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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

現実それは夢

作者: 中元悠介

 陽ざしが人々を照り付けて自然と目を細めてしまうような陽気の朝、人々はそれぞれ自分の役割を果たすために今日も歩みを進めていた。

 ある人は数学を学びに友達と昨日のテレビの話題で盛り上がりながら学校へと向かい、ある人は取引先との交渉に向けた準備の為にスマホを耳に当て忙しそうに会社へと向かい、ある人は自分自身の役割もわからず、ただ流されるがままに歩みを進める。

 それでも誰もが誰かの為に学び、働き、生きているそんな世界だと朝の鬱蒼とした気分の中でふと思ってしまう。

 無限とも思え車通りの激しさが耳から頭に響く道を進みようやく辿り着いた駅は皆が皆の行き場所も目的もわからず複雑で看板も人もいなければ一度入ったら抜け出せないアリの巣のような場所。

 そこですれ違う人々は誰もがただ自分の目的地へと歩みを進めていて、それは柊優二にとっても同じで引っ越しをしてから他の路線には乗ったことのない柊はこのアリの巣の全体像も把握しないまま今日も自分の勤務先へと向かう路線の電車へと乗り込む。

 忙しなく機械音が鳴り響く改札を颯爽と抜け電光掲示板に一瞬だけ見えた現在時刻より二分後に到着の表示が見える。それまでアリの群に揃って歩いていた柊は、その群の列から飛び出すように急いでホームへの階段を駆け上がる。

 次第に大きく早くなる心拍数を気にする余裕もないまま、既に空きのない電車の中の人が目の前で流れゆくのを目で追いながら長蛇の列の最後尾へと並ぶ。

 電車がゆっくりと止まりホームドアと電車のドアが開くと溢れ出すように人が出てくる。

 ここからその溢れ出て空いた少ない空間に向かって歩まなければならないのだと思うと階段を駆け上がってその軽く汗ばんだ身体が委縮する。

 列の最後に並んでいた柊の入るスペースはほぼないと言っていいもので、入っていると言うよりも押し込まれて入れられているというような状態に苛立ちと相当な不快感を覚える。

 ドアが閉まるとそれまでほんのりと感じていた人々の匂いが充満し、嗅覚を刺激する。

 複数の香水の混ざった匂いと汗や加齢臭の匂い、それだけならまだしも目の前にいる人からは煙草の匂いもしている。

 そうして人と人の間で立たされている状況が続く中、次々と何度も駅に停まる度に柊は一度外へと出て電車の内側にいる人が出るための空間を確保するという時間が30分程続きようやく柊の勤務地の最寄り駅で終点の駅に着くころには人もまばらになっていた。

 そうしてまだ仕事すら始まってないのに体力がかなり消耗された人々が一斉に溢れ出ると、柊もその群に乗りまたも忙しなく機械音の鳴り響く改札を通り抜け電車に乗る前にも眩しかった陽ざしがより一層人々を苦しめまいとするように、気温も日差しの下で立っているだけで汗ばむほどになっていた。

 そんな晴天の下で動かしたくもない足は自然と前へと動き、そのせいで行きたくもない勤務先へと近づいていく。

 柊は現代の忙しくて常に画面を見続けて他者とのコミュニケーションや情報に触れることを強いられてしまう日常の中で唯一、一人きりになれてかつ視覚情報は足元だけという最小限の思考で済む状況だと認識していた。

 行きたくないけれどその自分一人になれる時間が好きで嫌いで柊にはなんとも表現できない時間が続いていて欲しいと願ってしまっているのである。

 足元に一粒の水滴が落ちるのが見えた。

 「雨?」

 柊は空を見上げるが全くの憎らしいほどの晴天で雲一つない空に違和感を抱くも、柊にとって続いてほしい時間は儚くも短く過ぎていき、勤務先へと到着した。

 ここが一か月ほど前から柊の勤務する新都市開発の最先端であるユニブルーと呼ばれるエリアで、柊はここのユニブルーの一角であるビル建設の現場監督を務めているのだ。

 待つのが嫌いな柊は始業開始の時間までの待機時間をできるだけ無くそうと時間ギリギリで来ているので今日も始業まであと十分というとても短い時間の中で、仮設テントにある自分の作業服に着替えて今日の段取りというのを確認し始めた。

 「おはようございます!」

 そう言いながら仮設テントの中に勢いよく入ってくる従業員。

 「おはよう」

 柊は従業員の声の五分の一程の声量でそう挨拶を返す。

 「先輩、いつにも増して声ちっさいっすね!」

 「お前がでかすぎるんだよ」

 「それにしてもなんか疲れてませんか?なんか泣いた後みたいな表情っすよ」

 泣いた後…?そういわれた瞬間、柊は自分の目を擦ってみるが涙なんか顔のどこにもなかった。

 「いや、あくまで例えっすから!」

 「そうか…」

 柊は記憶にない表情の原因を頭の中を必死に巡らせて考えてみるが、今日の陽ざしと暑さのせいもあって頭が全く回らなくて次第に無気力感と苛立ちに支配されそうになってきたのに気づいた。

 「それはそうと、始業まであと二分しかないが大丈夫か?」

 その言葉を聞いた従業員は腕時計を見て慌てて仮説テントの奥へと駆け足で入っていく、果たして着替えもしてないで今日の業務内容も把握してないだろうに間に合うのだろうか、そんなことは柊には全く関心のないことだった。

 泣いた後みたいな表情…そのなんともない言葉だけが妙に柊の中でこだましていた。

 

 そんな記憶に存在しもしない理由を考えながら一日の業務が終了した。

 一層疲れた表情の従業員たちは仮設テントに戻りヘルメットを外すとその表情にあった疲れは身体へと伝う。

 「今日、ハードだったっすねぇ!」

 「いつもじゃないっすか?」

 「それはそうっすね」

 そういった会話が背中からする中で柊は機械的に今日の出来事を業務日報に書き纏めて、ダラダラと喋る従業員の誰よりも早く着替えて荷物の支度をして仮設テントを無言のまま出ていった。

 「リーダー、いつにも増して早くね?」

 「そうっすね…明日休みだからっすかね?」

 柊が出ていった瞬間に放ったその一言で静まり返った仮設テントに残された従業員は皆が入口の方を見て同じことを思っていたことだろう。

 そんな静まり返った空間もつかの間、従業員たちはお喋りを再開してまたガヤガヤと賑やかとなる仮設テントを背に柊はひたすら家に帰ることを想像して、来た道、乗ってきた電車をそのまま戻って家へと帰宅した。

 柊は道中、今朝とは一変して周りで起きていた酔っぱらいの喧嘩や別路線の運転見合わせのアナウンス、それらなにもかも情報として頭に残さないほど泣いたあとの表情について考えていた。

 玄関に着いた瞬間、そこまで一日考えてようやく思い出した。

 「俺の涙?」

 行きの電車を降りた後、暑さと陽ざしが身体を苦しめていたあの道中に落ちた一粒の水滴、柊は雨かなんかだと思って流していたが、今考えればあの状況で雨なんて降る訳なく、他に水滴が降ってきそうな建物もなかったのだ。

 なぜそこのタイミングで泣いたのかはわからないが、記憶の限りそこ以外考えられないのだ。

 それは一日中考えていた柊自身が一番分かっていることであった。

 泣いた後の表情になっていた理由はわかったが、理由は全く持って謎のままでそれは涙の存在が柊を悩ませることに変わりはなかった。

 いつもは惣菜を買って、冷凍してあるご飯を解凍してその間にインスタント味噌汁にお湯を注いで出来上がる夕飯は、スーパーに寄り道せず帰った今日は存在しなかった。

 そんなことお構いなしで蒸し暑くて堪らない部屋を冷やすためにエアコンを付けて部屋が涼しくなる時間にと汗で気持ち悪くなった身体をシャワーだけ浴びて流そうと柊はシャワールームに入った。

 どうして泣いていたのかはわからないが、わからないなりに自分の疑問に対して回答を模索しなければならないと感じていた。

 勿論、それは従業員に泣いていた表情と嘲笑られたと思ったとか、この年にもなって泣くのは恥ずかしいとかそういった理由ではなく、これまでの柊の人生において自然と涙が出てきてなんで泣いているのか聞かれてようやく気付くことがあったからである。

 その涙の理由と自分が気づかない理由について毎回考えるのだが、毎回それが解決に至る前に忘れるかどうでもよくなってしまって、それも連続的に起こらないために毎回忘れるというものなのだ。

 前回、原因不明の涙に気付いたのはいつだったかはっきりは思い出せないもののそれが半年ほど前ということまでは覚えていた。

 その時は友達との飲み会の待ち合わせをしている際になんで泣いているのか聞かれたのだ。

 電車が各駅だが一本早く乗れたのでそれに乗って待ち合わせの店の前にあったベンチに座って夜空を眺めていた時に時間通りにやってきた友達に

 「なに空見て泣いてんの?」

 そう言われたのだ、そのときも柊は理由がわからなかったがまただと思ったし理由を考えてみようと思ったが飲み会というのもあって会話が盛り上がりそれどころではなくなって、かつ酒を飲んでいたので酩酊状態、まともに考えられる訳がなかった。

 そうした理由もあって前回は忘れていたが、前々回はどうだっただろうかと考えているうちににも体に当たるシャワーは出続けていた。

 シャワーが勿体ないという事実にようやく気付いた柊は涙の理由はまた後で考えよう、そう思って気分転換に鼻歌を歌いながらシャワーを浴びて、大量の汗をかいた頭と首からつま先までを洗ってしっかりと泡が残らないように流し、シャワールームを出た。

 バスタオルで全身を包み歌う鼻歌は一曲目のままサビを繰り返し続けるだけになっていた。

 柊は昔から一つの曲をずっと繰り返して聞いて、よく親や友達に飽きないの?と聞かれていたし、同じ曲ばかりを再生して聞くものだから一向に新しい曲というのを聞かないのでカラオケに行っても何を歌うか毎回悩んでいたのだ。

 その癖からか、最近聞いているエレクトロスイング系の曲のサビを繰り返しては繰り返しともしここに他の人がいたらきっと相当な苦情が入っていることだろう。

 幸いなことに柊の同居者は居らず、1年前にユニブルーの開発への転勤を命じられてから引っ越してきたこのマンションにはまだ部屋の隅に段ボールが二箱ほど積まれているままで、その中身というのが柊の学生時代の教科書や本などの娯楽品であったりもう着なくなってしまった服などが入っていた。

 柊自身はミニマリストとまではいかなくとも日常生活では使わないような邪魔なだけの荷物は持ってきたくもなかったのだが、もともと実家がアパート住みで柊が出ていくタイミングで両親も二人用のマンションへと引っ越しするとなり、止む無く自身の私物を持ってこれるだけ持ってきたというのが理由だ。

 そこまで執着や思い出ががある訳でもないが、捨てるかと聞かれたらそれは少し躊躇うような荷物、それこそ卒業アルバムや昔好きだったおもちゃや流行が少し過ぎてしまった服などばかりが柊の部屋を埋めている。

 そんな部屋でバスタオルで頭を拭きながら、首がよれてくたくたになって裾は少し解れているような部屋着に着替える。 

 引っ越しの際に新品を買い替えるから要らないと両親から貰ったお古の電気ポットに水を入れて沸かし始める間にパソコンの電源を付ける。

 モニターの画面が付いてログインパスワードを入力し、OSが立ち上がり自然とマウスは検索エンジンのショートカットへと向かい、後ろで電気ポットの中でお湯が沸いている音がする中、検索エンジンのホーム画面がモニターに映る。

 カチッと電気ポットのお湯が沸いた音が鳴った瞬間、柊の手が止まる。

 「あれ、何調べようとしたんだっけ?」

 忘れた。

 さっきまで覚えていたはずなのに、なにか大事なことでそれを調べるためにそのことだけを一日中考えて、惣菜も買わずにご飯も食べずに汗で気持ち悪かった身体だけシャワーで流して、それでパソコンを付けて何を調べようとしたんだ?

