私たちのこと
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「あら、長谷川さんと高梨さん。遅刻ですか?」
「高梨さんが体調が良くなくて、保健室で休んでいたので付き添いをしていました。すみません」
「ああ、そういうことなら仕方ないですね。席について続きから授業を受けてください。岩崎さん、教えてあげてね」
「はい、栗原先生。美香里、ここの行書の所だよ?」
「ありがとう。理恵果、行書のページだって」
「うん。ありがとう」
かすかに墨汁の匂いが教室に漂っている中、私と理恵果は席について準備をする。ふと時田君と目が合ったけど、彼はすぐに半紙に目線を戻して黙々と筆を動かしている。
学校の授業以外に毛筆を持つ機会って普段の生活ではほとんど無いから、そういう脳に刺激を与えてくれる書道は新鮮でけっこう面白いと思う。みんな思い思いの好きな字を書いている。私は敢えて変体かなにしてみた。
変体かなは行書をさらに崩した一筆書きのような書き方をする。お蕎麦屋さんやお団子屋さん、うなぎ屋さんなどは今でも変体かなの文字を使っているみたい。
教室に入ってくる時に見た知佳の前の席、つまり一番前の席の佐藤茜さんの字はとても綺麗で上手だった。『正鵠』と行書で書かれた文字に佐藤さんの真面目で細やかな性格が出ている気がする。
隣の時田君は『合氣』と、自分の入っている合気道の部活の名前の2文字が書かれていた。私が見ているのに気がつくと「なんだよ?」と言いたげな視線を送ってきて、それに「別に?」と小首を傾げてみせた。
5時限目の書道が片付けを含めて10分前に終わった。それぞれ書いた半紙を栗原先生に手渡して行く。私は『ほうき』と書いた半紙を持って、教壇にいる先生に手渡した。ほうきというのは、掃除に使うほうきのではなくて、若い女性の年をいう芳紀という意味である。昨日、理恵果の16歳の誕生日だったので、それが頭に浮かんだから書いた。
理恵果はだるそうな歩き方で、栗原先生に半紙を渡していた。
授業の終わりの号令を学級委員の佐藤さんがかけ終わると、紺色のパンツスーツ姿の先生は皆の作品を手にして教室を出て行った。書道で集中していた皆の緊張が解れて、教室ががやがやと賑やかになりつつある。
「あぁー。あと次の6時限でおわりだぁー。なんか眠たくなってきた」
「知佳の頭が時々こっくりしてたから、眠いのかなって思ってた」
「美香里はなんて字を書いてたの?」
「私は、ほうき」
「え、ほうき? 掃除のほうき??」
「じゃなくて。うちらくらいの年の事を芳紀っていうんだって」
「へぇー。美香里は物知りなんだ」
「昨日、理恵果の誕生日だったから何となく調べてたの。知佳はなんて書いたの?」
「一射入魂」
「それはどういう意味なの?」
「何となくは分かるんだけど。弓道場にそういう板みたいのがあったから、弓を射る時の気持ちとかかな」
「知佳は弓道部だったっけ。6時限の後に部活するの?」
「うん。でも何か、だるーい」
「だるいって言えば……理恵果?」
私は後ろを振り返って理恵果を見ると、机に伏している。けっこう辛そう……。
うちの高校は休み時間が20分と長めにある。6時限目が始まるのは15:20だから、それまで寝させてあげようと思った。
6時限目があるのは今日の月曜と水曜で、木曜日はLHRになっている。HRの長いバージョンみたいなもので、色々な話し合いとか決め事をクラスでする時間だ。
部活動は月曜日と金曜日の週2日になっている。私と理恵果は部活をしていないので6時限目が終わったら帰れるのだけれど、今日は加藤先生から職員室に来るように言われている。それを報告し終わればやっと下校だ。
午後の休み時間の教室は、まったりとした雰囲気になっている。理恵果のように机に伏して寝ている子もいれば、ほーちゃんのようにお菓子をつまむ子やスマホをいじる子、お喋りに花を咲かせたりトイレに行ったりと人それぞれだ。隣の時田君が、手首を何やらぐにぐにと曲げている。痛そうだなぁ、なんだろう?
