図書館の恋 4
「……どうしよう」
ここ数か月で見慣れたマンションの前にあるガードレールに腰掛けながら、有也は小さく呟いた。
思い立って来たものの、いざ目的地を目の前にすると頭は一気に冷静になる。
突発的に来て、祐は会ってくれるのだろうか。
携帯電話で連絡をすればすぐに解決することだとわかってはいても、声を聞いてしまえば奮い起こした勇気が萎むのは目に見えている。
明日会うのだから、と弱い自分が何度も囁く。
祐と約束をした時間に話せばいいのだと。
でもそれでは祐が「いつも通り」を演出してくる気がするのだ。
有也に逃げ道を示すために。
だからこそ、今回だけは有也自身が、彼に推測されないうちに動く必要があるのだ。
そして問題はもう一つ。
「いなかったらどうしよう……」
オートロックのエントランスはマンションの出入りに合わせれば入れるし、ダメもとで家の前まで行くことはできる。
祐が居なければそれでいいが、もしも祐の母親が出てきたら怪しまれるに違いない。
もうしばらく様子を見ていたら、祐が帰ってくるだろうか。
だが、ここに長く居ては不審人物に思われるだろう。
「―――有也くん、だよね?」
目的の部屋あたりを見上げながら唸っていると、ふいにすぐ近くで声をかけられた。びくっと反応しつつ顔を向けると、小首を傾げた女性が立っている。
「……祐の、お母さん?」
「よかった、人違いだったら恥ずかしいなって思ってたのよ。こんなところでどうしたの? 祐と待ち合わせ?」
あら、でも出かけるようなことは言ってなかったわね。
息子との会話を思い出している様子に、有也はどう対応するべきかと迷う。
貴女の息子に思っていることをぶつけに来ました、とはさすがに言えない。
「あの……今日は約束じゃなくて……」
口籠っていると、何かを察した様子で彼女は何度か頷く。
「もしかして溜息大王の原因は有也くん?」
溜息大王、という聞きなれない称号に、有也は目を瞬く。
「……え?」
「ここしばらく溜息ばかりで困ってたのよ。試験の出来がそんなに悪いのかしらって思ってたんだけど、あの子のことだからそこそこは取ってくるだろうし」
男の子同士ならいくつになっても喧嘩はありよね。
何かを納得した彼女は親らしい笑みを浮かべ、改めて有也に向き直る。
「有也くん、ここまで来てくれたってことは馬鹿息子と話してくれるの?」
「あの……はい、そのつもりです」
「ありがとう。あそこの鍵の解除をするから、会ってやってくれる? おばさん、これから夜勤で出かけるのよ。いつ帰ってくるとか気にしないで、思う存分言い合ってきてちょうだい」
言うなり有也の腕を取りエントランスに向けて歩き出す。
今後の流れがあっという間に作り出されてしまい、有也は戸惑うより先に苦笑を浮かべた。
さすが祐の母親だ、と納得してしまったことを嫌がられたのは、少し後のことだ。
有也の心知らず、彼女は息子の友人に笑いかけた。
「何なら泊ってくれて構わないわよ。ご両親へは後日のお礼になってしまうけれど」
「いや、いらないですっ」
「大人はそんなわけにいかないの。―――はい、解除できた」
自動扉を開けた彼女に促されて、有也は建物内に足を入れた。
「じゃ、おばさんは仕事に行くから。あとはよろしくね」
颯爽と歩き出したその背中に、ありがとうございます、と声をかければひらひらと手を振られる。その姿が遠くなるのを待ってから、有也はエレベータへと足を向けた。
程なくやってきたエレベータに乗り込み、目的階数のパネルを押す。増えていく階数表示を見上げながら、有也は祐母の言葉を思い返していた。
『溜息大王の原因は有也くん?』
余裕があるように見えた祐が、有也のことで悩んだというのなら。同じだけの時間をお互いのことで占めるなんて、贅沢としか言いようがない。
「まあ、わかんないけどね」
原因が有也かどうかは、祐にしかわからない。
そうだといいな、と希望するのは悪いことでないはずだ。
エレベータを降り、目的の部屋の前にたどり着いた有也は深呼吸を繰り返した。
扉越しに聞こえるチャイムに、固唾を飲んで中の反応を待つ。
「―――鍵持ってんのに何、わざわ……ざ………」
どうやら母親が忘れ物をしたものだと思ったらしい。
インターフォン越しの対応ではなく面倒そうに扉を開けた祐が、その状態で固まった。
「有也……?」
名前を呼ばれた瞬間、有也は両手を伸ばして祐に抱きつく。
勢いに負けた祐が有也をかばいつつ尻餅をつくのと、有也の背後で扉が閉まるのはほぼ同時だった。