 柊の中に焦りが生じる。

 エアコンの効いた部屋で柊の身体は内側から熱されるように熱くなってくる。

 今さっきシャワーに入ったばかりなのに、冷や汗が額を伝って顎に到達する、その時間が一瞬とも感じられる時間を柊の身体は硬直して動かなかった。

 忘れちゃいけない、きっと忘れたらいけないことを忘れてる。

 身体は硬直する一方で頭の中はその思考だけが巡り、次第になにで焦っているのかもわからなくなってくる。

 もう駄目だ。

 柊の中で諦めという気持ちが次第に大きくなっていく。

 葛藤だった。

 諦めてしまうのは簡単で、これからエレクトロスイングの曲を流しながら、何事もなかったかのように紅茶を飲むために沸かしておいたお湯を使って家にある残り一つのインスタントラーメンを作って夕飯をパソコンの前で済ます。

 そして早めの帰宅、早めのシャワー、早めの夕飯で明日は休みなのをいいことにネット友達と朝までゲームをしたっていい。

 それ以外にも最近は忙しくてできてなかった料理を今から買い物に行って挑戦してみてもいいし、時間を自由に使えるだろう。

 その一方で忘れちゃいけないことを今頭をフル回転させて思い出さないとまた忘れると思っていても、次第に焦りも水に墨汁を入れて薄めるように不均等に薄まっていき、忘れちゃいけないという感情も焦りの薄まりと共に薄まっていく。

 この経験を柊は他のことでもしたことがあることに気付く、それは人によって意識の差はあれども誰でもこれまでの人生においてしたことのある経験だろう。

 それが「夢」だ。

 夢、それは生きる人にとって睡眠時に無意識的に起こることであって今の科学では未だに全て解明されていない生理現象だ。

 ある人は神からの啓示を受ける時間だとし、ある人は起きている時に感じた記憶の整理の時間だとし、ある人は深層心理に存在する自分の理想だとする。

 実際のところの答えはわからないがそんな中でも皆が共通していることがある。

 それは夢の中で起きたことは夢の中ではっきりと鮮明に映るのに、夢から覚めて起きるとその内容というのはさっき起こったようなのにも関わらず曖昧で、時間が経つほどその内容はゆっくりと忘れていき曖昧になっていく、最終的にはどんな内容だったかを完全に忘れ思い出すこともしなくなっていく。

 柊が感じていた感覚はその夢に似ていたのだ。

 けれど柊に起こったことは現実のはずで歩いている最中に落ちた涙の存在に気づかず、従業員の後輩にそのことを示唆する指摘をされて、そのことに大きな違和感を覚えて一日中考えた結果ようやくその指摘の理由である涙の存在に気付いた。

 その後に涙の理由を考えようとしていた、ここまで全て柊に起こったことは誰が聞いても疑いもない事実であり、現実だった。

 この感覚は夢か、そう感じた柊はそれまで硬直して動かなかった身体がようやく動く。

 強張って上がっていた両肩がスッと降りて自然な形へと戻り、眉間に皺が寄り口はぽかんと開きモニターを見つめる瞬きすら忘れていた顔には自然と安堵した表情とモニターを見続けたことによる眼球の乾燥を潤すように瞼が落ちて視界は暗闇に包まれる。

 よかった。夢みたいなものか。

 そう納得した柊は安堵したのか一日中思考をフル回転させていた反動として疲れがどっと襲ってきた。

 感覚がゆっくりと薄くなっていき、思考することもままならないまま、意識がブラックアウトした。




 鳥のさえずりで目が覚める。なんだか長い夢を見ていたような気がするが、どうにも思い出せない。

 それよりも昨日の体育の時間で久しぶりに全力で走ったせいか全身、特に脚が筋肉痛で身体を起こすこともままならない。

 なにが持久走だ。

 そう思いつつも意外といい成績を残せた自分に対しては誇らしげに感じる部分があった、そう考えればこの筋肉痛は努力の証ともいえる。

 努力賞、そうだったら今日の学校は休めるのかというとそんなことはないので、この筋肉痛でガチガチに固まった身体をどうにか起こし上げてベッドから立ち上がらなければならない。

 アラームが鳴り始める。いつもなら枕元にあるはずのアラームが今はどうしてか足元の方で鳴っている。このアラームはボタンを押すまで十五分は鳴り続けることを知っている。

 以前にもアラームが鳴る前に起きて部屋を出てからトイレに行き、そこから軽い朝ご飯まで食べてから部屋に戻った際、まだ鳴っていたのだ。

 そしてこのアラーム、最初は小さな音でかつゆっくり音が鳴るのだが、次第に大きな音で早くなっていくので嫌でも起きて止めないと相当な不快感を得るようにできているのだ。

 普段ならそれで起きれるからいいのだが、いまではもう既に起きているのにも関わらずなり続けるアラームはどんどんと音が大きく早くなり、次第に苛立ちを覚え始める。

 朝からこんな苛立つなんてついてない。

 鳥のさえずりで起きて気分がいいと思ったのも束の間、今となっては全身の筋肉痛と学校へ行かなければいかないという憂鬱感に加え足元で鳴り響くアラーム、もう全てが最悪だった。

 どうにかして上半身を起こす。

 早くアラームを止めないと、こいつはうるさすぎる。

 その一心で足元にあるアラームを手に取り、ようやく止めることができた。

 一苦労でようやく部屋には静寂が訪れたと思った瞬間。

 「尊~ご飯できてるからね!!」

 母親からの声が一階のリビングから二階の部屋のドアを貫通してはっきりと聞こえてくる。

 そんなことを言わなくなって毎食用意してくれてるのは分かってるし、いつも起きるっていう時間とほぼ同じに声を掛けてくるのは偶然じゃなく、温かいご飯を食べさせてあげたいという母親の優しさなんだろうと思う。

 「はーい、今行く」

 出来るだけ大きな声で返事をするが、朝なのと普段から大きな声を出さない性格なのもあっていつも届いているのかいないのかわからない。

 せっかく温かいご飯を用意してくれてるのだから急ごうとベッドから床に足を持ってきて立ち上がろうとするも、筋肉痛のせいでゆっくりとしか動けない。

 「これじゃ完全におじいちゃんじゃんか。」

 飯島尊はボソッと呟いた。

 そんなおじいちゃんな身体でもゆっくりと寝間着を脱いでいき、ぐしゃぐしゃになっているベッドへと放り投げる。

 裸だと少しばかり寒い。

 もう長袖の季節かと思い、タンスの中に仕舞ってあるワイシャツを取り出すとそれは春から仕舞っていたせいか、完全に折りたたんだ跡がついてしまっている。

 アイロン?そんなことは気にもせず尊はワイシャツを羽織り、小さくて面倒なボタンをひとつひとつ着けていく。

 指が少し痛くて手先が不器用な飯島にとってはあまりいい時間とは言えない。

 中学、高校ともう既に五年以上はワイシャツを着ているというのに未だに慣れないこの動作、どうにかならないものかと考えながら最後のボタンを付け終わる。

 一年生の頃は毎回毎回結んでいたネクタイはもう完全に結んだ状態で首にかけて締めるという結び方をネットで見たので、二年生の冬くらいからずっとその方法でネクタイをしている。

 ベルトを着けっぱなしでハンガーに乱雑に掛けられているズボンを履いて、ベルトを軽く締めたら学校に行く準備は完成だ。

 髪の毛の寝癖?服の皺?そんなものは飯島にとって関係のない話だ。

 そうして思考もクリアになってきた頃に部屋を出て一階へとゆっくり降りていく、リビングではカタンカタンと食器を置いている音と朝のテレビの音が聞こえてくる。

 「おはよう」

 「おはよ、ご飯温かいうちに食べてね」

 そう返事する母親はさっさと席について飯島が席に着くのを待ちながらテレビを見始めた。

 「おはよう」

 父親はその様子に目もくれず、返答まで時間がかかりそれもテレビのアナウンサーの声に搔き消されてしまうような小さな声で挨拶をする。

 新聞を広げて真剣な眼差しで文字を読む姿は毎朝の事で、飯島や母親が来る前に自分自身はご飯を食べていて、コップに注がれたコーヒーを飲みながら軽い会話をするというのがいつものことだった。

 ぎこちない歩き方で席へ着くとそれまでテレビを見ていた母親がこちらを向く。

 「なに、足でも怪我したの?」

 「いや、昨日の持久走で筋肉痛」

 「そうだったのね、ならいいけど」

 なにもよくないと飯島は思ったが、そのことを言うほど無神経ではなかった。

 無神経か否かというよりもむしろそのことを言ってその先に起こる何かを面倒に感じているのだった。

 「ま、怪我とかしてる訳じゃないならご飯食べて学校行きなさいよ?」

 「分かってるよ」

 いちいち言わなくたって分かってる。そんなことを言いたげな表情で返事をする。

 「いただきます」

 そう言いながら味噌汁のお椀を手に取り口に含む、今日はなにか懐かしい味な気がした。

 「今日の味噌汁、なんか違う?」

 「わかっちゃった?今日、寝坊しちゃって味噌汁、インスタントなの」

 違和感というかなつかしさの正体がインスタントだったなんて少しがっかりしたが、不思議と飲み慣れている感覚でいつもは最後まで残している味噌汁を他のおかずを手に付ける前に飲み干してしまった。

 昨日の晩御飯の残りの野菜炒めとご飯を同時にかきこみながら朝食を手短に済ました。

 「ごちそうさまでした」

 そう言い席を立とうとしたとき

 「尊、これ知ってるか?」

 新聞をこちらに向けてくる父親が指さすのは「若年層に相次ぐ自殺」という新聞記事だった。

 「最近よくニュースでやってるやつでしょ?スマホとかでも見るよそれ」

 若年層、特に二十代に見られる自殺で、どれも「死ぬために生まれてきた」との旨の遺書を残して自殺するというのが昨今ニュースで、それ以外の共通点は年齢だけで、特に精神疾患を抱えている訳でもなく、宗教的なものも背景には存在しない。

 一種の集団自殺だが共通点が遺言と年齢だけという異常な事態にマスコミは躍起になっていて、国会でも取り上げられるような社会問題となっていたのだ。

 「そうか、お前がそうならないか心配でな」

 「ならないよ。死ぬのは怖いし」

 死とは何なのだろうか、飯島にとっては恐怖そのもので死んだらどうなるのか、死ぬことについて必死にネットで調べた時期もあった。

 けれど出てくるのはどれもこれも宗教的なものばかりで、飯島が求めていた本質的な答えではなかった。

 立ち上がって食器を洗っている間、しばらく考えていなかった死に対して考えてしまって食器を洗う手は完全に止まっていた。

 自殺、怖くないのか。

 そもそも死ぬために生まれてきたって何なんだ、その遺書自体変な新興宗教の教えみたいじゃないか、その新興宗教の存在がまだ知られてないだけで、実際に自殺した人はきっとその新興宗教の信者で、だから若者が多いんだ。

 そんな考えが飯島の頭の中を巡る。

 「ちょっと、なにしてるの?水、勿体ないじゃない」

 母親の声でハッとしてようやく自分が水を出したままぼーっとしていることに気が付いた。

 「ごめん」

 反射的に謝る。

 「疲れてるのはわかるけどシャキッとしなさいシャキッと」

 「別に…」

 別に疲れているからぼーっとしてたわけじゃないそう言おうとも思ったが、それではじゃあ何でぼーっとしてるのか聞かれて、死についてと返答したら今度は父親が参加してきて朝から話が長くなりそうだったので出かけた言葉を飲み込んだ。

 「それより、時間ないんじゃない?」

 そう言われて時計を見ると、長針は四十分を指している。

 まずい、いつもならもう家を出ている時間だ。

 「皿洗っておくから準備しなさい」

 「ありがとう」

 そう言い残して駆け足で階段を駆け上がる。

 こういう時に限って時間は早く進むんだ、授業中は長い癖に。

 そうボヤっと飯島は思うがそんな考え事をしている時間はない。

 部屋のドアを勢いよく開けてベッドの向かいに掛かっているスクールバッグを手に取りドアを開けたまま階段を駆け下りると、玄関には母親が立っていてこちらを見ている。

 何しているんだろう?その疑問が思い浮かぶ前に母親が口を開く

 「頑張ってね、疲れてるんだろうから気を付けるのよ。あと今日はこれでなんか買って」

 そう言って渡してきた千円札、そう言えば今日は寝坊してとか言って朝ごはんも簡素なものだったなと思い返す。

 「ありがとう、行ってきます」

 「いってらっしゃい」

 誰かに見送られてというのは清々しい気持ちになれるなと思う。

 それと同時に千円か結構くれるんだなという気持ちが飯島の中に生まれ、駅まで走り始める時間でお昼はなにを買おうか悩み始めた。

 ただでさえ遅刻しているのにコンビニに寄っている時間はないだろうし、学校の購買で買うにしてもあの多くの人が授業終わりのチャイムと共に走り出す通称購買ダッシュには参加したくない。

 そんなことを考えているうちに息が切れてくる。

 ここまで走れば余裕だろうという気持ちが浮かびあがり、空を見上げるとどんよりとした雲が空を覆っていることに気が付く。

 どんよりと黒っぽい灰色の雲が見渡す限り全ての空を支配していた。風はほんのり冷たくて飯島が歩いている今でもかなり強く吹いている。

 もしかして雨?

 そんな風に思うのがもう少し早ければ傘を持ってきただろう。

 今更戻ると完全に遅刻になってしまうので、そう思いつつも飯島は駅に向かって歩いて行った。

 いつも通りの時刻の電車に間に合って、既に満員の電車に乗り込む。

 飯島は未だに心拍数が高くて呼吸も早まっていたが、満員電車という人と人がくっつき合う距離感の場で、はぁはぁと息を乱しているのはただの変態に捉えかねられないと思い、必死に鼻から息を吸って吐いてを繰り返す。

 「痴漢です!」

 その言葉が車内に響き渡ると飯島の方に全員の冷ややかな視線が向く。

 「痴漢?」

 「え?」

 「あいつ?」

 といった言葉も聞こえてくると飯島に焦りが生まれる。

 え?俺なの?

