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キスの日に寄せて

作者: 文月斜

初夏には珍しい、まだ朝靄の残る月曜日だった。


通勤通学のひと足もあらかた通り過ぎてしまった道を、けたたましい車輪の音を響かせて、一人の少女がすっ飛ばしていく。

古風な制服にプロテクターを着けた姿は初めて見る者には異装と映るだろうが、この小さな町の人々にとってはもう見慣れた景色の一部になっていた。


体格は小柄ながらスポーツ万能、あり余る元気をこげ茶色の瞳が象徴するような、誰からも愛されるスピード狂は、学校への道を急いでいる。

まだシャッターの開かない洋品店の角を曲がり、三分遅れた農協の時計で時刻を確かめて、少女はさらに加速した。ここからしばらくは交差点も横道もない長い直線なのだ。


腕時計に目を走らせた少女が前方に視線を戻すと、ほんの10メートルほど先からこちらに向かって来る人影が見えて、彼女は慌てて縁石を飛び越え横に避けた。

速度はほとんど落ちなかったので、大きな犬を連れたその人影は、見る間に彼女の脇を流れ去って行った。


「いいなあ、あんな大きな犬」


呟きながらもういちど縁石を飛び越えて、少女は再び地面を蹴った。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「三峰……カナタ」

「はい」

「うん、カナタ、姉さんは欠席か。珍しい」


担任の中年男性教諭が、黒い出席簿を片手に言った。


「遅刻です。たぶん」


カナタと呼ばれた女子生徒は簡単に答えた。


「あ、遅刻か。うん、カナタ、遅れてもいいからハルカにスケボーで通学するのだけは止めるよう言ってくれないか。ずいぶん危ないから」


担任は人の好い笑顔を浮かべてカナタに頼むのだが、カナタとしても再三、姉には忠告しているので、「善処します」くらいしか言うことがない。

だいたい双子とはいえ妹の方が姉の非行(・・)の責任を問われるというのもおかしな話だ。


「先生からもきつく言ってやって下さい」


カナタがいくぶん冗談交じりに返すと、


「うん、私はどうもきつく言うのが苦手で――」


担任が情けない苦笑でそう答えて、教室は無邪気な笑い声に包まれた。




ホームルームが終わって先生が教室を出て行くと、入れ違いにハルカが登校してきた。


「遅かったね」


カナタが同じ顔の姉に声を掛けると、


「その言い草はないでしょ。もう少し真剣に起こしてくれたっていいじゃない――先生、なにか言ってた?」

「校則破ってまで遅刻するような奴は最悪だってさ」


さらりと言ってのけるカナタの隣で、ノートを写していた友人たちが目を丸くした。

妹の機嫌が予想以上に悪いので、ハルカは肩をすくめて自分の席についた。クジ運のいい彼女は、大体いつも窓際後方の席に座っている。


「よう、転んで泣いてんじゃないかと思って心配したぜ」


一つ前の椅子に座った亮二(リョウジ)がハルカの方に向き直って声を掛けてくる。

小学校の頃からのスケート仲間で、むろん彼女が普通の道路で転ぶような腕前かどうかはよく知っていた。


「一度でもあたしより高く跳べるようになってから言って欲しいもんだわ、そういう科白は」

「へっ、可愛げのねえ。次の大会で俺の新技みて惚れても教えてやらねえからな」


軽口を叩いた亮二はまた背中を向けた。いやに自信のある彼の口ぶりと新技()という響きにぐっと興味を惹かれたハルカだったが、ここで亮二に得意がらせるのも癪なので黙っていることにした。

予鈴が鳴って、カナタの周りでノートを写していた面々もいそいそと席に戻り始める。ハルカがちらりと目をやると、同じように振り向いたカナタと目が合った。

こういう時は決まってカナタの方がそっぽを向いてしまうのだが、ハルカはそういう妹が可愛いので、普段のお小言も甘んじて聞くようにしている。

一時限目の英語は、担任の柴田先生の受け持ちだ。意外と几帳面な彼はいつものように授業開始の二分前には教室にやってきて、不真面目な生徒たちを落胆させた。


「お、ハルカが来たか。お前ずいぶん上手いらしいが、登下校の時くらい歩けよ」


省略しても意味が通るくらいに、彼女のスケートの才能は教師の間にも知れ渡っている。「気を付けます」と型通りの返事を返して、ハルカはまた妹に睨まれたのだった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


翌日、委員会の仕事を終えて帰る途中で、カナタは珍しく町の本屋に寄った。

参考書や雑誌はハルカが買ったものを共有しているし、趣味の読書は図書館を活用するので、却って書店に寄る機会は少ないのだ。

先日、作文のコンクールで入賞し、いくらか分の図書カードが手に入ったので、しまい忘れる前に本と換えてしまおうと思ったのである。


こういう時ほど目当ての商品と出会えずに迷うのは本に限った事ではないが、広い売り場を飽きもせずにチェックしていったカナタは、とあるコーナーを見つけて目を輝かせた。


「これにしよ――値段もちょうどだし」


ペット雑誌のコーナーから図鑑ほどもあるムックを選び出したカナタは、嬉しそうにページをめくって呟いた。

マンション暮らしで猫一匹飼えないので、姉妹揃って動物に憧れているのである。特にカナタは幼い頃から生き物の世話をするのが好きで、小学校の頃は皆に率先して兎や金魚を可愛がった。


カナタが重いムックを抱えるようにしてレジまでやって来ると、顔見知りの店員のおばさんが一人の客と何か話しているところだった。

カナタがその客の後ろに並んだのを見て、おばさんは言った。


「あ、ちょっとご免なさいよ――カナタちゃん、いらっしゃい。お姉ちゃんは元気かい」


おばさんの声に合わせて、レジの前にいた客が一歩横に避けたので、カナタはカウンターに分厚いムックを置いた。

見るとはなしに目をやると、話をしていた客はサングラスをかけた青年のようだった。

カナタは軽く頭を下げたが、青年は微動だにしなかった。年は二十二、三といったところだろう。普段なら礼儀を知らない人だとムッとするところだが、青年の手元に一本の杖を認めたカナタは、そのままおばさんの方へ向き直って答えた。


「おかげ様で。いつも姉がお世話になってます」


ふだん雑誌などを買いに来るのは専ら姉のハルカの方なのだから、たまに顔を見せた自分を憶えていてくれただけで単純に嬉しい。もっとも、顔立ちや髪型はほとんど同じなので、一見して見分けてくれるのはこのおばさんくらいだ。


「あらあら。中学生になってずいぶん気の利いた話し方するようになったわね。お勉強もできるんですってね、いつもハルカちゃんが自慢してるわよ」

「やだな、フツーですよ。お姉ちゃんが自慢するのもなんか変だし」

「いいじゃないの。お姉さんはスポーツ万能、妹さんは成績優秀! 理想の双子だわ」


そこまで断言されると、優等生のカナタも多少照れる。返す言葉に詰まって、少女は仕方なく頬を掻いた。


「今日はもう部活は終わったのかい、いつもより中学生の帰りが早いようだけど」

「テスト前だからです。ほとんどの部はいつもより一時間くらい短くなってるから」

「ああ、それでね。――そうだ、カナタちゃん。こちらの方なんだけど、目が不自由なんだそうだよ。それで慣れないこの辺の道で迷っちゃったから、駅までの行き方をいま教えたとこなんだけど、カナタちゃん帰り道だろう? 一緒して案内してあげてくれないかい」

「えっ、いいですよ、わざわざ」


驚いた声で答えたのは、カナタではなく青年の方だった。深みのある声で、カナタは好感を持った。


「あっ、本当に帰り道と同じですから。ご案内させて下さい」


カナタが言うと、青年は恐縮したように、


「ありがとう、それじゃお願いします」


と頭を下げた。


「悪いねカナタちゃん。少しオマケしておくから」


有無を言わせず図書カードの一枚を返してくれたおばさんに挨拶を残して、カナタは青年と店を出た。

と、入り口の前の柱につながれて主人を待っていた白い犬が、嬉しそうに立ち上がって長い尾を振った。


「大きい犬! あ、この子もしかして――」

「ああ、私のパートナーです。元々は普通のペットだったから盲導犬としてはまだ半人前ですが」


青年が手探りで紐を解いてやると、愛犬はゆっくりと彼を先導しはじめた。が、いかんせん不慣れな道に戸惑っているようで、大型犬特有ののんびりした足取りが、時々さらに遅くなった。


