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週末赤羽

作者: 日暮栄光

  「週末赤羽」

                                       日暮栄光


 赤羽一番街商店街の看板が見える。

 


 当たり前だが「一番街」と書いてある。俺はぼんやりとその文字を眺めている。

 初めて赤羽にきた。

サラリーマンや二十代後半から三十代前半ぐらいのカップルと一緒に信号が青に変わるのを待つ。

 信号が青に変わって通りの人混みに混ざって商店街に入ってゆく。両脇の居酒屋からは楽しそうな声が聞こえてくる。

どこを見渡しても何がそんなに楽しいのか、顔を上気させお酒を煽る人達ばかり。この前二十歳になった俺と違って飲み慣れているのがわかる。

 今日は蒸し暑い。

 すっかり日の落ちたこの時間になってもじめっとした空気が肌にへばりつく。

 嫌なことがあった。

わかりきっていたのだが、また女にふられた。

 気づいた時には知らない街の知らない飲み屋街を歩いていた。

酒の味を覚え始めたばかりの若僧なのにもうすっかりアルコールが手放せない。

 俺はどうも女にモテない。

今回でふられるのは何回目だろうか、二十回を超えたあたりから数えていない。

 うだうだと、そんなことを考えながら歩いていると目的の店に着いた。

 昔ながらの薄汚い店構えだがスマートフォンで調べたところどうやら鰻の旨い店らしかった。

 一列に並んでいるサラリーマンの列に並ぶ。

 とくにすることもないので店内の壁に貼られた手書きの注文表を眺める。



 『鮪のぶつ切り』

『牛筋煮込み』

『サバの味噌煮』

 『清酒長陵』

『焼酎(中)』

『サッポロ生(大)』

 『うな重』

『うな丼』『亀重』『特上』



 つまみと酒。それから今日の目的の鰻の注文を頭の中で考える。

こころへんから選ぼうと検討をつけるけれど、どれも旨そうだ。

 ぐぅ、と一度。腹が鳴る。

 連鎖的に前に並んでいるサラリーマンの親爺からも「ぐぅ」と俺のよりも大きな音が鳴る。

 家族のために働いているのだな、と俺は考えてなんだか自分が恥ずかしくなる。


 やっと店の中に案内され、丸椅子に腰を下ろし懐かしい緑色のテーブルに手をつく。

 店内はやはり賑わっていた。どこか懐かしい薄汚れた店のなかは大勢の客で満たされている。店員は狭い厨房を駆け回り一人ひとりの客に愛想よく応対している。

 やはりこの空気感が落ち着く。

「まず飲み物は何にしますか」

 恰幅のよい、赤い眼鏡の女の子が尋ねてきたので迷わず。

「生、大」

 間髪いれずに運ばれてくる。

 どん、と太い腕が視線を横切り目の前にジョッキが音を立てて置かれる。

 ひとつ。ふぅと溜息をつき手に取って傾ける。

 自分の喉が音を立てて動いている。

 嗚呼、旨い。

 半分ほど飲み干してしまう。

 しゅっはぁー、口から思わずこぼれた声が耳に気持ちいい。

 ガヤガヤとせわしなく先ほどまで聞こえていた音が一瞬にして遠ざかる。

今日はなんて良い日だろうか。

 一息ついたところで、何か食べたくなってきた。

「すみません」

 せわしなく動いている女の子に聞こえるように大きな声で。

 思った以上に大きかったようで、隣に座る四十代くらいの彫の深い顔をしたスーツ姿の男性の肩が一度。びくっ、と跳ねた。

 ちょうどその男性に鰻が運ばれてくる。

 女の子が、亀重です。と元気よく男性の前に重箱を置いた。

 男性が蓋を開ける。

 おっ、と思わず心の中で声があがってしまった。

 ふっくらとした肉厚の鰻が顔を覗かせたのだ。

うっすらと湯気があがった甘じょっぱい香りが鼻のさきを掠める。

 ああ、我慢ならん。

「すみません、亀重お願いします」

 呼び止めていた女の子に前のめりになって言ってしまう。

少し恥ずかしい。

 はい、亀重。

 女の子の声はよく通る。

 さきに白菜の漬物が出されて、一口つまむ。

シャキッとした歯応えを感じたあと優しい酸味が口のなかに広がる。

 旨い。

 しかし、なんと言っても鰻だ。

もう二個白菜の漬物をつまんで待つ。

ぽりぽりと待つ。

 その間にビールを呷りながらテンポよく。

 あっ、そういえば忘れていた。

「すいません、清酒長陵お願いします」

 今度もはっきりと聞こえるように。

 おお、運ばれてきた。やっぱり鰻には日本酒だよな。

