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虚無と慣性

 そいつは、ある朝東方の上空に生まれ、ぼくらの共同体に忍びよってきた。

「東の大陸に発生した今年度の『涯て無き終わり』またの名を『終わり無き涯て』は、南南西に進路を取り、時速六十キロで、わたしたちの共同体へとにじり寄ってきます」

 TVをみてたぼくは、「ふうん」とつぶやいて、トーストをかじった。

 雨の朝だった。

TVの中の「涯て無き終わり」またの名を「終わり無き涯て」の巨大な漆黒のうねりは、ぼくらの共同体の端っこに飛来し、港湾や砂浜を、のっそりと練り歩き、そこに存在する建造物や人々を潰していく。

「けどご安心ください、我われも視聴者のあなた方も安全です。だってホラ、我われはこうして“彼ら”の上陸の様子を放送している訳ですから。放送しているということは、安心ということです。だって、我われメディアがあなた方にこれを伝えることを認めた以上、それは国民のあなた方にとって無害な情報であることを担保するからです。あなた方だって、ホラ、そうやって平穏な顔で、このニュースを見てるでしょう?」

 いつもの辛口コメンテーターが、いつものように浮ついてわめいている。

 遠くで、バキバキバキ、メキメキ、と、いろいろなものが潰れる音がする。TVでは“彼ら”もしくは“やつら”はたまた“あいつ”、すなわち「涯て無き終わり」または「終わり無き涯て」が、そのタールのようなもっさりした容態で、触手を延ばしながら、ビルや家屋、商店を次々飲みこんでいく様子が逐一放映されている。

 笑って携帯で写メを撮っていた高校生たちが、笑いながら「涯て無き終わり」または「終わり無き涯て」に飲みこまれていた。

「うわー、まじ?」

「リアル、リアル」

「ありえねーんだけど!」

 彼らは最後まで携帯を離さず、これが現実でないと思ってるかのように「涯て無き終わり」または「終わり無き涯て」に取り込まれ、もまれ、虚無へ向けて排泄されていった。

「ありゃりゃ、これまじで、やばいんじゃないか」ぼくは牛乳を飲みながら呟いた。「大学の授業、サボってもいいんじゃない?」

「けど、まだ隣の町で起こってることでしょ?」そばに座るカズミが言った。「レポート出さなくちゃ、単位落とすよ」

 ぼくはため息をつき、言った。

「それもそうか…就活にひびくしな」

 メールが来た。タツヤからだ。

「今夜の飲み会、『涯て無き終わり』または『終わり無き涯て』の接近のため、中止にしよう」簡潔にそう書いてあった。

「まじかよ」

 ぼくはメールを見てため息をついた。

「ほら、もう出ないと学校に遅れるって」

 カズミがせかす。

「ああ」

 ぼくも仕方なく、靴を履いた。1DKのアパートは、狭い。

「タツヤ、隣町だけど大丈夫かな」

 彼女は空を見上げ、傘を取りだした。

「大丈夫だろ。だって、ちゃんとメールして来てんだし」

「それもそうね」

 ぼくらは駅へ向かった。


 電車は、比較的混んでいた。

 本を読む人、子供を抱く人、大家族連れ、カップル、サラリーマン、たくさんの人たちが無言で座り、立ち、それぞれの“仕事”に没頭している。

 車内の広告兼ニュースの映像では、「『涯て無き終わり』またの名を『終わり無き涯て』、いよいよ我が町に」と題して、端正な顔だちのニュース・キャスターと、不遜な表情をした解説者が、スタジオのモニターで政治家の記者会見の模様を見つめていた。

「ええ、『涯て無き終わり』またの名を『終わり無き涯て』の現時点での、あくまで将来的な可変性をも考慮した状況ですが、形状が正方形の完全球面体であり、直径三十センチ、半径五十キロの広がりをもって我が町へ迅速ににじり寄っているということですが、あー、これは政府の想定の範囲内であり、国民の皆さまにおかれましては、何ら憂慮する類のものではありません」

「帝都大学のフジワラ教授、官邸のクロダ報道官は、一昨日は半径三十キロの広がりなら想定の範囲内だし、それよりも広がらなければ問題ない、と言っていましたが、現在の『涯て無き終わり』またの名を『終わり無き涯て』の大きさは既に、半径五十キロにまで達してる訳なのですが…」