「さっきからこの調子ですっかり夕方になっちゃいまして……手間で申し訳ないけど駅まで頼みます」

「はい、もちろん!」


大型犬など滅多に見る機会もないカナタは一も二もなく頷いた。


「迷ってるところも可愛いなあ……名前はなんて言うんですか?」

「この子はミズキ、僕は木脇積太(きわきつみた)

「あ、私――三峰カナタです」


慌てて自己紹介したカナタは、積太と名乗った青年の横顔を、改めて見直した。サングラスに隠れた瞳はどちらを向いているのかはっきりしないが、どうやら両目とも完全に光を失っているのはまちがいないようだ。

身長は並か少し高いくらいだろうか。体つきが細いので、実際より高く見える。やや尖った印象の顔立ちは口元が厳しすぎるほどに締まっていて、物腰の柔らかさと対照的だった。


「引っ越して来られたんですか?」


黙っているとミズキに見入ってしまいそうなので、世間話の苦手なカナタは何とか話題を見つけて聞いた。


「いえ、旅の途中なんです。こうしていくつも街を回ってまして」

「旅、ですか……この子と二人(・・)で?」


少女の率直な問いに、積太はそうです、と短く答えた。


「あの、不便じゃありません?」


失礼な質問かと思ったが、青年の落ち着いた声に甘えてつい訊いてしまった。


「はは……特に不便という程でもないですよ。皆様親切にして下さいますし。ミズキには苦労をかけますが」


屈託なく話す青年の声は明るかった。愛犬が主人の声に反応したように小さく鼻を鳴らす。

(ハルカ)ほどではないにしろ、カナタも生来の楽天家なので、表向き感じ取れない相手の苦労をわざわざ汲んで黙り込むような野暮はしなかった。


「道を覚える暇もないんじゃたしかに大変だわ。あっミズキ、こっちだよ!」


丁字の交差点を見事に逆に曲がろうとしたミズキを、カナタは楽しそうに呼び止めた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


その夜、夕食を終えて自分たちの部屋に入ったカナタは、早くもベッドに寝転がっているハルカに帰り道での出来事を話して聞かせた。


「ミズキっていう大きな白い犬を連れててさ、その犬がすごく可愛かった!」


妹が目を輝かせながら教えると、ハルカは少し考えた後、思い出したように言った。


「もしかして毛の長い犬?」

「そうだよ、お姉ちゃんも見たの?」

「うん、昨日の朝ね。スタンドの前あたりでぶつかりそうになって焦ったけど」


遅刻して睨まれたことなどとうに忘れたような気安さでハルカは言って、ごろりと仰向けにひっくり返った。熱心に読みふけっていた雑誌が終わったのだろう。


「じゃ、たぶん同じ人かな。サングラス掛けてたでしょ」

「うん、痩せた感じの」

「男の人ね。木脇さんて言うんだって」


積太の容貌や彼との会話をかいつまんで話すと、ハルカは少なからず興味を引かれたようだった。


「変わってるね。そんな不自由な身で一人旅なんて」

「うん。なんで旅行してるんですか、って訊いたんだけど、あんまりはっきり答えてもらえなかった」

「あたしがぶつかりかけても平気な顔してた訳だわ。真正面から向かってくのが見えてなかったんだ」


ハルカは天井に向けて呟くと、そのまましばらく口をつぐんだ。

カナタは鞄からノートを取り出して、宿題に取り掛かる。二年になってからの二人はクラスも同じなので、自然と宿題や予習範囲も同じになる。

大抵はカナタのノートを一番に写すのが姉のハルカという感心できないパターンになるのだが、いつかのように知恵熱(・・・)で寝込まれても困るので、優しい妹はこのあたりは黙認することにしていた。

半分ほど済ませてから姉のベッドを見やると、意外にもハルカは微睡みもせずに天井を見上げていた。


「お姉ちゃん、CD掛けてもいいよ」

「ん、カナタちょっと聞きたいんだけど」


身軽にハルカは上体を起こすと、妹の方を向き直った。


「目が見えないのってどんな感じか考えたことある?」

「ないよそんな恐ろしいこと」


言下にカナタは答えた。

いや、実際には積太のような青年と会話を交わす間には、相手の立場に身を置いて物事を考えるくらいのことはカナタもやっている。が、そんな空想に価値を認めることの危険さを彼女は本能的に知っているので、あえて考えた事もないと言い切ってしまう。

言い切ってしまっても、ハルカにだけは誤解される心配はない。カナタはこの点、誰よりも姉を信頼していた。


「以前は見えたらしいんだけどね。怪我で両目とも、だって」と、カナタは付け加えた。


「ふうん、それでそんなに明るくしてられるのは凄いね。たいした人だわ」


少年のような笑みを唇に浮かべてそう言うと、ハルカはまたベッドに倒れた。

ハルカのこういう性格も、あるいは人には理解されにくいものかもしれない。


「変わってるよね。名前からして変わってる、木脇とか」


欠伸を噛み殺したハルカは大きく伸びをして、そう言った。


「変な名前は私たちもいい勝負だけどね」


カナタがシャーペンの芯を足しながら答える。ハルカが噴き出した。


「ほんとだわ、ましてこっちは下の名前だし。センス疑うよね」

「待望の子供が双子だったもんだから舞い上がってたんでしょ」


親不孝な姉妹はひとしきりいつもの愚痴をこぼして、互いに笑い合ったのだった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


二人の住む古井実(こいみ)町は、都心から電車で二時間ほどの距離にある。

内陸の小さな町だ。南北から山が迫っているので、鄙びた印象に拍車がかかっている。

いくつかの史跡と、リゾートマンションと、地元の暮らしがあるだけの平和な町である。

明治期から昭和の初期にかけては現在よりも栄えていた、と社会科の教諭は口癖のように語るが、都心に人口の流出した昭和中期以降は見る影もない。


都会好きのハルカはもちろんの事、カナタでさえもう少し遊ぶところがあれば、と思う。

二人の両親は東京育ちなのだが、人口集中の風潮に逆行するように、父方の祖父母がかつて住んでいたこの町に引っ越して来たのだった。

もっとも、両親にとっては晩年()の子に当たるハルカたちには、祖父母の記憶は全然ない。家族と言えば両親と、同じ顔の姉か妹で、故郷はこの鄙びた小さな町だった。


「せめてまともな喫茶店が欲しいわ」


今朝は珍しく早く起きた姉と並んで歩きながらカナタが言うと、


「あんた欲なさすぎ!」とハルカに咎められた(・・・・・)


「お姉ちゃんは何が欲しいの」

「ん、最低でも服とレコードとライブハウスとボードの店が欲しい」

「需要が低いものばっかりだね……」


性懲りもなく小脇にスケボーを抱えている姉を見やって、カナタはため息をついた。最近は学校のどこに隠しているんだろう。


「こんな所にわざわざ旅行にくる人もいるのが不思議だよ」


雲の多い空を見上げてハルカが言った。

カナタが木脇積太の道案内をしてから、三日目の金曜日である。


「あれから見かけないね、あたしもミズキに触りたかったのに」

「しばらく滞在するって言ってたんだけどな。学校の方に来てないだけだと思うよ」


豆腐屋のおばさんが店の前を掃除しているところを通りかかって、二人は一緒に頭を下げた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


学校では、月曜日からのテストを控えて、生徒たちの間にも多少の緊張感が漂っている。

休み時間ともなるとカナタの周りはノートを借りにくる友だちで取り囲まれてしまう。学年でも常にトップ争いから外れた事のないカナタなので、周囲が彼女に頼るのは当然なのだが、彼女が友人同士の「勉強会」にあまり参加しないこともあって尚更そのノートが必要とされるのだった。