 なにもしてないのにも関わらず痴漢扱いされる理由は飯島自身がわかっていた。

 そう、変態と思われないように息をなるべく抑えて鼻で行っていたことだとだ。

 そんなギャグ的展開あるのかと飯島は思っていたが、そのギャグ的展開はどうやら事実なようで、既に空きのないようにみえていた車内に飯島とその痴漢だと叫んだ女性の周りに空間ができ始めていた。

 「あれ高校生?」

 「高校生なのに痴漢?」

 そういう声も聞こえてくるなかで、飯島は痴漢を否定できるような度胸は持ち合わせていなかった。

 「あの、痴漢したのその人です。」

 女性がその言葉を発した瞬間に飯島は現実を否定したくなって、瞼を落としてしまった。

 その瞬間、ざわめきが起こり飯島は自分自身が取り押さえられるものだと覚悟したが、現実は少々違った。

 ざわめきや物音がするなか飯島は立ち尽くすばかりで一向に自分が取り押さえられる気配がない。

 むしろ他の人の身体が左肩にぶつかる感覚が飯島を襲う。

 動揺してその瞼を開くと目の前では中年の男性が他の男性二人に取り押さえられている光景が目に入ってくる。

 飯島の頭はもう完全にパンク状態だった。

 自分が荒い鼻息をしていたら痴漢扱いされたと思い、完全に周りも自分が犯人だと思っていた様子が瞼を閉じて開いた途端に一変して目の前で真犯人が取り押さえられているのだ。

 飯島の頭の中はまだパンクした状態だったが、次第に自分が犯人でなくてただの自分と周りの誤解だったということを理解してきた。

 次の駅へと着いて電車のドアが開くともう抵抗するのをやめた様子の中年の男性が両腕を抑えられて電車の外へと連れていかれていった。

 唖然とする飯島はそのまま電車に乗り続けてただただ立ち尽くすのみで、学校の最寄り駅までの三駅を乗り最寄り駅に着いたタイミングで電車を降りた。

 「なんだったんだ」

 ふと口に漏れるセリフが今回の事件の様相を物語っていた。

 飯島以外にも飯島が犯人じゃないのかとはその場にいた大部分の人が思っていたことだろう。

 そうして駅から五分程歩いて高校に着くと、下駄箱でなにやら女子が集まって話をしているのが見える。

 どうせしょうもない話をまたしているんだろうと通り過ぎて上履きに履き替えようとしたタイミングで丁度話し声が聞こえてきた。

 「あいつじゃない?痴漢したっての」

 「ちがっ」

 反射的に声が出た。

 「うわ、痴漢される」

 集まっていた女子が飯島から離れてそのまま笑いながらゴンズイ玉みたいにくねくねと歩きながら階段へと向かって歩いていく。

 いいんだ。どうせこの学校に僕の居場所なんて最初からない、そのゴンズイ玉を最後まで見届けるまでもなく飯島は思う。

 飯島はこの学校に入学してからは普通の高校生として過ごしていたはずだったのだが、数日経ったある日に事件が起きた。

 その日は普通に数学の授業が行われていたときで、窓際に座っていた飯島は定年間際の男性の先生が黒板に数式を書きながら意味のない雑談を行う退屈な時間に寝ないようにも外を眺めて別の考え事をしていた。

 その瞬間、地震が起こる。

 後からわかったことだが、当時高校のあった位置の真下が震源の直下型地震が来ていて普段から比べても相当の大きさかつ直下型といういきなり大きな揺れが来る地震に皆驚いていた。

 「隠れてください!」

 先生はチョークをその場に落とし、勢いよく振り向いて生徒に向かって言葉を放つ。

 机の下に隠れようとするが、高校生の身体には小さすぎる机に隠れないで冷静を装う生徒や立ち上がって恐怖に喚く生徒、様々だったが飯島は大人しく入りきらない身体をどうにか机の下に入れようとして、頭を思いっきり下げていた。

 地震が収まり、校庭へと避難する間の女子の会話の中にこんな会話があった。

 「ねぇ、飯島さ、どさくさに紛れて林さんのスカート覗いてなかった?」

 「え?本当?最低」

 そんなこと飯島はしたつもりはなかったが、次第にその噂は広がり飯島の耳にも入ってくる。

 初めは高校生にもなって馬鹿馬鹿しいと思っていた飯島だが、周りにいたクラスメイトも距離を取り出してきていることに気付いた。

 その頃にようやく弁明を行った。

 「いや、僕はスカート覗こうとしたんじゃなくてただ頭を低くしようとしただけなんだ」

 だが、完全に広まった噂にそんな弁明は効果なんてものは全くなく、根拠のない噂によって学校の中に飯島の居場所はなくなっていった。

 それが一年生の四月に起きたことで、そこから三年間飯島は友達は勿論、喋るクラスメイトすらおらず、思春期ということもあってそのことを親に言えず学校に対する意欲というのはほぼゼロに等しいまま学校に通っていた。

 飯島が教室に入るタイミングで教室にいる生徒の冷たい視線がこちらに向く。

 またか。

 この多数から向けられる冷たい視線、これまで飯島はスカートを覗いたという冤罪を掛けられたその時期、二週間はその冷たい目線というのを毎日浴びていた。

 もうその頃には向けられる視線ひとつひとつの思っていることすら考えなくなった。

 想像していた高校生活とは違って常にひとりで授業にも気合が入らず居眠りをしたりで登校しているだけの、いてもいなくてもいい存在になっていた。

 そんな学校生活の一日が今日も始まり、いつもと変わらない退屈でうとうと寝てしまいそうな授業が四時間終わり、昼休みが始まると購買ダッシュをする生徒たちが一目散に教室を飛び出て、先生に怒られながら廊下を走っていく音と共に静まり返っていた教室が一斉に賑やかになる。

 飯島は朝の遅刻やいざこざでコンビニで昼食を買うことも叶わず、そして購買ダッシュに今から参加するには遅すぎるし、そもそもそんな気力も湧いてくるわけもなかった。

 そんな鬱々とした気分の中で机から立ち上がる気力すら湧いてきていなかったので、昼食は取らないようにすることにした。

 ただこの賑やかでみんながみんな楽しいと感じているだろうその空間に存在しているだけで心のエネルギーを消費して何もできなくなっていた。

 飯島は机に突っ伏して自分の中に引きこもって自分の心のエネルギーの流出をできるだけ防ごうとした。

 そう思ったとき、机をコンコンと叩く音と振動を感じる。

 先生かからかいに来た生徒だろう。

 そう思って突っ伏したままで寝たふりを続けようとするが、それを許さないとするかのようにコンコンと叩く音と振動は断続的に続く。

 このまま寝たふりを続けてもよかったが、先生だったらめんどくさそうだったので起き上がることにした。

 その開けた視界に映るのは女子の制服、先生ではなくてからかいにきた生徒でもなさそうだった。

 「飯島君、これ」

 その一言と白紙のメモ用紙を残してその女子生徒は自分の席へと戻ってしまった。

 名前、なんだっけ…佐藤さんか

 メモ用紙を裏返しながら思い出す。

 佐藤美琴、容姿端麗で成績優秀の優等生という存在だが、口数は少なくて大人っぽい雰囲気から人間関係はそこまで深い関係性を築いている人というのはいないように見える。

 もっとも佐藤自身がそれを嫌っているかのようにも見えるが、実際のところは彼女自身しかわからないことである。

 そんな佐藤ははっきり言って落ちこぼれのいじめられっ子である飯島とは関わる必要もない人だ。

 「放課後、屋上にて。佐藤美琴」

 裏返したメモ用紙にはそう書かれていた。

 渡す先を間違えているんじゃないかという考えが飯島の頭を過るが、実際には起こされた際に名前を呼ばれて渡されているという記憶からそのことはないだろうと推測できた。

 そうだとしたら屋上に呼び出しっていうと告白を思い浮かべる。

 まさかクラスの高嶺の花的存在から告白を受けるのか、そんな考えはすぐに否定された。

 そもそも僕なんかを好きになる訳ないし、なんだったら告白だと思わせて実はいじめるために人目のない屋上に呼び出したとか、誰もいない屋上に立ち尽くす僕の姿を見て笑いものにするとかそんなとこだろ。

 そういった思考が飯島の中を巡っている最中、手に持つメモ用紙の文字が次第に消えゆくことには気づいていなかった。

 文字の先頭から次第に消えゆく文字、名前の最後まで消えると間髪入れずそのままメモ用紙自身が右上から消えていくが、全て消えて無くなったことに飯島は最後まで気付かなかった。

 

 そして放課後。

 部活、帰宅、遊びと生徒がそれぞれの目的に向かって席を立ち賑やかな教室から出ていく中で、飯島はメモ用紙を探していた。

 ようやく消えていったメモ用紙の存在に気付いて、自分がどこに仕舞ったのか、はたまた誰かに取られたのか、そんなことを考えながらスクールバッグの中を漁る。

 勿論、メモ用紙は不思議なことに消えて行ってしまったのでどこにも存在していないのだが、その存在していないメモ用紙を飯島は必死に探すこと十五分程経った時、既に教室には飯島しか残っておらず佐藤含めて他の生徒は皆教室を後にしていた。

 その様子を見てようやくこれ以上探しても意味がないことにも気付き、仕方なくスクールバッグを持って駆け足で屋上へと向かうことにした。

 屋上に向かう最中いろいろなことが頭の中を巡る。

 本当に告白だったらどうしよう、告白なんて人生でしたことなければされたこともないし、そもそも佐藤さんって喋ったことすらないと思うけどそんな好意を抱かれるようなことってしたかな。

 そう思うと佐藤さんって一年生の頃から同じクラスだったな、だとしたら気にしてないだけで意外と佐藤さんは僕の事見ててそのなかでなにか佐藤さんが好意を抱くような仕草とか行動があったとか?

 いやいや浮かれすぎだ。

 こうやって向かっているのは呼ばれたのにそれに応じないのは失礼だからっていう僕の中の良心がそうさせてるだけで、本当は行きたくもないんだ。

 飯島の頭で色々な考えが巡るが、どれもこれも答えのない考えで考えたところでなにか解決するかと言われると、そういう考えはひとつもなかった。

 そして屋上の階段を一日の疲れと昼食を取っていない空腹感、昨日の持久走の後遺症である筋肉痛と駆け足で息切れしている中で登る足取りは決して早いとは言えず、告白かもという浮かれた気持ちだけが先行するかのように前傾姿勢になって登っていた。

 完全に満身創痍な身体で屋上へのドアの前に立つ、この先には佐藤さんがいて欲しい。

 そう願いながらドアノブを回してドアを開くとやけに眩しい光が飯島の視界を覆う。

 「眩しっ」

 足をゆっくりと踏み出すと次第にその明るさにも順応して屋上の様子が見えてくる。

 やけに広くて給水タンク以外ほとんどなにもない屋上にはフェンスが淵には巡らされていている。

 そこに佐藤と思わしき人影はおろか人影ひとつもなかった。

 「クソッ」

 完全に騙された。

 飯島はそう思いドアを閉じて引き返そうとするが、初めて登った屋上からの景色でも眺めてやろうと歩みを進めた。

 フェンスに近づいて校庭の方と見渡す。

 校庭からは部活をしている生徒たちのアップの声が聞こえてきて、それを屋上から見下ろせるんだったら面白いじゃないかと思ってフェンスに腕を掛けた。

 「あれ」

 腕を置いたその瞬間にフェンスは外れて、飯島の身体は頭から地面に向かって落ちていく。

 声を上げるまでもなく屋上がどんどん視界から遠ざかっていき、そのどんよりとした空を見つめてなんでさっきはあんなに眩しかったんだなんてしょうもないことを考え始める。

 あぁ死ぬのか。



 そう察して瞼を落とすと、走馬灯が走り出すが飯島にとって今、大事なものなんて存在せず、強いて言えば家族くらいでそんな走馬灯に流れるほど強烈に残った記憶もない。

 そんな飯島に映った走馬灯は知らない記憶、自分の自室じゃないどこかの部屋でパソコンに突っ伏している自分の姿。

 いやもっと言えば飯島ではないのだが、なぜか自分自身だと認識している飯島は混乱する余裕もなく次のシーンに移り変わる。

 屋上のドアを開いた瞬間の記憶、これも違う記憶で目の前には後ろを向いて背中で手を組んでいる佐藤の姿が見える。

 もしこうだったらよかったのにな、というかそもそも屋上に登らなければ、フェンスに寄りかからなければこうやって死ぬこともなかったのに。

 だが、そんな考えを巡らせる余裕があるくらいに飯島は地面に落ちない。

 走馬灯ってこんなに時間が長く感じるものなのか、それとももう死んでいるのか。

 気になって瞼を開いた飯島の視界には見渡す限り真っ白で床と空との境界がわからない世界が広がっていて、そこにひとりだけ人が立っている。

 それよりも気になるのは自分の身体だ。飯島は下を向いて自分の両手のひらを見る。

 別になんともない、ちゃんと握れるし、開くことも容易だしちゃんと脚もお腹も胸も全部繋がってる。

 それだけでなく筋肉痛の痛みも疲れも感じない身体だった。

 どういうことなのか、もう死んでいて、ここは死後の世界ということなのか。

 とにかく自分の身体は自由に動くので歩いて目の前の人に声を掛けに行くことにした。

 飯島自身も不思議に思っていた。

 なぜ自分の置かれた状況に動揺しないのか、なぜ目の前にいる人に声を掛けに行くという冷静な行動が取れているのか、けれど考えるよりも先に身体は動いていた。

 この感覚を飯島は他のことでも味わったことがあることに気付く、それは人によって意識の差はあれども誰でもこれまでの人生において味わったことのある感覚だろう。

 それが「夢」だ。

 自分の身体のはずなのに上手く動かせない、思ったより先に行動していて自分なのにどこか第三者視点で見ているような感覚、それが今だった。

 歩いていて近づけそうで近づけない状況にこれでは埒が明かないと思いできる限りの声を出した。

 「あの!」

 目の前にいる人が振り向くとその姿に飯島はハッとした。

 「佐藤、さん?」

 飯島を屋上に呼んだ張本人でクラスの高嶺の花である佐藤美琴、学校の制服姿でウルフカット、左目の目元にある涙ほくろという見た目は佐藤そのものだったのだ。

 「ああ、君にはそう見えるんだね。そっか、そういえばお使い頼んだんだっけ、忘れてた。いやー、私に出会おうとする生物は多くてね。対応してたから割と忘れることも多くてね、別に時間が経ったからじゃないよ?私にとって時間ていうのは無限に存在するから逆に時系列を覚えるのに苦労するんだよ。勿論そんな単純なことじゃないけどこれ以上難しい話をしても君はどうせ理解できないだろうし」

