帰ってきたもの
---------16----------
「美香里……」
どこからか声が聞こえる気がする。体が重たいような感じで、手もしびれているようで感覚がない。たしか……幼児退行した理恵果のげんこつに息がむせていて……。
「美香里……みかりん?」
別の声が聞こえる。理恵果は私のことをあだ名でそう呼ぶときがある。……みかりん?
「ん……」
「あ、美香里の意識が戻ってきたみたいね」
「みかりん、みかりん?」
意識がはっきりしない。少し目を開けると白い天井が少し見える。白い、天井? ここは車の中なのかな。でも、すごい広くて私を支えている柔らかい感触はベッドに近くて。
もう少し大きく目を開くと、目の前に2人いるのが分かる。ぼんやりとしていて、よく分からないけど私を呼んでいるのが聞こえる。
「りえりん……。お母さん……」
「みかりんがおばさんを、お母さんって呼んでる?」
「ええ。理恵果が幼児退行していた時から、美香里は私の事をそう呼んでくれてるわ」
「そうなんだ、いつの間に……」
「美香里、起きられる?」
左手に優しい温もりを感じる。お母さんの手だ。その手に自分の右手を重ねようとしたけど、どういうわけか右腕の感触が無い。左手は感覚があるけれど、右腕が全然動かない。あれ? 自分の右肩を見ると、ちゃんと右腕はついてる。きっと手もある。でも、感覚が無い。
「お母さん、右手が……動かせない」
「ちょっと右腕を見せてね、美香里」
「みかりん……」
理恵果が心配そうに私を見ている。お母さんは私の寝ているベッドに、そう私はベッドに寝ていた。離れの洋間の自分のベッドにパジャマ姿で寝かされていた。っていうことは、私はあの車の後部座席にいる間に気を失ってそのまま……?
「今、腕をさすってるけれど、感じはある? 美香里」
「……ない」
「右手を握っているけれど、どう? みかりん」
「……何も」
「もしかして美香里、自分の体の下に腕を置いていたのかしら? 血管が圧迫されているのかもしれないわ。理恵果も、美香里の腕や手をさすってあげて?」
「うん。みかりん、腕をさするからね?」
2人が私の腕をさすっているのが目に映る。最初は何も感じなかったけれど、だんだんと右腕が温かくなって血が流れ出すような不思議な感覚がする。腕全体が欲しがっていた血がきた事で喜んでいる声が聞こえる気がする。
だんだんと痺れがとれてきて、腕に感覚が戻り始める。何だかピリピリというかジンジン痺れるというか、言葉にならない感じ。
「お母さん、何だか腕に感覚が戻ってきたんだけど……痛いような感じ」
「きっと、血の巡りが戻ってきたのよ」
「あいたたた……すごいピリピリしてる……んーっ」
あまりのピリピリ感に身が悶えてしまう。これって辛いね。
「みかりん、なんか痛そうだけど大丈夫?」
「うん。そのうちに治ると思う……りえりん? りえかちゃん?」
私は感覚の戻ってきた右腕を自分の左手でさすりながら、理恵果を子供の名前で呼んで反応を確かめた。
「りえかちゃんって……。うん、そうだよ? 退行から戻ったんだよ?」
「今、何才?」
「今度の18日で16だよ? みかりん」
「……そっか。退行治ったんだね、よかった」
「美香里、あなたは3日くらいずっと寝ていたのよ? 理恵果もあなたよりも少し早く目が覚めたの」
「そう……そんなに気を失ってたんだ、私」
不意に理恵果がベッドに寝ている私に抱きついてきて涙を流し始めた。
「ごめんね……みかりん。私、強くみかりんを叩いちゃって。おばさんから、みかりんが鼻血を流してた事を聞いてすごく胸が痛かった。本当にごめん……」
「りえりん……」
「退行しちゃったとは言っても、みかりんに当たる事なかったのに……」
「大丈夫だよ。りえりんが自分のお母さんの事を、どれだけ想ってたかを分かる事が出来たんだから」
「でも……でも」
理恵果が私に覆いかぶさりながらぐすぐす泣いている。私を叩いていた記憶はないんだ……。幼児退行でどの辺りまで記憶にあって、どの辺りまで記憶がないかは分からないけど。4人でテーブルで朝ごはんしたのは、覚えているのかな? そんな事を考えていた。泣いている理恵果の頭を撫でながら、この子の退行がいつかなくなるように願った。
「……りえりんは、何も悪くないよ。あ、お母さん。もうさすってくれなくても大丈夫、ありがとう」