「教祖だね、あれは――」


妹とは正反対にテスト前ほど閑散とする自席で頬杖をつきながら、ハルカは退屈を持て余すことになる。

ハルカの場合は家でテスト対策をしているカナタから教えてもらえるので、他のクラスメートよりのんびり構えていられるのである。


「誰が教祖だって?」


同じく暇そうにしている亮二が、机に突っ伏したままの肩越しに首だけで振り返って声を掛けてきた。


「カナタがよ。謹製の教典(・・)が大好評で」

「ああ……どうせ実力テストだろ? 通知表には関係ねえのに御苦労なこった」


複写に余念がない級友たちの方を一瞥して亮二は言った。


「中間期末でもクラス最下位のあんたがよく言うわ……今年の夏は補講で大会欠席なんて真似はやめてよね」


ハルカは笑った。この町でスケート仲間は貴重なのだ。



その日の夜からは、夜半まで机に向かう妹に倣ってハルカも一応のテスト勉強に入った。今度の試験は範囲が広い分、内容が薄い。浮かんだ疑問にすぐ答えてくれるカナタが隣にいる状況なら、復習には二日もあれば十分だった。

もちろん及第点を目指すハルカの場合は、という話ではある。


「来年からは塾かなあ」


中休みのひと時にそう洩らしたカナタを、ハルカは信じられないと言った顔で眺めた。

カナタにしてみれば、高校入学の少し前から塾に慣れておいて、最終的には大学受験を目標に高校での実力をつけていきたいと考えている。高校は姉と一緒にしたいので、塾選びはなおさら身に迫った問題になりつつあった。

なにしろ少子化の進む古井実町には名が知れるほどの進学塾はひとつふたつしかない。それにしたところで国立大学合格程度を辛うじて標榜できるレベルなのだから、カナタが満足できるかどうか。


「やっぱり自習かな……」


複雑な妹の内心など知らないハルカは、二転三転するカナタの呟きに首を傾げるのだった。


「お姉ちゃんは大学とか考えてない……よね」

「大学は行かないよ。無理だし必要ないし」


日本では極めて数の少ないプロのスケーター、――このレベルになるとスケーターではなくライダーと呼ばれるそうだが――そのプロになるのがハルカの夢だった。初めて聞いた時にカナタは目を丸くして呆れたものだが、暇さえあればスケボーを担いで出て行く姉を見ていると、はっきりした目標のある彼女が羨ましくもある。


「でもスケボーじゃ、この町には残れないね」


大卒後には戻ってこようかと考えているカナタが冗談めかして言うと、ハルカは大真面目な顔で答えた。


「そんなのあたしが日本一になって古井実(ここ)をスケーターの街にすれば済むことでしょ?」

「……そ、そうだね」


ハルカが各地の大会で入賞し、天才少女の名声を得ている事はカナタも当然、知っている。

この姉ならあるいは実現するかもしれない。


「日本一のライダーの妹、か。わたしも何かスポーツでも始めようかな」

「本当!? 自転車とかなら一緒の大会に出られるよ!」

「自転車って……あの曲乗りみたいなのでしょ? もう少し怖くないのがいいんだけど」


カナタは以前姉を応援しに行った大会で見た競技場の風景を思い出しつつ言った。


「ふうん……じゃ、水泳がいいんじゃない? カナタ泳げるようになるのあたしより全然早かったし」

「あ、いいかも」


スポーツ万能のハルカの影に隠れがちだが、徒競走と水泳だけはカナタの天稟も姉にひけ(・・)を取らない。

水の中にいるのが好きなカナタは、姉の勧めに従ってみようかという気になった。


休息を終えて二人が机に戻ると、しばらくしてカナタの携帯電話が短く鳴った。


「メールか。早苗からだ」


旧式の携帯を開きつつカナタは言った。文面を見た彼女の顔が明るくなる。


「ミズキ連れて散歩してる木脇さん見かけたって! 西見神社のあたりだってさ」


学校とは正反対の方角だ。


「あの辺りにいたんじゃ会わない訳だ。あした天気よかったら、ちょっと探してみる?」


カンヅメ勉強が苦手なハルカは叱言(こごと)を覚悟で提案したのだが――、


「うん!」


妹の予想外の快諾に、却って面食らったのだった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


週が明けて二日が経った。

過密スケジュールのテストも終わり、生徒たちは本格的な夏を前に生き生きとした普段の生活に戻っている。


カナタは試験が済むとすぐに水泳部の門を叩き、人材不足に悩む水泳部員たちを喜ばせた。

もちろん部員の中にはハルカの方に来てもらいたかったと思う者もあっただろうが、カナタの泳ぎを見れば意見を改めるに違いなかった。

カナタが初日の部活を終えて出てくるのを待って、姉妹は帰宅の途についた。

寄る所がある。


「どうだった?」

「まだ少し寒いよ。水からあがると風邪引きそう。でもやっぱり楽しいけど」

「速い人はいたの?」

「女子の中では私がトップみたい――クロールはね」


女子水泳部は総部員10名というところだろう。二人は歓談しながら駅への道を歩いて行った。

町の中央に位置する駅を挟んで、ちょうど学校と真向かいに二人の住むマンションがある。二人は最近新しくなった駅舎の側を通り過ぎると、普段の通学路から少し逸れて、商店街を抜ける細い横道に入って行った。


目的のホテルは、横道を抜けたすぐ隣の通りに建っていた。小さいながら新しく小綺麗な造りのこのホテルに、あの青年が逗留している。

先日ようやく散歩中の彼を見つけた二人はそのことを知り、彼の厚意に甘えて今日もミズキと遊びに来たのである。

フロントの女性に挨拶をして、二人は木脇積太の部屋を訪ねた。


「やあ、いらっしゃい」


ドアを開けた青年の足元で、ミズキも並んで二人を出迎えた。再会に喜んだカナタがあまりに可愛がったので、ここ一両日で数年来の友だちのように懐いてしまったのだ。

積太はもう部屋にも慣れたらしく、ハルカたちが愛犬と戯れている間に、器用に三人分の紅茶と菓子を用意してくれた。

どうぞ、とテーブルに盆を置かれて初めて顔を上げた姉妹は、青年の気回しの良さに驚いて、お詫びだかお礼だかはっきりしない返事を返した。


「君たちが来てくれるからミズキも喜ぶよ。お茶くらいしか出せなくて申し訳ないけど」


積太は笑顔で言った。サングラスは外しているので、閉じられた瞼と長い睫毛が彼を年齢よりは多少幼く見せている。


「申し訳ないだなんて。私たちの方こそ、気が利かなくてごめんなさい」

「買い物とかお洗濯とか、あったら手伝いますよ」

「ありがとう。でも旅行は慣れてるから、身の回りのことは自分でできるよ。ミズキを可愛がってくれるだけで十分、感謝してる」


積太は微笑を浮かべたままで二人に言った。


「それだけ、ってのもちょっと悪い気がするなあ……」


釈然としない様子でハルカが呟くと、


「それなら学校の話でも聞かせてもらおうかな」


と積太は言った。


「中学校か……懐かしいな。僕も中学の頃があったんだっけ」


明るい青年の声に初めて憂いに似た響きが混じったように、カナタには聞こえた。

視力を失ってしまったのは高校以降の事なのだろうと、カナタは思った。

苦難の時間が楽しかった過去を、取り返しのつかない遠くに隔ててしまう。青年の憂いはそこに向けられたもののように思えた。

もっとも、それはお節介なカナタの単なる思い過ごしであったかも知れない。勢い込んで話し始めるハルカの声を聞きながら、青年はいかにも愉快そうだったからである。


ハルカのおしゃべりは熱が入ってくると五分や十分ではとても終わらない。教室での流行から教師たちのあだ(・・)名まで、思い付くネタを語り尽くさんばかりの勢いで口が動く。

