお伝えしておきますね」
「……あの、みか──美香里は?」
「妹さんですね。病室の外にご両親と一緒におられますよ」
「いもうと……」
看護師さんが私の乗った車椅子をスムーズに押している。病室には他にはベッドは見当たらない。つまり、1人部屋の病室ってこと?
病室の扉を看護師さんが開けると、目の前につかおじやおばさん、そして美香里が長椅子に座っていた。私の姿を見るなり、つかおじ達が駆け寄ってくる。
「理恵果、意識が戻ったのね」
「理恵果。具合はどうだ?」
「りえりん!!」
突然の呼びかけにビックリした。看護師さんが、つかおじ達に「お静かに」と伝えている。みんなが車椅子に座ってる私を見て心配そうにしている。
「りえりん、車椅子って……歩けないの?」
「まだ意識が戻られたばかりです。病室内のおトイレまで理恵果さんをお連れしますので。みなさんは、病室の外の長椅子に掛けてお待ちください」
「私も傍にいたい!」
「美香里さん、お静かに。すぐに終わりますから大丈夫です。お戻りになっていてくださいね」
「りえりん……」
涙声の美香里は、つかおじとおばさんに連れられて仕方なく病室を出ていった。看護師さんが私をトイレの中へ運んでくれる。なんか車椅子のままトイレっていうのも初めてで、付き添いの人がいるっていうのも何かヘン。
洋式のトイレの個室に、点滴されたまま入った。目の前には看護師さんがいる。着ているものをパサッとたくし上げる時に、お尻と腰に違和感があった。手で触れてみると、包帯みたいな柔らかい感触があった。
「……包帯……?」
「怪我をしていたので、治療をしたんですよ。後で包帯を取り替えますからね」
「怪我……」
「ずいぶんと辛い思いをされたみたいで」
「……」
「とりあえず、おしっこしてみましょう」
「はい……」
「尿カテーテルを取った後は、おしっこの時に痛みを感じる事がありますから。理恵果さんは数日間意識がなくて、その間は私がお世話をしていました」
「……今日は、何日ですか?」
「12月30日です。もうすぐ、お正月ですね」
「……30日……?」
「はい。皮膚科の病院であなたが倒れられてから、この病院に搬送されて……そのまま入院でしたね」
「……」
少しふらつきながら腰掛けると、便座が冷たい。少しいきむと、ちょっとだけおしっこが出た。確かに、なんか少し痛い感じがする。痛いって言うか、ヘンな感じ。看護師さんは、私が自分で排尿が出来たのを確認すると安心したような顔をしている。
「ご自分で出来るみたいでよかったです、導尿の必要はもうないでしょう」
「どうにょう?」
「管を膀胱に直接入れて、排尿をするんですよ」
「なんか、痛そう……」
「理恵果さんは、入院された日から今日まで導尿していましたよ。意識が無かったので痛みを感じなかったんですよ」
「……」
「それじゃあ拭いてから流しましょうか」
「はい……」
「戻ったら、ご家族とお話して、それから包帯の交換をしましょう」
「わかりました……」
少し呆然としながら、自分で陰唇をペーパーで拭いた。水は看護師さんが流してくれた。点滴の管が絡まないように、気を使ってくれている。
「ベッドへ戻りましょう。さあ、車椅子へどうぞ」
「はい」
ゆっくりと車椅子に座らせてもらう。ずっと寝ていたから、体がだるくて重たい。今着ているものは、浴衣みたいなピンク色ので、看護師さんが「病衣ですよ」と名前を教えてくれた。オフホワイト色の床の上をゆっくりと車椅子が進んでいる。そういえば、前に学校で美香里を車椅子に乗せて運んだ事があったっけ。あの時はけっこう力を使ったんだよね……。
「重たくないですか?」
「先ほども聞かれました。大丈夫ですよ、床は滑りもいいですし」
「前に、美香里を車椅子で運んだ事があって……その時、けっこう重たかったから」
「そうだったんですね。でも、大丈夫ですよ。これでも力はあるんです、脂肪の力ですけど」
そういって冗談交じりに腕に力こぶを作って笑う看護師さんは、ちょっと面白いなって思った。脇に紺色ラインが入った半そでの上着にズボン。髪は後ろで綺麗にまとめられている。胸ポケットには、ペンとか色々な物を入れている。ネームプレートには「青木」という文字が書かれていた。
「さあ、ベッドに移りますよ」
「青木さんっていうんですね」
