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病院の香り

作者: 作・Sebastian SALAMI Rodriguez 訳・丹羽埜 緑

初めての掲載です。

 陰気な空気が漂っていた。

 病院なんてこんなもんかも知れないが、子供のころから風邪ひとつ引いたことがないオレにとっては、入院なんて事態になって気が滅入っているだけかもしれない。

 誰もが寝静まった病棟の裏手にある喫煙所に置かれたウレタンの飛び出た椅子に座って、タバコをくわえながら、月にかかる雲が流れているのを見ていた。

 当たり前だが、院内は禁煙で、病棟と駐車場の隙間に置かれた灰皿ひとつと椅子が三つ置かれている喫煙所は、まだ、外の空気が吸えるだけ、気が晴れた。


   ***


 ちょっと、コンビニまでタバコを買いに出ただけだった。

 朝から降っていた雨が上がり、すでに夕日が見え始めている。

 歩いていくには面倒くさくて、でも、車を出すまでもないと原付に跨ったのがいけなかった。

 アパートから、表通りの交差点を曲がろうとしたとき、道路がてらてらと光って見えた。

 油が浮いている。

 そう思ったときには、後輪がすべり、転ぶな、転ぶなとスローモーションのように唱えながら、バイクはこけ、オレの右足は、車体と地面に挟まれた。

 周囲を走っていた車が止まり、バス停にいたカップルが驚いて見ている。

 恥ずかしさが先にたって、大丈夫、大丈夫と手を振りながら立ち上がろうとして、右足に力が入らず倒れてしまった。

 右足がおかしな方向に折れ曲がっている。

 ああ、折れたんだな、となんとなく思ったとき、遠くに救急車のサイレンが聞こえてきた。

 全治2ヶ月。

 右足は骨折していた。

 その日から、オレは、救急車で運ばれたこの病院の世話になっている。

 事故を起こしてすぐには気が付かなかったが、右足以外にもあちこちに打ち身や擦り傷があり、すでに、入院して1ヶ月半以上経っているが、うっすらとあざが残っている。

 タバコの煙越しに見える月の片隅に、こちらを見つめている視線が映った。

 それは、オレの病室がある四階の廊下の窓からで、髪の長い女の子が睨んでいた。

 オレは、喫煙を見つかってしまった子供のように慌ててタバコを消すと、松葉杖を掴んで立ち上がった。

 警備室の脇の扉を抜け、居眠りしている警備員のモトハラさんのいびきをくぐって、エレベーターのボタンを押した。

 エレベーターのある一階のホールはひっそりしながらも、振り返れば何かがいるような冷たい空気がよどんでいる。

 小さなベルの音ともに開くエレベーターの扉は、嫌いだ。

 正面の鏡に何か映っていたらどうしよう、と考えてしまう。

 しかし、目の前の鏡には、髪がぼさぼさのオレと背後の暗く続くホールが映っているだけだった。

 オレは、松葉杖を使いながらも最速でエレベーターに乗り込み、四階のボタンを押した。

 夜になると聞こえるモーターのうなりを利きながら、階表示のランプを眺めているうちに、四階に着いた。

 扉が開くと目の前に、髪の長い女の子が立っていて、オレは、思わず「おうっ」と声を上げてしまった。

「まったく」

 女の子が睨んでいる。

「また、私を幽霊かなんかと思ってびっくりしたのね」

 オレは、エレベーターの箱から出ると、頭を振って、否定した。

「違う、違う。驚いてなんかいないよ、ミヨちゃん」

 ミヨは、オレの右側に立つと軽く腕を取った。支えてくれるつもりらしい。大きく揺れた髪から、花の香りがした。

「タバコなんか吸って。十二時過ぎたら、外に出たらいけないんだよ」

 支えると言うより、腕に寄りかかるようにして、ミヨがオレの顔を覗き込んだ。

 ミヨの体は、松葉杖のオレが気にならないほど、軽かった。

「オレは骨折だからね、別に禁煙は強制されてないもの」