これで明日も明後日も同じ調子で話して話題がなくなる事がないというのが、カナタにもちょっと信じられないほどだ。


ハルカの快弁に相槌を打つ青年の微笑をカナタはしばらく眺めていたが、不意に胸苦しくなって慌てて目を逸らした。

積太は姉の話に聞き入っていて、カナタが見つめていても一向に気付く様子はない。盲目というのは何て悲しいものだろうとカナタは思った。

自分自身の感情の揺らぎを悟られまいとして、カナタはすぐ隣に寝そべっているミズキの方に左手を伸ばした。(ハルカ)にも積太にも、同情していると思われるのは嫌だった。


幸いハルカの話が佳境(・・)に入ってきたところらしく、二人の意識は彼女の方には向いていなかった。ミズキの頭を撫でてやりながら、カナタはぼんやりと室内を眺めた。

このホテルの特色なのだろう、壁にかかった複製の名画(シャガール)や造花のポット、間接照明などで一見賑やかな印象があるが、青年の荷物はというと驚くほど少なかった。

旅行鞄や着替えはクローゼットに入っているのだろうが、部屋の中には大きめのリュックサックが一つと、机の上のサングラスがあるだけだ。

あとはミズキの世話に必要な物ばかり、それらにしても多くはない。


本の一冊もないんだものね、と当然のことを考えかけて、ふとカナタの視線が止まった。部屋の一隅に置かれた簡素な机――その脚元の椅子の陰に籐編みの深い籠があり、そこに何か雑誌らしきものが差さっている。

いや、目を凝らしてみると雑誌ではない。たくさんのリングで綴じられた背表紙の、それはスケッチブックに間違いなかった。

カナタが立って行ってスケッチブックを開いてみると、ページごとに様々な画風のスケッチが並んでいた。多くの人が旅の記念にと描き残したのだろうか。

どこの景色かよく分からないが、中にはずいぶん上手いものもある。逆に明らかに子供の手とわかる、微笑ましい落書きのような画もあった。


「カナタ、何やってんの?」


ようやく一息ついたハルカが、思い出したように妹の方に声をかけた。


「カナタってば」

「あ、ごめん。これ見つけて」


カナタが写生帳(スケッチブック)を渡すと、ハルカはパラパラとページを繰って、


「ホテルが用意してるのかな。変わってるけど――ちょっと気が利いてるね」


ちょうど青年がトイレに立ったので、美術の好きな双子は描き人(・・・)しらずのスケッチ群に寸評を加えたりしながらページをめくっていった。


「知らない所ばっかりだね」

「山や田圃の景色じゃ仕方ないよ。どこだって大差ないし」

「あっ、このお寺みたことある! でもどこだっけ?」

「どれ?」


カナタはハルカの手元を覗き込み、ちょっと目を瞠った。


「上手い! でもお姉ちゃんコレ西見の神社だよ。お寺じゃないし」

「――? 似たようなもんでしょ。あ、これが最後なんだ」


ハルカがめくった次の頁はまだ白紙のままだった。


「こういう名所(・・)をもっと描いたらいいのに。いくらこの町が田舎臭いからって、山ばっかりじゃどこがどこだか分りゃしない」

「名所って、お姉ちゃんどこだか思い出せてなかったじゃん」

「……あーあ、誰かあたしがオーリー決めてるとこ描いてくれる人いないかなー」


無理矢理はぐらかされてカナタは噴き出した。ボードに乗っている時のハルカは確かに絵の題材になりそうだ。山や神社と違って一秒もじっとしていないのが難点だが――。


青年が戻ってきたので二人はスケッチブックを元の位置にしまうと、またテーブルに着いた。


「さ、今度は木脇さんの事も少しは話してよ」


好き勝手に喋っておいて、と苦笑しながら、カナタも姉の意見には賛成だった。


「私も聞きたいです。どうしてこの町にいらしたのか、とか」

「うん、実は以前から旅行が好きでね。昔は友達連れとか一人旅が多かったんだけど、今はミズキと一緒にその頃に巡った町をもう一度、回ってるんだ」


積太が話し出すと、ミズキが大きな体を起こして主人の足元に歩いて行き、また寝そべった。

愛犬の背を撫でながら、積太はゆっくりと話を続けた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

その町には、赤いレンガの工場があった。


少年の頃の積太は、部屋の窓から見える、煙突に半ば区切られた空が好きではなかった。学校や習い事の合間を見つけては、緑の残る郊外に出かけて、煤の臭いのしない空気を吸った。

労働者の多い町で資産家の子として生まれ、周囲からは羨望と嫉妬の視線を向けられることが多かったが、所詮は一代で財をなした成金の子だった。肌の合わない家庭教師たちから押し付けられる教養は却って彼を孤立させ、父母との会話も多くはなかった。

その寂しさを自然との対話で紛らわしていた、という自覚は彼にはない。けだし性分なのだろう。習いもしないのに詩や画の才能は十分にあった。


仲の良かった少女がいる。積太の家とは違う、正真正銘の名家の娘だった。

積太より一つ年上で、少年の話をよく聞いてくれた。澄み切った管楽器のような声で歌うのが上手かった。恋と呼ぶほどの昂揚はないまま、それでも二人はよく話をした。手習いの苦労や家庭での事、大人たちの会話から洩れ聞こえる社会情勢をよく分からぬまま論じ合ってみたりした。

何を話しても楽しかったのだから、やはりそれは恋と呼ぶべきものだったのだろう。

積太の両目が光を失う頃には少女と会うこともなくなっていたが、彼は暗い瞼の裏にはっきりと、今でもその顔を思い描くことができる。


赤レンガの工場が建つその町で、積太の少年時代は過ぎた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「御曹司だったんだ!」


積太が話し終えるのを待ちかねたように、ハルカが叫んだ。


「どうりで品がいいと思った」

「そうかな?」


調子のいいハルカに青年は苦笑した。


「お姉ちゃん! 失礼でしょ」


青年の話にこちらも聞き入っていたカナタが、顔を赤くして姉をたしなめた。


「褒めたんだよ」

「褒めても失礼なの!」

「えー」


ハルカは不満そうである。


「ほら喧嘩するなよ。カナタもそんなに気を遣わなくていいからさ」


と積太が言った。


「はい――でもお姉ちゃん、よく御曹司(・・・)なんて言葉知ってたね」

「あんた絶対あたしのことバカにしてるでしょ?」


ハルカは紅茶のカップをひとつ指で弾くと、


「スケート仲間にもいるからね、いいトコの子が」

「ああ、例のハーフの?」


カナタは簡単に答えると、何気なく続けて


「ミズキとはその頃からの付き合いなんですか?」


と、積太に訊いた。


「ん……そうだね」


足元で寝そべる愛犬を撫でながら積太が答えた。ミズキは気持ち良さそうに目を閉じている。


「この子が一緒ならどこに行っても寂しくないね」

「あ、そういえば木脇さん」


ハルカが思い出したように言った。


「まだこの町に来た理由を聞いてないわ」

「ああ――ただの旅行だよ。この年になっても放浪癖が抜けなくてさ」

「こんな何もない山の中にわざわざ?」

「山の中はちょっとひどいなあ。暮らしやすい町じゃないか。それに史跡だって結構色々あるんだよ、住んでると却って気付かないかもしれないけど」


積太がそう返すのと同時にハルカの携帯が賑やかに鳴って、ミズキが眠たそうに瞼を上げた。


「うちからだ――あ、こんな時間か」


時計を見ると七時をだいぶ回っている。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


記録係の笛が鳴り、スタート台に並んだ少女たちが一斉に25mのプールへと飛び込んでゆく。

短い今年の梅雨が明けて、空には真夏の太陽が照り輝いていた。

放課直後の騒がしい校庭を抜けて、ハルカは妹が所属する水泳部のプールへやってきた。


「ハルカ!? 珍しいじゃん」

「カナタの様子見にね。レギュラー選抜、今日でしょ」


合図の笛がもうひとつ鳴る。日に焼けた級友は白い歯を見せて、


「見るまでもないよ。部長は背泳ぎ専門だし、三年にクロール得意な人いないもん」


制服姿のハルカはプールサイドではよく目立つ。二人を見慣れていない一年生部員が、飛び込み台で笛を待つエースとハルカを見比べて呆気に取られた顔をした。

カナタは姉に微笑を向けたが、表情は硬い。ハルカも笑顔を返して、腕を組んだ。

八つのレーンに区切られた小さなプールは、燦然として横たわり――。


笛が鳴り、水音が響いて、その日、カナタは新しい自己ベストを出した。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