「時田君、その手首をぐにぐにしてるのは何なの?」
私の呼びかけに時田君が横目で私を見てすぐに視線をそらした。手首、すごい太いんだね、男子って……と思った。私の手首回りは14cmくらいしかない。でも、時田君の手首は私の痩せている二の腕よりもありそう。
「あぁ、これな。無意識にしちゃうんだよ」
「そうなの? なんか痛そうだけれど、何なの?」
「合気道の稽古の前に手首その他の柔軟を入念にするんだよ。これをしないと怪我するぜ」
「はー……。なんか凄そうだね」
「まぁな。長谷川は部活してないんだよな。いいよなあ、早く帰れてさ」
「私と理恵果は帰った後に自分たちでごはん作ったり掃除したりするんだよ?」
「え? お前らって親が共働きとかか?」
「んんー、そうじゃないけど」
「なんだ、はっきりしない物言いだな」
「んーっ、これでも色々大変なんだから!」
「なに怒ってんだよ、俺なんかしたか?」
「別に」
時田君に非があったりするわけじゃないし、私と理恵果の事を知らないのは当たり前で仕方ないのに、どうしてか少し怒り気味に言ってしまった。なんでだろう?
「ごめん、時田君。ちょっと色々あってイライラしてただけだから」
「まぁ別に良いけどな。運動不足とかじゃねぇの?」
「そうかも……ね」
「合気道はすげえ体力使うんだよ。よくインチキとか言われるけど、やってみないと分からないものさ」
「ふぅん……なんかそう言ってる時って、目がキラキラしてる気がする」
「キラキラって……あのな。ま、合気道は面白いぜ。長谷川も部活やってみりゃ良いんじゃねぇの?」
「……んー時間あればなぁ」
「上手い先輩の技とかすげえから。雷が落ちたような痛みが走るぜ? だから柔軟第一さ」
そう言いながら両方の手首をあちこちに曲げたりしている時田君。部活かぁ、私も何かしてはみたいと思うけど、それをしていたら帰る時間が遅くなっちゃってごはんも作れない。お風呂が遅くなる、寝るのが遅くなる、そして遅刻……。それはイヤだなあ。
ふと後ろから指で背中を突かれたので、振り返ったら理恵果がだるそうな表情で頬に手を当てて私に向かって口を動かしている。別に読唇術はないけど、その2文字で大体わかった。
「美香里のそのトラウマって、治らないのかなぁ」
「うーん、自分でも分からない。ただ、何かトイレやセーラーの襟に関係してる事があると不安になったり怖くなっちゃうんだよね」
「やっぱりあの時の……かな。んー、私の幼児退行もだけど、病気なのかな?」
「保田先生は何か心療内科とかが良いって言ってたけど、この町には病院が無いんだって。隣街までいかないとだって」
「そうなんだ……。私も美香里も大体は夜中とかに起こったりするじゃん? 睡眠と何か関係あるのかな?」
「どうなんだろね。病院行くのだって、保険証ないとだし」
「だねー。そう言えば、さっき時田となんか話してたけど?」
「部活の事を聞いただけだって。手首くりくりしてたから」
「ふーん?」
「何ニヤニヤしちゃって。そういうのじゃないってば」
「ほほー」
「んもう! 理恵果ってば」
「ふふーん、むきになっちゃって……さては気になる人がいるっていうのは時田だったり?」
「知らないっ」
私たちは女子トイレで用を済ませて手を洗いながら喋っていた。今は誰もいないので、こういう話ができる。時田君の事は置いといて、うちらの症状の事は相談しても治るものじゃないし……やっぱりお父さんやお母さんに頼んで、一度診てもらった方がいいのかな。
*
6時限目が終わり、帰りのHRで加藤先生から連絡事項を聞いたりプリントをもらったりした。ほーちゃんや知佳、めぐっちはそれぞれ部活があるので私たちは手を振ってバイバイをして教室を出た。ちなみにほーちゃんは写真部で、先輩に1眼レフのカメラの仕組みや写真の撮り方を教わっているそう。写真ってスマホですぐ撮れるのに、1眼レフって何がどう違うんだろうね。
職員室まで加藤先生について行く。時田君は通学リュックと部活で使うのかな、柔道着っぽいもの等が入った大き目のサップサックを背負って早々と教室からいなくなっていた。
通りすがりに廊下や階段ですれ違う生徒たちは、部活の準備をしにいく人たちや帰宅する人など様々だ。
教室のある校舎から東側の連絡通路の途中には昇降口がある。多くの生徒たちが行き交う中、私と理恵果は通学リュックを背負って加藤先生の後をついて歩いている。上級生とすれ違うときには、会釈礼をする。
この冬の時期になるとオープンスクールが開かれて、中学生の団体が見学に来たりする。去年の冬には、私も理恵果もオープンスクールでこの学校を見学したっけ。
12月になると期末試験がある。その間は50分から45分に授業時間が減り、テストが終わってから終業式までは、そのまま45分授業になり部活動も無くなる。
「あぁー。期末かぁ……美香里は勉強自信ある?」
