トラウマと夢
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日が暮れた学校の敷地内に1台の軽自動車が入ってきた。バス停を過ぎて昇降口の辺りまで来ると、そこで止まってハザードランプを点けた。
千津叔母さんの乗っている車だ。エンジンはかかったままなので、シートベルトはまだ外さない。
彼女はスマホを取り出した。
メッセージアプリには、理恵果からのものが沢山届いていた。内容は美香里さんについての事だった。その内容を読み進んでいくと、早く着いた事を知らせないと、と思った。美香里さんの容態が良くないのは、先ほどの学校からの電話で知っている。『美香里が起きないの、どうしよう?』という不安そうなメッセージが頭の中に渦巻いている。
スマホの画面から電話をかける。午後6時を過ぎているので、外線からの電話の対応時間は過ぎている。本来なら自動音声の対応になるのだが、緊急性を伴ったものなので学校に残っている教職員が対応する事になっている。代表の番号ではなく、校長室の番号にかけるように言われているので、その通りに数字をタップして通話を始める。
プルルルルッ。電話が繋がった。
「もしもし、先ほど養護教諭の保田先生からお電話を頂いた、高梨理恵果の保護者の藤堂千津と申します。今、昇降口辺りに車を停めています」
「はい。もしもし、こちら甘音高校の副校長の嶋田と申します。高梨さんの保護者の方ですね? 養護教諭の保田から連絡は受けております。恐れ入りますが、今いらっしゃる場所から来賓・職員玄関のある駐車場の方まで、お車の移動をお願い出来ますでしょうか?」
「はい。ええと、どの辺りでしょうか?」
「その場所からもう少し奥へ進んで頂いて、左に曲がると職員・来賓専用の駐車場となっておりますので、そこから玄関が見えると思います。空いている所で構いませんので駐車をして下さいますか?」
「承知しました。それでは、一旦通話を切らせていただきますね」
「お手数をかけてすみませんが、よろしくお願いします。保田には内線で藤堂様が到着した事をお知らせしておきますので、高梨さんと長谷川さんもそちらに向かうと思います」
「分かりました。ありがとうございます。車の中で待つようにします」
通話が切れると、千津叔母さんが車を移動させる。最近は学校の先生たちの仕事量が増して、ちょっとした社会問題にもなっている。生徒数は減っても、作業量は変わらず、むしろ増えているらしい。先生方も大変ね、と思う。
「高梨さん。保護者の方が学校に着いたと連絡があったわ。長谷川さんは具合はどう?」
「はい。今、目をやっと開いたみたいです。美香里! 大丈夫? おばさんが着たから、お家に帰れるよ?」
「……う、ん……。あれ? 理恵果がいる。ここどこ?」
「美香里……。ここは保健室で、あなたはずっと寝てたんだよ? すごい心配したよ? 保田先生もいるし、おばさんも車で迎えに来てくれたから安心だよ? 起きれる?」
「うん……。あれ、なんか外が真っ暗だ。私、そんなに寝てたの?」
ゆっくりと上半身をベッドから起こす。ちょっとめまいがした。
多少、寝癖がついているけれど、2つくくりにしてあるので髪が爆発とかはしていない。
「よかったー。私は3時半くらいに起きたんだけど、美香里。あなたはだいぶ寝てたね。やっぱり、あの夢のが心に残ってたんだね」
「……うん。実はね、駅前でセーラー服姿の女の子を見たの。そしたら、どういうわけか気分が落ちちゃって、それで……」
「美香里……」
そうか、それでこんなに疲れて寝てしまったんだね。中学のあの出来事から2年は経っているのに、まだ心の中の傷になってたんだ。かわいそうに、美香里のトラウマは相当に酷いものなんだね。あの時、もしも私がトイレに来ていなかったら……。それを思うと背中がぞくりとした。