公園の広い駐車場を、縦横に切ってハルカは滑る。

暮れ方が迫っても盆地の夏はまだまだ暑い。手足と顔に当たる風が心地よくて、ハルカはまた加速する。

縁石、手すり、車止め――目につく物に片っ端から跳び乗っては、デッキの腹で横滑りに駆け抜けて、夕映えの駐車場に少女の表情はいよいよ明るい。


弧を描く彼女の軌跡に、もう一つ車輪(ウィール)の音が重なる。頭ひとつ半背の高い影が、ぴったりと少女を追走する。


「亮二! ストーキングで訴えるよ!」


弾けるように、ハルカの笑い声が響く。

繰り返される加速、跳躍――二人の影は半秒差を保ったまま、足の裏に吸い付いたボードはしかし、乗り手の意思に応じて自在に宙を走っては、ひねり(フリップ)を加えて再びその足下に戻って来る。

最後に一際高く跳んだハルカが、アイススケートのように空中で身を捩ると、一回転半のスピンを決めて見事な着地を見せた。毎回の大会で絶賛を浴びる芸術的なジャンプには、自称急成長中の亮二もさすがについていくことができない。

圧倒的に高いハルカの軌跡(ライン)を瞼に残したまま、少年は全く別の大技で追走劇を締め括った。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


月のない夜道を痩身の影が、白い犬に曳かれて歩いて行く。

猛暑の夏は宵に入ってなお蒸して、左右に広がる水田から聞こえる蛙の音もどこか元気がないようだ。中心地を少し離れると、こんな景色はまだたくさん残る町である。

青年は足を止め、広がる夜の静寂に耳を澄ました。光を失う前の習慣で、彼は目を閉じたまま空を仰いだ。


夜の散歩は彼と白い犬との日課になっている。ミズキは賢い犬で、十日ほどの間に単純な町の地理をあらかた覚えてしまった。

もう道に迷う心配はないが、あのとき知り合った少女とその双子の姉妹はいまでも三日に一度はやって来て、ミズキの頭を撫でていく。

学校は夏休みに入ったらしい。

藪蚊の群がる農道を厭うふうもなく、白い犬に曳かれた青年は熱帯夜の底をまた歩き始めた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


シャワーを済ませたハルカが部屋に戻ると、珍しくカナタが先に帰ってきていた。


「お帰りー」

「ただいま。今日は早いじゃない」

「図書館が混んでたから。部活終わってすぐ帰って来た」


長期休暇に入っても、カナタのライフスタイルはほとんど普段と変わらない。

午前中が部活になって勉強が午後に回ったくらいで、土日とたまのイベントがある日以外はそれが全く崩れない。毎日が日曜日のハルカから見ると、少し窮屈すぎるようだ。

いまだって部屋に戻ってはいるものの、机の上には参考書とノートがきちっと開かれている。


「あんた、もう少し楽しんだらいいのに」

「楽しんでるよ。今年は水泳やってるから、いつもより全然。部活の子とも遊びに行ったりしてるし」


実際カナタは愉快そうに答えたが、「遊びに行く」のはもちろん土日の話で、平日は三年生や高校生に混じって図書館での予復習に勤しんでいるのも確かだ。


「宿題とかもう終わってるわけ?」

「五教科の分はね」


あっさり妹が肯いたので、ハルカはさすがに呆れた。


「お姉ちゃんも毎日練習行ってるみたいだけど、この暑さで倒れないでね」


ハルカの方は自由になった時間を活用して、ごたごたと障害物の多い隣町の公園まで、遠征する日が増えている。もちろん手すり(・・・)や縁石を練習台にするためだ。

垂直競技(バーチカル)と呼ばれるハーフパイプ状の競技場で行う(トリック)の練習も進めておきたかったが、これは更に遠出しないと環境がない。


「カナタこそ、部活で無理して夏風邪ひかないように気をつけな。大会いつだっけ?」


ハルカは妹のと並んだ自分の勉強机に腰掛けて言った。湯上りの香気が漂って、カナタはちょっと首をすくめる。


「県大会が来週の土曜だよ」

「地区予選は楽勝だったから県でも優勝狙えるかもね」


姉が気楽に言うと、


「どうかなあ。タイムだけを見ると五番目くらいには着けてるんだけど」


カナタの方では慎重な態度を見せる。水泳一筋の上級生に混じって泳ぐのだから不利は当然なのだが、やるからにはあくまで勝ちを狙いに行くのは姉譲り(・・・)の性格かも知れない。


「タイムなんて本番じゃ関係ないよ。まだ時間もあるし、縮められるとこ縮めて後はレースに負けない事だけ考えてな」


ハルカは笑って言った。水泳だってスケートボードと同じで、普段のタイムや技量が重要なのは言うまでもない。が、それ以上に本番で普段通りの泳ぎや滑りができるかの方がずっと大事で、そうした精神面での強さがあればこそ、大舞台で実力以上の結果も残せようというものなのだ。

その自信を得るために、千回でも一万回でも練習する。好きでなければできないことだ。


「土曜日なら応援行けそうだね。暇な友だち集めて観に行くから頑張りなよ」

「えっ、微妙にプレッシャーなんだけど……それよりお姉ちゃんの大会が日曜でしょ? 前日遊んでていいの?」

「いいのいいの。前の日は軽く体動かすぐらいがベストなんだよ。それにカナタがスポーツ大会に出るなんて今年が最初で最後かもしれないし。姉として妹の晴れ舞台は観ておかないとね」


ハルカはきっぱりと言った。どうもスポーツ以外の晴れ舞台などは存在しないと考えているようだ。


「うん、私も日曜は休みになるからお姉ちゃんの応援に行くよ。遠いから友だち連れては無理かもしれないけど」


カナタはよく日に焼けた姉の顔を見ながら言った。例年、この時期だけは色の違いで姉妹の見分けがつくと皆にからかわれるのだが、今年はカナタの方も小麦色に日焼けしているのでほとんど差はない。


「期待してるよ」


ハルカは嬉しそうに白い歯を見せて、妹の申し出を歓迎したのだった。


正直なところ、夏休みに入る前後あたりからカナタの様子がどこか普段と違ってきているようで、姉としては少し心配だったのだ。

初めての部活も楽しんでいるのは事実だろうが、入部したばかりでレギュラーを任される重圧はやはり大きいだろう。記録会や予選会でも、気が入りすぎているのが見ていてよく分かった。


カナタは何でも一人でできるが、反面では一人になることが苦手だったりする。人の輪の中に居てこそ彼女も輝き、周囲も喜ぶというタイプなのだ。

個人競技の水泳を選んだことが、妹にとって負担にならなければいいが、と多少ハルカの懸念するところだった。


慣れないものは、部活の他にもう一つある。

ハルカとしては、こちらの方がずっと心配な事柄である。木脇積太のことだ。

ミズキに会いに行く、という口実で姉妹は今も青年の所に遊びに行く。いや、二人とも「口実」と意識するほどの他意はないのだが、世話好きのカナタは特に、積太の部屋では掃除や片付けなど実によく働いて、ミズキと遊ぶことへの「お礼」をする。

どちらかというと妹とは逆に、ハルカは会うたびにこの不思議な青年との間に、距離を置くようになってきている。


自分でそれと気づかない恋ほど、失われてから残る痛みは長い。最初にハルカにスケートボードを教えてくれた先輩は、今年の春に結婚してしまった。カナタも亮二も知らないことだが、ハルカだけは知っている。知りたくなくても、なぜか耳に入るものなのだろう。