 その佐藤の見た目をした人は淡々と独り言のように飯島に向かって話を続ける。

 発言の内容はまるで自分が時間を超越し、佐藤自身への行動を干渉しているようだった。

 その様子に飯島は思考が停止してしまう。

 飯島にとっては仕方のないことだった、ただでさえ自分が死んでいるのか生きているのか、ここがどこかというのがわかっていない中で唯一目の前にいた人に声を掛けたら佐藤美琴で、それなのにも関わらず発言の内容は佐藤とは全く思えない内容と喋り方なのだから。

 「どうしたんだい、生きてる?いや、ここに生とか死とかっていう概念自体存在しないんだけど、人間の言葉を聞いてると私も使いたくなっちゃうんだよね。」

 その発言から人ではないということが伺えるが、飯島はまだそのことについての理解が追い付いていない。

 というよりも飯島が理解する以上の発言を目の前にいる人ではないなにかが喋っているのだ。

 「あ、私の名前?ごめんごめん、私の名前か~そうだな、案内人ってところかな」

 「案内人?ってなんの案内ですか」

 思考するよりも先に飯島は口を開く、そうここは夢みたいなものなので考えていることと行動することが一致するわけでもないのだ。

 「おっと、生きてるんだ。死んではないと思ってたけどまさか最初の発言がそんな言葉だとはね、質問の前には自分の名を名乗るのが人間の所作じゃないのか?まぁここでは名乗るまでもないけどさ」

 「すいません、飯島尊です。」

 その発言に飯島は違和感を感じた。

 飯島尊なのだが、飯島尊ではないような感覚、自分の名前、何かがおかしい。

 「知ってるよ、もっともここでは飯島尊でもあるしそうでないとも言えるけど、ちょっと難しいか。」

 「どういうことですか」

 「ここは所謂この世とあの世の狭間みたいなもんさ、だから君は飯島尊でもあるし、柊優二でもあるんだ。」

 柊優二という言葉を聞いた瞬間、飯島の身体は身長が伸びて肩幅が広がり、顔つきも柊のものへと変わっていった。

 「は?あんた誰?」

 「ちょっと、あんまここに慣れてないみたいだね」

 柊は目の前にいる女子高生がその年齢と性別に値しない喋り方をする様子に驚く。

 「少しここの説明をしてもいいかな?」

 「いや、説明って言われても」

 「じゃあしないでおこうか」

 その言葉に柊は目を見開いて首を振る。

 「すいません。してください」

 「人間って謝るけどなんのためにしてるんだろうね。自分の中の気持ちが伝わったところで相手の気持ちには関係ないのにさ、そもそも伝わるか人間のコミュニケーション能力だと怪しいし」

 そう言いながら案内人の姿が変わっていく、今度は男子高校生の皺の付いた制服で頭は寝癖のついた少し不機嫌そうな表情をした、そう飯島尊である。

 「えっ、俺!?」

 柊はその発言をしたことにも驚いた。

 これまでの人生で見たことのない人で、なおかつその初めて見た人間を自分ということを直感的に感じてしまったのだから不思議な話である。

 「そんなに驚くことじゃないよ。私は私だし、見た目が君になっただけなのだから。」

 柊はさらに混乱する。

 女子高生が男子高校生に変わってしかもそれは明らかに自分ではない見た目なのにも関わらず、自分の見た目になっただけと言う人が目の前にいるのだから

 「そうやって人間の感覚に合わせてたら話進まないから話しちゃうけどいい?」

 「いや、ちょっと時間欲しいです」

 「そっか。ここではいくらでも待てるから、いいよ。」

 柊は考えた。

 自分がどこにいるのか、目の前にいる人は何者なのか。

 考えるにしても考える余地がなかった、なんて言ったって明らかに地球ではない場所で、目の前にいるのも人ですらないだろうことには薄々気付いていたからだ。

 「すいま…話してもらっても大丈夫です」

 「じゃあ話すよ?」

 「はい」

 「まず最初の質問についてでも話そうか」

 そう言いながら浮遊して移動し始める案内人に柊は驚きもしたが、それに付いていく為に必死に歩き始めた。

 歩こうとしても歩けない、というか前に進まない様子を見かねた案内人が口を開く。

 「明晰してごらん。もっと明晰を強く持つんだよ、ここは君たちで言うところの夢みたいな場所なんだ。例えば歩くときにはどうしてる?」

 歩くときに明晰していることなんてないだろうが、それをここでは考えなければいけないというのだ。

 人間にとって歩くというのはまず立っている状況から始まる。

 両足で立って、片方の足を前に出して、その反対側の足をもっと前に出してという動作の繰り返し。

 「うわっ」

 その明晰を柊がした途端に足元が崩れる。

 「おっと、危ない危ない。ちゃんと地面も明晰しなきゃ、ここではなにもかも明晰なんだ。歩くとき、君は空中を歩いているのかい?違うだろ?」

 なにを言っているのか柊にはいまいちわかっていなかったが、地面を明晰してもう一回立ち上がってみると真っ白だった地面にコンクリートの道ができる。

 「そうそう、いいじゃん」

 そのコンクリートの道の上を一歩踏み込んでみるとさっきまで必死に歩いても進めなかったのにちゃんと前に進めている。

 「じゃあ着いてきてね。」

 止まったままじゃダメなのか?と柊は思うが必死に歩く明晰と地面のイメージをしたまま歩き始める。

 「質問、ここってなんなんですか?」

 「えっ、君さっきと言ってること違くない?」

 柊には意味が分からなかった。

 質問なんて一回も案内人にはしていないからだ。

 「そっか、まずそこからか。」

 少し呆れた表情と前傾姿勢になって両腕を前に脱力する案内人はそのまま一度止まった。

 その様子を見て柊は止まることを明晰して二歩多く歩いてから立ち止まった。

 「とりあえず君は私だ。というよりも私の見た目の人間と一緒の存在ってことだね。」

 その発言と共に納得せざるを得なかった。

 だから女子高校生から男子高校生の見た目に変わった瞬間に柊は自分と一緒という感覚を得たのだ。

 なんとなく理解したにも関わらず自然と口が開く。

 「一緒の存在ってどういうことですか。その、高校生と俺が同一人物ってことですか?」

 「そうだよ。君にわかりやすく説明すると柊優二として見る夢の中の存在が飯島尊で、飯島尊として見る夢の中の存在が柊優二なんだ。」

 その発言は柊を理解させるのに十分ではなかった。

 いくら夢とは言えども全くの別人格で記憶すら全く引き継いでいないのに、同じ存在だと言えるのか。

 「あの世と言われてもいる世界が夢の中なんだ。勿論、柊君と飯島君、それぞれの意識の中で別々の世界を指しているけどね。」

 「寝ている間はあの世に意識が別人格として存在していて、起きている間はこの世に意識があるってことですか?」

 「すごいね、その通りだよ。だけどね君たち生物を作った存在ってのはなんとも不思議な存在でさ、その意識を別の存在として確立させることにしたんだ。」

 それが理由で柊と飯島はお互いの存在を知らないが、自分自身であることは認識できるということなのだろうか。

 「というか最初はそんなつもりなかったみたいだけど、それだと自己意識ってのが芽生えてきた途端に死んでいくから面白くないっていう風に思ったんだろうね。」

 あの世が存在することが感覚的に理解していて、しかもその世界が自分よりいい環境だったら死を選ぶのも無理ないだろう。

 「だから生存本能ってのを強めてなおかつあの世とこの世の繋がりってのを薄くしたんだよね。」

 「そのお陰で俺たちはあの世ってのをあくまで宗教的な存在として認識している。そして夢の中の出来事は起きたときには忘れていくってことですか。」

 「まぁ、大体そういうことだね。君、なかなか理解が早くて助かるよ。ところで明晰できてないけど大丈夫?」

 柊の身体は縮んでいき、飯島の身体へと変わっていった。

 「えっと、佐藤さんは?てかなんで僕が?」

 「君は全く持って面倒くさいな」

 飯島としての人格が露わになったことで意識も柊のものとは一転する。

 「まぁ、最初はそんなもんか」

 飯島は理解できない。

 何の話なのか、なぜ自分と同じ見た目の人間がいるのか。

 「兎に角、君はひとりなんだよ。飯島尊と柊優二っていう名前はあるにしろ、ここでは同じ存在。わかる?」

 「柊優二?誰ですかそれ」

 そう言った直後、知らない記憶が飯島尊の頭の中に入ってくる。

 柊優二として案内者と会話したこと、そこで理解した内容、自分が飯島尊でもあり柊優二でもあること、それはこの世とあの世という世界の中で区別されてるに過ぎないということ。

 「なんとなく、わかりました。」

 「よかったよ、もう一回説明しなきゃならないのかと思ったよ」

 「じゃあ僕は柊さんと変わろうと思えば変われるってことですか?」

 「自分の事さん付けで呼ぶなんて面白いね。まぁ、できるよ。デメリットもあるけど。」

 「デメリットってなんですか」

 「いや、君にとってデメリットかはわからないね。ここでそれぞれの自己意識を薄めていくと次第にお互いの人格ってのが無くなっていって、ひとつの存在として認識できるようになるんだ。まぁ、所謂明晰夢みたいな感じかな?この世とあの世の意識が統合されるんだ。」

 明晰夢、自分の意志で見たい夢を見れるというものだが、それが常に起こってしまうという懸念を案内者は言っている。

 「それってつまり二つの世界の記憶を持ったまま生きることになるってことですか。」

 「そういうことだね。人格も一つになるからどっちに寄せるか君自身で考えなきゃいけないね。まぁ、これまで通りに振る舞ってもいいだろうけど相当疲れると思うよ。私からしたら人格は一つになってもらった方が都合がいいけどね。」

 「具体的にはどうすればいいですか」

 「なにも深く考える必要はないさ、飯島尊の人格の時には柊優二のときの人格を思い出す。そのまた逆もね。そしたら次第に人格が統合されていくんじゃない?」

 人格の統合。

 夢が自分の中のものだとは思っていたがまさかあの世という存在だったとは思いもしなかった飯島は悩んだ。

 果たして自分一人で決めてしまっていいものなのか。

 「柊さんに決めてもらってもいいですか?」

 「結局自分なんだから関係ないと僕は思うけどいいんじゃない?」

 自分、自分とは言っても今はまだ人格がそれぞれ存在するので、別人という風に飯島は捉えていた。

 「じゃあ、柊さんに任せます。」

 そう言って飯島尊としての明晰を緩やかに解いていくと次第に身体が柊優二のものへと変化していく。

 「別に見た目まで変える必要ないのに…まぁ、僕も見た目変えておこうか」

 ボソッと呟いた案内者は佐藤美琴の見た目へと変わって瞼を閉じたままの柊へと近づいていく。

 「うわっ」

 柊は目の間に裸の女性が立っていることにびっくりして本来なら曲がらない角度まで身体を逸らしていた。

 「フフフ、君面白いね。」

 「あの、なんで裸なんですか。」

 「ああ、この服とか邪魔じゃない?ブラジャーとかいうの特にきついしさ、邪魔なだけでしょ。」

 「俺は知りませんけど、その、目のやり場に困るんで服着てくれませんか。その、特に胸とかに…」

 「この胸ね、でかすぎるでしょこれ、何の為にここまででかくなきゃいけない訳?」

 そう言いながら案内者は胸を両手で持って持ち上げる。

 「ああ!」

 そう言って柊は目を閉じる。

 案内者は首を傾げて仕方ないといった様子だ。

 「これでいいかな?」

 目を開く柊の目には、制服を着ている案内者がいるものの柊の目には先ほどの裸の姿がちらつくのだった。

 「まぁいいですよ。」

 「なに、私のこと好きなの?」

 案内者は声色を変えて柊の耳元で囁く。

 「高校生にそんな感情抱きません!」

 「けど君はあの世だと同級生だよ。」

 「そうかもしれないですけど…」

 納得してしまう柊から案内者は離れてまたも空中を浮遊しながら移動し始め、それに付いていく形で柊はコンクリートを明晰して歩き始める。

 「それはそうと、君自身…いや、飯島尊が君と人格統合するかで悩んでたよ。」

 「それで自分が。」

 「んでどうするの、人格統合するのか否かだけど。私的には統合してほしいんだけど、面倒だし。」

 「実際やってみないとわからないですけど、人格統合した場合ってもとに戻れるんですか?」

 人格統合、これの懸念点はやはりその非現実的感覚を味わうこともそうだが、今後の生活に大きく影響してくることだろう。

 記憶が引き継がれるというだけでどっちの世界の事なのかわからなくなってくるだろうし、周りから見れば人が変わったように思えてしまうことも明らかだ。

 「できるのかな。わかんない。多分できるんじゃない?」

 「じゃあまぁ、とりあえず話も簡単になるだろうし統合しますよ。」

 とは言っても案内者が強制的に人格統合できるかというとそういう訳でもなく、自身の意志でおこなわなければならないのですぐには難しかった。

 「まだ?」

 「ちょっと黙っててください。集中してるんですから。」

 「思ってたんだけど、君さ、私に対して失礼じゃない?明らかに上位の存在ってわかるよね?」

 その言葉に柊は反応しなかった。

 集中、完全に自分の世界へと入り込み、自分の記憶の中に存在する飯島の存在を夢から思い出す。

 見た目、年齢、考え方、行動、性格。

 それらを思い出してなおかつそれを自分と統合する。

 言葉には言い表せない、完全感覚のことを柊は行っていた。

 そうしておしゃべりな案内人も反応してくれない柊にぶつぶつと文句を言いながらひとりでチェスをイメージしてひとりで遊び始めた頃。

 「できた気がします。」

 柊が口を開いた。

 「おー、本当かな?見た目は柊のままだけど。」

 「この感覚、気持ち悪いです。自分の中に記憶が二つあって、なおかつ思考も不思議な感じ。自分を何て呼べばいいのかすらわかりません」

 「まぁ、名前が欲しいなら自分でつけたら?私が呼ぶときは君としか言わないだろうけど。」

 「じゃあ紡で。」

 「いい名前じゃん!というか日本語基準じゃないね。weavingから取ったでしょ。」

 weaving、直訳で織りという意味だが、それを踏まえたうえでつむぎと名付けたのだろう。

 「なんとも人間らしい名前だね。」

 「ありがとうございます。」

  そう言った直後に紡は見た目が変わっていく、髪は少し青みがかった髪で襟足が長く、目は奥二重のさわやかなとまではいかなくても、大学生にいそうな雰囲気の見た目になっていた。