「良かったわ。もう少し長く圧迫されていたら、ちょっと危なかったわね」
「うん、気をつけるね。って言っても、気をつけようもないんだけど。ん……まだ少しピリピリしてる」
「みかりん……」
「本当にたまにこうなるんだよね、私。りえりん……ずっと上に乗られてて重たいよ。もう大丈夫だから」
「本当に? みかりんの大丈夫は大丈夫じゃない事が多いから……」
「本当に。右腕もやっと動くようになったし。お母さんやりえりんも、よく見えるようになったから」
「美香里、起きられる?」
「うん、お母さん」
ゆっくりと自分のベッドから体を起こした。少しめまいがあるけど大丈夫そう。
「お父さんがね、美香里をここまで運んだのよ。着替えとかは私や理恵果が手伝ったから安心してね」
「ついでに、みかりんのアレも替えといたからね」
「……りえりんが?」
「うん。もう、あんまり出てなかったから、そろそろ終わるんじゃない? そういえばみかりんっておばさんをお母さんって呼ぶんだね」
「うん、小さなりえりんが背中を押してくれたの。覚えてない?」
「うーん……私、みかりんにそんな事言ったんだ? おばさんからは私が幼児退行してる時に呼んでたって聞いたけど」
「……そうなんだ、りえりんは記憶が所々落ちているかもしれないね、きっと」
「かもしれない。私自身もよくわからないもん。記憶もあいまいなんだ……」
そう言って私から離れる理恵果は、普段着だった。髪は下ろしていて日差しに当たって天使の輪が出来ている。髪のお手入れは上手になっているみたい。幼児退行が治まったのか、表情も仕草は幼さがない。
右を向くと出窓からの日差しが眩しい。エアコンも効いているようで部屋全体も暖かい感じ。
「美香里、お腹はすいている? 何か食べられるかしら?」
「んー……あんまり。でもスープくらいなら」
「それじゃあ、ポタージュでも飲む? 粉末のインスタントのだけれど」
「うん、飲む」
「それなら私が作るよ、みかりん。すぐに出来るから、持って来るね」
「ありがとう、りえりん」
ぱたぱたとスリッパの音を立てて、理恵果がキッチンの方に歩いていく。それを見たお母さんが、何やら私の通学バッグから袋を出している。何だろう?
私が首をかしげながら見ていると、お母さんがベッドまで戻ってきて、その袋を私に手渡した。
「はい、これ。美香里のでしょう?」
「なにこの袋?」
「開けてごらんなさいよ」
「なんだろう?」
がさごそと袋を開けて中身を手に取った途端、何だか懐かしい匂いと感触が伝わってきた。
「これ……サリサリだ! お母さん!」
「ふふ。ちゃんとあったわよ? 美香里」
「わぁ……本当にサリサリだ」
理恵果のくまちーと同じくらいの大きさのぬいぐるみのサリサリは、少しほこりをかぶった匂いがした。持ち主の所に再び戻ってきたサリサリの顔を、久しぶりに見て思わず抱きしめた。
「私のサリサリだ……。よかった、まだあって」
「美香里の部屋の机の中に入っていたの。その時は汚れて埃をだいぶかぶっていて、洗おうか迷っていたんだけれど……美香里の気持ちを大切にしたいから、そのままにしておいたの」
「ありがとう、お母さん。サリサリは後で手洗い用の洗剤で洗うね」
懐かしいな……。小学生の頃に理恵果と一緒に行ったテーマパークで買ったサリサリのぬいぐるみ。あの時はまだ、お互い小さかったなぁ。よくランドセルにつけて学校に行ったっけ。
あれこれ懐かしんでいると、お盆にポタージュスープの入ったマグカップを持った理恵果が戻ってきた。
「あっ! みかりん。それ、サリサリじゃん!」
「うん。お母さんが持ってきてくれたの」
「そっかぁ、よかったじゃんー。これで通学バッグに付けられるね。あ、あと私と一緒の通学リュックにしたいね」
「そうだね。りえりんのくまちーは……」
途中で言いよどんでしまった。くまちーは理恵果が目や足を引っ張ってしまって、可哀相な姿になっていたのを思い出した。覚えているのかな、自分でくまちーを壊してしまった事を。私が悲しそうな表情で理恵果を見つめると、察したようだった。
「みかりん、くまちーの事を心配してるの?」
「えっ、うん。その、くまちーは……」
「ちょっと待ってて」
そういうと理恵果は一旦お盆をローテーブルに置いてから、自分の通学リュックからくまちーを取り出して私に見せた。あれ、目や腕が直ってる?
