第八話 妖精の心
着いた屋敷は、とても立派な外観をしていた。
依頼をしてきたのはフェルナンド侯爵家の主である。侯爵家の屋敷なら結構な外観なのもうなずける。
しかしサーラは、屋敷の外に誰もいないのを見て不思議そうに首を傾げた。普通ならば『堕ちた』妖精がいる屋敷の中にわざわざとどまっているだろうか。それに何のメリットがあるのだろう。
首を傾げつつ屋敷の中に入り、使用人に案内された部屋に入ると、そこには青い顔をした侯爵家の人々がいた。
その中でいちばん高齢に見える男性が弾けかれるようにして立ち上がり、ほっと安堵の声を漏らす。
「おお。来てくださいましたか、アラン公爵。お待ちしていました。どうか我々をお救いください」
妖精一人で大袈裟な、と思わないでもなかったが、よく考えれば自分は『堕ちた』妖精というものを知らない。この怯えぶりを見る限り、けっこう怖いものなのかもしれない。
「落ち着いてください、フェルナンド侯爵。まずは初めまして。こちらは私の妻で私と同じ妖還師の、サーラです」
「お初にお目にかかります、サーラと申します。どうぞお見知りおきを」
優雅な所作で礼をしたサーラを、安心した表情で見つめる侯爵。
「おお、最近ご結婚なされたと聞いてはおりましたが、そちらの方も妖還師でしたか。これは心強い」
「ありがとうございます。それでは早速、『堕ちて』しまった妖精を『還し』たいと思うのですが」
「は、はい。こちらです」
不安げに揺れる瞳で、バルコニーを示す侯爵。
それを見て、アランとサーラはゆっくりとそちらに近づいた。
ガチャリとバルコニーに続く扉を開けて、ためらうことなく外に出る。
そこは裏庭だった。少し離れた場所に、美しい、しかし明らかにおかしい噴水があった。まるで生きているかのごとくに水が周りの空間を縦横無尽に動き回っている。
そしてその噴水の中に、一人の少女が座っていた。
美しい金髪が水の中で揺蕩い、緑閃石のような半透明の瞳は虚空に向かっている。その瞳はどこか空虚で、まるで人形のようでもあった。
美しい娘である。
サーラは妖還師になるにあたって、様々な妖精の容姿と特徴、種族の名を覚えていた。その、いわば妖精辞典ともいうべき膨大な情報の中から、サーラはその妖精の種族名を割り出した。
ウンディーネ。
主に水の精として広く知られている妖精であり、その容姿はとても美しい女性だという。目の前の少女はせいぜい十五ぐらいにしか見えないが、それでもその容姿はウンディーネのものだ。ほぼ間違いないだろう。
なるほど、と思った。『堕ちた』妖精が裏庭にいたのなら、逆に外には出れないだろう。いつ危害を加えられるかわかったものではない。
「二時間ほど前に急にあの場所に現れて、周りの水がおかしなことになっているんです。近づくと水におおわれて死にかけてしまい……」
喉から絞り出すような声を上げた侯爵を手で制し、アランはサーラに声をかけた。
「サーラ、君の目にはどう見える?」
乗り出さんばかりに少女を凝視しているサーラに、アランは問う。
サーラは率直に答えた。
「悩んでいるわね……苦しんでいる。つらかった……いえ、痛かったのね」
まるで語り掛けるような口調のサーラを見て、アランはもう一つ質問を重ねた。
「僕が行こうか?」
すると、瞬殺で答えが返ってきた。
「いいえ、昔から、この手の乙女の悩みは女が解決したほうがいいと相場は決まっているのよ。……だから私が行くわ」
きっぱりと宣言すると、サーラは何のためらいもなくその少女に近づく。
てっきりアランが『還す』ものだとばかり思っていた侯爵家の人々は、急な展開に思わずそこでざわついた。
しかし、
「大丈夫だ。私の妻は死なない」
自信に満ちたアランのつぶやきに、侯爵家の人々は思わず口を閉じる。
緊迫した空気の中で、サーラはゆっくりと少女のもとへ向かった。
サーラは主に水と木に関する妖精の力を吸収するのが得意だった。そして先ほど力を吸収していたばかりである。このくらいの水は、別に脅威でも何でもなかった。