 「なんか、見た目は没個性的だね。」

 案内人はそう言うと明晰したチェスをそのままにして動き始めた。

 「自分的には結構カッコいい人をイメージしたつもりなんですけど。」

 カッコいいという基準は人それぞれだが、万人が否定するような見た目ではないことは確かだった。

 「まぁいいや、人格統合したところで話を続けようか。」

 「案内人、あなたについてでしたね。」

 紡は記憶の中から引っ張り出してくる。

 「人格統合、うまくいってそうだね。んで私についてか。」

 「はい。あなたは誰なんですか。」

 「私は案内人って自分の事を言ってるけど、言っちゃえば神の使いみたいなもんかなと思ってるよ」

 「思っている。って曖昧ですね。」

 「そう!曖昧なのよこの空間と私自身気が付いた時にはあったし、その時には役割ってのがわかってた。その頃からずっと変わっていない。もっと言えば私にとってその頃っていうのは過去でもあり、今でもあり、未来でもある。人間にはわからないことだと思うけど、私に始まりと終わりなんて存在しないのよ」

 時間という概念は三次元の人間が作り上げたものでしかなく、四次元以上というのはその時間が空間的なものに組み込まれているというのだ。

 もっともそのことをなんとなく知っていた紡は自分の理解がそこまで及ばないということをわかってはいたので深く考えることはせず、案内人の言うことをそのまま頭の中に入れるということを行った。

 「じゃあ、神の使いってのは?」

 「まぁこうやって紡みたいな人間に対してこの世界の理ってのを教えるってのが私の使命なの、その絶対的な使命ってのが客観的考えからしたら神みたいな私以上の存在が作り上げた案内人みたいでしょ?」

 「確かに。」

 「まぁ、こういう使命って本当はあんまり他の人間には行わないんだけどね。君の周りで自殺する人間とかいなかった?」

 自殺した人間は思い浮かばなかったが、その死ぬために生まれてきたという旨の遺書を残していた自殺者のニュースを思い出した。

 「ニュースで少し。」

 「そう!そういうなんか、たまにあの世っていう存在に気付いて自殺する人がいるんだよね。それに対してこの世の理を説明して注意喚起するのが私の使命。」

 それが使命だとしたら、紡はなぜこの空間に来たのだろうか、本来は飯島としては死んでいるはずなのに。

 「じゃあ自分はその自殺した人だと言いたいんですか?」

 「うーん、少し違うかな。その真実に限りなく迫ったから、私が自殺させようとしてるってところかな。」

 「殺人未遂じゃないですか。」

 人間の住む世界では自殺として扱われているだろうが、この事実を知ってしまったら案内人が殺したことになる。

 「でもどうやって?」

 「思い出してごらん、最後君はなんで屋上に登ったんだい?」

 「佐藤さんに呼ばれて…あっ!」

 ようやく紡の中で辻褄が合った。

 なぜ案内人は佐藤美琴の見た目をしているのか、いきなり佐藤に屋上に呼ばれた理由、そこには誰もいなかった理由も。

 「結構回りくどい方法使うんですね。」

 「怒ったりしないんだ。」

 紡は殺されかけているという事実を知ったのにも関わらず冷静だった。

 「まぁ、別に死んでもいいと思ってたし。死ぬのが怖かっただけで。」

 「ならいいか。回りくどいのはあくまで自分の意志で殺さないといけないって私の中でルールとしてあるんだよね。」

 「その為なら他の人を操ってもいいってのはおおよそ理論的ではないですけど。」

 「仕方ないじゃん、そうなってるんだから。」

 そう案内人には絶対的ルールが存在し、そのことは案内人が存在しうる限り存在し続け、その理由というのは案内人にもわからないからなんとも言えないのである。

 「でもフェンスにもたれかかったのは自分の意志ですよね?」

 「まぁその辺も難しい話でさ、私たちにとっては時間の概念が君たちとは違うのはわかるよね?」

 「はい。」

 「時間の概念が違うってのは過去も現在も未来も全て同時並行的に存在してて、それは因果が存在しないってことなんだよ。ここにきてその因果ってのに違和感持たなかった?」

 因果に対する違和感。

 因果というのは何かをしたから何かが起こる。

 といった風に何か起こった原因は何かにあるということなので、生きている間の人間の感覚では普通の事だが、それが案内人にとってはそれが当たり前でないというのだ。

 「例えばなんですか」

 「うーん、なんだろう。なんか言ってから考えが思いつくとか?」

 紡の中でその違和感には覚えがあった。

 「ああ、それならここにきてから何度か。」

 「それとほとんど同じことが起きてるんだよ。私が君を自殺させようとしたんじゃなくて君が屋上に登って、たまたま壊れてるフェンスにもたれかかったから私が自殺させようとした。そこに加えて君が真実に迫ったからというのもあるね」

 「なんだか難しいですね。人間の時間の感覚と因果関係っていう大前提にある固定概念を失くさなきゃ理解できない。それは自分が人である以上成し遂げれないこと。」

 「まぁ、君はもう普通の人間ではないけどね」

 その発言に紡の足が止まる。

 「え?」

 「そりゃそうさ、人格統合をした人間なんて普通じゃないだろ?生きている間はずっと異常者扱いさ。人間なんてあの世ってのを信じてるのは一部だけなんだ。しかも宗教とかいう一ミリも真実に掠ってないであろう理論を唱えてさ。」

 「それもそうですね…」

 「なに?人格統合を後悔してる?」

 「そういう訳じゃないですけど、実際にここから出て生活してみないことにはわからないなって思って。」

 「ちなみに人格統合したのは君だけだよ。」

 この発言はこれまでの人がという意味ではなく、これからも唯一ということはこれまでの話の中では容易にわかることだった。

 「そんな!?」

 「もっとも、したい人間はいたけどどいつもこいつもできてなかったね。うまくその人格が二つあるってのを呑み込めないとか、記憶がうまく思い出せないとか、そもそもこの空間に居続けれないとかね。まぁ人間なんて存在はそんなもんだよ。」

 紡は動揺が隠せず、紡が作ったコンクリートの道が崩れていく。

 「明晰しないとここに居られなくなっちゃうよ。」

 その言葉に紡は急いで道の明晰と自分自身の姿の明晰をしようとするが、人間の姿というのは意外と曖昧にしか覚えていないもので、考えれば考えるほど次第に輪郭がぼやけてくる。

 「別にその姿にこだわらなくてもいいのに。ほら。」

 そう言って案内人は複数の目に翼が生えた姿へと変わった。

 その姿はまるで恐怖そのものだったが、不思議とその恐怖は起こらなかった。

 「これが君たちの言う聖書の天使の姿だよ。」

 「別に、自分は聖書読んだことないですし、キリスト教も信じてないですけどね。」

 その姿を見て落ち着いてきた紡は自分の身体を明晰して保てていた。

 「変なの。」

 案内人はその驚きもしない紡の様子を見て天使の姿に飽きたのか、佐藤の姿へと戻った。

 「この身体、悪くないよね。君が好きになる理由もわかるよ。」

 「別に好きって訳じゃ。」

 紡はそう言い視線を案内人から逸らす。

 「素直じゃないんだな。まぁいいさ、んでその次の質問がここはどこかって質問だっけか?」

 「そう、だと思います。」

 「わかってきているんじゃない?ここはこの世でもあの世でもない場所、明晰するものは何でも出来上がる。もっとも明晰できない存在はここには居られない。だから後先考えず自殺するような人間はここにきてもすぐいなくなっちゃうのさ」

 明晰。

 少しでも気を怠ったら無くなってしまう身体や床、逆に言えばやろうと思えば理想の世界だって作れる。

 「さらに言えば、時間も存在しないって言ったよね。それはもういいか。まぁあとは私がいるとこってことかな。自分がいるとこについて疑問に思ったことないからわからないや。」

 「なるほど」

 「他に聞きたいことは?」

 「そんなこと言ったら沢山ありますけど。」

 「別に今じゃなくなっていいんだよ。明晰してくれればいつでも私のとこに来れるんだから。」

 「じゃあとりあえず最後に。自分、いや飯島はどうなるんですか。まだ死んでないような旨の発言でしたよね?」

 案内人は自殺させたではなく自殺させようとしていると発言していた。これはまだ飯島が死んでいないことを指している。

 「鋭いね、その通りで君はまだ死んでいない。打ち所がよかったのか脊椎と肋骨、まぁいろいろなところ骨折してなおかつ多量出血で救急車で運ばれるんじゃないかな?そこで生きて死ぬかはお楽しみってところで。」

 「なにも楽しくはないんですけどね。」

 ここには過去もなければ未来もない、だからこの案内人は紡に起こることを既に知っているものと思われる。

 「じゃあもうそろそろ戻るかい?」

 「はい。」

 そう言った紡は明晰を徐々に解いていき、次第に道や身体が消えていく。

 「あの、」

 「ん?」

 「ちなみに次はどっちの世界ですか。」

 「え、柊だよ。意識がなくなるタイミングで交互になってるからね。」

 意識がなくなるというのはきっと睡眠だけでなく気絶も含まれるのだろう。

 そうでなければ飯島は睡眠を取った訳ではないので、起き上がるのは飯島になるはずだからだ。

 「じゃあまたね」

 

 

 身体が痛い。

 一日中パソコンの前で突っ伏して寝ていたみたいだ。

 そのせいで全身がガチゴチで動かす度に痛みが走るし、冷房を掛けたまま寝ていたからか喉が軽く痛くて不快な目覚めだ。

 うがいをしに行こうと柊は立ち上がり、大きなあくびをしながら洗面所のドアを開けて鏡を見る。

 「誰だ、お前。」

 その時にようやく自分自身の記憶の中に二つの人生があるということ、それもはっきりと別の人と別の場所というより別の世界で生きているということ。

 それなのにも関わらず、これまでそのことを意識していなかったのか、いまさっきその記憶が混じったような感覚であること。

 そうしている間にも二人の人を無理矢理合わせて存在させているという感覚、不思議で決して心地いいとは言えないし、必死に考えても理解も出来ない状況に混乱し動揺するばかりだった。

 「俺は柊優二で、僕は飯島尊。」

 その理解は常人には不可能なことで、鏡の前に柊は一時間程立尽くしてようやく落ち着きを取り戻してきた。

 柊と飯島の記憶が他人を映したものでなく自分自身であるということ、本来は夢か何かのはずが何らかの理由で混在していることという仮説を立てた。

 仮説の域を出ないが、そう考えるしか自分の感覚と記憶、客観的視点からの辻褄が合わないのだ。

 夢の中だと飯島はどうなったのだという考えが浮かぶ。

 もしかしたら最後に事故で屋上から落ちるっていう長い夢を見ていて、それが寝起きだから明確に覚えていてってだけかもしれない。

 そう思っていた、いや願っていた柊だが、現実はそうではないらしく、もう目覚めてから一時間は経っていることでその願いは潰えた。

 これからどうしたらいいのか。

 とりあえず洗面台に来た理由を思い出してうがいをして、顔を洗い部屋に戻ってパソコンの前へと座り、記憶の中にある飯島としての世界のなかの地名や建物名を検索することにした。

 しかし、現実は無常でその記憶にある地名や建物名どれもがどんなに検索にヒットせず、この世界には存在しないことが判明してしまった。

 その事実に柊はキーボードから手を離し、背もたれにもたれかかる。

 その行動で屋上から落ちる感覚を思い出して不快な気分を味わうと同時に気を付けようと思う。

 今日は土曜日で休みということもあり、仕事もなくゆっくりと家で過ごすことにして、似たような経験をした人がいないか調べることにした。

 「駄目だ。」

 いくら調べてもいきなり別の自分の記憶と感覚が入ってくるなんていうことを書いた症例や記事などは見つからず、いろいろな関連した「あの世」であったり「転生」と調べてみたが、出てくるのはどれもこれも科学的根拠に乏しい理論ばかりでうんざりして投げ出してしまった。

 そうして自分自身に起きていることがよくあるようなことではないことを理解した。

 これ以上調べても意味はないことを悟り、せっかくの休日がもう半日過ぎて午後になっていることに気付いた柊はなにか食べるものがないかと冷蔵庫とキッチン上の収納を見るとインスタント味噌汁が目に入る。

