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待ち合わせは静かな場所で

ぴんと張り詰めた空気が漂う場所、図書館。

ぱらぱらとページを捲る音だけが響き、咳払いさえ雑音となってしまう静けさが、そこには存在する。

その沈黙を苦手とする人も多いようだが、久住有也(くずみゆうや)にとってはむしろ歓迎すべきものである。

静けさが重宝されるのは、読書に集中しているのを邪魔されたくないから。彼らは外部の音で、せっかく閉じこもっていた読書の世界が壊されるのを恐れているからに他ならない。

もともと騒ぐような場所ではないし、一冊の本についてグループで話したいのならば場所を移れというだけのことだ。そもそも、読書自体が個人で行うものなのだから、わいわいと過ごしたいというのが間違いだろう。


活字中毒の有也にとって図書館は宝庫であり、自分の世界に浸れる時間であり、何よりも学生の限られたお小遣いを助けてくれる貴重な場所である。

そんな有也が出入りしているのはここ、私立北條高校に隣接する付属の図書館である。

有也の住む地区は駅の反対側と近いものの、通う高校は二駅先の公立校。三人兄弟の久住家には、所謂坊ちゃん校と呼ばれる北條高校に通う経済的余裕はない。

部外者の有也がここに通えるのは、この図書館が外部の人間にも解放されているからだ。ただし高校生以上、同じ市内に在住・在学・在勤している人物という条件があり、それさえ満たせば入館はもちろん、本を借ることもできる。

蔵書数で比べれば市立図書館のほうが勝るのだが、有也は好んでこちらを利用している。それというのもキッズルーム化が著しく、特に日曜日の図書館は子供用の一角から独特の甲高い騒ぎ声が響き渡るからだ。それを嗜める声はなく、騒いだら騒ぎっぱなし。たまに中途半端に大きな声で曖昧な注意をする親の声もまた癇に障る。

以前なら声を出した瞬間に注意されたものだが、近年は利用者増大を目的にしているのか司書も注意をしない。

もともと平日は共働きである母親の代わりに弟たちの世話をしていて、週末しか通えない有也にとって、市立図書館は憩いの場所ではなくなった。

特に距離が近いわけでもなく、そんな環境に飽き飽きしていた有也が高校生になると同時に手続きをとったのも当然のことだ。

ただし、日曜日はここの閉館日のため利用ができないため、今は土曜日だけが有也の図書館日である。

日ごろの家事から解放され、自分の世界に浸る唯一の時間。設置されている椅子に座ってじっくりと読むのが至福の時でもある。

ところが、最近少しだけ変化の兆しを見せ始めていた。




「ここ、空いてる?」

突然頭上から降ってきた、有也はびくっと身体ごと反応した。制服を着た声の主は振り返った有也ににこりと笑いかける。

有也が陣取っているのは、ゆとりある二人がけソファだ。その空いている部分を示され、許可が下りるのを彼は待っている。まだどこか緊張した面持ちで頷くと、彼は苦笑と共に呟いた。

「少しくらい声出してくれてもいいだろ?」

「……いつも勝手に座ってくるくせに」

「たまにはきちんと断ってみようかと思ってね」

肩を竦めるその仕草が様になっていて、有也は意図的に呆れた視線を向けた。

新藤祐(しんどうたすく)という名の彼は、この図書館を所有する私立高校の二年生で、公立校に通う有也とは何のつながりもない。

彼と話をするようになったのは、半年ほど前のこと。

顔見知りになった司書から新刊が入る日程を聞いていて、珍しく平日に顔を出したことがあった。並ぶ新刊から目当ての物を見つけたその時、一瞬早く別の手に抜き取られてしまう。