 小さめのグラスにお酒をそそぐ。

一口呷る。

清らかな水とお米の甘い香りがツーンと鼻の奥を通り抜けてゆく。

 はぁ、なんて幸せなんだろうか。

 思わずくぅ、と顔が引き締まる。


 さて、待ちに待った鰻が運ばれてきた。

 まずは、重箱を眺める。

鰻を食いに来たのだということを再確認して蓋を少しずつ開いてゆく。

 ああ、見えた。これだよ。

 甘じょっぱいたれを塗られて輝くかば焼きと、たれと喧嘩せずそのおいしさをお互い手を取り合って引き立てあう白米。

 たまらない。

「戴きます」

 手を合わせ一言。

 まずはご飯から戴く。

白い湯気をあげるご飯を箸でつまんで一口。

「ふぅ」

 これまた溜息がでる。

店によって特色のある、この優しい甘さ、しかしその実とても澄んだ甘味が何故だか香ばしい。

旨い。

 さてさて、お次はいよいよかば焼きだ。

 端のほうを一口サイズに綺麗に分けて戴く。

甘く香ばしい香りがモチベーションをしっかりと支えている。

それでは戴きます。

 ほろほろだ。

ああ、なんてことだろう。

口の中に入った瞬間に柔らかく、しかししっかりとした感触が舌の上を転がり、そしてほろほろと崩れてゆく。この鰻のしっかりとした身の食べ応えがうれしい。

 今度はご飯と共に戴く。

 ご飯とかば焼きを消しゴム一つくらいの割合で一口。

 はぁ。

思わず口からこぼれ落ちる今日何度目かわからない嘆息。

ぷりぷりの温かいご飯にこの香ばしいかば焼き。

旨くないわけがない。

「旨い!」

 そして美味しさの余韻のあとには、日本酒をまた一杯。

 くいっ、とグラスを傾けて突き抜ける清涼感に身をゆだねる。

 この一つの流れが俺に満足感を与えてくれる。

ああ、幸せだ。

「すみません、今日の分の鰻は切らしてしまったんですよ」

 ひと段落つくと周囲の音も耳に入るようになってくる。

 左隣に座る頭の禿げあがった親爺が注文をとっている先ほどの女の子に顔を真っ赤にして声を荒げている。

「ねぇ、お嬢ちゃん、さっき大丈夫って言ってたよね。今日鰻もう食べれないの」

「ええ、すみません。今日もう切らしちゃってて」

 女の子は愛想よく酔っぱらっている親爺に一言一言ちゃんと応対している。

「でもお嬢ちゃん。さっきはまだあるって言ってたよ」

 それでも親爺はしつこく女の子に絡んでいる。

客商売も楽じゃあないな。

 そんなことを思いつつ食べ進める。そしてお酒もちょっとずつ。


「鰻、早く頼んでおいてよかったですね」

 禿親父とは反対側の右隣の席から声をかけられた。

 歳は四十代前半といったところだろうか、随分と小洒落た帽子をかぶっている。西部劇に登場しそうな風貌だ。肌も少し日焼けしていて、渋い声が落ち着きを感じさせる。

「ええ、そうですね」

 こういった大衆居酒屋で飲んでいる時は話しかけられることが多々ある。若い人は目立つし、それにこういうところにくる人は皆お酒が好きだし話好きな人が多いのだ。

「ああ、いえね。お兄さんがあんまりにも美味しそうに飲んでいるものだから」

 つい、と驚いているのが伝わったのか話しかけてきた男性はそう付け加えた。

「お酒強いね、こういった店が好きなのかい」

「はい、一人でふらっと飲むのが好きで」

「俺も好き」

 にっ、と口角を上げて男性が笑う。

良い笑顔をするおじさんだな、と俺は思った。

白い歯が一瞬だけ見える。

こんなふうに年を取りたいものだ。

「どこから来たの、こころへんの人?」

「いえ、巣鴨のほうから」

「へー、あそこらへんも飲み屋多いでしょ」

「そうですね、ぼちぼちですかね」

「今日はどうして赤羽に?」

「一度赤羽で飲んでみたくて少し足を延ばしました」

「おじさんもそういうの好きだな」

 淡白な会話だけれど、全然嫌にならない。

この場限りの上下関係のない、ただ美味しいものとお酒が好きなお客同士の会話がそこにあるだけだった。

 独り飲みが好きだと友人に言うと、寂しいやつ、とかアル中じゃねぇか、とか散々言われることもあるけれど。美味しい食事、美味しいお酒と向き合い。この場、この時間だけの幸福に身をゆだねているとそんなことがどうでもよくなってくる。

日常のあれこれを忘れて、初対面の人とどうでもいい愚痴だったり、政治だったり、経済だったり、芸能だったり。普段の生活では話さないような話題も話してみたりして、非日常の世界に身を置く。