「あはは、数学がヤバいよ。早退したりしたから、おうち帰ったらそろそろ勉強に集中しないとだよね」
「私は英語かな。知佳の言うとおり、どうして英語を勉強しないといけないんだろ?」
「んー……。今習ってる科目ってさ、卒業して社会人になったりしたら役に立つものなのかな?」
「英語は要らないと思うなぁ。実際、英語は小学生から勉強しているけど、もしも外国の人に話しかけられたら答えられる自信ないよ」
「それは私だって」
「美香里、英語得意なのに?」
「うん。文法とかそういうのは何となく大丈夫そうなんだけど、本当の英会話ってなるとパニクってしまいそう」
そんな事を話しながら歩いていって職員室に着くと、加藤先生が扉を開けて自分の机の椅子に座って何やら探し物をしている。その間、私たちは職員室のドアの所で立って待っていた。加藤先生がいくつかのファイルを持って隣の校長室へ入っていった。「なんだろね?」とお互いに顔を見る。
「長谷川、高梨。先生の後についてきてくれるか?」
「「あ、はい」」
加藤先生は開いている校長室のドアの所に立って、私たちに向かって手招きをしている。
校長室? なんだか事が大きそうな気がする。
滅多に入る事の無い校長室へ入ると、歴代の校長先生の写真が壁に飾られていたり、校訓の書かれたものが校長先生の背後の壁に掛けられている。
立派そうな机の椅子に27代目の勝間田義郎校長先生が、柔和な笑みを浮かべて落ち着いた雰囲気を出しながら腰掛けている。この甘音高校は、なんでも明治時代に建てられて、その頃から生徒たちが勉学に勤しんでいたという。長い歴史がある高校なんだね。
私たちは、ちょっと緊張気味だ。加藤先生が校長先生に話しかけている。気づかなかったけれど学年主任の今井先生も居た。
「高梨理恵果君、長谷川美香里君、そこのソファーにかけなさい」
「「はい」」
わぁ、なんか緊張する。恐る恐る長いソファーに腰掛けると加藤先生が隣に座ってきた。校長先生が落ち着いた所作でソファーまで歩いてくると、ゆっくりと私たちと向き合う様にソファーに座った。加藤先生が持っていたファイルを開いて話し始めた。内容は思っていた通り、私が母に捨てられて現在、理恵果と一緒に藤堂の家の離れに一緒に住んでいる事、そして理恵果の幼児退行と私の虐められた時のトラウマの事などだ。
「……という事情が長谷川と高梨にはあるのですが」
「ふうむ、なるほど。2人とも両親と疎遠ということですか。んー、長谷川君?」
「はい」
「今、君が住んでいる藤堂のお家の方は、どんな感じですか?」
「え、ええっと、私は中学生の時に、その……いじめにあってトラウマとか、父が病気で死んでしまってから母と色々あって、その、捨てられました」
「ほうほう、なかなか複雑ですね。あと、私が聞きたいのは、藤堂のお家の人の事なんです」
あれ、私、緊張してる? お父さんとお母さんの事を校長先生は聞いているのに、父や母の事を話しちゃった。
「あ、藤堂のお父さんとお母さんの事でした。すみません」
「いやいや、そんなに緊張しなくてもいいですよ。藤堂のお家の方は、長谷川君の今話してくれた事情に対してどう思っているか、分かりますか?」
「えっと、お父さんとお母さんは、親権について母の家で協議をしていました」
「なるほど。長谷川君の事を養女にしたい、ということですかな?」
「はい……私は藤堂家の子供になりたいです」
「それについて、長谷川君は自分のお母さんときちんと話をしましたか?」
今度は答えに詰まってしまった。あの時、私は理恵果と一緒に車の中にいたから母の目を見て話している時間がなかった。緊張して思わず隣に座っている理恵果の手を握った。
理恵果は緊張で汗ばんだ私の手の感触を確かめると、少し頭を前に出して校長先生に向かって話し始めた。
「校長先生、私は自分の母から暴力を受け続けて、それで時々子供の人格に戻ってしまう事があるんです。その母とは会っていません。父もずっと見てません、見たくないです、母も。隣の美香里が協議の時に子供になった私を、ずっと受け止めていてくれたんです。だから美香里は自分の母とまだ会ってないんです」
校長先生は理恵果の話を聞きながら、机を指でトントンと叩きながら考えているみたいだった。おもむろに背広の内ポケットから万年筆かな、それと手帳を取り出してメモを書き始めている。
加藤先生が私たちに尋ねた。
「長谷川、高梨。お前たちのご両親は君たちの事をどう思っていると思う?」
「えっ……」
答えに詰まった理恵果が私を見る。お互いの親からされた事はよく話し合ったけど、親が自分たちをどう考えているかは深く話し合ったことは無かった、特に理恵果の母は。……母は私をどう思っているんだろう? 私を要らないという以外の何かはあるのかな? そして理恵果のお母さんは理恵果をどう思っているんだろう?