 柊はインスタント味噌汁を手に取り、電気ポットに入りっぱなしの水を沸かしなおす間にお椀を後ろにある食器棚から取り出してインスタント味噌汁の中身を出す。

 カチッというお湯が沸いた音がするとすぐに手に取りお椀にお湯を注ぐ。

 その味噌汁を箸で溶いて飲む。

 「あちっ」

 熱湯を入れて間髪入れず飲んだせいで舌先を軽くやけどしたが、柊の感覚は正しかった。

 飯島のときに感じた朝食のインスタント味噌汁の懐かしさはこの柊がよく飲んでいたインスタント味噌汁の味と同じだったのだ。

 全く違う世界なのに、同じ味が存在する。

 これは柊にとって飯島と味覚が同じということを示唆していて、その感覚が理由で同一人物であるという仮説についてもそれを確実のものにするひとつの根拠となっていた。

 味噌汁を飲みながら今日は残りの時間でなにをしようというところに考えを巡らせていた。

 図書館にでも行って、片っ端から調べたところでネットにひとつとしてない情報が果たして本にはあるというのがあり得るのか。

 その可能性は限りなく低いんじゃないかというのが柊の中の考えだった。

 そうしたらすることはただひとつ。

 「おい!なにしてんねん!そこ敵いるじゃん!」

 そうネットゲームだ。

 学生時代に買ったパソコンを使ってネット友達とシューティングゲームを楽しむのが休みの日にすることで、三連休などがあれば中日は徹夜することもあるくらいには夢中になっていることだった。

 「また負けかぁ。」

 「仕方ないじゃんか。それにしてもなんか今日雰囲気違くね?」

 「え、俺?」

 「いや喋ってるのお前しかいないじゃん。」

 そうネット友達に言われて自分はやっぱり違うんだということを気づく。

 「どう違う?」

 「いやー、なんかわかんないけど、人がなんか変わったというか、失恋した時みたいな。」

 「なんだそれ、俺は失恋するような恋愛してないっての知ってるだろ。」

 恋愛してないっていう言葉に柊は少し違和感を覚えた。

 飯島の時に抱えていた感覚は恋愛じゃないのかと聞かれたらそれを完全に否定できるほどの感覚ではなかった。

 「それはそうか、気のせいかもな」

 その言葉で逃れたと思う気持ちともっと深堀してほしくて、この悩みを聞いて欲しかったという気持ちがあった。

 その日は十一時頃までゲームをして、そこからインスタントラーメンで夕飯を作り、シャワーを入ってベッドへと横になった。

 寝て起きたら、普通の感覚で今日起きたことも曖昧になって次第に忘れるんじゃないか。

 そんなことを考えながら眠りへと着いた。



 身体が痛い。

 目を覚まして視界に入るのは知らない天井だ。

 唯一動かせそうな首を右に向けると多くの機械と点滴が目に入り、自分の身体がとても重篤な状態で病院にいることに驚く。

 これまでの経緯を思い出そうとすると、知らない記憶が飯島の頭を巡る。

 「この記憶、なんだ。」

 知らないはずなのに明らかに自分の体験した記憶だというものが直感的にわかってしまう。

 知らない建物、知らない路線、知らない同僚、けれどどれも知っている。

 おかしい。

 幸か不幸かそのことを考える余裕は十分にありそうだった。

 全身が痛くて仕方がなくて両腕とお腹あたりまでは動かせるのだが、下半身が完全に動かせないのである。

 まず最後に思い出す光景というのが、ゲームを終えてインスタントラーメンを食べてシャワーを浴びてベッドに横になったこと。

 だがそこからこんな状態になるというのは考えづらく、しかもその時点では自分が別の記憶や感覚を持っていたことを認識していたことまでも思い出す。

 じゃあこの世界でこうなるまでの最後の記憶っていうのは? 屋上で寄りかかったフェンスが壊れて地面に向かって真っ逆さまに落ちていったこと、そこに至るまでの経緯も全部覚えていた。

 寝る前に思っていたこと、寝たら普通の感覚に戻るんじゃないかというのは楽観的過ぎたようで、実際には寝た直後に起きるというこれまでなら存在した寝たという感覚や夢などは存在しなかった。

 こっちの世界でも覚えている向こうの世界の地名や建物名を調べたいのに身体は動かせないのでただただ天井を眺めるしかなかった。

 そんなことをしていると部屋をノックする音が聞こえてきて、看護師が入ってきて、そちらに首を向けると慌てて廊下に向かって叫ぶ

 「先生!意識取り戻してます!」

 そうして駆け付けた医者に一週間前に自殺未遂で飛び降りて生き残ったということや、脳や脊椎を損傷し下半身不全であることやその他の後遺症もあるかもしれないこと、退院までどのくらいかかるかわからないことを告げられた。

 その際に自分の意志で飛び降りた訳じゃないことや、他の世界の自分の記憶があるということも話したが、どれも脳に損傷を負ったことによる記憶障害もあるということでまともに話を聞いてはくれなかった。

 親や先生が見舞いに来て話したが、その際も親には泣かれ先生にはもっと早く相談してくれればと言われるばっかりで誰もまともに取り合ってもらえなかった。

 それはそうだと飯島自身も思う。

 そして夕方になりもう誰も来ないだろうと思っていると、ノックする音が聞こえてくる。

 「どうぞ。」

 「失礼します。」

 完全に看護師が入ってくると思っていた飯島はどうにか動かせる左手でスマホを眺めていると横目に明らか看護師の服装ではない人だということに気付く。

 入ってきた人は見舞いに来た佐藤美琴だったのだ。

 「飯島君、生きててよかった。」

 「え?」

 スマホが地面に落ちる。

 意味が分からなかった。

 佐藤は屋上に呼びだしておいて自分はいなかったじゃないかと飯島は思う。

 「大丈夫!?」

 そう言って唖然とする飯島に近づき佐藤は落ちたスマホを拾って軽く埃を払ってから枕元にスマホを置く。

 「ごめんね。私が屋上に来てって言ったから。それでいなくて衝動的に飛び降りちゃったんだよね。ごめん。」

 「別に…そういう訳じゃ」

 そもそも飛び降りたかった訳じゃないというのをまた説明しても記憶障害だと思われるだけだと思った飯島はそこまでで言い止まった。

 「ごめんね、本当はもっと早く待っておきたかったんだけど、緊張して屋上に通じてるところの後ろに隠れてて、その」

 「いや、だから」

 そう言って制止しようとする飯島の声は泣き始めている佐藤には届いていなかった。

 「その、飯島君が来たのを見てから、告白しようと思ってて、でも、少し目を離したときには、もう飯島君はいなくて、その、壊れたフェンスから飛び降りてたの。」

 完全に泣いている佐藤に向かって飯島はどうしたらいいのかどう声を掛けていいのか分からずただただ泣き止むのを待とうとしていた。

 「私ね、好きなの。飯島君のことが。だから生きててよかったって、思って。」

 泣きながら佐藤はそう言い、飯島の左手を両手で軽く握る。

 「許して欲しい、なんて言わないから、もう、死ぬなんて、考えないで欲しい。」 

 飯島は完全に頭がオーバーヒートしていた。

 飯島としても柊としても女の子に触れた経験なんて記憶にない。

 お母さんは女の子に入るならふたりの母親だけだ。

 それどころか泣きながらもちゃんと好きと告白されている状況に飯島は本当に脳までおかしくなりそうなくらいの感情の昂りだった。

 佐藤は飯島の左手を離してその両手で涙を拭う。

 「いきなりいろいろごめんね、また来るから。」

 そう言って足早に飯島の病室を出ていった。

 「あ、」

 出て行ってから数十秒経ったあとに飯島はそう呟いた。

 なにがなんだかわからないことだらけだと思うも、佐藤の手は温かくて柔らかくて、苦手だった人の涙に対しても不快感を覚えず、むしろ自分が止めてあげなきゃと感じるほどだったことに驚く。

 もう、疲れたし、寝よう。

 そう思って瞼を閉じて視界が暗闇に包まれていく。

 



 身体が、痛くない。

 見慣れたベッドで起き上がる柊は仮説が正しかったことに気付く。

 意識を失うと、もう片方の世界で起きる。

 まだ検証回数が少ないけれどほぼほぼそれで正解だろう。

 だとしたら本当に精神が休まる時間はないということ、この記憶や感覚が一つに統一されたのも夢ではないこと。

 それらも含めて柊は理解していた。



 そうして柊優二と飯島尊として生活する日々が二か月程続いたとき、柊優二として生活する世界で四連休が訪れた。

 その中日二日間を徹夜でゲームをしようとネット友達に言われ、飯島として過ごす間はもちろんベッドで寝たきりなのでそのストレスもあって了承した。

 「最近本当に変わったよな。」

 「またその話?」

 「だって別人ってくらいなんか違和感あるんだもん。なんつーか子供っぽくなった?」

 「それは聞き捨てならない言葉だな。」

 そうは言っても高校生の飯島の感覚が混ざった柊は心の中で確かにそうかもと感じていた。

 「それとも女か?」

 「仕事以外はオンラインなの知ってるだろ。そんな余裕どこにもねぇよ。」

 それは常人には、という話で柊は飯島として生活する中で毎日見舞いに来てくれる佐藤と会話を深めるようになって、土日に関しては面会時間の最初から最後まで喋っているということも珍しくないくらいに仲良くなっていた。

 「それもそうか。俺ら一生独身コンビだもんな!」

 「ははは、そうだね」

 「なんだその笑い方ー!」

 そうして二日間の徹夜はどうにか終わりを迎えようとしていた。

 「眠くね?」

 「………うん。」

 「本当に落ちよう。…お疲れ。」

 「うん。」

 そうして限界が来ていた二人は通話を切って眠りに着こうと立ち上がるが、その瞬間ずっと座っていて急に立ったことによる眩暈と睡眠の限界だった柊はそのまま倒れてしまった。

 


 「眩しっ」

 目が覚めるとそこは二か月前に訪れた案内人がいる世界だった。

 「随分楽しんでるみたいだね。」

 相変わらず佐藤の見た目をしている案内人がそう答える。

 「どうも。」

 「不機嫌そうだけどどうした?私には楽しそうな様子しか映ってないけど。柊優二も飯島尊も。飯島尊の方が楽しそうかな?」 

 「それに関してですけど、ここの記憶はあっちに持っていけないって言われなかったんですけど。」

 「え?うんまぁ聞かれなかったし。」

 なにを当たり前のことを言っているんだという表情で案内人はホワイトボードを明晰してなにか書き始める。

 「聞かれなかったって、大事なことじゃないですか。」

 「そんなにも大事かなぁ」

 「大変だったんですからね!自分の意志じゃなくて他の人の記憶が流れ込んでくる感覚。味わったことないでしょうけど。」

 「自分の意志だし、自分の記憶だよ。」

 「そういうことを言ってるんじゃなくて!」

 紡は案内人に初めて怒りを露わにした。

 「ようやく怒ってくれた。」

 その言葉に紡は呆れる。

 「まぁ、とりあえずここの記憶は残らないんですね。わかりましたよ。にしても逆に柊とか飯島で感じたことや記憶は紡で覚えてるんですね。都合がいい。」

 「そんなこと言われたってここ作ったの私じゃないし。っとできたー!」

 そう言ってホワイトボードを紡の目の前に持ってくる。

 「これなんですか」

 そこには今後の予定表!と題名が書かれている。

 「いやー、せっかくだから今後の人生知りたいかなって思って。どうせ忘れるし。」

 「いいですよ。ここに来る度に答え合わせになっちゃうじゃないですか。」

 「面白いじゃん!」

 「いや結構です。」

 その強気の言葉に案内人はしょんぼりしてホワイトボードの明晰を終わらせてホワイトボードが徐々に消えていく。

 「じゃあなんでここに来たわけ?」

 不機嫌そうに案内人が紡に聞く。

 「別に来たくて来たわけじゃないですから。そもそも来る方法だって忘れてるんだから来れるかどうかは運じゃないですか。」

 「確かに!私としたことがうっかりしてたね」

 「あなたにうっかりはないでしょ。」

 「む、鋭いね。」

 案内人には過去もなければ未来もない。

 即ち忘れるということもないので、わざと言っていないということなのだ。

 「それより聞きたいことは?聞いておいた方がいいんじゃない?」

 「そうですね。じゃあ、死ぬってなんなんですか。」

 死、そうやって大きく分けて言ったのには意味があった。

 どちらの世界か片方だけで死ぬというのはもう片方の世界で生きるだけになるからだ。

 「おー、結構考えてそうな質問だね。いいよ答えてあげる。」

 そう言って案内人は大都市を地平線の向こうまで明晰して移動し始めた。そこに追従するように紡は歩き始める。

 「不気味ですね。人がいない都市ってのは。」

 「そうなのか、私にはわからないや。そう、死についてだね。なんとなく理解していると思うけど、君の死っていうのはもう確定してることなんだ。」

 「結構直球に言いますね。わかってましたけど。」

 ホワイトボードの明晰を解いたタイミングで先にホワイトボードが消えていき、文字が微かに残っていたのを紡は見ていた。

 「そう、先に柊優二の世界で死ぬことは確定してるの。それは世界を作った神的な存在の意向だと思う。それ以上はわからない。ただその世界で死ぬと、あの世って言われる飯島尊の世界で目が覚める。それは人によって年齢が違うけど、大体は中学高校生くらいから始まることが多いね。」

 「その理由ってのは?」

 「そのあの世での自分自身の理解が及ぶのがその年齢くらいなんだ。だから人によってはもっと遅い人もいればもっと早い人もいる。君は平均かちょっと遅いくらいだったね」

 一言多い案内人の言葉には耳も貸さなくなっていた紡は更に質問をする。

 「その飯島の世界で死ぬとどうなるんですか。」

 「ちょっと待ちなよ。そんな焦らなくても答えるからさ。」

 「はい。」

 「もう一つの世界で生まれ変わるんだよ。例えば柊優二が死んだとすると、その時点で飯島尊の夢の先、あの世が無くなっちゃうでしょ?だからあの世ってのを用意する必要があるの。それがもう一つの世界。勿論ここじゃないよ?多分神的な存在が作り続けてるんだと思う。」