彼が東京に出る時にくれた(デッキ)だけが、今もハルカと共に風を切っている。


カリカリとペンを動かすカナタの横顔を、ハルカはしばらく眺めていたが、妹の集中を乱しそうなのでまたデッキを持って部屋を出た。

大丈夫だろう。

楽観主義は三峰家の家風で、双子の娘は家風の体現といっていい。カナタは自分ほど感傷的ではないし、もし傷つくような事があっても、カナタ自身が築いてきた周囲との絆が彼女を元気づけてくれるだろう。

何より、すぐ隣には姉である自分がいるのだ。

殺人的な蒸し暑さの中、立ち昇る陽炎の隙間を縫うようにして、ハルカは公園への舗道をとばして行った。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

障害物が少なく本格的な練習には不向きな古井実町の公園だが、広い近いの他にもう一つ、特筆すべきところがある。

隣接した図書館と公園の敷地を隔てる3mほどの高さの崖が、端から端まで平らなコンクリートで固められているのだ。傾斜もきつく普通に駆け上がるのはとても無理だが、スケーターにとっては格好の遊び場となる。

平地(フラット)でのライディングに飽きたハルカは、壁面に近い崖に向かって加速すると、タイミングを見計らって強くデッキの後端を蹴った。一瞬だけ地面を離れた車輪は壁面にぴたりとグリップし、少女の身体はそのままの速度で垂直の壁を上っていく。

視線が自然と空を向いて、崖の上の(けやき)が落とす木洩れ日が優しくハルカの顔を撫でた。


汗に濡れた少女の頬に若々しい爽快な笑みが浮かぶ。ぎりぎりまで空に向かって走ってから身体ごと反転して、あとは流れるように崖を滑り降りた。傍で散歩する人でもあれば、さぞ驚いたに違いない。

一連の動きには彼女が天才と呼ばれるに相応しいスピードと高さがあって、まずスケーター向けの教則本に写真入りで紹介されるくらいの価値は十分にある。


壁面を駆け降りたハルカがその勢いのまま公園を滑って行くと、すぐ脇の道をクラスの友人が通りかかるのが目に入った。隣にいる彼氏はたしか三年生だったはずだ。

友だちの方でもハルカに気付いて、車止めの前で足を止めた。

その友人から、


トリック()やって!」


唐突にリクエストが飛んで来たので、ハルカは下ろしかけた足でもう一度地面を蹴って加速すると、『ビッグスピン』と呼ばれる回転系の大技を披露してから友人の前に着地した。


「おぉ――!!」


カップルから喝采の声が上がる。


「はい、五百円ね」


ハルカが手を出して見せたので、二人は笑い出した。天才少女はようやくデッキから降りる。


「今日は亮二君は一緒じゃないの?」


と、友人が訊いた。


「夏休み入ってからはほとんど別行動だよ。あいつ、結局補習地獄で全然時間合わないし」


大会には出られそうだと聞いているが、隣町まで毎日練習に行く余裕はとてもないだろう。

亮二の場合は実家が遊歩道のある川の近くなので、ハルカが公園に来ない時はそちらで練習する方が都合がいい。


「なんだ、せっかく休みなのに、それじゃハルカもつまんないね」


含みを持たせた笑顔を向けられて、


「あー、あたし達べつに付き合ってるとか、そういうのじゃないから」


ひらひらと手を振って答えたが、


「でもさっき別行動(・・・)って言ってたよな、普通に」

「言ってたー」

「……」


先輩からも突っ込まれてハルカは二の句が継げなくなった。

別に照れがあって否定したわけではないのだが、そう見られてもおかしくはない。

言われてみれば五年来のつきあいになる亮二との仲だ。もっと進展していても良さそうなものだが、仲間意識が強すぎて一般的な恋愛感情に繋がりにくくなっているのかも知れない。

あるいはいま先輩に言われた通り、もう恋人同士という事になるのだろうか。


「恋敵って奴がいないからだね。ハルカんとこは、お互い」

「あっ、そうかも。……幸せだな、あたし」

「いやいや、浸ってないでさ。ちゃんと誠意を見せておかなきゃダメだよ。それでなくても妹べったりなんだから――」

「そうそう、男は移り気なもんだからな」

「ちょっと隆史!」


余計な口を挟んだ先輩が、彼女()に睨まれて肩をすくめた。


「そういえばハルカ、あの犬連れた人と知り合いだって言ってた?」


ふと思い出したように、友人は言った。


「白い犬? うん、カナタが道案内したんだって。それから知り合い」

「やっぱり。ねえ、盲導犬を連れてるってことは目が悪いんでしょ?」

「うん、全然見えてないみたいだよ」


ハルカが答えると、友人と先輩は黙って顔を見合わせた。


「どしたの?」ハルカは訊いた。


「うん、今日隆史と歩いててその人を見かけたんだけどね、手にスケッチブックみたいなの持ってた気がしたから、二人で変だねって話してたの」


滅多に人前で笑顔を絶やさないハルカの顔から表情が消えた。

スケッチブック――。


「緑の表紙の?」


我知らず厳しい口調になって、ハルカは訊ねた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「で?」


二燭(・・)に落とした照明を見上げて、カナタは言った。時計は一時を回っている。


「うん、話を聞こうと思ってホテルに行ってみたんだけど戻ってなくて。フロントの人に尋ねたら、何日か帰らないかもって言伝て(・・・)