水の動きが変わったことを感じ取ったのか、少女の虚ろな瞳がサーラのほうへと向けられた。
そんな少女に向かって、サーラはにっこりと微笑みかける。
「こんにちは」
あまりにも状況にそぐわない言葉を投げかけてから、サーラはまず素朴な疑問をぶつけた。
「ねえあなた、どうして『堕ちた』の?」
その質問に、侯爵家の人々は唖然とした。それは壁に控えていたサティラスも同様である。
『堕ちて』しまった妖精は自身がそうなった理由など知らない。どころか、人間が呼吸をするのと同じように、『堕ちてしまった』ことを常識ととらえている妖精だっているのだ。それを分かっているため、妖還師はいちいち『堕ちた』理由など聞かない。
だというのに、一体どこの世界に、それを笑顔でを聞く妖還師がいるというのだろう。型破りにもほどがある。
しかしそれこそが、サーラの妖精を『還す』ための過程なのだった。
ウンディーネの少女はそれには答えず、瞳をついと動かして目の前の水を操る。
サーラの顔に、ばしゃりと嫌がらせのように水がぶちまけられた。
「…………すごいわね」
しかしサーラは素直に感嘆する。ここで少女がサーラを殺そうと思って水を操ったならば、サーラはそれのすべてを防ぎきっていただろう。しかし彼女がしたのは、サーラに水をかけるだけだった。
これに殺意はなかった。だから、サーラはこれを防げなかったのだ。
顔から始まって、少なくとも上半身はびっしょりと濡れてしまっていたが、サーラは気にもせずに思考を巡らせていた。
さて、どうするべきか。
今はきっと『堕ちた』ばかりで人格の形成がうまくいっていないのだろう。だからそれなりに害はない。しかし人格がしっかりと固定されてしまえばあとは妖力を使って暴れるしかなくなる。中身はともかく外見は見目麗しい、自分と同じくらいの少女にそんな醜いことはさせたくなかった。
なので、サーラはもう一度少女に近づいた。
スタスタと自然な動きで少女の目の前に立ち、何の前触れもなくその腕を掴む。
途端に周りの水の力が強くなったが、サーラはその時、少女の心に干渉するのに忙しかった。
掴んだ腕から、溢れるように膨大な感情が流れ込んでくる。
苦しみ、悲しみ、憎しみ、痛み……そして愛情。
さまざまな強い感情と共に、ある情景が目に焼き付いたようにそこに浮かんだ。
「どうして……」
そこには、愕然とした表情で二人の男女を見つめる、その少女が立っていた。
「私を、愛してくれるって……言って……」
目の前にいるのは、二人の男女。とても幸せそうに微笑んでいる。狂おしそうに男のことを見つめたウンディーネの目から、一筋の涙が零れ落ちた。
……浮気。
それを認識した瞬間、女のほうはともかく(浮気だと知らないかもしれない)、男は下種だとサーラは思った。少女の感情が痛いくらいに分かるほど流れ込んでくるので、いつもより少し屈折した目で見ているかもしれないが、浮気をするものが下種だというのはサーラが常々思っていることである。
そして、ウンディーネの特徴を唐突に思い出した。
……ウンディーネは、人間の男性と愛し合えるかわりに、男性が浮気をした場合にはその男性を殺さなければならないのだ。
すると、思い出した瞬間に突如として場面が切り替わる。
そこには、男性のベッドの横に立っている少女の姿が映し出されていた。その顔からは感情が抜け落ち、手には鋭く光るナイフが携えられている。
気持ちよさそうに眠る男性の横顔をしばし見つめ、少女は無表情のままナイフを振り上げた。……しかし、男性が寝返りを打ってこちらを向いた瞬間、少女の顔がくしゃりと歪む。
カラン、とナイフが床に転がった。少女の体がくずおれる。
「できない。……私にはこの人を殺すなんてできない!」
まだ愛していたのか、少女は男性の顔をもう一度見ると、ナイフを拾ってその場を駆けだした。美しい瞳からは、先ほどの比ではないくらい涙がとめどなくあふれていた。
すべてを移し終え、空間が切り替わる。
目の前には、相変わらずうつろな瞳をした少女が座っていた。
