苦く、辛く、そして甘い
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「りえかちゃん、寒くない?」
「うん。りえか、さむく、ないよ?」
「そう、よかった」
「おねえちゃん、さむい?」
「ううん。お姉ちゃんは大丈夫だよ?」
実は、怖くて寒かった。
『元母』の家の近くに停めてあるお父さんの車の中に、私と幼児退行した理恵果が後部座席に座っている。
きっと今頃はお父さんとお母さんが、元母と向き合っているだろう。どんな話をしているのか、私の事をどう思って、どう感じているのかな。
私の親権はどうなるのかな? そうしたら、元母と私の関係はきれいさっぱり無くなるのかな。頭の中で色々と思って、もやもやしながら理恵果を見ると、お菓子やジュースを飲みながら、くまちーと遊んでいて時々塗り絵に興味を示している。
少し、眠い……。色々な事を考えていたら頭が疲れてきて、生理中でもあるのでだるい。
*****
「あなた、やめて!! くろりんをそんな物で叩いたら」
「うるさい! どこ行った? あの猫め」
「ちょっと、どうしてそんなに怒るの?」
「お前は黙ってろ!!」
お父さんとお母さんが言い争いをしている。私の家で飼っている黒猫のくろりんに対して、どうしてか分からないけどお父さんはとても激しい怒りの感情を持っている。
まだ小学生の私は、ただただおろおろとするばかりで、怒り狂った父親がとても怖くて何も出来ない。
くろりんは父親からの執拗な攻撃といってもいいかもしれない、その危険から逃れようとして台所や居間などを必死に逃げ回っている。
私は、くろりんが好き。だから、何とかして守ってあげたい。でも、どこからか持ってきた木刀を手にした、父親の鬼のような形相で怒りに任せた行動にただただ怯えるばかり。暑いような気がしたから、夏のある日の出来事だったのかな。
私は居間の隅でタオルケットに包まって、ひたすら嵐のような目の前の惨劇が過ぎ去ってくれる事を祈った。
お父さん、どうして、くろりんを苛めるの? かわいそうだよ。
「どこに行った!?!?」
お母さんが必死にお父さんを宥めて落ち着かせようとするけれど、お父さんは言うことを聞かない。台所のテーブルの椅子を強引に押しのけ、隠れているくろりんを探そうと血眼になっている。
とても怖い。
その時、肌にあったかい温もりを感じた。
くろりんが、私のタオルケットの中に逃げ込んできたのだ。私のお腹の辺りで、まあるくなりながら怯えているのが感じられる。
私は怯えているくろりんを両手で包みながら、守るように自分も丸くなる。
お父さんの怒声が近づいてくる気がした。
「美香里!! そこに猫はいるか!?」
いけない! くろりんがここに居ることがばれてしまうと、きっとひどい事をされる……! 私は囁く様にくろりんに言った。
「ここにいたら、あぶないから。にげて! くろりん」
私のお腹の傍にいるくろりんの柔らかい毛並みと温かさが愛しく感じる。この子をここから早く逃がさないと……くろりんが死んじゃうかもしれない。お父さんは木刀を手にずんずんと近づいてくる。時間が……ない!
私は無理やりにくろりんをタオルケットの中から迫り来るお父さんの反対側に出して、「にげて!」と心の中で言った。くろりんは、うろうろしながら私から離れていった。
くろりんの温かいぬくもりが手から消えてしまう時、私は逃がすべきじゃなかったと後悔した。
私が包まっているタオルケットをお父さんが強引に引き剥がす。なるべく冷静に何も無かったかのように嘘をついた。
「くろりん? ここにはいないよ?」
「ちっ! どこいきやがった?!」
どうか、無事に逃げて……! くろりん!
猫はすばしっこいけれど、家という閉鎖空間ではお父さんに見つかるのは時間の問題かもしれない。
「ぬっ! みつけたぞ、このやろう!!」
ドスッ……!!
木刀が何かを刺す嫌な音がした。
くろりん!? まさか、くろりんが……?!