思わず批難の声を上げてしまった有也に気づいた彼は、バツが悪そうに言った。

『もしかしてこれを取ろうとしてた?』

『……う、ん。そうなんだけど……』

『でも、俺もこれ読みたいんだよね。――――君さ、読むの速いほう? これくらいのハードカバーを読むのに結構時間かかる?』

『? 二、三日あれば十分だけど?』

『それだったら、はい、先にいいよ』

『え? でも、先に手に取ったのはそっちだし……』

『俺、読むの遅いから先にどうぞ。でも、できれば返すときに教えてくれるかな? すぐに借りたいんだ。君はうちの生徒じゃないよね? 次はいつ来る予定? そのときまでには読み終わるかな?』

『土曜、だけど……あ、本は読み終わると思う』

『何時でも平気? だったらお昼頃入り口で待ち合わせしよう』

これが、最初に交わした会話である。

強引に日程まで決められて、呆気に取られたのは確かだ。だが、本を譲ってもらった有也が逆らえるはずもなく、素直に言われた日時で訪れた有也を彼は笑顔で迎えた。来てくれてありがとう、とお礼付きで。


以来、顔をあわせば挨拶を交わすようになり、こうして並びあって本を読む仲にまで進展した。

そうは言っても、今のように側に座るようになったのもここ数ヶ月のこと。だからといって、この場で言葉のラリーを続けたりはしない。お互いに自分の世界で文字を追い、気が向けば休憩を一緒に取る。最近は一緒に退館をして、駅までの道程を歩くことも多くなった。

彼と会話をするのは楽しいし、何より隣りにいてお互いにテンポを乱すこともない。居心地がいいと感じる反面、有也は彼との距離に戸惑いを抱くようになった。

例えば、有也が本を読んでいると、祐側から横顔に視線を感じることがある。時々視線が絡むこともあるが、彼は小さく笑って何事もなかったかのように本へと向かうのだ。

気のせいだと思いつつも、回数が増えるにつれて疑問符が有也の中で踊る。

見られていると思うのは、やはり、自意識過剰なのだろうか。

「今日は何読んでるの?」

突如耳元で聞こえた声に有也は勢いよく顔を上げる。思った以上に近くにあった祐の顔に目が釘付けになり、問われたことを理解するまでに時間がかかった。

咄嗟に自分が読んでいる本を二人の間に立て、その表紙を彼に見せる。すると、なぜか衝立代わりとなった本の向こうで、溜息の落ちた気配があった。

「―――……?」

どうしたんだろう、と顔を本の陰からこっそり覗く。しかし、そこにはいつもと変わらない表情の彼がいた。




一度本の世界にのめりこんでしまうと、有也は余程のことがないかぎり外部の音を拾わなくなる。

家族にとっては迷惑以外の何物でもないのだが、祐に言わせれば集中力の権化らしい。誉められている気がしないと文句を言ったら、彼は慌てたように言葉を探していたのを覚えている。

昼過ぎから読み続けていた分厚い本を閉じ、ゆっくりと息を吐き出した。ずっと同じ姿勢でいたせいか、肩と首が特に痛い。凝った場所を指で揉み解しながら、有也は隣りの席を見やる。そこは案の定空席で、祐の姿はない。

本は好きだが、集中力がもたない。だからある程度読み進めては適度に休憩を取るのだと、胸を張って言う祐に呆れたことがある。

「…………俺も休憩しよう」

財布を手に取り、有也は立ち上がった。


例にもれず館内は飲食禁止だが、図書館の入り口近くに休憩コーナーがある。そこにはパイプ椅子とソファ、自動販売機が設置されており、初めて見たときは「これだから私立は……」なとど思ったものだ。

有也がそこに近づいていくと、聞き覚えのある声が耳に届いた。どうやら知り合いと話をしているらしい。テンポのいい言葉のやり取りに、有也は入っていくことを躊躇し足を止めた。