理恵果の母は自分の子供にひどい暴力を振るっていて、お父さんは行方が分からない。私自身も捨てられて理恵果とは同じような身の上だ。
「理恵果は人格が変わってしまうと、考え方まで変わってしまうんです。それを治すのにも保険証がいるけれど無くて……病院で治療が受けられないんです! それは私が傍にいて一番分かってるつもりです!」
「美香里はお父さんを病気で失って、お母さんから捨てられて……そんなの可哀相すぎるじゃないですか! それに夜中に酷く悪い夢に魘されて涙を流すほど辛い思いをして……」
ついつい感情的になって喋ってしまって、理恵果もそれにつられてしまっていた。いつの間にか2人の目に涙が浮かんでいた。
「理恵果が子供の人格に戻っている時に、辛い気持ちを教えてくれました。理恵果の母は子供の理恵果の手や足を痛めつけたり、言うことを聞くように脅かしたり、頭をばしばし叩いたり……体、蹴ったり、外へ出そうとしたり……それを大切にしていた、くまちーのぬいぐるみを使って……」
「えっ……私、美香里を叩いたりしたのはおばさんから聞いたけど、私、そんな事を言ってたりしたんだ……」
「きっとあまりにも辛いから、理恵果は心の奥深くにしまってあったのを、幼児化した時に思い出して私に教えてくれたんだと思うの」
「そう……ごめん、美香里。あと、教えてくれてありがとう」
「理恵果は悪くないんだから。あれだけの酷い仕打ちをされたら、私だって理恵果みたくなってたと思う」
お父さんとお母さんが協議している間に起こった、私と幼児化した理恵果との事を初めて聞いた加藤先生は、その内容に酷く驚いているようだった。
「長谷川の母の事、高梨の幼児化した時の状態は分かった。でも、今聞いているのは、両親がどう思っているか。それを校長先生も聞きたがっている」
「私の事をどう思っているか、なんて……私を捨てたんだから要らないと思ってるんだと思います」
無意識にぎゅっと手に力が入ってしまって、理恵果と手をつないでいる事を忘れていた。私がごめんねと謝ると「大丈夫だよ、美香里」と答えてから、加藤先生の方に顔を向けて話し出した。
「加藤先生、先生は親から捨てられた事ありますか? ないですよね? 今、美香里から手を握られて私の手も痛い。この痛みの意味、分かりますか? 捨てられた美香里の辛さを! いじめられた辛さやトラウマの夢の悲しみを……!!」
「高梨……」
感情がはじけて理恵果が校長室に響き渡るくらいの大声で、涙を流しながら叫ぶように話していた。それが私の事を想っての事だという事を私は痛いほど分かる。少々圧倒された加藤先生が私たちを目を見開いて凝視している。その時、校長先生が私たちの激情をやんわりと受け止めるような、落ち着いた口調で話し始めた。
「まぁまぁ、君たちの言いたい事は大体分かりました。困っているのは、君たちの病気の治療、と表現して正しいかは分からないですが、要するに病院にかかれる様になりたい。そういう事ですかな? それと親権を藤堂家に移して欲しい、つまり、今住んでいる藤堂家の離れを実質的に自宅としたい、と」
校長先生の言っている事は、私たちが欲している事を理解している感じがした。あんなに感情的に話してしまったのに、ちゃんと気持ちを分かっていてくれていたんだ。嬉しかった。
その時、今まで私たちの話を黙って聞いていた学年主任の今井先生がぽろりと言った。
「長谷川君のお母さんはね、今、病気に罹っているようですよ? なんでも統合失調症という病名だそうです」
「……!」
今井先生の言葉が私の胸を貫いた。お父さんお母さんからも聞かされていなかった母の事を予想外の人間から聞かされた私は、魔物の呪いをかけられたように何も言えず、動けなくなってしまっていた。理恵果も知らなかったみたいで、ぽかんとしていた。