飲み屋にやってくる人たちは様々、その理由も様々だ。でも、どの人もお酒が好きで美味しいものが好きで、それは変わらない。

 また少し日本酒を呷る。心が落ち着く。

普段の生活で嫌なことがあっても、またここに来れば明日から頑張れる。

そう思える場所があることが幸せだ。

 おしゃべりもそこそこにうな重を食べ終える。

久々に美味しいものを食べた。

今日も美味しいものを提供して戴いた、顔も知らない皆様に感謝して、また命の恵みに感謝して気持ちを込めて一言。

「ご馳走様でした」

 一息ついて残りの日本酒をグラスに注ぎ、飲み干す。

 グッ、と傾けて喜びを噛み締める、旨い。

「ああ、美味しかった」

 隣のおじさんもしみじみとした様子でそう言った。

「ご馳走様でした、それじゃあね。お兄さん」

 うな重を食べ終え、満足気な様子でおじさんは軽く帽子を取り、挨拶をして帰っていった。

 帽子が頭から離れたその瞬間におじさんの真っ白な頭皮が見えた。

 明日も仕事なのだろうな、と酔った頭でぼんやりと考える。

「なぁ、お嬢さんやっぱり鰻は食えないのかい」

 左隣に座っていた親爺はまだ店員の女の子にしつこく食い下がっていた。

「すみません、本日はもう鰻を切らしてしまっていて」

「でも、さっきはまだあるって言ってたよ」

 どうやら話はまったく進んでいないようだ。

 同じことの繰り返し。

「何だよ、だめなのかよ」

「ええ、いつもだったらこの時間はまだ鰻があったもので、わたしの勘違いで期待させてしまいすみませんでした」

 ああ、もういいよお嬢ちゃん。

親爺はやっと諦めたようで、そう言って焼酎を呷り出した。

「悔しいからまた明日来るよ」

 しかし、どうやら鰻は諦めきれないらしい。

「是非、明日はぜったいに用意していますので」

 女の子がはきはきと答える。

「そう言って明日になったら忘れてるんでしょぅ」

 親爺は意地が悪くそんなことを言っている。

「いいえ、大丈夫です」

 ガッツポーズで答えている。

めげない女の子が眩しい。


 さてさて、若い俺の腹はうな重だけじゃ満足しなかったようだ。

「牛筋煮込み一つ」


 これですよ。

 俺は心の中で、押し殺した声でそう呟く。

 間違いない。この見た目からもわかるホクホクしたじゃがいも。甘そうな人参に玉ねぎ。食感を楽しませそうな蒟蒻。そしてメインの牛筋。

 これが旨くないわけがない。

 それでは戴きます。

 まずはホクホクのじゃがいもから。

 うん、旨い。知っていたけれどやはり旨い。口の中でよく煮てあるじゃがいもの甘さとホクホク感が広がる。

 あっ、そうそう。

「生、大で」

 本日二杯目のビール。

喉を鳴らして飲む。やっぱりやめられない、旨い。

 もうそろそろ酔いが回ってきた。

 視界の中で、賑やかな酒場の情景がぼやけた水墨画のように映る。

 店内は油がこびりついて汚れになっていたり、古くなった金属が錆びたりしていて、仄暗い蛍光灯の明かりも相まって薄汚れて見える。しかし、ぼやけた視界にはそれがとても優しいもののように見えた。