その音の正体は、木刀が壁に突き刺さったものだった。正直、ほっとした。でも、穴の開いた壁の凄惨さを目にしたらぞっとした。もしもくろりんに当たっていたら……!
くろりんは、どこだろう? 無事だといいけれど。
そうだ! おまわりさんを呼ぼう!
何かあったら、おまわりさんを呼ぶって言われた事がある。
ええっと……。私はあわてて台所にある電話の受話器をとりに走る。
1、1、0でいいんだっけ?
受話器を取って電話の数字のボタンを押そうとした時、ふいに頭に衝撃が走った。
……ゴツン!!
お父さんが私の頭に、その大きな手で握られたげんこつを当てたのだ。
「お父さん、痛い!!」
「余計なことはするな!!」
どうして、そんなに怒るの? くろりんが何かしたの?!
お父さんやめて! くろりんを苛めないで!!
お父さん……おねがい……。
*****
「……ちゃん、おねえちゃん!」
「う……ん……」
「おねえちゃん、どうしたの? ないてる」
「くろりん……」
「えっ? これは、くろりんじゃないよ、くまちーだよ?」
「くまちー……? りえかちゃん……?」
「おねえちゃん、ねちゃった、おもったら、ないてるよ」
「夢……」
私、いつの間に寝てたんだろう? そんなに時間は経っていないと思う。
小学生の時に飼っていた黒猫のくろりん。確か、女の子だった。今は、もう多分生きてはいない。
それは、母の家に荼毘にした時のお骨を入れた骨壷と、くろりんの可愛い遺影がある事を思い出したから。
あの時たしか母は父を、くろりんを追う父を必死で止めようとしていた。
どうして今頃、そんな夢を見たんだろう……。
あの時、たとえ木刀で叩かれてでも、くろりんを守ってあげていれば……。それが心残りで仕方ない。
ごめんね、くろりん。私、あなたを守れなかった……。
「……ごめんね、りえかちゃん。お姉ちゃん、ちょっと眠ってしまったの」
「そうなの? どうしたの、おねえちゃん? かなしそう」
「少し、いやな夢を見ちゃったの」
「ゆ、め?」
「そう、子供の時の少し嫌な夢」
父は普段は真面目で優しい人だったけれど、時々、人が変わったように感情をむき出しにして、飼い猫のくろりんに当り散らす事があった。それから癌に侵されていって、私が12の時に死んでしまった。それから母は、父を失ったことでおざなり気味だった私への態度を強くしていった。そして私は捨てられた。
「う……」
うん? 理恵果? どうしたんだろう。
「ぅぅうう……りえか、あたま、いたい」
「りえかちゃん?」
「あたま、いたいの!」
「ど、どうしたの?! りえかちゃん?」
「うぅ……あぁ…………わぁあぁぁん!!」
急に理恵果は頭が痛いと言い出してから大声で泣き始めた。私は背中をさすって宥める。
「りえかちゃん、大丈夫大丈夫。ね?」
「ぎゃぁぁん、わぁぁぁん!!」
「よしよし」
「わぁぁ…………ぁ」
「……りえかちゃん?」
「…………」
「りえかちゃん、もう大丈夫なの?」
「……えへへっ」
「えっ、りえかちゃん??」
「りえかの、まま。りえかに、こうしたの」
「うん? ママ?」
理恵果はおもむろに持っていたぬいぐるみのくまちーを強く握り締めると、ぬいぐるみの目や手を引っ張り出し始めた。
「りえかちゃん!? くまちーが痛いって言ってるよ? やめようね?」
「ふふふ。こうして、ばーんって、たたいたの」
大切にしていて、いつも通学リュックに付けていたくまちーをなぶり始めた理恵果は……笑っている。
「あんた、なんて。こーして、ぎゅーって」
「りえかちゃん! くまちー、目が痛いって。やめて、引っ張らないで!」
「ふん! ままは、りえかが、やめてって、いっても、やめなかったもん」