「じゃあ、夜中にタバコを吸ってたって、先生に言いつけちゃお」

「おいおい」

 ミヨは、オレの腕を離すと、四階にある小さな談話室の扉を開けた。

 そこは、大部屋が並ぶ四階の病室に見舞い客なんかが来たときに、話をするスペースだ。

 ミヨがスイッチを押すと、蛍光灯が頼りなくついた。

 部屋の中には、向かい合わせに長椅子が置かれ、正面に、紙パックのジュースを売る小さな自動販売機があるだけだった。

「なんか飲むかい」

 オレは、ポケット探って、小銭を渡した。

「ううん、いらない」

「オレは、フルーツミックス」

 ミヨが、フルーツジュースのボタンを押した。

「ねえ、今日はどこに行った時の話?」

「そうだなあ。北海道に行った話はしたかな」

 ミヨが、首を振った。

 オレが、北海道の寒さや降雪のすごさ、旅先で出会った面白かった客の話をし始めると、ミヨは、楽しそうに目を輝かせた。


   ***


 ミヨとオレが知り合ったのは、入院して三日目だった。

 たいしたことはない、と言われながらも、手術を一回受けた。

 全身麻酔ではなかったが、手術後頭がもうろうとして、部屋の中でうとうとしていた時だ。

 ぼんやりした頭が花の香りを感じ目を開けると、髪の長い女の子がオレを覗き込んでいる。

 意識がはっきりしていれば驚いただろうが、まるで夢を見ているようだった。

「あ、生きてた」

 女の子は、うれしそうに笑った。

「・・・ああ、・・・そりゃ、骨折しただけだから」

「あなた、手術室を出てから、半日以上動かなかったわ」

「・・・頭がもうろうとしてね。・・・麻酔が合わないのかもしれない。・・・ところで、君は誰だい?」

 女の子の顔が見えなくなった。頭を横に向けると、ベッド脇の丸椅子に腰掛けていた。

「私はミヨ。一二歳。四〇一にいるの」

「・・・オレは武田」

「うん、知っている。ドアに名札が下がってるから」

「・・・君は、どこが悪いんだい?」

「うーん。全部かな。ずっと病院にいるから良くわからない」

 ひょっとしたら生まれてからずっと入院しているのかもしれない。確かに女の子は、青く透き通るような肌の色で、痩せていた。

「・・・いま、何時かな」

「えーと。十二時、夜中の」

 そうか、手術が終わったのが一六時ごろのはずだから、八時間も寝てたんだ。こりゃ眠れなくなっちゃぞと思ったし、そういや夕飯はどうなったんだとも思ったが、腹は減っていないし、半分眠ってる感じは変わらなかった。

「・・・ねえ、君は病室抜け出して大丈夫なの」

「ええ、十二時になると、四階の看護師さんはいなくなっちゃうから。四階は四人部屋の病室なんだけど、いま四階にいるは、四〇六のヨコミネさんと四〇八のあなた、そして私だけ。ヨコミネさんはおじいちゃんだから早く寝ちゃって起きないわ。もちろん、ナースコールを押せば、すぐに看護師さんは飛んでくるけど」

 なんとも、贅沢なことだ。どこの病院もベッド数が足りないんじゃなかったっけ、とか思ってるうちに、また、どうしても眠くなった。

「・・・なあ、悪いけど、眠くなっちゃったよ」

「ねえ、また、遊びに来ていい」

「・・・ああ・・・」

 ミヨが、おやすみ、と言った声を聞いたような気がして、意識が遠のいていった。


   ***


 それ以来、最初は三日に一回だったミヨとの真夜中の対談は、二日に一度になり、それもここ一週間は毎日だった。

 病院での暮らしが長いミヨが、外の世界、それも日本全国のあちこちの町の話を聞きたがったので、会話と言うよりは、オレがレクチャーをしているようだった。

 オレは、大学を出てから、小さな出版社に三年ほど在籍していたが辞めてしまった。独立と言えば聞こえがいいが体よくリストラされ、その後は僅かの伝手を頼って旅の雑誌などに簡単なレポートなどを書いて糊口を凌いでいる。だから、日本全部を知っているとまでは言わないが、それなりに日本の各地に出向いている。