「辛かったね、美香里……。駅前で見たセーラー服の『襟』で記憶が蘇っちゃったんでしょ? 言ってくれても良かったのに……。美香里のばか……」
「ごめん……。そんなに悲しい顔をして涙ぐんでくれて。私、嬉しい」
「すっごく心配したんだからね!」
理恵果が抱きついてきた。私は寝ていたので身体は温かい。理恵果の着た制服のブレザーが少し冷たく感じる。
「理恵果の制服、ちょっと冷たい。ずっとベッドのそばで私を看ていてくれたんだ」
「あたりまえじゃない! あの時みたく美香里は絶叫はしなかったけれど、寝ていた時の美香里の顔、真っ青だったよ?」
「そっか。私、あの事を自分が思っている以上にトラウマになってるんだ。でも、そういう時はいつも傍に理恵果がいてくれる。ありがとう」
「友達っていうのは、そういう時にいるものだもん。友達っていうか親友だし」
「登校する時は私が元気で、帰る時は理恵果が元気で。うちらってどっちかが体調良くない時にどっちかが相手を気遣う感じだよね」
「そうそう。うちらは2人で1人、みたいな」
「くすっ。そうだね。そんな感じ」
「よかった。美香里が笑った。もう大丈夫かな?」
「うん。心配してくれてありがとう、理恵果」
「お互い様だよ?」
「長谷川さん、起きたのね。それに何だか会話が聞こえたから」
保田先生が仕切りのカーテンを開けて顔を覗かせながら、笑顔で話しかけてきた。
「あらあら、2人は仲良しなのね。ふふ」
「うちらは、2人で1人ですから」
理恵果が私から体を離しながらそんな事を言っている。保田先生には、またお世話になっちゃったな。
「すみません、保田先生。なんか今日は色々と迷惑かけてしまったみたいで」
「いいのよ。それが私の仕事だからね。さあさあ、保護者の方がみえたようだから、2人とも帰る支度をしてね。ここから職員室の近くの職員玄関まで歩ける?」
「あっはい。たぶん」
ベッドから降りて上履きを履こうとしたら、身体がふらついた。
「あっ……」
「とっと……。美香里、大丈夫?」
「ちょっとふらついたみたい。私って急に頭を上げ下げしたり、立ち上がるとめまいがするんだよね」
「長谷川さんは、起立性低血圧があるのかしら?」
「えっと……。寝てて起き上がるときのめまいは、小学生の頃からあって。私、よく朝礼の時に体育館で倒れて保健室に運ばれてました」
理恵果に支えられながら上履きを履いて、ハンガーに掛かっているブレザーを着る。足元には通学バッグが置いてあって「ここだよ」と言いたげに、こちらに顔をのぞかせている。
「そうなの。あなたたち2人は一緒に生活をしているのでしょう? 食事のバランスも鉄分を多く摂るようにね。ただでさえ、女の子は貧血気味になるんだから。それにめまいは侮ってはダメよ? めまいといっても正確には脳貧血に近いんだから」
「脳貧血? 貧血と何かちがうんですか? 理恵果は知ってた?」
「ううん、知らなかった。保田先生、それってどう違うんですか?」
「貧血は貧血症状の総称みたいなもので、脳貧血は貧血症状のうちの1つなの。長谷川さんみたいに、朝礼とかで、ふらって倒れちゃうのは、立ちくらみ。つまり脳貧血症状。今、よろめいたようなのもそう。それは脳に血液が上手に回らなくなって脳が血が足りない! ってなって起きる症状なの」
「へぇぇ。脳貧血だって、美香里」
「そうなんですね、保田先生」
「それでね、血の材料の鉄分が体の中に足りないと、段々と進行していって危なくなっていくの。そうすると、血液中の赤血球が少なくなって酸素を体に運びづらくなって、とても疲れやすくなったり、いつも心臓がドキドキしたり、頭が重かったり、さっきの様な脳貧血の症状も出たりするの。鉄欠乏性貧血とも言うわね。よく病院の診察の時に、目の下を捲られる事があるでしょう? あれは、貧血かどうかを確かめているのよ」
