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短編集

雇い主の叔父の可愛い息子に、女中の私が告白される話

作者: 遠出八千代




 私の名前は薫という。

 今年で歳は二十半ばを迎える。

 父を結核で亡くし、幼い姉妹達を養うため叔父の家に女中として奉公に行った。

 そして、そこで彼「清太郎」と出会った。

 あれは、まだ清太郎さんが両の手の指で数えられる年齢の時のことで。

 同時に私が丁度齢二十になった時のことでもある。



 私にとって、それは残酷な巡り会わせだった。

 その出会いを、決して忘れられようはずがない。

 本当は忘れるべきなのだ。それを、一番私が理解していた。



 その日、私は初めて訪れる叔父邸宅の玄関口の表札前に立っていた。

 奉公をする叔父とその細君、彼らの息子の清太郎に挨拶するため第一声をどうするか、数分の間、玄関先で考えあぐねていたのだ。何せ、叔父と会うのは数ヶ月前の父の葬式の時ぶりで、再開はあまりに早すぎた。やり手の母は手短に小金もちの叔父との話をまとめ上げ、父が亡くなってから、年も変わらぬうちに彼らの元に私をよこしたのだ。


 玄関先で立ちん棒をしていた私の気配に気付いたのか、「もし」と私に幾度か話をかける野太い声がする。中庭の小池をまたいだ縁側の先、麻の葉の組子障子の向こうからその声は聞こえた。太陽の日差しが人影をつくり、影絵の様にぼやけた影が障子に写っている。


 私は玄関に続く踏み石から逸れて、その声の方に向かう。

 途中、大きな松の枝を転んだりして折らぬよう慎重に足を運ばせ、縁側までたどり着く。そして私達を隔てていた障子を、すと引いた目の前に、彼らはいた。


 私の叔父であろう人と、その息子。


 叔父の洋袴ズボンの足元に小柄な体を隠し、小さな頭を覗かせる円らな瞳があった。

 あどけないその少年に、私の目線は釘付けになった。


 あまりに顔立ちが整っている彼の端麗さに、私は強くひきつけられたのだ。

 まるで陶器で作られた西洋人形の「びすく・どおる」のようだ。 

 黒髪の混じる亜麻色の前下がりのおかっぱで、白い頬に薄紅色の着色を施し、淡褐色ベージュの顔料を虹彩に塗りたくった様な綺麗な瞳をしている。その目が、純朴な混じり気の無い眼差しでこちらを見た。


「息子と会うのは初めてだったね。悪かった、兄の葬式の時、これは風邪をやらかしていてね。体が弱っている時にコレラでも患ったら大変だろう。大事をとって妻とこの家で療養していたのさ」

「作用でございましたか」

「ほら、挨拶なさい清太郎」


 透き通るようなきめ細かい声で彼は、こくりと頭を下げ「清太郎」と名乗った。

 私は「薫と申します」と彼と私の叔父に挨拶する。

 今でも、その出会いが私の頭にこびり付いていた。



 その出会いからは慌しい毎日が続く。


 普段は叔父とその細君に仕え、炊事に洗濯、時間があるときは清太郎さんの面倒を見た。幸い父が商家だったこともあり、私は一通りの読み書きが出来た。彼に文語を教えたり、叔父夫婦が家を空ける時は彼のお守りをした。

  

 夏の日などは、夕暮れ時まで彼の勉強を見てやり、それが終わると邸宅の近くにある川のほとりで水遊びを一緒にしたものだ。彼は丸みのある砂利の上を素足で歩き、水辺との境界線までたどり着くと、彼は「さすぺんだ」のついた長い洋袴ズボンをくるぶしまで捲り上げ、流水に素足をつけた。

 水の冷たさに驚いたのか、あたふたした表情で振り返る。そして平らな岩に腰を下ろすお目付け役の私に微笑みかけた。


 彼が蹴り上げた水面は、波紋を作るも川の流れにすぐかき消された。それが楽しかったのか、何度もその行為を繰り返す。何が彼の琴線に触れたのか私には検討もつかなかったが、清太郎さんが楽しそうにしているので、私も嬉しくなった。


 一遊び終えると、私は彼の足首を手巾ハンケチで念入りに、指の間まで丁寧に拭いてあげた。すると、彼はその行為がこそばゆいのか足を私の体から反らし、「ひゃ」と声を上げる。私が「くすぐったいですか」と訪ねると、彼は「別段、問題はありませんよ」とすねた口調で返してきた。

 彼なりの強がりだろう。そういうところも愛らしかった。



 彼が苦手だった梅干も、私が漬け方を工夫したら大好物になった。

 彼が寝付けない時は子守唄を歌って寝かしつけた。

 元旦の日の出を一緒に見た。

 いつも彼と一緒だった。



 あどけない清太郎さんだったが、ここ数年は、ふとした瞬間に大人の男の顔を覗かせる様になった。あれから成長して、背が伸び、可愛らしかった顔つきも凛々しくなり、頼もしくなった。その様子にドキリとした。とはいえ、まだ十代の真ん中位だ。十二分に色眼鏡で彼を見ているのは分かっている。いつしか、彼の純粋なまなざしと、懸命なひたむきさに私は惹かれていたせいだ。気付いたら、彼を目の端でいつも追っていた。