「――私たちに、ってことかな?」


会話は静かに進む。この姉妹には珍しい。


「フロントの人には顔を憶えられてるし、間違いないよ」

「ふーん……どこ行ったんだろう」

「カナタ」


淡々とした妹の声に強い落胆の色を感じ取って、ハルカは胸が痛んだ。


「大体、旅行先で部屋借りたまま外泊(・・)ってどういうこと?」

「何か急な用事ができたんだよ。荷物は預かってるってフロントで言ってたし」


スケッチブックの件があったのでハルカは妹に教えるべきかどうかしばらく迷ったのだが、結局就寝前になって伝えることにしたのだ。


「最初にカナタが見つけた日以来いちども開いてないけど、たしかあたしがお寺と間違えたのが西見神社で、それが一番新しい(スケッチ)だったよね……」

「早苗が木脇さんを見かけたのも西見の辺り――でも何だかなぁ、目が悪い演技なんかする必要ないじゃん」


その点についてはハルカも同感だった。

だいいち、積太の立居を間近で見ていれば、それが演技でない事はすぐに判る。青年が彼女たちを欺いていたとは考えにくいし、考えたくないことでもあった。


「目が見えなくてもあのくらいの絵は描けるものなのかなあ。まさかミズキが描いてる訳でもないだろうし」


カナタが呟く。

様々な人の手によって描かれた風景画の中で、あの西見神社の一枚は出色の一枚と言ってよかった。

そのこと(・・・・)がハルカの気を尚更に重くしている。彼女自身事情が整理できず、言えば余計に妹を惑わせるだけだと分かっていても、黙っていることはできそうにない。

天井を見上げたままのカナタに、ハルカはもう一つ、フロントで聞いた話を打ち明けた。


「カナタ、あのスケッチブックなんだけど――ホテルが準備した物じゃないってさ」



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


記録的猛暑の夏は、記録的に雨の少ない夏でもあった。

双子にとって十四歳の夏休みは、ぎらついた日光と逃げ水の記憶とが全ての基調になりそうだ。


県内三百有余の中学校から選抜された水泳部員たちが実力を競う県大会、その当日である。

予報通りの好天に恵まれ、会場は例年より多くの観客で賑わいを見せていた。オリンピックの開幕を十日後に控えて、スポーツへの関心が高まっている証拠だ。


ハルカも総勢二十人もの応援団を連れて、大会の会場にやって来ていた。

最初は五、六人で来る予定だったのに、地区予選で敗退した他の部の友人たちも加わって、いつの間にか文字通りの応援団になってしまったのである。


「楽器とか持ってってもいいの?」

「甲子園じゃないんだから」

「でも泳いでる時って声援とか聞こえるのかな」

「大丈夫だよ。声楽部も三人いるし」


さすがにこれだけ集まると、鳴り物などなくても十分騒がしい。客席の一角を占拠したハルカたちの姿は、選手の側からもよく見えることだろう。


ハルカがホテルの受付嬢から青年の不在を知らされた日から、一週間が過ぎている。その後も三度、姉妹は青年を(おとな)ったが、彼が戻った様子はなかった。

疑惑が浮上した当日からのことだけに、ハルカ自身はともかくカナタにはずいぶん神経を使う一週間であったであろうことは想像に難くない。

学校が休みでなければもう少し気も紛れたろうに、とハルカは思った。


ただ、50m、100mともカナタの記録が飛躍的に伸びているのは好材料だった。地区予選時の課題だった飛び込みとターンの無駄が解消され、泳ぎ自体も力強さが増した。

自己ベストを更新した時の喜び方も以前のような控え目な態度から爽やかな笑顔に変わり、本格的に泳ぐ楽しさがわかってきたようだった。


「なんかハルカと似てきたみたい」


とは、小学校時代から二人を知る水泳部員の評である。

成績まで似なきゃいいけど、と余計な一言を加えて、彼女はハルカに小突かれたものだ。


ハルカの方も、明日の全国大会に向けて仕上がりは上々といってよかった。

妹が無理に水泳に没頭しているのがわかって当初は心配したが、その後の様子では落ち着きを取り戻しつつあるようだったので、ハルカとしても普段通りの気持ちで練習の仕上げができたのは幸いだった。

もっとも、この辺りには妹の気配りもあったに違いない。状況の中でベストを尽くして周囲はもちろん自己の在り方まで常に好転させていくのが、この双子の姉妹に共通した一種の徳といえた。

一歩間違えば無謀な献身にもつながりかねないこの性格を、姉妹がお互いにフォローしあっている。


「ハルカ! つぎカナタの番だよ!」


隣で応援していたバスケ部の友人が、プールサイドの一点を指差してハルカに言った。

飾り気のない黒の競泳水着に身を包んだカナタが、他の部員に囲まれて出場を待っている。

100m自由形の予選である。


「カナタって水着になるとスタイルいいんだよねー」

「ほんと。ハルカより胸あるんじゃないの」


背後から不名誉な寸評が聞こえてきたが、ハルカは妹を立てて涙を呑んだ。少なくとも春の身体測定までは差はなかった筈だ。


平泳ぎの予選が終わり、自由形の選手たちが仲間の部員たちに見送られてスタート台に向かう。

ダークホースのカナタはともかく、優勝候補の一角である斉藤理穂というエリート選手が出場するという事で、客席の声援もにわかに大きくなってきた。

ハルカは凜森として飛び込み台の前に立つ妹の顔をじっと見た。予選会で見せたような切羽詰まった感じはない。自分に似てきた、と友人が評した気魄と余裕が、確かに備わりつつあった。


「カナタ! 頑張れーっ!」


ハルカは精一杯の声でエールを送る。団長(・・)の声を合図に周囲からも一斉に黄色い声援が飛んだ。

プールサイドの緊張の中から、カナタは笑顔で手を振り返す。


「さすがハルカの妹!」


友人たちの無責任な寸評も、一層熱を帯びてきた。一般客たちもカナタの動作に目を取られたらしく、会場全体の注目が一度にこの小柄な二年生選手に集まった。

カナタの微笑は途絶えない。


「こりゃ一気にヒロイン候補だわ……」


カナタの意外な才能に半ば呆れつつ、それでも嬉しそうにハルカは呟いたのだった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


古井実町を見渡す高台に、草に半ば埋もれた一つの碑がある。

町外れの高台は車道からも遠く、路の不便も手伝って今日では訪れる人もない。


歓声とも喝采とも無縁の場所に、同じくそれらと無縁の青年が、白い犬を連れてぽつりと立っている。万雷の、と形容するならば、耳を聾する蝉時雨も十分、彼への慰安となり得る。


青年の手は碑に触れている。

捜し求めていた物を、ようやく見つけた人間の安堵がその顔にあった。

手にした光を失うことへの幸福な不安や焦りはそこにはない。それらのあるべき心の位置を、悲しみと諦めが埋めている。

失意と共にある安堵、それは何と若さから遠い感情であることだろう。何と希望から遠い感情であることだろう。だが今となってはそれだけが、青年の心に残された唯一の、真に血の通った感情だった。


青年の手は碑に触れている。

刻まれた名を何度辿っても、彼の安堵が失われる心配はない。

苔生した碑を撫でながら、青年は祈るように俯いている。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

炎天下の県大会会場は沸いていた。


50m自由形の決勝で惜しくも斉藤に敗れながらも緒方・平泉ら強豪を制して二位をマークした新鋭、三峰カナタの雪辱戦とも言うべき100m決勝が近付いている。

二、三の例外を除いて他の出場選手も50mと同じ顔触れなので、彼女たちにとっても雪辱戦という言葉は相応しかった。


カナタは小刻みにジャンプしたり深呼吸したりする他の選手たちの気配を感じながら、目を伏せたまま時を待っていた。

応援に来てくれた姉や友達に笑顔で応えつつも、真剣さの度合いは予選会とは比較にならないほど高まっている。


二種目分の予選を終えた後の昼休みに、カナタはハルカたちと一緒にランチを取った。

50mの予選で会場の衆目を釘付けにした斉藤理穂とのデッドヒートは一時間足らずのランチタイムを賑わす話題としては十分すぎるほどだったが、主役であるカナタと姉のハルカは意外にも言葉少なだった。

姉妹の視線はあくまで勝利に向いているのだから無理もない。


予選タイムでは四位に甘んじていたカナタが決勝一戦目で二位に浮上したことからも、彼女の気迫が窺えた。客席の観衆はもちろん、大会関係者の彼女を見る目まで変わってきている。

距離の伸びる100mはペース配分が勝負の鍵だ。仕掛けるタイミングを誤れば、それだけで勝機は失われてしまう。

一見対等のリスクでもありチャンスでもあるようだが、経験の浅いカナタにとっては実は50mよりかなり不利である。先の種目で苦杯を嘗めた他の強豪たちも、虎視眈々と優勝を狙っている事だろう。


「女子100m自由形、決勝――」


プログラムが読み上げられ、会場の騒めきがひときわ大きくなった。

カナタは目を開け、海のように燦めくプールを見た。日本一のライダーになる、という(ハルカ)の言葉がふと頭に浮かんだ。客席を見上げると、同じ顔の姉と目が合った。穏やかな笑みを口元に浮かべたのは、僅かにカナタが先だったようだ。

勝てる、と確信した。以前のカナタなら同じ感覚も疑念の種にしかならなかったろう。だがいまは違った。


八人の選手たちがスタート台に登り、会場のアナウンスがそれぞれの学校や名前を紹介していく。

短い笛の合図で前屈みに構えた八人が、次の笛で一斉に飛び込んだ。

この上ない滑らかさで、水はカナタを迎えてくれた。一瞬の恍惚をくぐり抜けて、水面に浮かび上がった時には倍の力が手足に宿っているのをカナタは感じた。肉体が、意志そのもののように少女を前進させた。


誰よりも速く、誰よりも先へ。


意志の命じるまま、カナタは無心で水を掻いた。不思議なほど気分は澄んでいる。すぐ左のレーンを泳ぐ平泉選手が後方に消えていくのを見ても、速度を加減しなければという考えはさらに起こらなかった。

25mの線を超え、カナタは身体半分の差で斉藤理穂を押さえ込んでいた。他種目含め、斉藤も今大会は調子がいい。ハイペースな二人に引きずられるようにして無理を冒した後続は見る間に脱落していった。50mのターンが迫る。


辛うじて保たれていた両者の均衡が斉藤の芸術的なターンによって破られた。身体半分のリードは覆され、二人の位置が逆転する。間髪入れずに斉藤のスパートがかかった。カナタの加速が半秒遅れた隙に、更に20cmの差が開く。