 今日の北海道の話題は尽きかけ、そろそろと思って壁掛け時計を見たとき、ミヨが立ち上がった。時計は午前一時を指している。これは、いつもこと。

「今日は、もう寝ましょう」

 談話室を出て、ミヨは左、オレは右に歩みを進めた。これも、いつものこと。

 オレは、自分の部屋に入るときに、ミヨの方を見た。これは、いつもしない。

 四階は、四〇一から四〇八の七室で、四〇四は欠番。変わりに、エレベーターと談話室、ナースセンターやトイレ、リネン室などがある。

 だからミヨとオレの部屋は、この階の両端にあるのだ。

 暗い廊下の向こうに、ミヨの後姿がうっすらと見える。そして、四〇一のあたりで、その影が、すーと消えた。

まさかな。

俺の頭から血の毛が、すーと引いていった。


   ***


 担当の看護師さんとの出会いも衝撃的、いや、刺激的だった。

 ミヨと出会った翌朝、ショートカットに真っ赤な唇、白衣が小さいんじゃないのってくらい胸の大きな看護師さんが、銀色のトレイを持って、ベッドの脇に立っていた。熟れた果物の香りが病室内の漂う。

 前日のすっきりしない頭がウソのように、オレはすっきりと目覚めた。

「手術はうまくいったみたいですね。後で先生が見に来ますから、朝ごはんにしましょうか」

 オレよりもやや年上、三〇歳前後に見える看護師さんは、片手で器用にベッドの脇からテーブルを引っ張り出しトレイを置くと、ベッドのハンドルを回し始めた。

 ベッドの背もたれが上がり、トレイの上の食事が見えた。

 ロールパンに野菜ジュース、りんごが四分の一カットだけ載っていた。

「えーと・・・」

「はいー」

 看護師さんは、胸の名札を手で引っ張ってオレの目の前で振った。と言うことは、オレの目の前で白衣からあふれた淡い肌色の半円形もゆれていたと言うこと。

「えーと、あ、アサクラさん。食事ってこれだけ」

 このせりふを言う間、オレの視線はずっと、半月形を凝視してしまった。

「そうですよ。でも、元気みたいだから、お昼からは普通食にしてもらいましょうね」

 アサクラさんは、オレのテーブルの下をチラッと見て、フフフと笑った。

 オレは、ギブスで固定された右足のおかげで、身じろぎも出来ず、顔を真っ赤にして固まった。

 アサクラさんは、オレを赤ん坊のようにあやしながら、ロールパンをちぎっては、野菜ジュースと交互にオレの口に運んだ。

 りんごをかじると、少しは落ち着いてきた。

「ここ、四人部屋なんですよね。でも、入院はオレだけですか」

「ええ。三階まではそれなりに埋まってますけど、四階は空いてますよ。でも、相部屋よりも、一人のほうが気兼ねがなくていいでしょう」

 それはそうだ。

 あ、そう言えばミヨって子が、と言いかけて、オレは口に出すのをやめた。

 目まぐるしく頭を働かせる。

 ナースステーションに誰もいなくなってから、オレの部屋に来たと言っていた。長い間、入院しているようだし、告げ口をするようなことになって、禁足令でも出されたらかわいそう。

 そう思って、オレはりんごを口に押し込んだ。

「さあ、お体も拭きましょうね」

「えっ」

「当分、お風呂もシャワーも無理ですよ。お体を清潔にしないと」

 ベッドが戻され、寝巻きが脱がされた。

 温かいタオルが、ギブスをしている右足以外体中に当てられ、精一杯がんばってみたが体は正直に反応してしまった。

 アサクラさんは、フフフと笑った。


   ***


 翌日から、アサクラさんからのセクハラまがいの介助は続き、二人で食後の一服をやるほど仲良くなった。

 この病院の喫煙所は、一階駐車場脇だけだが、こっそり階段で屋上に上がる。

 手術後、車椅子の何日かを過ごして松葉杖になってから、階段を支えられて連れて行ってもらったのだ。もちろん、その時も大きな胸が押し付けられ、オレが凝視し、アサクラさんはフフフと笑った。