脳に直接響くような、朗々とした声が聞こえる。
『私はあの人を殺せない。だってあの女の人には赤ちゃんがいるのに』
父親がいないなんてそんな悲しいこと、とウンディーネは呟く。自分の男の浮気相手だというのに、優しすぎるとサーラは思った。
『どうすればいいの、私はどうすればいいの……!?』
悲痛な叫び声が、頭の中で大音量となって響き渡る。
しかしそれをしっかりと聞いていたはずのサーラは、顔をしかめることすらしなかった。
「翠雨の祈り」
目を閉じたままサーラがそう呟くと、少女はまるで誘われるように瞳を閉じた。そのまま深い眠りに落ちた少女を噴水の中に横たえ、サーラは立ち上がる。
さっきの呪文は主に精神に干渉し、心の不安や怒りを取り除くためのものだ。
精神治療などによく使われている呪文である。これで少しは意識が正常になるはずだから、少しは放っておいても大丈夫だろう。
さて、それはそうと先の男性には見覚えがあった。大体、そうでなければこの場所で『堕ちる』ことなどしないだろう。
サーラは静かにその人物へと近寄る。
呆然する侯爵家の人々の脇をすり抜けて、サーラは一人の男性のもとへと向かっていた。
青を通り越して真っ白になってしまっている顔をサーラに向けている青年……フェルナンド侯爵の長男、デルクレード・フェルナンデスだった。
「あなた、あの子を捨てたのね」
サーラの地を這うような視線と声音に、デルクレードはごくりとつばをのんだ。
答えを待たず、サーラは絶対零度の瞳を向ける。
「今私があなたを殺しても、世間はきっと文句を言わないでしょうね……」
まるでいまにも実行しそうな少女に、デルクレードは必死で弁明をした。
「ほ、本気じゃなかったんだ! あそこまで本気になってたなんて知らなかったんだ! ちょっと優しくしたら懐いてきたから、仕方なく付き合ってやってただけなんだよ! そ、それに、おれには正式な婚約者がいる。そいつにはもう子供だっているんだ。これから生まれてくる子供を悲しませたくはないだろ、な、早まらないでくれよ!」
その言葉に、サーラは頭の芯がすうっと冷えていくのを感じた。
何故だろう……ウンディーネの少女と同じことを言っているのにまったく心に響かない。どころかこいつは自分のことしか考えていないのだということがありありと分かる言い訳だった。
懐いてしまって? 子供がいるから? 仕方がない?
「……死体にたかる蛆虫よりも気持ちが悪いわ」
吐き捨てるようにそう言うと、サーラはスカートのポケットから護身用の短剣を取り出そうとした。こんな奴のことをまだ一途に愛し続けている彼女のためにも、ここで自分がやらなければいけないことがある。
しかし、そんなサーラの手を、だれかが唐突に止めた。
「何をするの、アラン」
「……だめだ、サーラ」
彼はそう呟いて、その首を横に振った。
何か、勘違いされているようだ。
「大丈夫よ、アラン」
言って、少女は美しく穏やかに微笑む。
サーラはアランが自分の突然の笑顔に弱いことを知っていた。目を見開いたアランの腕が緩む。
侯爵家の者たちの視線など気にせずに、少女はその隙にスカートから短剣を取り出した。
ひっ、とひきつるような声を上げた青年に向かって、サーラは短剣の鞘を払って振りかぶる。
「サー……!」
静止の声など聞かずに、サーラは短剣を勢いよく振るった。
「ひいいいっ!」
情けなさすぎる青年の声が響いたと同時に、バラバラっとその髪の毛が散った。
「……へ?」
間抜けな顔で呆然と自分の切られた髪の毛を見つめてから、青年はハッとして頭に手をやる。そこは、見事に削がれたように髪がなくなっていた。
「お、俺……」
「あなたの命はここで散ったわ。お前はこれから一生、自分の奥方と子供だけを愛して生活しなさい。それが彼女へのせめてもの償いよ」
「こ、殺さないのか、俺を」
「あなたを殺したら、私は犯罪者になってしまうじゃないの。何で貴方なんかのために私がそんな罪を背負わなきゃならないのよ」
それとも殺されたいの?