「そうなんですね。私、知りませんでした」
「美香里も? 実は私も」
「長谷川さんは脳貧血があるみたいだけど、高梨さんは、そういうめまいとかふらつきはある?」
「ふらつきはあります。でも、今日のふらつきは寝不足が原因だから……」
「氷をかじったりする事はあるかしら?」
「そう言えば、理恵果って中学の時、やたらと氷をぼりぼりと噛んで食べてた事あったね」
「うん、氷をかじくるのは今も好き」
「高梨さん、それは血が足りなくなる時に出る症状ね。貧血の度合いが強いのは高梨さんの方かもしれないわね。生理の症状は重いほう?」
「はい。頭痛が酷くて、寝てたい時があります」
「あぁ、そう言えば、理恵果って生理の時、顔色が真っ青の時があるよね」
「うん。薬を飲んで寝てると楽かも」
「高梨さん、ちょっと目の下を見せてくれるかしら?」
「あ、はい」
「……。そうね眼瞼結膜は、けっこう白い方ね。しつこいけど、2人とも食事には気をつけてね。鉄分が足りなくて貧血症状が進むと、味覚障害や異食症、さっきの氷を食べたくなる症状ね。もっと進行すると、膣の中まで真っ白になってしまう事もから。貧血や脳貧血を甘くみてはダメよ」
「「……真っ白?!」」
「って、あそこが真っ白になるなんて事あるんですか? 保田先生?」
「ええ、血液中のヘモグロビンがとても少なくなるとそうなるし、生理も止まってしまう事もあるわよ。だから貧血症状が続いておかしいな?って思ったら、恥ずかしがらないで婦人科に行くようにするのよ?」
「ちょっとショック。知らなかった。美香里は?」
「私も、そこまでは知らなかった」
「あ、ごめんなさい。先生もしゃべり過ぎてしまったわ。あと、大事な試験のタイミングに生理で休むとかないように、周期をずらす事も薬で出来るけど。それはまたの機会に教えてあげるから」
「わかりました、ありがとうございます。保田先生」
「ありがとうございます。何か勉強になったね、美香里」
「ほんと。うちら、自分の体のこと、もっと知らないとだよね」
思わず話し込んでしまった3人。千津叔母さん、待ちくたびれてるだろうなぁ。何とか歩けそうだけど、理恵果に肩を貸してもらおうかな。
「そうそう。もし、職員玄関まで歩くのが辛かったら、車椅子を使うといいわ。高梨さん、長谷川さんを頼むわね」
「はい! 美香里は私が守りますから!」
「ふふ。本当にあなた達は仲が良くて、信頼しあってるのね」
私たちは保田先生にお礼をして、保健室に置いてある車椅子を借りた。
保健の先生って色々大変なんだなぁと思った。
私が腰掛けている車椅子を、通学リュックを背負った理恵果が後ろから押してくれている。私たちは、千津叔母さんの待つ職員玄関まで薄暗い廊下を進んでいった。持ち手の所には私の通学バッグが少し嬉しそうに、ぶら下がってゆらゆらと揺れているようだった。
「うーん、そっかぁ。鉄分ね。美香里、鉄分の多い食べ物って何か分かる?」
「さっき、保田先生から帰り際にもらったプリントを見ると……ちょっと暗くて見えづらいな。スマホのライトでっと。……ええっと、鉄分の含有量の多い食物は、ほうれん草もだけれど他にもあるみたい。ひじきとか、あさり・しじみとかの貝類。それからレバーか」
「美香里は私より料理が上手そうだから……ね?」
「あー! そうやって逃げる理恵果はずるい! うちらは2人で住んでるんだから、助け合うんじゃないの?」
「あははー。うそうそ冗談だよ」
「あ、ほら、理恵果。保田先生からもらった、鉄分の多い食べ物の書いてあるプリントを後でスマホに撮っておこうよ。千津叔母さんにも貧血の事とか、食べ物の事とか聞いてみよう?」
「そうだね。おばさんなら、色々と教えてくれそうだし」