 普段は鍵がかかっている屋上だが、アサクラさんは鍵を持っていて、自分と一緒のときだけ出てもいいと言ってくれた。

 タバコもアサクラさんが分けてくれた。

 あんまり見ない銘柄だったが、オレはすっかりその味が気に入ってしまった。

 二人で、階段室の壁に寄りかかって、雲を見ながらタバコをくゆらすのが、食後の日課になっていた。

「いけいない看護師だよね、アタシ」

 いつも、アサクラさんは、このせりふでタバコに火をつける。

「アサクラさんは、いつも元気だね」

「まあ、健康で元気だけが取り柄ですから」

「看護師さんの仕事は大変でしょう」

「そうねえ。でも、私が落ち込んでたら、患者さんまで元気がなくなっちゃうでしょう」

「そうは言ったって、いつも明るく振舞うのは大変だろうなあと思って」

「だから、こうしてあなたとサボってる」

 と言うと、アサクラさんはフフフと笑った。

「なあ、アサクラさん、病院の怪談って本当にあるの?」

「どうしたの? なんか見ちゃったの?」

「いや、暗かったから見間違いかも知れないんだけど、女の子が廊下の端で消えたように見えたから」

「女の子?」

「うん。言おうかどうしようか、迷ってたんだけど、四〇一号室のミヨちゃん。長い間、入院しているから退屈なんだろうだろうね。オレの話を聞きたがってさ」

 アサクラさんは、オレの顔を見つめてきたけど、笑わなかった。

「いつも、十二時になると、オレを呼びに来てさ。大体一時くらいまで話しているんだけど、昨日、病室に戻る姿を見たら、四〇一の前くらいのところで見えなくなっちゃって。そういえば、昼間に見たことないし、よくなついてくれているんだけど、すごく透明な感じなんだよね。そう思ったら、ちょっと怖くなっちゃって」

 オレは、そう続けた。

 まだ、アサクラさんは笑わない。

「・・・四〇一は誰も入院してないよ」

「・・・」

 オレのくわえていたタバコが落ち、ギブスから飛び出ている右足の親指に当たって、飛び上がれないけど飛び上がった。

「四階は、四〇六の横峰さんとあなただけよ」

 これまで、旅先でも幽霊とかお化けとかを見たことも感じたこともなかったので、単純に背筋が凍る思いがした一方で、ミヨが幽霊みたいなものだとしたら、はかないけど確かな存在感があるものなのかとも思った。