凍てつくような瞳で尋ねられて、青年はががくがくと体を震わせながら首を横に振った。
「ならもう何も言わないことね」
それだけ言うと、サーラは落ちた髪の毛を拾い集めて再び庭へと出て行った。
そのまま眠りにつく少女のところへと戻ると、サーラは打って変わって労わるような声で呼びかける。
「あなた、起きて」
一拍遅れて、少女の瞼がピクリと動いた。
そのままゆっくりと持ち上がった彼女の瞼の下には、幾分かの光が戻っていた。
「これを見て」
その瞳に映るようにデルクレードの髪の毛をかざすと、少女の瞳にみるみる新たな光が戻っていく。
「デルクレード……?」
頭の中で響いていた声と寸分たがわぬ美しい声が、サーラの耳朶を打った。
「これ……うっ……」
驚きを宿した瞳のまま、痛そうに少女は頭を押さえる。まだ完全に正気に戻ったわけではないのだろう。周りを駆け巡る水も、勢いこそ弱まったもののまだ元気にそこを駆けまわっている。
「デルクレードは死んだわ。あなたのことを悲しませたのを悔いて、自殺したの」
堂々と嘘をつくサーラ。本当のことを教えてもよかったが、それではやはりこの少女は心の中でいつか壊れてしまうだろう。少女の中だけでも、デルクレードには死んでもらう必要があった。
「そう……なの……」
あまり抑揚のない声で返されて、サーラはあら、と瞳を瞬いた。
「あまり驚かないのね」
どんどんと少女の瞳が正気に戻っていくのを見ながら、サーラは率直にそう尋ねた。『還り』つつある少女の心は、今は洪水のようになっているはずなのだが。
「私、もうあの人のことは忘れようと思っていたところだった、から……」
掠れた声でそれだけ言うと、少女は弱々しい微笑みをサーラに向けた。たおやかな、ほっそりとした白い指がサーラの手を覆う。
「ありがとう。私を『還し』てくれて」
ぱしゃん、という音を響かせて、周囲の水が一滴残らず地に落ちた。どうやら完全に『還った』ようである。
「よし、じゃあ行きましょうか」
「え……?」
理解が出来ていないらしい少女の手をぐいと引っ張ると、サーラは優しく微笑む。
「私の屋敷には妖精がたくさんいるの。あなたもあんな男忘れて、新しい生活満喫しちゃいなさい」
軽やかにそう告げたサーラを、少女はぽかんとしながら見つめる。
「え、えっと……」
困惑気味の少女の瞳を覗き込んで、サーラは言った。
「私はサーラ。あなたは?」
「え? えっと、えっと…………ロウィーナ…………」
諦めたように名を告げる少女に、サーラは満足げに頷いた。
「じゃあロウィーナ、これからよろしくね」
まるで決まったことのように言いながら、サーラは困惑している少女の体を水で覆う。こちらのほうがロウィーナの体に負担はかからないだろうとの配慮をしてのことだった。
ロウィーナからしてみればそういう配慮よりも理解を求めたかったのだが、どうやらそのことはサーラの中でもう説明がついたことになっているようで、サーラは引っ張られるがまま、サーラの背を追うことしかできなかったのだった。