しばらく逡巡したが、彼らの会話は途切れない。このまま立ち聞きするのもなんだろうと、席まで戻ろうと足を踏み出した。

「それで、未だに進展はないのか?」

「……余計なお世話です」

祐のどこか拗ねたような声音に、有也の足はぴたりと止まった。

進展、ということは祐が誰かに片想いをしているということだろうか。それとも、すでに付き合っている相手なのか。

どちらにしても、有也が聞いていいはずがない。それなのに、身体は有也の意思に反して有也をこの場所に縛り続ける。

「へぇ? 俺に助けを求めてきたのは誰だっけ?」

「ええ、今はすごく後悔してますよ。こうしてからかわれてるし……」

「可愛くないやつだね、おまえ」

そう言いながらも、気分を害した雰囲気はない。きっと彼らにとって、これがいつもの空気なのだろう。

「おまえがここまで夢中になるなんて、他のやつらは信じられないだろうな。あの子のどこがいいんだ? 同じ学年なら羽丘のほうが美人だろう?」

「先輩も怖いもの知らずですね。あいつの耳に入ったらただじゃ済みませんよ」

「これくらいで羽丘の視界に入るなら本望だね」

「それでは、ご希望通り伝えておいてあげますよ」

くすくすと笑い合う声を聞きながら、羽丘、と出てきた名前を小さく呟いてみる。

祐の口から出たことのないその名前の持ち主は、どうやら祐の意中の人ではないらしい。

だが、先輩と呼ばれる人物も知っているのなら、同じ学校の生徒だろうか。

血液が全力疾走しているみたいに、心臓の鼓動が早くなる。

「それで? どこがいいんだって?」

「……まだ覚えていたんですか」

「当たり前だろう」

「本気で、勿体無くて教えたくないんですよね」

「協力の手間賃代わりにそれくらい教えろよ。別に減るもんじゃないし、いいだろ?」

彼の言葉に、有也は無意識に息を詰めた。

一瞬悩むような沈黙が舞い降りたあと、祐の声が柔らかく響く。

「素直なところかな。……面白いくらい表情が変わるんですよね。無意識だからこそ、周りに惜しまずそれを見せていて……たまに誰にも見せたくなります」

ズキン、と音を立てて胸が痛んだ。それは一度だけではなくて、何度も繰り返し有也を苛む。

「うわー、独占欲丸出し! 今からそんなんじゃ疎まれるぞ」

「それも困りますよね。俺としてはもう逃がさないつもりだし」

よろけるように、有也は震える足で一歩踏み出した。一度動いてしまえば呪縛は解けてしまい、その場から必死になって逃げる。

彼らの声の届かないところへ、少しでも早く行きたかった。


精一杯の理性が働いたおかげで辛うじて館内で走らずに済んだが、席に戻った有也の顔色は優れない。二人の分の荷物が置かれたソファを前に立った有也は、一呼吸分置いてから荷物を纏め始めた。