「でも、保田先生のお話。保健の授業では、あんなには詳しく教えてくれないよね? なんでだろう? あそこが白くなるとか……」
「うん。自分たちの体の事を、もう少し丁寧に教えて欲しいよね」
暗くなった廊下に、美香里を乗せた車椅子の車輪の回る音が静かに響く。保健室から職員玄関までは、だいたい50mくらいはある。
長い距離を人を乗せて車椅子を運ぶのって大変だ。そう思って理恵果は少し汗ばんだ額の汗を手で拭った。
「車椅子、重くない?」
「ちょっと重たいけど、大丈夫。美香里は軽いから」
「どこが軽いのかしら?」
「知ってるんじゃないの? 本当は」
「もう~、理恵果いじわる」
「あはは。おっぱいマッサージの効果的な仕方。保田先生は知ってるのかな?」
「すごい知識あるから、きっと知ってるんじゃないの?」
「そうっぽいね」
「効果的なやり方で、理恵果に追いつきたいよ……」
「どうだろね?」
「んも~」
「良かった。美香里が元気になったみたいで」
「うん。今日は、ありがとうね?」
「いえいえ」
「あ! 帰りに私、自宅に戻ってサリサリを取ってくるって言ったけど、どうしよう?」
「おばさんに、聞いてみよう?」
「うん、もう7時くらいだから今日は無理かなぁ」
「そうだねえ。これから帰ってお風呂入ってごはんだからね」
「仕方ないね。今日はサリサリは我慢する。それより早く帰ってお風呂入りたい」
「そう言えば、美香里」
「なあに?」
「胸が張るって保田先生に言ってたような気がするんだけど?」
「うん。生理前はだいたいそうなんだ。理恵果は?」
「私も」
「なんで張るんだろ?」
「しらなーい。保田先生に聞けば?」
「んー……。まぁ、いっか。帰ったら理恵果のナプキン借りていい? そろそろきそうだから」
「もちろん。2人になったから、ちょっと買い溜めを増やしとこうか?」
「ありがとう」
「どういたしまして。女の子の必需品なんだから気にしない気にしない」
「でもでも。ナプキンだって、そんないっぱい買うと千円2千円とかするし。お金もかかっちゃうね」
「美香里は……。お父さん亡くなって、それにお母さんには……あれだから仕方ないよ。それに、美香里の生活費や養育費は、お母さんには払う義務があると思うんだ」
「あの人のお金なんか、いらない」
「気持ちは分かるけど。色々大人の事情があるみたいだから、気にしなくてもいいの。って言っても仕方ないか……」
「私、もうお父さんもお母さんもいないんだよね」
「美香里? 後ろであなたを運んでいる人はだあれ?」
「親友の理恵果」
「そういうこと。つかおじも、おばさんも美香里の事、自分の子供みたいに思ってるから。それに一緒に住んでるわけだし、甘えていていいの」
「失ったものはあるけれど。その代わりに私は、理恵果と一緒に生活出来るし、叔父さんも叔母さんも優しいし。それで良いってこと?」
「美香里はかしこい!」
薄暗い廊下に2人のおしゃべりが響き渡る。そろそろ職員玄関が近い。
職員玄関まで来ると、副校長が待っていた。保田先生から事情を知らされているのか、遅くなった事を特に注意されることもなかった。
車椅子を玄関先に畳んで、使わせてもらったお礼を言う。それから副校長があらかじめ靴箱から持ってきてくれていたローファーに履き替える。上履きは私たちのそれぞれの所に返しておいてくれるみたいで助かった。
玄関口を開けると、冷たい風が入ってくる。職員用の駐車場の1区画に、ライトの点いている軽自動車があった。千津叔母さんの車かな?
理恵果が「そうだよ、あの車」と教えてくれたので、少しふらつきのある体を理恵果に支えてもらいながら車まで歩く。
車の窓が開いて、千津叔母さんが顔を出して手招きしている。
私たちは、その好意に感謝して車に乗り込んで自宅へと向かうのであった。