 「なんですか、じゃあ輪廻転生は本当ってことですか。」

 「半分合ってて半分間違ってるんじゃないかな。輪廻転生って考え、この世とあの世ってのがあるだけでしょ?それとは違う。いくつも世界があるんだ。それが巡ってるかもしれないって言われたら私もわからない話だけどさ。」

 「もし四つくらいの世界だけで巡ってるとしたら、卵理論が成立するってことですか?あとは輪廻転生も間違いじゃない。」

 「その理論も間違ってないかもね。けど私もあなたもそれを証明することはできない。なぜなら卵理論や輪廻転生や他の宗教には神がいるけど、私はそんな存在じゃない。あくまで案内人だからね。」

 案内人は止まって紡の方を向く

 「明晰、慣れてきたね。」

 「まぁ、結構やってますから。」

 「それはいいことだね。好きな人になってみたら?」

 「べ、別にそんなことはしなくていいです。」

 「なんでよ、ここでは身体を自由にいじっても怒られもしないのに」

 「そういうことじゃなくて、明晰できるほど自分は彼女の事を知らない。」

 「好きなの認めたね。」

 その瞬間騙されたと思った。

 完全に罠に嵌められた。

 この案内人というのは上位存在というにはあまりにも人間味があって感情的過ぎた。

 「嵌めたなー!」

 紡は空中に逃げ始める案内者を追いかけようとジェットパックを明晰して飛び始めた。

 「ハハハ、やっぱり君は面白いね」

 そう言って案内人は空中で止まって紡をみつめている。

 「捕まえた!」

 そう思った瞬間、明晰が一瞬にして解けてしまう。

 落ちていく、どんどん落ちていく。

 地面にぶつかる。

 またこの感覚だ。

 「はい、セーフ」

 地面すれすれで落下が止まる。

 「なにするんですか。」

 空中から降りてくる案内人に向かってそう叫ぶと案内人は佐藤の身体からゆっくりと天使の姿へと変えた。

 「ここでは私に逆らわないようにってのを教えておこうと思ってね。」

 「そんなのわかってますよ。そもそもそっちが始めた話じゃないですか。」

 その言葉を聞いて案内人は天使の姿から紡の姿へと変える。

 「いや、君が始めた話だよ」

 なにを言っているのかわからなかった。

 からかってきたのは案内人の方で、それに乗っただけだというのに。

 「それはそうと他に聞きたいことは?」

 「本当にこっちの気持ちも考えないんですね。」

 紡はそう言いながらも質問の内容を考え始める。

 「夢ってあの世って言うじゃないですか、じゃあ他の突飛な夢って結局なんなんですか。」

 「それねぇ、ここがあの世とこの世の狭間って話したよね?」

 「はい。あ、ってことはここで無意識に明晰したことが夢になってるんですか?」

 「だいたいそういうこと。夢ってそんなに長くないし多くもないでしょ?意識が移り変わるときにたまにここに潜り込んできちゃう意識があるのよ。それが夢の正体。」

 「夢って実際に起こってることだったんですね。それが不思議な話です。」

 「まぁ、現実ってのがそもそも夢だからね。」

 「あの世とこの世があるからどっちも現実で、どっちも夢ってことが言いたいんですか。」

 「そういうこと。」

 納得しかけている紡の中に質問が思い浮かぶ

 「あの、話戻りますけど人生の意味ってなんなんですか。」

 「人生の意味?それは私にもわからないよ。」

 「だって死んだら記憶って無くなっちゃうじゃないですか、なんだったら自分以外に人格統合した人はいないんでしょ?」

 「いいか、紡。何度も言うが私はここの案内人で、世界を作った神じゃない。だからわからないことだってあるんだよ。」

 案内人。

 そうあくまで目の前にいる存在は神ではなく案内人なのだ。

 「わかってくれたならいい。まぁ私にも始まりとか終わりはないし、その私を作った神と同じ神が君たちの事も作ってるだろうから始まりとか終わりってのはないんじゃないかな?」

 「そうですか。楽観的でいいですね。」

 「まぁ君もいずれわかるさ。」

 「そういう日は来ないですよ。なんて言ったってこうしたら忘れていくんだから」

 紡は明晰を解いて次第に身体が消えてゆく.


 「じゃあまたね」



 「飯島君?」

 ふと目が覚める。

 まだ病室に横たわったままで隣には佐藤が座っている。

 「やっほ、看護師さんがいてもいいよって言ってたから起きるまで待ってた」

 「ありがとう」

 佐藤とはもう二か月の付き合いで、それまでお互いに何も知らなかった状態からの付き合いということで、飯島と柊にとって人格統合してからの唯一の人間関係で今の自分でも関係を築けるんだという自信にも繋がっていた。

 「なんかさ、飯島君ってすごい大人な感じだよね。」

 「本当?それは褒めてるよね?」

 「勿論!元々クールだなってイメージだったけどこんなに明るくて大人な人だとは思ってなかった。」

 クールっていうのはいじめられてたから無気力でそう見えてただけで、明るいのは今はこういった身体の状態でその学校に行かなくて済むからっていう話で、大人っていうのは柊の人格の分が入っているからという奇跡的な組み合わせで佐藤の印象は成り立っていた。

 「僕も佐藤さんがこんなおしゃべりだなんて思わなかったよ。」

 佐藤は容姿端麗、成績優秀だが口数は少ないという飯島のイメージがあった。

 「学校だとちょっとね。人が多いのそんな得意じゃなくて。本当は飯島君をいじめたり冷ややかな目で見てるのやめさせたいと思ってたんだけど、ごめんね。」

 「大丈夫。昔の事を振り返ったって仕方ないから。」

 「ごめん、ありがとう」

 佐藤は毎回毎回、過去のことについて言及して謝罪をするというのがお決まりになっていた。

 その度に飯島は大丈夫というのだった。

 実際、飯島は佐藤に対して謝罪をして欲しいなどということは考えておらず、むしろ今後のことを思って欲しいと思っているのだった。

 「学校はどんな感じ?」

 「特に変わりはないよ。皆、私がこうやって飯島君のところに来てるもの別に知らないだろうし。」

 「そっか、僕は課題祭りだよ。出席できない分、課題でどうにか卒業させようとさせてくれてるから。」

 飯島の通っている青高校では出席が足りない分というのを課題、レポートで補えるという制度が存在していて、飯島はその制度を利用しているが、毎日の授業を欠席扱いになっているためレポートの数というのが半端なくなっていた。

 「いつも課題してるもんね」

 フフフっと口元を手で隠しながら佐藤は言う。

 「授業とか真面目に聞いてなかったからハードなんだよ。」

 「いつでも教えてあげるから頼ってね。」

 こうして病室という本来は薄暗い雰囲気の醸し出す空間は、佐藤のいる間だけは楽しくて笑いの絶えない空間となっていた。

 「じゃあ、もう面会時間終わっちゃうから帰るね。」

 「いつもありがとう。」

 「こちらこそありがとう。明日も来るから。」

 この幸せな時間が永遠に続けばいいのに、そんな風に飯島は思っていた。

 次第にその気持ちは増大していき、柊として生活する日々に疑問を持ち始めていた。

 こうして人格がひとつになってしまってから早二か月、わざわざ精神的余裕や記憶の整理の時間を費やしてまで二つの世界で生きている必要はあるのか、より幸せで楽しく過ごせる世界で人生を費やした方がいいんじゃないのか 

 そう思ったのは、飯島としての希死念慮が人格統合によってそう思わせていたのか、それとも単純に幸せという名の佐藤美琴に対しての感情が肥大化しているだけに過ぎないのか。

 その答えは誰にもわからないのであった。

 自殺するほどの勇気や自殺した後にもこうして意識が続くのかという懐疑的な姿勢、柊として生きる世界での死ぬ理由の欠如から実際に自殺に至ってはいなかったものの柊は飯島として生きていきたいという気持ちだけは大きいものとなっていき、休日は昼寝ばかりするようになって、平日も仕事から帰宅して直ぐに寝るという生活になっていき、次第に仕事にも意欲的に取り組めなくなっていた。

 それは案内人が言っていた柊として先に死ぬということを緩やかに示唆していた。

 


 「先輩、最近冴えないっすね。」

 仮設テントの中で椅子に座ってぼーっとしていた柊に向かって従業員が覗き込むようにそう言う。

 「…ん。」

 意識がどこか遠くの彼方にあるかのような返事をする柊に対して従業員は腕を組んで首を傾げる。

 「先輩?大丈夫っすか?」

 もはや返事はない。

 柊の心は完全に飯島の世界に置いていかれたままで、ただただ仕事をするだけの心のないロボットと化していて、そのロボットが休憩時間に動くかと聞かれるとそんなことはないだろう。

 柊のなかで生きる意味、それは飯島として死なないようにするため、この状態での死がどうなるのかわからないから生きる、そんな状態に陥っていた。

 「先輩!」

 従業員に肩を強めに揺さぶられて遠くの彼方にあった意識が一瞬にして柊に戻ってくる。

 「ん?どうした?」

 柊は自分自身の状況を把握する気もなく、ただただなにがあったかを従業員に聞いていた。

 「どうしたもこうしたもないですよ!最近の先輩おかしいですよ!なんか仕事はちゃんとしてるんですけどそれも機械的というか、これまでもそうでしたけどなんていうかロボットみたいな感じです!」

 「ハハハ、それはどうも。ちゃんとしてるんだからいいじゃないか。」

 「そういう問題じゃなくて!」

 実際、そういう問題ではなかった。

 柊が完全に精神的にイカれてしまっていたのは、無理もない話だった。

 人格統合、本来人間がそう簡単に成し得れるものでもなく、これまでもこれからもその事例がないことを案内人は話していた。

 ただその人類唯一の感覚を味わっている柊が常人の感覚で理解できるかと聞かれればそれはノーだ。

 そうして誰にも相談できず、相談したとしても医者や親すら理解してもらえないそんな状況で唯一の癒しが佐藤美琴、ただひとりだった。

 その癒しに触れている瞬間、それだけが人としての心が存在しうるときであったのだ。

 「先輩、病院行きましょ、このままじゃ絶対事故起こしますから!」

 「行ったっていいけどなにも解決しないと思うぞ。」

 「じゃあ行きましょう!」

 そう言って仕事を途中で抜けて、近くの精神病院へと連れてこられた柊は道中もどこか意識は上の空で、言ってしまえば廃人そのものだった。

 「柊さん、三番へどうぞー」

 「先輩、行ってきてください。」

 「ん」

 順番がやってきて柊は診察室へと入る。

 「失礼します。」

 「はいどうぞー、座ってくださいね。」

 そう言われ、診察室の椅子に腰を掛ける柊が座りきる前に医者は喋り始める。

 「今日はどうしましたか?」

 その様子に驚きながらも柊は冷静に答える。

 「なんか後輩に様子がおかしいって言われて。」

 「まぁ、確かに無気力的ですね。いつ頃から症状が現れ始めましたか?」

 「うーん、なんて言えばいいんでしょう。時間の感覚が普通の人間と違うっていうか、本来一日って起きてる時間と寝てる時間で進むと思うんですけど、それがどっちも起きている時間で進んでいるっていうか。」

 医者に向かってこんなことを説明したって分かってくれないということは柊は分かっていたが、折角精神科に来ているんだから思うままに喋ってみようと喋り始めた。

 「そういった感覚を持っているんですね。夜は寝れていないということですか?」

 「いや、寝れてはいるんです。その、夢の中でもはっきりと意識があって、そっちの世界で起きているから疲れるみたいな?」

 「なるほど、夜は眠れているんですね。」

 「まぁ、多分。」

 「柊さんは、親戚の中で精神的な病気を抱えている方ってのはいましたか?」

 「どっちのですか。」

 「どっちっていうのは?」

 「だから、あっちの世界かこっちの世界かって話です。」

 「随分、参っちゃってるみたいっだね。」

 急に医者の声色が変化してその瞬間に柊は俯いていた顔をばっとあげて医者を見る。

 「え?誰ですか。」

 「そっか、ここだとわからないのか。」

 柊の頭が混乱する。

 自分自身の話を聞いてて、この医者まで頭がおかしくなったのかと思ったがそういう訳でもなさそうだった。

 まるで人が入れ替わったというような感じで、頭がおかしくなったと言えばそうだが、同じ人だとは思えなかったのだ。

 そんな混乱した中で柊は一つの疑問が浮かぶ。

 「俺をこんな風にしたのはあなたですか。」

 「こんな風ってのは?」

 「だから、夢の世界でも意識がある状態の事だよ!同じ人だと認識してるところかその他も含めて!」

 「ああ、そのことね。」

 髪をいじりながら背もたれにもたれかかり医者は喋りだす。

 「それは自分が望んだことだよ。」

 自分が望んだこと?柊はその言葉を素直に受け取れなかった。

 柊は自分自身が夢の中の自分と一緒になることなんて望んだ記憶はなかったからだ。

 これは案内人のいるあの世とこの世の狭間で起きたことは覚えていないからこそ起きる現象だった。

 「兎に角、戻してくれよ!」

 「それは難しい話だね。私にはどうしもない話だ。」

 「なんで?」

 「それは君と私を作り上げた神に聞いてくれ、私は案内人だからね。」

 「案内人?なんの…」

 「君は何度その質問をするんだ。めんどくさいな。」

 柊は自分の記憶を必死に辿るも案内人に関する記憶はどこにもなかった。

 「とにかく、君には時間がない。もっと早く自殺するんだな。」

 「自殺?何のためにそんなことしなきゃならないんですか!?」

 「時期にわかるさ。じゃあまたね。」

 「いや、ちょっと!」

 そう叫びながら立ち上がるも医者はその瞬間に脱力して意識を失う。

 「なんなんだよ」

 柊はその様子にただ唖然とするしかなかった。

 

 「医者が突然変なことを言って倒れた?本当ですかそれ」

 「実際、医者が倒れたのは本当の事だ。」

 「まぁ確かに、ちらっと意識失ってる医者が見えましたけど。」

 診察自体が途中で終わってしまった柊は従業員と診察室で起きたことの話をしている。

 「じゃあまた後日ですね」

 「別に行かなくてもいいんだけどな。今日は一日ありがとう」

 「ちょっとマシになりましたね。お疲れ様です。」

 そういって従業員は手を振りながら帰りの電車のホームへと駆け上がった。

 柊もその姿が見えなくなるまでその場で待ってから、自分の家へと向かうホームに向かって歩き始めた。

 案内人、自分で望んだこと、自殺。

 既に非日常的な人格統合という出来事が起こっていた柊にとって、その案内人が表れたことも受け入れがたい中での事実として映っていた。

 帰宅して普段ならシャワーを浴びてすぐに寝るという柊は少しベランダに立って、考え始めた。

 自殺ってどっちのことを言っているんだ。

 こっちの世界のことかあっちの世界かそれとも、どちらとも?