「昔、入院していて、亡くなった子なのかな」

「さあ、私は聞いたことはないわ。どの病院でもそんな話があると聞いたことがあるけど、実際に話を聞いたのははじめてね」

 いつもは、一本で終わる食後の一服だったが、アサクラさんは、二本のタバコに火をつけると、一本をオレの口に押し込んだ。

 青い空に雲がゆっくり流れているのをしばらく見てから、オレは口を開いた。

「なあ、オレはどうしたらいいんだろう」

「うーん。あなたはどうしたいの?」

「そうだなあ。オレはミヨちゃんに害意を感じないんだよね。ただ、さびしいから話をしているだけって感じだし。どうせ、あと半月もしたら、オレは退院でしょ」

「どうかなあ。なんか見込まれちゃって、退院できないとかね。または、退院したときについていっちゃうとか」

「おいおい、勘弁してよ」

「そうだね。夕飯までになんか考えてみるわ」

 そう言って、アサクラさんは、また大きな胸を押し付けてきた。右脇を支えられ、喫煙タイムは終了だった。


   ***


 いつものように診察があって、昼食を食べて、タバコを吸って、まったりと時間が過ぎて、夕飯の時間になった。

 廊下に出るたびに四〇一号室の方を見ると、確かにひっそりとしていて、人の気配はない。

 あの、はかないけど、か弱いけど、でも、揺れ動くように精一杯の存在感を漂わせているミヨの気配はない。

 昼食の時にはアサクラさんに会えなかった。

 トイレに行って戻ると、ベッドのテーブルに昼食が置いてあり、食事後、うとうとして気がつくとテーブルは片付けてられていた。

 夕食を運んできたアサクラさんは、いつものように、明るく元気で、そして肉感的だった。

 ミヨの話はせずに、天気や色恋などのたわいもない話をしながら夕食を終えた。

 アサクラさんは、テーブルからトレイを下げると、代わりに三枚のお札を置いた。

 お札は、なにやら字が書いてあるが、梵字というのだろうか、まったく読めない。それに、紙は薄く日焼けしたように黄色くなっており、角は欠けていた。

「これ、効くみたいよ」

「えっ」

「ほら、女の子。ドアに張っておけば、もし、女の子が霊とかの類なら入って来れなくなってしまうみたい」

「入れないだけで退治しちゃうわけじゃないんだ」

 オレは、ミヨが退治されて傷つけられるわけではないと知り、ちょっとほっとしていた。

「優しいね。だから、憑かれちゃうんじゃない」

 アサクラさんは、フフフと笑った。

「三日。三日間会わなければ、女の子は、あなたを見つけられなくなっちゃうみたい」

 そうか、今日から三日。

 夜は、この部屋からでなければいいわけで、ミヨの青白い顔を思い出すとかわいそうな気もしたが、やはり幽霊に取り憑かれるかと思えば、止む得ないことと割り切った。

「早めにトイレを済ませ、水分の摂取を控えておいたほうがいいわ。これも置いておくけど」

 アサクラさんが、尿瓶を取り出した。

「じゃあ、タバコも吸っておきたいな」

「特別よ」

 アサクラさんに支えられて、屋上に向かった。


   ***


 正直、緊張もあったが、アサクラさんとミヨ以外の話をして病室に戻ると、少し落ち着いてきた。

 二人で、ドアの内側に三枚のお札を貼り付けた。

「じゃあ、明日の朝ね」

 アサクラさんが、ウィンクをして病室を出て行くと、テレビをつけて見るともなしに画面を眺めていたが、そのうち、眠ってしまったようだ。

 鼻孔に、花の香りが香った。

 ゆっくり目を開けると、病室のスライドドアがカタカタとゆれている。

 はめ込みのスリガラスに、髪の長い女の子のシルエットが映っている。

 しばらく音を立てていたドアの向こうから、ささやく声が聞こえてきた。

「武田さん。武田さん」

 答えてしまうと何か起きそうで、両手を口に当てて、布団に包まった。

 ドアを叩く小さなノックが続く。

 そして、ドアを開こうとするカタカタという音が続く。

 やはり、ミヨはこの世の存在ではなかった。

 古ぼけたお札を貼っただけで、鍵のかかっていないドアを開けることも出来ない。

 布団を被りガタガタ震えていると、しばらくして、ミヨの声とドアの音が聞こえなくなった。

 そうっと、布団から顔を出してドアを見ると、はめ込みのスリガラスの向こうには、暗い闇が見える。音を立てなくなったドアの真ん中に貼られたお札が二枚に減っていた。花の香りも消えている。