「りえりん、そのくまちー」
「……うん。おばさんが直してくれたんだ」
言いながら理恵果の表情が曇った。もしかしてお母さんから聞いたのかな、自分がしてしまった事を。
あの時は、どうしようもなかった。自分の耐え難い気持ちをくまちーに投影してた。思い出すと胸が苦しくなる。
「りえりん……」
「よく覚えてないけど、自分でしちゃったんだよね」
「そうだけれど、あの時のりえりんは……」
「いいの。おばさんにも言われた。気にしなくてもいいって」
「うん……」
「私は新しいのは欲しいって今は思わないよ。だってこれは私の宝物だから。もしも、みかりんとまたテーマパークに行って可愛いのがあったら買っちゃうかもだけど」
「そだね、また行きたいね」
「うん。今度はさ、制服着て遊びに行こうよ。また、一緒に行きたいから」
「私も。今流行ってるんだよね、制服で行くの」
「そうそう。高校卒業しても制服で行ったりしてる人、多いらしいよ」
「やっぱり、特別っていうか。可愛く写るっていうか」
「双子コーデもいいなぁ」
「どっちがお姉さん?」
「そりゃあ、私でしょ。みかりんより誕生日早いもん」
「じゃあ、りえりん姉か理恵果姉って呼ぶ?」
「んふー。何か恥ずかしい。いいよ、まだ姉の言葉はいらないや」
「あはは、わかった。何か、飲みたいなぁー」
「あっ、ごめん。ローテーブルに置いたままだった」
少し冷めかけたポタージュスープの入ったマグカップを理恵果から受け取って、ちょっとずつ喉に通してゆく。
おいしい……。このくらいの温かさが良いなと思った。ダイニングの方で用事をしていたお母さんが戻ってきて、私に何かを手渡した。
「美香里、これ、あなたの『お母さん』から」
「あの人から、手紙?」
「ええ、あなたの親権の事でお話をしたわ。美香里をよろしくお願いしますと言われたの。その時にこれを美香里へ渡して欲しいって」
「そうなんだ……」
白い封筒にはただ『美香里へ』と書いてあって、裏を見ると『母より』と何となく懐かしい筆跡の文字があった。
「ありがとう、後で読むね。お母さん」
「へぇぇ、みかりんのお母さんからの手紙かぁ」
「うん。まぁ、書いてあることは大体分かるけれど……」
「夜にでも読めばいいと思うわ、今はまだ午後の3時くらいだから。スープだけで足りるかしら、他に何か食べたいものはある? 美香里」
「ううん。スープだけでいいよ、ありがとう」
「分かったわ。私は一旦本宅へ戻って家事をしてくるから、理恵果、美香里をお願いね」
「うん、ありがと、おばさん」
お母さんは離れから出ていって、本宅で残っている家事をするのかな。そういえば、離れの掃除ってどうなってるんだろう?
「りえりん、離れの掃除とかって……」
「うん、おばさんと私とでしてたから安心して。元気になったらみかりんも手伝ってよね」
「もちろんそうするつもりだけど」
「飲み終わったら言ってね、洗うから」
「ありがとう。えっと、今日って何日?」
「今日は16日だよ?」
「もうあさってだね、りえりんの誕生日」
「そうなの。それまでに元気を取り戻して、それから一緒に買い物に行こうよ」
「うん、色々欲しいって言ってたもんね、りえりん」
「そうなのそうなの。私とおそろの通学リュックとか、下着とか色々ね」
「じゃあ、早く元気にならないとね」
「うん」
ポタージュスープを飲みながら理恵果と一緒に買い物に行くのを想像した。誕生日のお祝いは何がいいかな、と考えていた。体調が安定してきたらおふろに入りたいなと思った。