血液が何時になく有也の鼓動を速めていて、読書をする気分は全て吹き飛んだ。

読み終わったものだけでなく手元にあった本を適当な位置に戻し、有也は慌しく出口へと向かう。

「あれ? 久住?」

間の悪いことに、祐が図書館に戻ってくるところと遭遇した。その後ろには顔見知りの司書の姿もある。彼は祐に何事か囁いたあと、有也に手を振ってから立ち去った。

彼が話し相手だったのだろうか。そう思った瞬間、途端に祐の言葉が脳裏を過ぎる。

―――俺としてはもう逃がさないつもりだし。

自分には関係のない話だ。それなのに、どうしてこんなに頭の中が祐の言葉で埋め尽くされてしまうのか。

強張る顔をどうすることもできなくて、有也は視線を足元へと向けた。その視界の中に、彼のつま先が映る。

「もう帰るの? いつもより時間が早いじゃないか」

「……うん、ちょっと……」

「どうしたんだ? 顔色が良くない――――……っ」

善意で伸ばされた手を咄嗟に振り払った。思った以上に強い力で祐の手を弾き、しんとした場所に大きく響く。

予想をしていなかったのだろう、祐が驚いたように目を瞠った。当事者の有也もまた、呆然と振り上げた手を見つめる。

突如落ちてきた重たい空気が、二人の間に隔たりを作り上げる。

「……ごめ、ん」

掠れた声で辛うじて音を出し、有也はその場から一歩退く。それを契機に踵を返し、必死で走り出した。

「おい、……―――久住!!」

背中越しに祐の呼び止める声が聞こえても、有也の足は止まらない。

当然、祐がどんな表情で彼を見送ったのか、彼は知る由もなかった。




翌日、有也はかつて経験したことがないほど最悪な寝起きで朝を迎えた。目覚し時計の音が容赦なく寝不足な頭に響き、有也のテンションは更に下降する。

当然朝食を取る気にもならなくて、有也はいつもよりずっと早い時間に家を後にした。

胸の内に溜まる鬱憤を吹き飛ばすように、自転車を猛スピードでこぎ始める。晩秋の冷たい風でごちゃごちゃしている頭をすっきりさせたかった。

家で休めればどんなに楽だろう。実際、母親も欠席することを薦めていた。だが、今のこの状態で家にいても、何の変化も望めない。意識的に動いていなければ彼らの会話が蘇り、目を瞑ればそれを話しているときの祐の表情を想像してしまう。どんなにほかの事を浮かべようとしても、何時しか同じ事ばかり考えているのだ。

それほど、祐の言葉に囚われている。

まだ見ぬ、情報の少ない相手を想像しては、有也の胸はきりきりと痛んだ。それは時間を追うごとに強くなり、その度に胸へと手が伸びる。

祐の想いを、その相手はどんな風に受け止めるのだろう。

それほどの言葉を贈る相手に出会えた祐を羨ましいと思い―――言われた相手を妬ましいと思ってしまった。

こんなことがないかぎり、自分でもきっと気づかなかっただろう想い。

一度自覚した感情はそう簡単に有也から離れてはいかない。それは起きているときだけでなく眠っているときでも容赦なく有也を苛む。

おかげで今日は睡眠不足が表に出ているし、食欲も湧かなかった。きっと今頃母親が心配のあまり父親に相談しているに違いない。

帰宅した後のことを考えると、余分な溜息までついてしまう。


複雑な胸中を抱えながら自転車を進めた有也は、校門が見えたところで急激にペースを落とした。

始業時間にはまだ時間があるため、今は部活に遅れた生徒くらいしか通らない。その中に、異質な人影があった。

校門の脇に寄りかかり、登校する生徒を眺めては視線を戻す。大勢の生徒に見られながらもその位置から動こうとしないその人物は、ふと視線を感じたようにこちらを見つめた。

見慣れた制服ではなく、初めて見る私服。

「………新藤」

どうして彼の姿をこんな時間にこんな場所で見るのだろう。

素朴な疑問に思考が囚われ、採るべき行動の判断が遅れた。慌ててその場から逃げ出そうとする有也を、早足で近づいてきた彼の腕が捕まえる。二の腕と自転車とを掴んだ彼は、正面から有也を見つめてきた。

「逃げることないだろう?」

「……逃げてなんか、ない」

「そう? それなら少しくらい話に付き合ってもらえそうだな」

軽く笑みを浮かべていながらも、その瞳は逆らうことを許そうとはしない。気圧されるまま頷くと、彼は荷物ごと自転車を押しだした。当然腕を捕まれたままの有也は引っ張られる形でついて行くことになる。

「新藤、どこに行くつもり……」

「落ち着かないから、とりあえず学校から離れよう」

一度も視線を向けることなく歩き続ける祐の横顔は何の感情も浮かんではいない。だが、どことなく怒っているような雰囲気が彼を取り巻いている。


少し離れた場所にある児童公園を見つけると、祐は奥まったところにあるベンチへと足を向けた。座って、と促されるままベンチに腰をかける。祐はというと、止めた自転車を背に有也を見下ろすように立った。