 時間がないっていうのはどういう意味なのか、考えても考えても辿り着かない答えを考えることをやめて柊はベッドに横になる。

 自殺か、しないだろうな。

 

 

 大きな音がする。

 叫び声とこれはなんだ、銃声?走る音も聞こえてくる。

 次第にその音は大きく近づいてくる。

 その音の正体は集団による同時多発テロで、同時刻に同系列の大学のキャンパスもテロにあっていた。

 館内放送が流れる。

 「た、ただいま不審者が病院内に多数いるとの情報が入りました。病院内に、嫌!」 

 その瞬間に館内放送はから声は聞こえなくなる。

 きっと不審者が放送室内に入ってきたんだろうと飯島は察する。

 だがこの身体でどうしろっていうのか、動かせるのは上半身だけでそれもまだ治りきっていない。

 案内人とかいうやつが言っていた時間がないっていうのはこういうことを指していたのか?

 だとしたら結局死ぬだけじゃないか、なにが自殺と変わらないっていうんだ、自分の意志を持って死ぬか否かって事だろ。

 そういった思考が飯島の中を巡っていると館内放送がまた流れ始める。

 「病院内は我々が制圧する。全員2階のホールに集まれ。抵抗する者、指示に従わないものは即刻殺害する。」

 無理な話だ。

 ここの病院には300床を超える病床と、それに応じた医者や看護師や事務スタッフだけでなく一般の利用者などもいる。

 それを本館の二階の広場に集めようだなんてとても考えられた犯行とは思えなかったが、テロリストいう武力を振りかざしてなにかを成し得ようとする集団にそこまで考えが及ぶとは考えずらいので妥当ではあった。

 「嫌!」

 佐藤の声が病室の外から聞こえてくる。

 「佐藤さん!?」

 飯島は外から聞こえてきた声に対して、反応してしまう。

 何人の犯行グループかわからない状態だったが、大学病院全ての部屋を確認するというのは相当な人数が必要で、大学を狙った犯行をする意思を持った人がそんなに大人数であるとは思えなかった。

 そうした状況だとしたら動けないのは確定している飯島にとっては音を出さずに病室にひっそりと残っている方が賢明だった。

 部屋のドアが乱雑に開かれて、そこに見えるのはテロリストに拳銃を突き付けられて入ってくる佐藤の姿だった。

 「飯島君…」

 そう呟く佐藤はテロリストに蹴り飛ばされて床に倒れ込む。

 「うるせぇ女だな。で?その飯島ってのがこいつか」

 そう言いながら拳銃を飯島の方に向ける。

 飯島は人生で初めて拳銃を向けられ、その大きさからは考えられないような威圧感に恐怖を覚えた。

 「こっちこい。放送聞こえてなかったのか?」

 「…動けない。」

 どう返事をするか悩んだが、下手に刺激したり嘘を付いたところでなにもできないことはわかっていたので、正直なことを言う。

 「んあ?なんでだよ。」

 「自殺未遂で脊椎損傷だから下半身が動かない。」

 自殺未遂ではなかったが、そのことをいちいち説明している間に殺されても困るので、端的かつ分かりやすい説明を選んだ。

 「よくわかんねぇけど、動かないんだったら殺すしかねぇよな。そう言われてるからよ」

 そう言って拳銃の引き金に指を掛けるテロリストに向かって佐藤がテロリストの足を掴んで叫ぶ。

 「待って!」

 「は?なんだこの女」

 「なんでもするから、その、飯島君を殺さないで。」

 懇願する佐藤の姿に心を痛める飯島だったが、だからといって身体が動くようになるわけでもなかった。

 なにを言っても事態を悪化させるような気がしていた飯島は無駄に口を開かなかった。

 「なんでもする?簡単に言うじゃねぇか。よっぽどこいつのことが好きなのかよ。」

 テロリストは佐藤の掴む足を勢いよく払って続けて言う。

 「じゃあこの場で脱げ。」

 その発言に飯島は口が開きそうになる。

 僕を殺せ。

 そう思っても、死への恐怖には叶わなかった。

 そうして佐藤はテロリストに拳銃を向けられたまま無言でゆっくりと立ち上がる。

 佐藤は飯島の方を向きながらブレザーを脱いでワイシャツのボタンをゆっくりと外す手は恐怖で震えてうまく外せない様子に飯島は今にも叫びそうになる気持ちを抑える。

 ボタンをひとつ、ふたつと外していく。

 そうしてワイシャツのボタンがすべて外れて肩からゆっくりとワイシャツを脱いでいく、その姿は飯島の目に美しくも綺麗に映る。

 ワイシャツを地面に投げ捨て、下着を両腕でめくりあげてワイシャツの上に投げ捨てる。

 その両腕はそのままスカートのチャックへと伸び、ゆっくりとチャックを下へと下げて緩んだスカートから手を離して軽いぽとんという音を立てて地面に落ちる。

 「結構なもんだな。そのまま続けろ。」

 拳銃の引き金からテロリストの指が離れる。

 佐藤は少し躊躇いながらも背中に手を回してブラジャーのホックを外し、左腕から紐を外す。

 その様子にテロリストは右手に拳銃を持ったまま、佐藤の胸へと左手を回す。

 「こんなでけぇ乳ぶら下げて、これを好きにできる飯島君ってのは相当いいご身分だな!」

 そう言いながらテロリストは佐藤の胸を揉む。

 「続けろ。」

 胸を揉みながらテロリストがそう言うと、佐藤はショーツを右手で抑え、右足を上げて脱ぐと、床そのままに落とす。

 その瞬間にテロリストは佐藤の胸を揉む左手を止め、一歩下がって佐藤の頭に拳銃を突き付けた。

 「上出来だな。じゃあ最後に好きなことさせてやるよ、30秒だけ自由にしろ」

 そう言われた佐藤は足元のバッグから十字架を取り出し、それを両手で持ちながら喋り始める。

 「飯島君、私、あなたと会えて喋れてよかった。短い間だったけど、ありがとう。」

 死の恐怖が迫っていた飯島はその言葉に何も返せなかったが、そのことを気にする様子もなく佐藤は続ける。

 「飯島君、私、あなたの事が好き。話し合ってからもっと好きになった。だから、だから、生きて欲しい。」

 ようやく飯島は口を開く。

 「僕も!佐藤さんのこと、好きだ。」

 「いやー、甘酸っぱいねぇ。けどそれもお終い。」

 その直後、テロリストが引き金に指を掛ける。

 「飯島君…」

 そう言う佐藤の目には涙が浮かんでいた。

 二度目の涙、一回目も二回目も喜ばして泣かせてあげれなかった。

 後悔、ここでなにもしなければ永遠に続くことは分かっていた飯島は考えるよりも先に口が開く。

 「俺を殺せ!」

 テロリストはその声にびっくりしたのか、顔を飯島に向けて大声で言い放つ。

 「お前らめんどくせぇな!二人仲良く死んどけ!」

 その瞬間、バンッという大きな音が鳴り、飯島は胸に焼けた鉄の棒をねじ込まれたかのような強い痛みを感じる。

 その一瞬の隙を見て佐藤がテロリストの持つ拳銃を奪い取ろうとする。

 取っ組み合いの中で何発か発砲が起きるがどれも天井や床に当たる。

 「このクソアマ!」

 最終的に佐藤の上に馬乗りになったテロリストは佐藤の頭に拳銃を突き付けるが、その拳銃のスライドは引かれたままで弾はもう入っていなかった。

 そのことにテロリストは気付くと、弾の入ってない拳銃で佐藤の顔面を何度も強打し、立ち上がるとお腹や背中を何度も何度も蹴った。

 飯島は胸を撃たれ、意識が朦朧とする中でその光景をただ眺めるだけになっていた。

 最終的にテロリストは取っ組み合いの中で佐藤に引っかかれた顔面の傷を抑えながら病室を後にした。

 「ううっ」

 佐藤のうめき声がしてまだ生きていることはわかるが、状態は良くないだろう。

 けれど既に満身創痍だった飯島は生きていることが奇跡とも言える状態で、佐藤を見つめる。

 「さと、う、、さん、」

 そうして歪んでいた視界はブラックアウトした。

 


 「やあ、また会ったね。」

 佐藤の見た目をしてそう言う案内人に対して紡は記憶の整理をする。

 「別に会いたかった訳じゃないですけど、多分。」

 「そんなこと言わないでさ、人間てのは必ず死ぬんだよ、そのことは仕方がない。君がどう抗っても必ず訪れるのさ。」

 「そいうことじゃないですよ、そもそもああやって干渉できるなら今回、自分が死ぬのも防げるじゃないですか。」

 「うーん、それは僕の存在を否定する行為だね。親殺しのパラドックスを自分の手で行おうとは思わないだろ?」

 「親殺しのパラドックス?」

 「そう、親殺しのパラドックス、例えば君たちの科学力が向上し、過去にタイムトラベルが可能になったとして、そのタイムトラベルで自分が生まれる前の自分自身の親を殺したらどうなるのかって話。」

 淡々と説明する案内人はいつもと同じように動き始める。それに沿うように紡は芝生を明晰する。

 「おっ、芝生はいいね。生命の力を感じる。」

 「それより続きを話して欲しいです。」

 「釣れないなぁ、まぁいいけど。んで親を殺したら自分は勿論生まれないでしょ?そしたら親を殺す原因である自分は生まれないから親ってのは死なない。てなると…?って話。理解できた?」

 「おおよそは、つまりそれは過去へのタイムトラベルを否定するものだと言いたいんですか?それとあなたの存在に何の関係が?あなたには親もいなければ過去も未来もないですよね?」

 紡の芝生を踏む足に力が入る

 「よく覚えてるね。つまりそういうことだよ。」

 「全く分かりませんけど。」

 「私にとって親は存在しない。だから親殺しのパラドックスは自分を殺すことが該当するんだ。これでなんとなくわかったかな?」

 紡は案内人の感覚的な話に理解を示せなかった。

 それは人間の理解の限界とも言えた。

 「意味が分かりません、あなたが殺したのは飯島尊であって、あなたではないですよね?」

 「次第にわかるときが来るのさ。」

 「神の意向ってやつですか。」

 「そう、きっと神が我々という存在をつくった際に決めたことだろうね。まぁ、神と言っているけどその存在が確定的であるとは言えないけどね。」

 案内人はそう言うと紡の明晰を解き始めた。

 「ちょっまだ聞くことが!」

 「君は理解できるさ。紡。」

 


 ベッドの上で勢いよく起き上がる。

 「はあはあ」

 柊は辺りを見渡して自分の身体を触る。

 生きている。

 けれどそれは柊としての身体であり、飯島としての身体はどうなったのかわからない。

 佐藤、そのことだけが柊の頭を支配すると、ベッドから立ちあがり、ベランダへの窓を開いてフェンスを乗り越えて地面に飛び降りる。

 衝動的だった。

 そこに思考という二文字は存在せず、いち早く意識を失くして飯島に切り替わるにはどうしたらいいのか、そのことだけを優先した行動だった。

 落ちる身体はもう止まらず、地面へとぶつかる直前に柊は瞼を閉じた。

 


 瞼を開くとそこは真っ白な空間で、床と空の境界がわからない空間が広がっていた。

 あの世とこの世の狭間、案内人がそう話す空間に紡はただひとり存在していた。

 なにか大事なことを忘れている気がする。

 自殺しなければならなかったことを案内人に言われていたこと、死ぬ順番が存在するということ、時間がないと言われていたこと。

 断片的な記憶が紡を支配する。

 神の意向で柊優二として先に死ぬはずだったことを思い出した。

 紡はその意向に沿わなかった。

 そう、飯島尊として先に死んでしまったのだ。

 少しの差、だが確実な差がそこにはあった。

 神の意向に背いた紡はどうなるのか、そのことは紡にはわからなかった。

 それでも次第に紡はここに来た理由、その存在意味を理解し始める。

 明晰夢を見ている感覚、そのものだった。

 

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