 いや、やはりそれも方便で、言い訳だった。私は始めて彼に出会った時から――

 いけないとは、分かっていたのだ。

 年が離れているだけならともかく、彼は奉公先の主人の息子で、私はただの女中でしかないのだから。

 



 私がこの家に住まわせてもらってから、幾年か年月が経った。季節は冬だった。


 今朝方から、ぽつぽつと雪が降り始めたかと思えば、日中にはぼやけた空は曇天に変わり、残念なことに、雪は雪とみぞれの中間のような中途半端な物に変化していた。外は寒いが、このまま行けば明け方までにはそれは雨に変わり、明日は一面の銀世界を拝むことも叶わないだろう。


 私は今、二階の客間で最後に思い残しがないよう清太郎さんの半纏のほつれを直していたところだった。

 辺りは静寂に包まれてはいたが、陰気な細々とした雨の音や火鉢のたまにする、ぱちぱちという破裂音、私の布をこすり合わせる音が交互に、稀に重なって聞こえたりした。


 私は近いうちにこの家を出て行く。

 次の奉公先も決めていた。この地から汽車でもなければ、たどり着かない遠方の場所だ。

 そしてこの半纏の修繕作業が、ここでの最後の仕事になるだろう。 


 叔父にお暇をもらうことを伝えると、彼は残念がっていたが、奥様はなんとなく(同じ女だからか)、私の気持ちに薄々感付いていたのだろう。叔父を一緒になって説得してくれた。


 ここを出て行く理由は一つだった。

 私は近頃、自分の中の清太郎さんへの気持ちを抑えられないでいた。まるで噴火直前の活火山の様にもう自分でもどうしようもないものだった。

 だから、ここを離れるのだ。

 間違いを犯す前に。 


「薫さん、こんなところにいたんだ」

「あら、清太郎さん」

 その時、開かれるはずのない客間の扉が開かれた。

 清太郎さんだった。


 私は平時のように努めて平然と、彼にそう答える。

 彼も平時を装った喋り方をしていたが、はたから見れば、そうでないことは一目瞭然だった。いつもより落ち着かない様子で瞬きの回数も多い。彼は何か思いつめた様な、意を決心したような表情をしていた。 

 もしかしたら清太郎さんは、私がこの家を出て行くことをどこかで聞きつけてきたのやもしれない。叔父には私が邸宅を出て行くことは清太郎さんにが秘密にしてほしいと、申し伝えたのだが。


「お話があるのです」

「はて、なんでしょうか」

 彼は姿勢を正し、私の正面に正座した。

 彼の言葉には真剣さが含まれ、私もすぐに手作業を中断し、彼を見つめ返した。



「俺は、貴方をお慕いしています」 



 単刀直入な言葉だった。

 私は答えに給していた。本当は彼の言葉に答えてあげたかった。

 最近、貴方が男らしくなった理由を、私はきちんと気付いていたから。

 だが、ここでその言葉に同意するわけにはいかなかった。

 一呼吸おいて私は答える。


「存じ上げておりましたよ。でもいけません…」


 滋賀からわざわざ取り寄せた信楽焼の丸火鉢の火明かりが、彼に揺ら揺らと橙色の影を作る。

「何故ですか」 

 彼の声が震えていた。精一杯の勇気を持って彼は言葉を伝えたのだろう。

 納得のいかない表情で、彼は私に今一度尋ねた。


「私がただの女中で、貴方は私の勤め先の主人の息子だからです」

「それがいけないことですか」

「……清太郎さんはお若いから、主人の息子と女中が夫婦になることがどういう意味を持つか、存じていないのです」

「いえ、知っております。たくさん調べましたから」

「でしたら……」

「それでも、それでも貴女と添い遂げたい」

「それは」


 私は言葉に詰まってしまった。彼の意思の強さに弱っていたからだ。どちらかというと彼は、心優しく、自分の意見を後回しにすることが多い。だから、清太郎さんがここまで頑なに何かを否定する姿は、始めてみたかもしれない。


「私は将来、立派になって、貴女を必ず迎え入れる」

「……いけませんよ」

 

