図書館の恋 1
「………ダメだ」
有也は本を読むのを諦め、だらしなくソファに体を横たえた。そのまま居間の明かりを避けるようにうつ伏せになる。
頭の中に文字が入ってこない。
今日もようやく本が読める時間が取れたのに、同じページばかりを繰り返し読んでは冒頭に戻る、を繰り返している。
借りてきた本はまだ一冊も読破できていないどころか、一冊目の半分にも未到達だ。
「せっかく融通を利かせてもらったのにな……」
手にした本はシリーズものの新刊で、司書に入荷日を教えてもらってすぐに予約をさせてもらったのだ。図書館の持ち主である北條高校の生徒より先に借りるなんて、本来ならあり得ない特別措置だろう。
貸出許可は一週間。こんな調子で、果たしてその期限までに読み終わるのだろうか。
無意識に出た溜息に、有也の気分はますます落ち込む。
ここ数日で溜息の数がかなり増えたと思う。
否、確実に増えた。
家にいるときも、授業を受けているときも、学校から解放される放課後や休日でも―――要するに、四六時中。
人に言われて初めて溜息をついていることを知るのだから、そろそろ癖になりつつあるような気さえする。
鬱陶しいと言われることさえ珍しくなくなったのだから、重症だろうか。
もちろん溜息が好きなわけではない。
だからといって、はいそうですか、と減らすこともできない。
溜息の原因を無くすことが手っ取り早い対処法だとわかっている。
わかってはいるけれども。
「―――ちゃん、有兄ちゃんってば!!」
予告なく背中へかかった重圧に、有也は一気に物思いから戻された。
呻きながら視線をやれば、一番下の弟、知也が全体重を容赦なくかけている。慌てて体を起こそうとすれば、それを嫌がるようにますます体を密着させてきた。
「重いっ! おまえ、自分の体重わかってないのか!?」
次の4月で小学校最終学年となる知也は、順調に身体的成長を遂げている。幼児の頃のように全力でかかられるには、事前の心構えが必要なほどだ。
背中から振り落とそうと足掻くが、いいポジションを取られていてはそれもできない。逆にその振動を面白がってしがみ付かれてしまう。
無駄な抵抗と気づいてあっさり力尽きると、腰のあたりに重心を移した弟から不満の声が上がった。
「なんだよー、有兄ちゃんよわっちい」
「いいからどけって!!」
「えー? だって罰ゲームだもん」
「……は?」
予想していなかった弟の言葉に、思わず動きを止める。
なんで背中にのっかかられることが罰ゲームになるのか。
「だってぇ」
「兄貴、魚が炭化した」
知也の言葉を引き継ぐように、台所から声が届いた。見れば、上の弟である恒也が証拠とばかりに皿に乗せた魚を持ち上げている。
「あ………」
そこにあるのは、先ほど有也がグリルに入れた鯵だ。
焼きあがるまでの時間を有効活用するべく、本に手を伸ばしてここにいたはずで。
反射的に壁時計へ視線を向けると、時刻は思っているより進んでいる。
「うわ、ごめん、今から違うの何か作って……」
「それはいいけど……今日ってハンバーグじゃなかったっけ? 知也が昨日リクエストしてたよな?」
「なー」
弟たちの会話に、有也は確かに罰ゲームだ、と小さく呟いた。自分の悩みはともかく、家族の生活に影響をするのはまずい。
残念なことに、焼き魚を失敗したからといって、ハンバーグを作れるほどの材料は冷蔵庫になかったはずだ。
体を動かす仕草をすれば、知也が軽く体重を浮かす。それに合わせて起き上がり、有也は弟を膝に乗せた。
「知也ごめんな。ハンバーグは明日でもいいか?」
「……今日は無理?」
「材料がないからな。今週の給食にカレーがなかったら、両方作るよ」
約束を破った代わりに、明日の夕食に知也の好きな一品を付けると明言する。
「絶対?」
「絶対。恒也も明日はそれでいいか?」
キッチンカウンターの向こうにいる上の弟に視線を向けると、彼は肩を竦めてみせた。
「俺は何でもいいよ。兄貴のカレー好きだし。とりあえず今日はどうすんの?」
「残りの魚は父さんたちの分だから唐揚げでも作るか。……肉ばっかり続くのは良くないんだけどなぁ」
「俺は肉のほうが嬉しいけどね」
「お前は何でも食べるだろ。ほら、知也、降りて」
知也が床へ足をつけたのを確認してから、有也はソファから立ち上がった。ぐっと伸びをして凝り固まった筋肉を解してから台所へ向かう。
「知也、テーブルを拭いて箸を並べてくれるか? 恒也、冷蔵庫にサラダがあるから全員分を取り分けて」
今は個人的な悩みを考える時間ではなく、長男として動く時間だ。
弟たちに指示を出しながら、失敗したおかずの代わりを作るべく冷蔵庫を開けた。