「たしかにおっしゃる通りです。まあ、我われの想定の範囲というものは、元もとかなり過少に想定されているものでして、多少その想定の範囲を超えたところで、ただちに我々の日常生活が根底から覆されるものではない、そう言えなくもないと申し上げるのは、やぶさかではない次第なのであります」

「しかし一昨日は、『憂慮すべきこの事態の経過を、注意深く見守らなければ』と、おっしゃっていた気がするのですが」

「ですから状況をより注意深く見守ることは見守りますが、過度にさわぎたてることは、分別ある市民的な行動とは言えなくもない訳ですよ」

 電車の窓からは、「涯て無き終わり」もしくは「終わり無き涯て」が、明るくも漆黒の、重量感ある軽やかな様子で、数十キロの範囲にわたりその体躯を広げ、町をおおい包み込もうとしているのが、遠いビル群の向こうに見えた。

 電車の人々は、落ち着いて本を読んだり音楽を聴いたり、おしゃべりをしたりしていた。気づいてはいるのに、だれも窓外の“あいつ”に目をやる人はいない。


 大学では、先生が悠然とコーヒーをすすりながら、泰然と文化史の講義を始めた。

「平和な時が長くつづくと、平和ボケだなんだという状況に陥りかねない、とよく言われる。しかし私はそうは思わない。人間には、生への強い欲求がある。きちんとした主体がある。レミングのように主体性のない、集団の意識に飲み込まれるような行動をとるはずなどないのです」

 ぼくは、片手で無料の携帯ゲームを楽しみながら、「そう言う先生も、平和な戦後生まれだ」などとつぶやいていた。

「けどタツヤから、返信来ないね」

 カズミが言う。

「ああ。どうでもいーけどな」

 ぼくは、ゲームに夢中だ。


 “あいつ”はもう、大学のそばにその巨体をもたげていた。キャンパスが、バキバキバキ、重い音を立てて飲みこまれていく。この大教室にも、事務職員が駆け込んできた。

「みなさん、逃げてください。避難してください! 『涯て無き終わり』またの名を『終わり無き涯て』が、すぐそこまで押し寄せています!」

 それでもしばらくは、ぼくらはきょとんとしていた。

「なんだよ、結局あとで、『無事に通り過ぎました』なんてオチだろ」

「そんな必死こくことかよ」

 ぼくら学生は、なかなか腰をあげようとしない。

「落ち着くんだ、みんな。大戦後の平和な時代にあっても、我われは生存の欲求や感性が麻痺したわけじゃないんです。それは、最近のチンパンジーを使った欧州での実験でも明らかになりつつあって」