二人の間にある無言の空気が重くて、有也は気まずげに話を振ってみる。

「あの……新藤、学校は?」

「サボった。朝を逃したら久住を捕まえられないと思ったし」

わざわざ高校の前で待ち伏せをしていたくらいなのだから、何か有也に言いたいことがあるのだろう。それなのに、彼は一言も発しないままじっと有也を見つめている。

その視線に痺れを切らしたのは有也だった。

「―――で?」

「『で』って?」

「なんでわざわざ私服でうちの高校の前にいたの? 学校は?」

友人以上の感情を自覚してしまった今、祐本人を前にして落ち着いていられる自信はない。

言葉を取り繕う気にもなれず、口から出た言葉は何の感情も篭められていなかった。

自分の心を誤魔化すためにほぼ睨みつけるような形で顔を上げると、祐が口の端に微苦笑が浮かべる。

「具合が悪そうだったのと……様子がおかしかったから気になったんだ。その反応だと、俺が何かしたみたいだな?」

「別に……何も」

そう、祐が悪いわけではない。確かに祐に関係することではあるけれども、全ては有也の問題なのだ。

有也と祐の関係は、図書館で偶然であった相手というだけで、それ以下でもそれ以上でもない。それなのに彼に心配をしてもらえたという薄暗い喜びが、有也の心を更に苦しめる。

