秋のせい
いまさらサヨナラだなんて彼は都合が良すぎた。
せめてもう少しだけでも早く言ってくれたなら、心の準備も出来て、自分はこんなに傷つかなくて良かったのに。突然一人で暮らすことになってしまった部屋を見渡せば、無駄なものばかり。彼の机。彼の歯ブラシ。彼の香水。CDや小説を収めたラックが部屋のど真ん中にズンと佇んでいる。これもまた彼のものだ。
『この場所じゃあ邪魔過ぎだよ』
不満で膨らむ自分を背に、
『こっちの方が取りやすくていいんだよ』
なんて笑いながらラックを運ぶ彼の姿を思い出した。
「あんまりすぎる」
ひとつ溜め息をついて、外に出た。まだ気持ちの整理も出来ない身に、彼の脱け殻で溢れたこの部屋に居座るのはあまりに酷だから。
秋の公園にはなんの楽しみもない。外で遊ぶ子どもも最近では少なくなり、人の気もない。マフラーに顔を埋め、落葉を踏みしめて、ベンチに座る。ひんやりとした冷たさがジーンズの生地を通して臀部の肌を包んで、体の芯から冷えるのは時間の問題だろうなんて考えていた。マフラーと手袋を外して自分の隣に置いた。一気に体感温度は下がって、かなり寒い。この気温なら死ねるかも、と思った。
無駄に広いこの公園の隅に一人でいる自分は世界で一番惨めかもしれない。ここに来たからってなんにもなくて、ひたすらベンチにもたれている。何か考えなくちゃと思っても、何を考えればいいかわからなかった。
ごみ箱には空き缶やら紙屑やらが分別もされずに溢れている。向かいの歩道には1匹の犬と中年の男性が散歩をしていて、男性が何かに気付いたように止まり、犬が我がもの顔で小便を電柱に浴びせるとまた歩きはじめた。所詮、人間なんて我儘で自分勝手な生き物なのかもしれない。
くだらない獣が自分の世界から1匹消えただけ。そう割りきってしまえば少し胸の痛みが癒えた気がした。
ジャケットのポケットからクシャクシャになった煙草の箱を取り出して、最後の一本を吸った。
「……不味」
苦い、独特の匂いが喉を刺激して咳き込みそうになる。
なんとなく此処に連れてきてしまった彼の形見。
「働きすぎなんだよ、あのバカ」
その上こんなもん吸ってたら体も悪くなる、と苦笑した。
「ねぇ、それおいしい?」
幼い声が聞こえてうつ向いた顔を上げると小さな少女が自分の前に立って、興味深そうにこちらをみている。
「美味しくない」
偶然にも現れた小さな話し相手に微笑んで丁寧に返事した。へぇ、と彼女は目を丸くしてそこを離れようとしない。
「じゃあ、なんで?」
「これね、大切な人の思い出だから」
「おもいで?」
「消えちゃったんだ。何も言わずに」
恋人が過労で亡くなったなんてこと、こんな小さな子どもにすることじゃないのは分かっている。けれど今はそんな体裁も気にせずに、小さな存在に頼る弱虫になりたかった。
「ずるいよね、勝手にいなくなっちゃうなんてさ」
「かくれんぼしてるんだ!わたしもいっしょにさがしてあげる」
「ありがとう。でもね、どこ探しても見つからないんだ」
がらにもない。子どもの前で泣くなんて。
「おねえちゃん?」
「いっぱいいっぱい探したけど、もう…いないんだ。いなくなっちゃ……」
吸わないままの煙草の灰が足元に落ちた。
「おねえちゃん泣かないで。きょうね、おかあさんがカレーを作ってくれるんだって。ね、いっしょにたべよう。そうだ!わたしのぶんもあげるから」
心配そうに自分を見つめる彼女の頬に、ありがとうとお礼を言いながら触れた。最後に触れた彼の白く冷たい肌と対照的に彼女の肌は桃色で暖かい。彼の「生きろ」という声が聴こえた気がする。
死にたいのに、秋の気温のせいで死ねなかった自分。違う。秋のせいにして、本当は怖くて死にきれなかった自分。彼のいない世界での自分はあまりに中途半端で曖昧で、
その情けなさにまた涙が溢れ鳴咽が漏れる。
子どもみたいに泣く大人を心配した少女が、優しく頭を撫でてくれた。何も知らない綺麗な瞳に見守られながら
これで最後。
この一本を吸い終えたらまっすぐ家に帰ろう。
そんなことを考えながら短くなった煙草をまた唇に運んだ。