 ほっとしたのか、すぐに意識が遠のいていった。


   ***


 甘い果物の香りで目が覚めた。

 目の前にショートカットの笑顔があって、オレは、思わず「おうっ」と声を上げてしまった。

「まったく」

 アサクラさんが睨んでいる。

「私は幽霊なんかじゃないわ」

 ベッドが起こされ、テーブルがセットされて、朝食が置かれた。

「どうだった?」

「うん。ドアの向こうに来たよ。でも、中に入ってこれなかったみたい」

「そう、よかった。でも、あと二日よ」

「ああ、わかってる」

 そういった口に、ちぎったパンが押しこまれた。


   ***


 その夜も、その次の夜も、十二時になると花の香りがして、オレを呼ぶ声がして、ドアがなり、ノックが続いた。

 一日ごとに、その声は小さくなり、ドアは動かなくなった。

 三日目の一時に、こつっ、とノックの音が響き、最後のお札が下の方からちりちりと燃えるように消えていくのと同時に、花の香りもなくなった。

 すべてが終わると、何か哀れな感じがした。

 別に害があったわけでもないし、付き合ってやっても良かったんじゃないか。

 その時、甘い果物の香りがした気がした。


   ***


 次の夜、十二時を過ぎても何も起こらなかった。

 さらに次の日、ギブスが取れた。

 左足に比べ、右足は一回り小さくなったようだが、何とか自力で歩くことができた。

 今までに比べれば抜群の機動力だ。

 しかし、入院していることに変わりはないから、特にすることはない。

 せいぜい、タバコを吸いに行く回数が増えてたくらいだ。それに比例して、アサクラさんにせがんで分けてもらうタバコの量も増えている。

 喫煙所から戻っても、さすがに四〇一号室の前まで行く度胸はなかった。

 正直、ミヨが現れなくなっての三日間、なにか、物足りなさを感じていた。

 仮に、退院してオレについて来たとしても、わびしいアパートでの一人暮らし、困ることもなかったのではないだろうか。

 たとえ子供だとしても、あんなに長い時間、オレの話を聞き入ってくれるような、友人もいなかった。

 そんな、日常へ後二日で戻らなくてはならない。

 ぼんやり考えているうちに寝てしまったようだ。

「夕飯の時間ですよ」

 アサクラさんは、オレの鼻をつまんで起こした。

「ねえ、アサクラさん。あのお札ってどこから持ってきてくれたの?」

 最後の一口を口に入れたまま、オレは尋ねた。

「どうして」

 アサクラさんが、ベッドに腰掛けた。

「いや。効果てきめんだったじゃない。あんなものって簡単に手に入るのかなぁって」

「そうね。こういう仕事をしているといろいろとね」

 アサクラさんは、オレの顎に手をかけた。柔らかい手がすべる。

「ふーん。なんかさ、ミヨって子、かわいそうに思えちゃって。別に害があったわけでもないし。オレのほうも、真夜中の対談がなくなっちゃってさびしくなっちゃったっていうか」

「そういうとこに付け込まれるんだろうな」

 アサクラさんが、フフフと笑って、食事を下げていった。

 その晩、いつものように、テレビを見ているうちにうとうとしていると、突然、甘い果物の香りがにおいたってきた。

 オレは、はっとして目を開いた。

 目の前にショートカットの笑顔があって、オレは、思わず「おうっ」と声を上げてしまった。

「まったく」

 アサクラさんが睨んでいる。

「私は幽霊なんかじゃないわ」

「ああ。でも、なに? どうして?」

「さびしいんでしょう」

 甘い果物の香りは、強烈に鼻に入ってくる。

 アサクラさんは、足もとからベッドに登ってくると、オレの寝巻きをめくって顔を胸にうずめてきた。

「なに? なに?」

 オレは事態がつかめなかったが、大きな胸を押し付けれた股間は正直に反応してしまった。

「じっと、してて」

 甘い香りは、甘美な快感へ変わっていった。


   ***


 幽霊とは縁が切れたし、年上の色っぽい彼女ができた。

 彼女なんて言ったら怒られるかな。

 アサクラさんとあんなことになるなら、もっと入院していたいたかったなぁ。

 退院の手続きは終わったが、なかなか会計の順番が回ってこないので、タバコを吸いに駐車場側へ出た。

 出版業界の不況はひどいもんだが、事故にあう前日、俺にしては大きな仕事だった、九州方面への風俗レポを兼ねた取材旅行の報酬と経費が入金され銀行から下ろしたばかりだったから、財布には国民健康保険証とともに金が入っていたので、金銭的には困らなかった。