後ろめたい気持ちが言葉となって出て行きそうで、有也は視線を逸らした。

「……新藤も、損な性格だよね。たかが図書館で一緒になるだけの人間を相手に、気にしなくていいのにさ」

わざと呆れた口調を作り、有也は笑みを浮かべてみせた。

今の有也には自らを戒め、痛めることでしか自分の心を隠せない。自分の言葉が凶器となって心を傷つけたとしても、気づいてしまった想いを封印してしまいたい。

会話をする気がないのだと諦めて、立ち去ってくれればいい。

有也の願いは叶わず、代わりに真摯な声音が振ってきた。

「それだけの相手だったら、気になんてするわけないだろう」

「―――――……?」

「おまえさ、本当に偶然だと思っていた? 俺が時間をあわせて図書館に通っていたとかは考えないの?」

「し、んどう……?」

言いながら、祐が一歩距離を縮めてきた。砂を踏む音がやけに耳について、思わず有也は身を竦める。

ぎゅっと視界を閉じたすぐ側で、空気が流れた。目を開けると、跪いた祐が真剣な表情で有也を見つめている。

状況も忘れて見惚れかけた有也を、彼の一言が我に返らせた。

「俺は、おまえに会うためだけに通ってたんだ」

祐の告白めいた言葉に胸が期待で高鳴る。

だが、有也は即座に彼の言葉を否定した。

「この―――――うそつき」

どうして、そんなわかりきった嘘をつくのだろう。

先輩である司書に対して、あれだけ相手に対する想いを口にしていたではないか。それなのに、有也に対してどうして甘い言葉を向けるのか。

どうせなら突き放してくれればいい。それなのに、彼はこうして有也を捉えようとする。

酷い男だと思う。

彼の言葉を信じたがっている自分が可哀想だと思った。

「嘘っておまえ……人が真剣に―――――……久住?」

怒鳴りかけた彼の口調ががらりと変わる。心配そうに見つめてくる彼の瞳に自分が映るのを見て―――驚いた。

「……なんで?」

無意識のうちに溢れ出した涙が頬を伝い、膝の上に染みを作る。それは一つ二つではなく、無数に広がっていった。

昨日からいろいろな事を考えすぎて、頭がとうとうパニックを起こしたのだろうか。

自分でそれを拭うこともできずに呆然とそれらを見つめていると、ふいに視界が影で覆われた。ぎゅっと力強く抱きしめられた後、背後に回った掌が有也を宥めるように叩く。

取り巻く空気が優しくて、有也は思わず目を瞑る。

頬にあたるジャケットのボタンが痛い。けれども、それを不快とは思わなかった。


「……嘘って、どういうこと? 俺は、おまえに嘘をついた覚えがないんだけれど」

有也の肩が震えを帯びなくなった頃、祐が口を開いた。

傷ついたというような感情が込められていて、有也の心臓がきりきりと痛む。

「俺は、おまえに何かをしたのか?」

懇願に似た響きが切なくて、硬く目を瞑る。

「それとも、俺の告白は迷惑だったか?」

男同士で気持ち悪かったのか、と自嘲気味に呟かれ、有也はとうとう首を横に振った。

「久住?」

「……聞いたんだ」

「聞いたって、何を?」

「新藤があの司書の人と話をしていたのを……その、自販機の側のところで」

あの時、司書の彼が言っていたではないか。

『俺に助けを求めてきたくせに』

つまりは、彼が祐のために一肌脱いだということだろう。それほどまでしてその人物と近づきたかったはずだ。それなのに、どうして祐が有也に告白めいたことを告げるのか。

「もう、他の誰かと付き合ってるんだろう? それなのに、何で俺にそんなことを言うんだよ?!」

「ちょっと、待てよ! 俺が誰と付き合ってるって?」

「だから、あの先輩って人に協力をしてもらったっていう相手―――」

思い出しただけで目頭が熱くなる。涙声になりそうで言葉を飲み込んだ有也は、次の瞬間勢い良く彼の胸元から引き離された。

「それ、おまえのことだぞ!!」




今、祐は何と言った?

有也の聞き間違い出なければ……。

「――――――……俺?」

そうだよ、と強い語気で言い切った祐は、それまでの勢いを押し止めるように深い息を吐いた。

「おまえが、何をどう勘違いしたのかはわかんないけれど、俺が好きなのは久住有也、おまえだけだよ」

重ねられた告白が、ようやく有也の心を刺激する。どくどくと驚く程の速さで心臓が動き、有也の顔を赤く染め上げた。

それに気づいた祐が表情を少しだけ柔らかくする。

「気になることがあるなら言ってみろよ。ちゃんと答えるから」

「……協力って、何のこと?」

司書の彼が何か働きかけをしていたようだが、有也には当然その心当たりがない。

「普段土曜日にしか来ない久住が、新刊の入る日だけは平日に来るだろう? 先輩にいつも何時ごろ来るのかを見ておいてもらって、タイミングを計っていたんだ」

それは、初めて会った日を言っているのだろうか。

彼がそれ以前から有也を見知っていたというのなら、彼にとっては計画を実行した日ということになる。

考えてみれば彼はすぐ隣りの高校に通っているのだから、用事は平日に済ましてしまえばいい。土曜という休みの日に制服を着て、わざわざ図書館に通うというのは不自然だと今頃思えてくる。

仕組まれた「偶然」に、有也の心は喜んで良いものか驚くべきところなのか判断に迷う。

「……進展がどうとか言ってたのは?」

「進展、しただろう? 挨拶から話すようになって、駅まで一緒に帰るようになったしな」

それを進展というのだろうか。

呆れた視線を向けると、彼は気まずそうに顔を逸らした。そうやって誤魔化そうとしているのは一目瞭然で、きっと拗ねたような表情をしているだろうことは想像できる。

祐は有也のことを「素直」と表現していたが、祐こそが「素直」だ。

大人びているかと思えば、子供っぽい仕草をする。

そんな彼を可愛いと感じるし―――好きだと思った。

それだけ有也を苦しめていた思いはいずこかへ消え、代わりに温かい感情が有也の中を埋め尽くす。

もう彼に対して疑いの気持ちはない。だからこそ、やりたいことがある。

衝動に流されるまま、有也の手が彼のジャケットを掴んだ。それに気づいた彼が振り向くのを待って、有也は口を開く。

「もう一度、言ってよ」

「久住?」

「……だめ、かな?」

今なら正面から受け止められるから。

そうすれば、有也も一歩前進できる気がする。

俯きがちに視線を向けると、彼は何やら考えるような仕草をした。間をおいて、わざとらしい咳払いをする。



「―――有也が、好きだ」



「うん……俺も、祐が好きだよ」






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