 本当は今すぐにでも、彼の言葉に頷いてしまいたかった。私だって、貴方をお慕いしていたのです。初めて、貴方と目が交わった時から。


「もしも貴方が大人になっても……いえ」


 私は慌てて、今言おうとした言葉を飲み込んだ。彼の目をずっと追っていたから、自分の気持ちが口に出てしまったのだ。


「お約束は決して出来ません。私は、薄情ですからね。先に別の方と結婚してしまうでしょう。私には婚約者がいるのです。だから、気にしていただかなくてもよろしいですよ」


 私は、今度こそきっぱりとそう告げた。

 私に婚約者がいるなんて嘘っぱちだった。縁談の話なんて、ここ数年一度も耳にしてない。


「清太郎さん。貴方はやさしく、思いやりがあり、本当に素晴らしい方です。けれど、私では駄目なのです。貴方の愛情を、もっと素敵な別の方にお与えてください……」

 諭すように、そう伝えた。涙をこらえる彼に対し、私は何度も、胸の中で謝罪した。

 私は彼の手をそっと握った。私の冷たい手に比べて、彼の手はとてもぬくもりがあった。


「さようなら、清太郎さん」


 そういって精一杯、微笑んだ。うまく笑えているといいけれど。

 私の言葉を最後に客間には、静寂が流れた。


 …数年もすれば、きっと貴方は大人になって、叔父の決めたいい人と、別の人と結婚してしまう。

 けれど、それでいい。

 だって私達はそれだけ違いすぎるのだから。

 





 私はあくる日、日も出ぬうちに、逃げるように叔父の邸宅を出た。


 外は私の予想を裏切り、ぽつぽつと雪が降っていた。きっと昨日の夜の冷え込みで、みぞれはまた雪に戻ったのだ。だが、地面は雪景色には程遠い、申し訳程度の積雪と薄っすらとした氷の膜をまだらに作っているだけだった。


 そして私が玄関先から幾分歩くと、私の白足袋をじわりと、上から降ってきた雪がしみこむ。もう足の隙間は生温い水の感触がして気持ちの悪い肌触りだった。

 私は一人、暗闇の中に細々とした足跡を作り、この町で一番大きい駅へと向かった。



 そして改札を出ると始発の汽車がすでに到着している様だった。 


 幸い、不穏な天気模様だが、昨日の雨や雪はたいしたこともなかった様で、定刻通り出発するそうだ。 

 朝の日差しのない、薄暗い「ぷらっとふぉうむ」には人影がポツポツと並んでいる。


 時折、見送りの数人の人間が、旅立つ人を励ましてる姿が目に映る。私はその光景を見て、足早に汽車に乗り込み、自分の席に向かった。

 少ない荷物を荷台に置き、私は切符に書いてあった三等車両の席に座る。

 客席からは窓越しにこの町の景色がよく見えた。


 暗闇の中にありながら、ぽろぽろと白い雪が町を包み込む。赤や青の瓦屋根一軒家の上に雪が少しずつ積もりはじめているようだった。

 ここからでは叔父の邸宅は見えなかったが、それでもいいと思えた。清太郎さんとの思い出がよみがえって、また私の決心が鈍ってしまうに違いないから。


 そして汽車がガタンと動き出した。その振動が床を伝い私まで響いてくる。

 ゆったりとした動きとともに、汽車は徐々に速度を上げていく。


 この町ともこれでお別れだ。

 よくよく考えれば、叔父や奥様にはずいぶん自分勝手な理由で迷惑をかけてしまった。せっかく置いてもらっていたのに、私が仕事をやめることを認めてくれた彼らの寛容さに感謝している。叔父はいつでも戻ってきていい、そう言っていたがきっと私はここに戻ることはないだろう。


 ひとしきり景色を眺めていると、駅員が写りこむ。

 彼はなにやら檄を飛ばし、せわしなく手を動かしている様だった。

 そして私が視線を、窓から誰も座っていない目の前の座席に移動させようとした時だ、私はそれを行えなかった。出来ようはずもなかったのだが。


 いつしか、窓の外の光景に視線が釘付けになった。


「どうして…」


 その時、駅の改札から彼が、清太郎さんが「ぷらっとふぉうむ」に現れた。

 白い吐息を吐き、額には汗を浮かばせながら、誰かを探しているようだった。

 きっとそれは私だった。

 私は急いで備え付けの硝子戸を引き上げる。


「清太郎さん!!」


 彼が私に気付いた。

 彼は急いで、私の元に向かい、まだ動き始めたばかりの汽車と並走して、私に向かって叫んだ。


「薫さん、絶対に、迎えに行きますから!待っていてください!!」


 彼は列車に追いつこうと、懸命に走る。途中、何度か足をもたげながら、それでもめげなかった。だが、彼が歩廊の端にたどりついた時、その歩みは止めざるおえなかった。


「俺は貴女を愛しています!!」


 彼は両手を口に添えて、私に聞こえるようあらん限り、叫んだのだろう。

 私もそれに習って、どんどん遠ざかる彼に向けて、硝子戸が震えるほど声を張り上げた。


「私も、私も貴方を愛しております!!」


 どうか私の声が彼に届きますように。唸る汽笛に声をかき消される中、私は何度もそれを試みた。





 そして汽車の煙突は真っ黒な煤煙をたちのぼらせ。

 線路の雪を瞬く間に溶かしながら。

 彼を置き去りにし、冬の朝焼けの中を進んでいった。















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[良い点]  時代を感じさせる、余韻をたのしめる作品でした。 大正ロマンというのでしょうか、そんな雰囲気を感じる物語でした。
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