「確か今日が退院でなかったですか」

 オレがタバコに火をつけると、制服を着込んだおっさんが声を掛けてきた。

 警備員のモトハラさんだ。警備室は喫煙所から病院内に入る通用口にあったから、何度か話している。

 なんでも、長くどっかの工場で勤めていたそうで、定年退職後、警備員となり、この病院に来てからすでに五年は経っているとのことだった。

「ええ。今、会計中」

「それは、それは。若いから病院で寝ているのにも飽きてしまったでしょう」

「まあ確かにね、ただ、寝ているだけじゃ、ね」

 オレは、ね、のところでモトハラさんにウインクした。

 モトハラさんには意味が通じたようだ。

「はあー、そりゃお若いですな。で、どの娘です、ねえ」

「いあや、それはちょっと」

「いいじゃありませんか、どうせ今日で退院でしょ。年寄りの慰みに教えてやってくださいよ。あなたとわたしの仲じゃありませんか」

 そんな親しい間ではないはずだ。

 でも、アサクラさんのことは、誰でもいいから自慢したい。

「ホントに、本人にも、周りにもわからないようにしてくださいよ」

「大丈夫です。心得ております」

 モトハラさんは、最後は敬礼までした。

「わかりましたよ。えーと、四階の・・・」

 モトハラさんの顔色がさっと変わったので、言葉が止まってしまった。

「あんた、年寄りをからかわないでください」

「え、なに」

「この病院は三階建て」

 モトハラさんと一緒に下から窓の数を数えると、確かに三階までしかない。

「えー」

 モトハラさんはぶつぶつ言いながら、病院内に戻ってしまった。

 オレもタバコを捨て病院内に戻り、館内案内図を見ると、やはり三階までしかない。

 ちょうど会計窓口で名前を呼ばれたので、金を払いながら、事務員にも確認すると、「三階建てです」と睨まれてしまった。


   ***


 キツネにつままれたような気分とはこのことだろうか。

 ミヨだけでなく、アサクラさんやいつも部屋に戻る後姿しか見たことのないヨコミネさんもこの世の存在ではなかったのだろうか。

 オレは、自分の手をまじまじと見た。

 この手からあふれていた張りのいい乳房はなんだったんだ。

 両手を突き出してモミモミするように動かしながら、ふらふらと病院前のコンビニへ道路を渡った。

 この病院のある地番は、家からかなり離れている。携帯電話は家においてきてしまったので、コンビニ前の公衆電話から、タクシーを呼ぼうと思ったのだ。

 店内から、店員と女性客がじっとこちらを見ているのと視線があって、慌てて手をポケットに突っ込んで小銭を取りだした。

 公衆電話に張ってあるタクシー会社に電話した。

「はい、○○交通です」

「すみません。車を一台お願いします」

「はい、どちらまで」

「あけぼの町からみどり町まで」

「あけぼの町のどこからです」

「あけぼの総合病院の前から」

「・・・あけぼの・・・病院・・・」

「ええ、あけぼの総合病院」

 オレはそう言って、病院のほうを振り向いたが、言葉が止まった。

 電話口で声が続いている。

「お客さん。あけぼの総合病院なんて随分前に潰れてますよ」

 ここ二カ月暮らしてきた病院は、まったくの廃墟として、オレの目の前に寂れた姿を晒していた。

「どうすんの、お客さん。あけぼの総合病院の廃墟前まで行くのかね」

「あ、あ、じゃあ、その廃墟前のコンビニに」

「はい、コンビニね。お名前は」

 名乗って電話を切った。

 日が落ち突然寒くなってきたので、コンビニに入った。

 挙動のおかしいオレを、店員も女性客も明らかに怪しんでいる。

 オレは、入り口近くの雑誌を取って読む振りをしながら、目の前の廃墟を見ていた。

 窓にはガラスも入ってなく、ぽっかりと開いた暗闇から、ミヨもアサクラさんも顔を出さない。

 ほどなく車のライトがコンビニの駐車場に映ったので、雑誌を戻してコンビニから出た。

 タクシーは、キュキュとタイヤを鳴らし、オレの目の前に滑り込むとドアが開いた。

「武田さん?」

「はい」

 乗り込むとすぐにドアが閉まり、道路に出た。

「みどり町でよかったんだよね」

「ええ」

 すぐに、病院の廃墟は見えなくなっていった。

 運転手は何度もオレの姿をバックミラーで確認した。

「いやあ、びっくりしたよ。あんな真っ暗な中から走って出て来るんだもんな。あんちゃんもやっぱり不思議スポット探検の人かい」

「いえ。違いますよ」

 廃墟に入院していたなんて、口が滑っても言えない。

「あそこは街道に面してっけどだめなんだぁ。いろいろと看板は変わるけど長続きはしねえんだ」

「看板が変わるって病院のほかになにがあったんですか」

「病院? バカ言うなよ、あんちゃん。昔っから、あのあたりにゃ病院なんかねえぞ。あんたが出てきたコンビニだよ。その前がラーメン屋で、その前がエッチなビデオとか本とか売る店で。とにかく続かねえんだ。ところで、あんたあんな真っ暗中でなにしてたの? ねえ」

 なにも見えない車窓に目をやり、オレは、なんだか、とてもめんどくさくなってしまった。

ぐるぐる回る世界が楽しいかなぁと。

まあ、最後はめんどくさくなるんですが(笑)

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