「はい、退院までお世話させていただきますので、よろしくお願いします」
青木さんは私をベッドに寝かせると、脈拍や血圧などの数値を記入している。包帯を取り替えてもらう時は、なるべく見ないようにした。それから点滴の速さをチェックしたり、針の位置を確認したりした後に「ご両親と妹さんを呼んできますね」と言って、病室の扉まで歩いていった。
「りえりん!」
「……みかりん」
「理恵果……」
病室につかおじやおばさんが入ってきて、私をじっと見つめている。看護師さんが、「点滴の交換の準備をしてきますね。お話は構いませんが、軽めにお願いします」と言って病室を出て行った。美香里が私の手を、ぎゅっと握ってくれるけど痛い……。
「みかりん、手、ちょっと痛いよ……」
「あっ、ごめん……。えっと、藤堂理恵果さん」
「え?」
「ほら、自分の右手首を見てみて?」
「手首……あ」
気づかなかったけど、右の手首にプラスティックのバンドみたいな何かが巻かれていた。よく見ると、バーコードが印刷してあって、その下に名前が書いてあった。美香里の言うとおり、「藤堂理恵果」と書かれている。
「……藤堂……」
「そっ、りえりんは藤堂理恵果なんだよ?」
「理恵果、あの時は強引なやり方で聞き出してしまって、すまなかったな」
「つかおじ……?」
「理恵果? あなたが倒れて意識がない間に、色々と動きがあったのよ」
「色々……動き?」
「先ほど理恵果の意識が戻った事を知らされてね、それであちこちに連絡を入れていたのだよ」
「連絡? ちょっと待って……頭が混乱してて、よく分かんない……」
「あっ、すまん。理恵果はまだ意識が戻りたてだったな」
「りえりん、ここは隣町にある総合病院だよ。10日くらい、ずっと眠りっぱなしだったんだよ?」
「……終業式は?」
「もう学校は冬休みで、明日は大晦日だよ」
「……冬休み……」
「理恵果。少しずつ、ゆっくり話すから聞いてくれるか?」
「うん……」
つかおじとおばさんは、病室にある椅子に腰掛ける。美香里だけは傍で手を軽く握ってくれてて、それが何となく安心する。
「理恵果。まず、実の母……その名前を言っても大丈夫か?」
「……うん」
「気分が悪くなったら言うのよ?」
「うん……」
「母の名は理名子。彼女は、警察署で取調べを受けた」
「……」
「どうだ、名前を聞いて、緊張したりしてるか?」
「……ううん。大丈夫みたい」
「そうか、良かった。もう一度言うが、理名子は自分のした事を認めたんだ」
「……」
「警察が動いて、捜査したようだ。そして、失踪していた父親も見つかって、同じく取調べを受けたんだ。ここまで聞いて、気分とかは悪くないか?」
「……そっか、見つかったんだ……」
「自分の子供を虐待した事が明るみになって、起訴されて有罪になった。彼女は親権を剥奪されたよ。父親のほうもね」
「……」
つかおじは一旦話すのを止めて、ペットボトルのお茶を飲んだ。おばさんが頭を撫でてくれて「ちょっと考えてみて。ゆっくりでいいから」と言ってくれた。親権を剥奪された……つまり、私を育てる事が出来なくなったってこと? 続きを聞きたくて、つかおじに向かってコクンと頷いた。
「警察や検察、裁判所などで色んな動きが活発にあった。先ほど連絡をしたら、お前の容態を見計らって、関係者の人達が話を聞きに病室に来ると言っていた……その時は話せそうか?」
「お前……」
「お父さんの中では、あなた達の事は、もう娘なのよ。私もだけど」
「話は……みかりんがいてくれるなら」
「その美香里の受けた傷害についても、動きがあったのよ」
「そうなんだ……みかりん。頭の傷は、もう大丈夫?」
「うん、もう治ったよ。心のほうは、もう少しかかりそうだけどね」
「関係者の人達は話を聞きに来る時、美香里の受けた傷害や母親の事についても色々と聞きたいそうだ」
傷害……確かに美香里を虐めていた事は、虐めって言葉じゃ足りない気がする。千和達の事を考えようとすると、少し頭が痛い。つかおじが一呼吸置いて、再びゆっくりと続きを話し出した。
「名前を聞くだけで、卒倒して数日間も意識を失う。そして、横腹やお尻には虐待の痕。幼児退行してしまう程のトラウマ。理恵果、受けた傷は深いが、ゆっくり治していけばいいと思う。私達がついているからな」
「……うん」