この頃には女にふられたことなど忘れて気持ちがスッ、と軽くなっている。

 初めあんなにうるさかった店内の喧騒も今ではクラシックを聴いているような心地よさを感じる。

 これだから独り飲みはやめられない。

 また一口。

 今度は人参と玉ねぎ、それに蒟蒻を戴く。

 よく煮てあり野菜の優しい甘さが口いっぱいに広がる。その合間に蒟蒻のしっかりとした食感が気持ち良い。

 美味しいものは人生を豊かにしてくれる。

 これは俺の信条だが、やはり正しい。

 他人は俺を裏切るが、おいしいものは俺を裏切らない。

 メインの牛筋を戴く。

 筋のしっかりとした歯ごたえと汁がからまって食欲をそそる。これがまたビールに合うのだ。

 もくもくと他人を気にせず食べ進める。

 隣の親爺はと言うと、今度は一緒に来ていたのであろう連れのもう一人の親爺と、そのまた隣に座っている熟年カップルの女性のほうにからんでいる。

 めんどうくさい親爺はどこにでもいるものだ。

 きっと子育ても終わって娘、息子はもう連絡をよこさないし、女房からも相手にされない。たまに話したと思ったら、喧嘩ばかりしているのであろう。

 こんなところに来て知らないご婦人と話すことでしか寂しさを紛らわすことができないのだ。

 あや、悲しいかな。

 自分のことを棚にあげて寂しげな親爺の背中を酒のつまみにして飲み進める。

 あたたかい牛筋煮込みとつめたいビール。飽きることのないこの組み合わせを楽しむ。

 他人の話に耳を傾けるだけでもまったく飽きずに飲み続けることができる。

「なぁ、鰻を食べに来たのに鰻食えないなんてなぁ」

「ほんとうにそうだよなぁ」

 二人の親爺はうんうんと首をこれでもか、というほど大きく縦に振って肩を寄せ合い熟年女性に詰め寄っている。

 ああ、むさ苦しいなぁ。

「もう一杯」

 ついおかわりを頼んでしまう。本日ビール三杯目。

 俺が飲み進めてゆくほどに親爺たちの会話はエスカレートしていった。

「ねぇ、お姉さん。その男のどこに惚れたの」

「そうだ、いいね! 言っちゃえよ!」

「あはは、おじさん達おもしろい」

「はは、そうかい」

「そうだ。出逢えたのも何かの縁だ。神田に旨い寿司屋があるんだ。今度一緒に行きませんか」

「ずるいぞ。お前、お姉さん。僕と一緒に行きましょう」

「なんだと、お姉さんは僕と寿司を食いにいくんだ」

「お前こそなんだ。お前みたいな頭の禿げ上がった親爺と寿司を食いに行ったってお姉さんが楽しいはずがないだろう」

「なんだと、この。お前はいつもそうだ。大学の頃、丸角派の代表だった俺らのマドンナにも抜け駆けしやがったくせに、いつもお前ばかりかまってもらえると思うなよ」

「なんでそこであいつの話が出てきやがる」

 お姉さんは苦笑いだ。

 過去に囚われた老人ほど可哀想なものもないな。

 二人で口論を始める醜い中年を無視して、いつの間にかそのお姉さんとやらは連れの男性と仲良く飲んでいる。

 やはり、男は歳を取るとああなってしまうのだろうか。

 俺はあんなふうになりたくはない。

 ビールをまた呷り、酔った頭でもしっかりした決意を抱く。

 あんなになるくらいなら俺は一生独りでも強く生きてやる。

「だいたい昔からお前には信念ってものがないんだ。いつも人の背中に隠れているばかりで一度だって自分の力で物事を成したことがないじゃないか」

「なんだい、なんだい。お前に俺の人生のなにがわかるって言うんだい。ええ、お前には俺の気持ちはわかるまいよ」