 まどろんだような目で講義を続ける先生の足元に”やつら”の黒い触手が忍び寄るのを見て、ぼくらも渋々席を立ちはじめた。

「農耕民族のDNAのためという説も、最近は否定されていて…」

 そう言い残し、先生が飲みこまれていく。

 ぼくらものろのろと、逃げた。

「なんだよ」

「かったりーな」

 数十メートルの背後に、柔らかくて、堅そうな“あいつ”が迫ってきた。

「じゃ、後で学食集合、な」

 そう言っていた隣の金髪の学生が、“あいつ”に飲みこまれた。

「やばい」

 “あいつ”の漆黒の闇に、ぼくも足を取られた。気がつくとカズミも飲まれ、目をつぶっている。

「おい」

 そう言ってカズミの手を引っ張ろうとする。漆黒が首にまとわりついてきた。

「まじかよ。ゲームじゃねえんだから」

 自虐的に笑う間もなく、ぼくも漆黒に飲まれ、虚無へと排泄されていった。


 町中のTV局では、まだニュースが続いていた。

 中継画面で、リポーターが叫ぶ。

「ご覧ください、この巨大かつささやかな『涯て無き終わり』そして『終わり無き涯て』!」

 そう言う眼の前の大通りには、「涯て無き終わり」もしくは「終わり無き涯て」が、数百メートルの高さに伸びあがり、目の前のTV局を包み込もうとしていた。

「ほら、カメラ、カメラ」

 そう叫ぶと、リポーターは嬉々として“そいつ”を見上げた。

「こんな映画のような現象が、いま現実に目の前で起きているのです」と言いつつも、まるで想定していたショーを見るかのように恍惚の目をしている。「まるで虚構です」

 しかしカメラマンが

「やばい!」

 そう叫んだ瞬間、「涯て無き終わり」もしくは「終わり無き涯て」は一気に長く短い触手を伸ばし、リポーターを包み込んだ。

 カメラマンが百八十度視点を回転させ、それまで背後だった方角に走り出す。映像が上下にガクガク揺れた。周囲の逃げ惑う人々も大勢映っている。

「うわっ」

 画面外から声が聞こえると、カメラマンが転倒し、画面が地面を水平に写しだした。

 老若男女の足が映っているが、やがてそれらの足足が漆黒にからめ取られ、画面も真っ黒になった。

「現場のモリタさん、モリタさん…」アイドルのような顔立ちの女性アナウンサーは、再びスタジオ内のカメラ目線になると、落ち着いて呟いた。「現場は混乱を極めている模様です」

 再び隣の老解説者に向き直ると、聞いた。

「…しかし、今回の“彼ら”、これは既に我々の足元にまで忍び寄っている訳ですが、ここで注意すべきポイントは、何でしょうか、タナカ先生」

「ううん、まあ、政府の発表では、まだ彼らの形而上学的影響は、我われの深層心理にまでは及んでないということですから、これは、とりわけ注意すべきレベルのものではあるけれども、しかしまだ、本当に重篤な状況という訳ではないと、私は考える訳でありまして」

「しかしそれではいったい、我われの深層心理がどれ位の数値まで冒されれば、『本当に重篤な状況』と言えるのでしょうか? 先生」

 アナウンサーの声が、やや色を為した。

 そういう間にも、スタジオの床に「涯て無き終わり」もしくは「終わり無き涯て」が忍び寄ってきている。

「ですからそれはまた、明確な数値と状況の変化を基に、今後、適切に検討していくことが肝要でありまして…」

 老解説者がモソモソと話す間にも、彼の足元は漆黒の影で満たされた。

「ええ、スタジオ内にも、『涯て無き終わり』またの名を『終わり無き涯て』が侵入して参りました」

「おや、これは、いけませんな…」

 両ひざまで漆黒で包み込まれた老練な解説者は、立ち上がり、一歩を踏み出そうとするが、既にそれはかなわない。

「ええ、首相官邸の様子は、どうなんでしょうか。現場のショウジさん、ショウジさあん!」

 女性アナウンサーがやや顔を紅潮させ、叫ぶ。

 画面が切り替わるが、「首相官邸」とテロップが入る以外は、漆黒に飲みこまれ、攪拌され水銀様の流動体の中をただよう、スーツ姿の政治家たちの背中があった。

 アナウンサーは再び目の前のカメラを見つめ、きれいな眼鏡越しに眉をひそめた。

「ええ…ただ今、中継がつながらない模様です。スタジオもそろそろあぶなくなってきましたので、ここで失礼したいと思います」

 隣にいた解説者は既に漆黒にからめ取られ、虚無になっている。アナウンサーは立ち上がる。

「ありえない」という独り言をマイクが拾った瞬間、アナウンサーは、“あいつ”すなわち「涯て無き終わり」もしくは「終わり無き涯て」、つまり漆黒に、わっと飲みこまれた。

 カメラの画面の中も、漆黒一色に塗りつぶされた。カメラはそれでも回っていた。ひとり回り続けていた。人は絶え、見わたすかぎり、ただただ、漆黒の本流と濁流があるだけになった。

 そしてこの世が全て虚無になり、上澄みのように世界の天井にかかっていた「虚構」という認識の霧が鎮静化し、ようやく「現実」が訪れたころ、「虚構」そのものだったカメラもその動きを止めた。


2011年3月28日に書いた作品です。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 今の社会状況を風刺していて笑えました。本当に本作と同じくらい無知無策な奴が多いですよね。 「まだ隣の町で起こってることでしょ?」 「これは政府の想定の範囲内であり、国民の皆さまにおかれま…
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