「理恵果、学校の保田先生から心療内科の紹介状を書いてもらったでしょう? この総合病院には、心療内科も皮膚科も婦人科もあるから、薬の事も大丈夫だし体の傷も心の傷もここで治していくのよ」
「…………」
「それから、実費でかかっていた婦人科や皮膚科での費用は理恵果、お前の両親に請求した。領収書をもらっていたからね」
「保険証も、使えるようになるのよ」
「事が急だったので暫定的だが、今、お前の苗字は藤堂になっている」
「暫定的……?」
「本来なら、手順を踏んで進めるのだが。理恵果がこの病院に入院した時点で、検察や裁判所の方も事の重大さを鑑みてそう判断したんだろう」
「……」
「退院して裁判所で手続きを済ませれば、戸籍上の苗字が藤堂になる。今、私が持っているお前の保険証の名前は、まだ高梨だがね」
「そうなんだ……」
つかおじやおばさんの言った事を頭の中で整理する。つまり、今、私は仮の藤堂っていう苗字になってるんだよね……。そして美香里の受けた虐め……傷害の事も進んでる。それから病院で色々と治療をする……。いつまで入院するんだろう? そんな事をあれこれと考えていたら、疲れてきてしまった。
「りえりん、顔色がよくないね」
「……なんか、ちょっと眠たくなっちゃった」
「いっぺんに話しすぎたわね。ごめんね、理恵果」
「ううん……ちょっと目を閉じてもいい?」
「あぁ、すまない。私も少し話しすぎたな……」
「りえりん、おやすみ。また来るからね」
「うん。ありがとう」
つかおじ達が席を立って病室の外へ出て行った。耳に残っている色んな事柄を考えようとしたけれど、だんだんと意識が薄れていってしまった。
*
入院してから数日がたったある日、私の病室にスーツを着た男の人や女の人が訪ねてきた。その人たちは、自分たちの事を警察や児童相談所、学校の者と名乗った。どこかで見覚えのある顔かと思ったら、高校の副校長の嶋田先生と、養護教諭の保田先生だった。
ベッドの傍には、私を見守るように看護師の青木さんが立っている。数人の大人たちが入ってきた事で、病室は俄かに騒がしくなった。私の気持ちを察したのか、青木さんはベッドの上で枕を背もたれにして、上体を起こしている私の肩に手を置いた。ベッドの反対側には、美香里が緊張気味に椅子に座っている。手は美香里と繋がっている……その青木さんと美香里の存在が私を支えてくれる。
「看護師の青木です。お話は構いませんが、理恵果さんの負担にならないよう願います。体調に変化が見られた時は、場合によってはお話を中断させていただきますのでご了承ください」
「分かりました。高梨理恵果さん、初めまして。児童福祉司の滝本です」
「同じく児童福祉司の秋山と申します」
「警察署の生活安全課の川口です」
「高梨さんですね、副校長の嶋田です」
「養護教諭の保田です。高梨さん、具合はどう?」
青木さんと私と美香里を合わせると、病室には8人もいる。見知らぬ人の姿を見ると、けっこう緊張する。それが分かってたから、私は美香里に傍にいて欲しかった。意識が戻ってから、体力も少しずつ戻ってきて食欲も出てきている。でも、初対面の人が病室にいると、ちょっとね。保田先生だけは、色々と話したりしてたから少し気は楽かな。
「みかりん。な、なんか緊張するね」
「う、うん。何か感じたら、手をぎゅって握ってね」
「ありがと。青木さん、傍にいてください」
「もちろんですよ」
「高梨理恵果さん。児童福祉司の私達からお話してもいいでしょうか?」
「は、はい」
「すみません、病室に大勢で押しかけてしまって。でも、これは大切なお話なので」
「はい」
今はお昼を食べ終わって少し経った、午後2時くらい。病室に差し込む窓からの日差しは、カーテンに軽く遮られて柔らかい感じになっている。
滝本さんは、ネクタイを軽く締めなおして私に向かって話し始めた。その話す内容を警察の川口さんが書き記している。グレーのスーツにタイトスカートを着た秋山さんは、バインダーから書類をいくつか出してチェックしている。
青木さんが教えてくれたのを思い出した。それは、私が1人部屋の病室になった理由だった。後々こういう話し合いが出来るように病院側に、警察や児童相談所から働きかけがあったみたい。私はベッドテーブルに置かれた、マグカップに口をつけてお水を一口飲んだ。