「ああ、わからない。お前みたいなぷー太郎の気持ちがわかってたまるもんか」

「なんだとやるか」

「ああ、やれるもんならやってみろよ」

 まさに団栗の背比べとはこのことだ。汚い親爺の大合唱。

「それじゃあ、そろそろお暇させていただきます」

 気づいたときには、親父たちの横に座っていた熟年カップルは勘定を終え帰り支度を済ませていた。

「待ってくださいお姉さん」

「ええ、そうですとも」

 親爺たち二人は急にシュン、と哀しげに声を合わせる。

「また今度機会がありましたらお会いしましょう」

 もちろん連絡先を交換している様子はなかったから社交辞令なのだろうが、親爺たちはどうやらそれで納得したようで、では今度私と寿司を食べにいきましょう。と嬉しそうに言っている。

 あ、また同じ内容の喧嘩が始まった。

 ごちそうさまでした。の声が響き熟年カップル二人は店を出て行った。

 それと同時に親爺の片割れが便所にたつ。

 ようやく、店内はうるさかった親爺二人が静かになって少々の雑談の声が聞こえるのみとなった。

「すみません、煙草よろしいですか」

 盗み見ていながら、なぜか少し安堵してビールを呷っていると件の親爺の片割れに話しかけられた。

「ええっ、あ、はい。どうぞ」

 想定していなかったので少し驚いたがちゃんと応えられた。

 白い煙が親爺の臭そうな口から吐き出され、四散して、換気扇に吸い込まれてゆく。

 俺にはそれが親爺の胸の内に潜んでいた寂しさのように見えた気がした。

 視線に親爺の禿げ頭が映る。

 すっかり不毛地帯となった肌色の大陸に寂しげに数本の黒い木が立っている。

 そろそろよい頃合いだ。

 酔いも随分回って俺は夢心地だった。

 そこへ便所にたっていた親爺が戻ってきた。

「もうよぉ、そろそろ帰るか。明日も仕事だしなぁ」

 親爺の言葉が耳に残る。

 そう、明日からまた仕事なのだ。

 勘定を済ませ席をたつ。

 不意にそのとき俺は一つの帽子を認めた。

 隣に座っていたおじさんが忘れていったのだろう。

 小洒落た帽子が緑の丸椅子に裏返しで乗っている。

 けれど、俺が気になったのはそこではなかった。

 俺の視線は帽子の底に吸い寄せられた。

 そこには数本の髪の毛が、まるで帽子自体から生えているように絡みついていた。

「お客さん」

 どうしたんですか、と店員に声をかけられる。

 ああ、いえなんでもありません。

それだけ答えて店をでた。

 明日から仕事だ。今日はもう帰って寝なければ。

 ふらふら揺れて歩きながらそんなことを考えている。これが所謂千鳥足だろうか。

 そう、明日から仕事なのだ。

 いくらふられた後だろうとも、明日仕事に行けばまたあいつと話さなければいけない。

「そうだ」

 ふと思い立って自分の髪の毛を数本掴んで引っ張ってみる。するとどうだろう。顔の前にもってきた親指と人差し指の間に髪の毛がいくらか挟まっている。

 俺もいつかきっとああなるのだ。

 おじさんになって、そしてあの醜い親爺みたいになって、そしていつか死ぬのだ。

 これから女ができようができないで一生独身だろうが、たどり着く先は皆同じだ。

 俺はスキップし始めた。

 駅に吸い込まれる老若男女に混じって、己の頭髪がまた数本抜け落ちた。


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