「りえかちゃん……」
「それでね、こーして、うでをひっぱって、おそとに、だそうとするの」
理恵果は目に涙を浮かべながら笑っている。そして大切なくまちーのぬいぐるみの目や腕を強く引っ張る。くまちーの片目は、段々と結びが解けて飛び出してしまっている。片腕も縫い目が解れてしまって、びろーんと伸びて、だらーんとなってしまっている。
「りえかちゃん!」
「ふふふ……ぐすっ。ちゃんと、いうこと、きくか!? ままの、いうこと、きくか?!」
「りえかちゃん!!」
「どうして、ままが、いらいらすること、するの、わるいこ!」
「……!!」
「この、うでが、あたまが、いけないんだ、ばしばし。たたいたぐらいじゃ、わからないみたいね?!」
「……っ」
「あしで、けとばして、やっと、わかったか!!」
きっと3才の頃の理恵果は、いつもこうして母親から虐待を受けていたんだ。目が飛び出るくらい、腕が千切れるくらいに。そしてその辛い気持ちを心深くに閉じ込めてしまい、自分と母親の再現まで演じるなんて。
私は泣き笑いしている理恵果を、無残な姿になってしまったくまちーを持っている『りえかちゃん』を涙を流しながら抱きしめた。この前4人で本宅で食事をしていた時に、千津お母さんがしてくれたように優しく抱きしめた。
「りえかちゃん? 大好き。ママはりえかちゃんの事が大好きよ」
「う……ぅ……」
「ちょっと虫のいどころが悪くて。そんなに痛くするつもりはなかったの、ごめんなさい。ママはいけない親ね」
「りえかを、すき? じゃあ、どうして、いっぱい、たたいたの?!?!」
「ママが悪かったわ。ごめんね、りえかちゃん」
理恵果が私に向かって、げんこつで胸を叩いてきた。私はそれを受け止める。幼児退行していても腕力そのものは大人の女性に近い。思わず、むせてしまう。
「げほっ! りえか、ちゃん、痛いよ」
「りえかだって、いっぱい、いたかったもん!!」
「ごめんね、許してもらおうと思ってないから。ママを思い切り気の済むまで、叩いていいよ」
「うー……! ばか、ばか。ままの、ばかー!!」
「うっ、ごほっ。……んぐっ」
どうしてだろう? 痛くて、苦しいはずなのに、体中が甘い感じがする。
体が甘い? 痛いはずなのに?
何でだろう?
理恵果がげんこつで、私の胸やお腹を思い切り叩く。時々顔や頭も叩かれた。どうしてか、痛みよりも甘い感覚を強く感じる。そんなおかしな感覚に神経が麻痺していく。理恵果も幼い体で親からの虐待を受けて、そして感覚がおかしくなって人格変わりで苦痛を柔らげようと本能で……。
私の目から大粒の涙がとめどなく流れた。理恵果の苦痛に満ちた心の叫びと悲しい気持ちに共感したのだ。
「ままの、ばかあ! ぁ……」
「り、えかちゃん……ごめんね」
生理中でだるくて眠くて、昔の夢を見てしまって心と体に負担になっていた所に、理恵果からの虐待された場面の再現をまともに受けた私の体は限界に来ていていた。
……いつの間にか気を失っていた。
そして私を母親だと思って、幼児期の出せなかった心の内の気持ちを私に当てていた理恵果も、いつの間にかぐうぐうと寝息を立てながら寝ていた。
どれくらい時間が経ったか分からない。
後部座席のドアが開いたような音と、誰かの声が聞こえた気がした。
私と理恵果を呼ぶお母さんとお父さんの声だったような……。
その2人が見たものは、理恵果に引っ張られて解れて歪んでしまったぬいぐるみのくまちーと、それを手に持ちながら私に覆いかぶさるように寝ていた理恵果、そして顔を叩かれた時に出た鼻血を流しながら、ぐったりとして気を失っていた私の姿だった。お菓子やジュースは散乱していて、後部座席はひどい有様だった。