応援席の歓声はピークに達した。自分の名を呼ぶ声も聞こえる。


限界を確かめるような無謀さで、カナタはその速度を上げていった。いや、ハルカの目に無謀と見えたのは、カナタがその限界を無視するであろう事がありありと予想できたからに他ならない。

息継ぎの時、3レーン横の斉藤の位置を確認するカナタの表情はゴーグルに隠れてよく見えなかったが、死力を尽くしての猛追はそれだけで鬼気迫るものがあった。


カナタの目には、既に迫るゴールが見えている。誰よりも早く、あそこに辿り着く。それだけがこの瞬間の価値であり、全世界だった。最後の息継ぎと同時に(リーチ)の差まで追い上げた相手の位置を認めたカナタは、感覚のなくなりつつある腕を振るって最後の5cmをもぎ取る事に全力を賭けた。もう空気は必要ない。かき寄せる水が自分に味方してくれる事を心から願った。


割れんばかりの歓声、そして一杯に伸ばした指が、待ち望んだ(ゴール)に触れた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「一着――古井実中、三峰カナタ」


アナウンスが勝者の名を告げた時の会場の興奮は凄まじかった。

無理もない。タッチの差が明暗を分けた先頭の二人はもちろん、三着に入った緒方選手までが大会レコードを上回るという好レースだったのだ。

判定の発表を息を詰めて待ち構えていたハルカは、アナウンスと同時に飛び上がって快哉を叫んだものの、一瞬の後には周囲の友人たちにもみくちゃにされて嬉しい悲鳴を上げた。


カナタは精根尽きた様子でレーンの仕切りに凭れていたが、やがて左手の拳を高く上げて会場の声援に応えた。大きく手を振るハルカと友人たちの姿が見えた。




興奮の裡に県大会の幕は下り、熱戦に盛り上がったスタンドも、残照を照り返す空席の列に変わっている。


「どうしても行かないとダメ?」

「当たり前でしょ、カナタは主役の一人なんだから」


すっかり普段の優等生に戻ったカナタを、ハルカが笑って諭す。

水泳部員たちを乗せたバスの乗降口の前である。応援団の面々も加わっての祝勝パーティーが、急きょ企画されたのだ。


出席すればそのまま友人宅へ泊まる事になるのは知れ切っていたので、翌日ハルカの大会を観戦しに行くつもりだったカナタは躊躇した。しかしハルカの態度は明快だった。

今日は友人たちと勝利を祝って、明日はゆっくり休むこと。

ハルカの競技を見に来る機会はいくらでもある。100mの決勝で無茶な泳ぎをしたカナタがいかに疲弊しているか、姉にはよくわかっていた。関東大会への出場権を獲得している以上、部のためにも体を休める責任がある。


「勝てば勝ったでやることがあるんだよ。応援してくれた皆と騒ぐのも大事」

「わかってるよ。……お姉ちゃんの応援に行けなくて残念だってこと」

「そんなの。今日のカナタの試合みてたら十分気合い入ったよ。――楽しかったでしょ?」

「うん」

「よし。じゃ皆によろしく」


ハルカは幼い頃からの習慣で妹の頭を軽く撫でた後、彼女を待つバスに乗り込むよう促した。


「わかった。お姉ちゃんも頑張ってね!」


走り出すバスに手を振って、ハルカもまた友人たちの待つ駅へと帰途を急いだ。

暮色の迫る会場を後に、車輪(ウィール)の軽い響きが颯爽と尾を曳いていく。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


灼けつくような日差しは、野放図に建ち並ぶビルの谷間に早朝から耐え難い熱気を育んでいた。

地下鉄の駅を出た少女と少年が、都市部特有の猛烈な暑気に歩を遮られて、二人同時に顔をしかめた。


「あっつ!」


言わでもの愚痴をこぼしたのはハルカの方だ。

愛用のスケートボードは脇に抱え、ヘルメットその他を詰め込んだバックパックを背負っている。

希少なスケート専用スニーカーは都内の某スポーツ用品店からのプレゼントである。店主が彼女の大ファンなのだ。


「熱射病で倒れる客が出そうだな」


早くも迷惑そうに亮二が言った。選手は倒れないものと決めてかかっている所が彼らしい。

丈の短い上下にハルカと色違いのスニーカーで身を固めた亮二は、普段よりずっと幼く見える。

遠足を前にした子供のような期待感が、一層その印象を強くしているのだろう。ちなみにスニーカーは徹夜で並んで買った。


「春は靴の差(・・・)で負けただけだからな。もうロイなんかに勝たせてやらねえぞ」


同い年でハーフのその少年を、亮二は一方的にライバル視している。ハルカの見た限り、技の迫力はたしかに亮二が勝っているようだ。


「男子は天童さんが欠場でしょ? 青木さんは別格としても、ロイに勝てればフリーは二位狙えるんじゃない」


並居る強豪の実力を知りながら、ハルカは意地悪く笑った。一人や二人欠場が出たところで、若年の亮二やロイでは六位までの入賞も難しいだろう。


「けっ、そうやって笑ってろ。福島や吉田だって一つでもミスが出れば射程圏内なんだからな」


亮二の顔はあくまで険しい。そのくせ楽しそうでもある。無関心に伸びる大都会の道路を半ば傲然と歩いていく少年そのものの亮二の横顔を、ハルカは見なくても思い浮かべることができた。


会場の手前で、二人は互いの健闘を祈って別れた。競技人口のまだまだ少ない女子の部では、ハルカは常に優勝候補だ。

男子に混じっても、フリースタイルなら三位入賞はほぼ確実と言われる天才少女である。会場に入ると同時にフラッシュとインタビューの嵐に晒されることがわかっているので、到着後は開会式の終了まで別行動、というのが二人の暗黙のルールとなっていた。

もちろん互いの競技の観戦や応援はする。単に試合前の余計な儀式(・・)に亮二を巻き込みたくないというのがハルカの本音だった。


会場ではスケートボードの他に、インラインスケートや自転車など、多種目の競技者たちも多数集まっている。それらに十倍する数の観客たちも、大半が競技者かスポーツ関係者だ。

昨日の水泳大会とは一味違った会場の雰囲気が、程よく緊張したハルカの頬に心地よかった。


「あっ、ハルだ!」

「三峰!? どこ!」


一人の出場者の声を合図に、周囲の視線が八方からハルカに集中し始めた。少女の顔に羞恥とは無縁の笑みが浮かぶ。可憐な容貌に似つかわしくないその表情は、正しく不敵と呼ぶに相応しかった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


遅めの朝食と入浴を済ませて、カナタはぱたぱたとスリッパの音を響かせながら自室へと戻った。

ハルカが留守の時には、彼女はよく姉の悪癖を真似して両親の眉をひそめさせる。


昨日の激戦の疲れがまだ全身に残っていて、さすがに机に向かう気になれない。

楽しい事にはリスクがあるんだわ、と考えて、カナタはふと微笑った。

楽しくない事にだって同じだけのリスクがあるのがすぐに分かったからだった。


姉の応援に行きたい。しかし昨夜の夜更かしと寝不足も手伝って、着替える気力もなくカナタはベッドに突っ伏してしまった。

慣れ親しんだ寝台の睡魔が、小さな主人を優しく迎えた。


――母の声に起こされた時には、正午が近かった。寝返りひとつ打たずに二時間は寝ていた見当だ。


「何ですか、そんな格好で!」


娘の活躍を聞いている母親は、苦笑を浮かべつつ彼女を揺り起こした。


「あなた宛てに電話よ。いつだか話してくれた木脇さんて方から」

「木脇さん!?」


枕に埋もれたままのカナタの顔から一時に眠気が去った。

彼の不在が長かったので、ホテルの人にこの家の電話番号を教えておいたのだ。青年からの連絡があれば、必ず伝えてくれるようにと念を押してあった。


カナタは急いで身を起こすと、母の手から受話器を受け取った。気を利かせて母は出て行く。


「もしもし……木脇さん?」

「ああ、カナタか。久し振りだね」


青年の穏やかな声が聞こえて来て、カナタは一瞬胸が詰まった。


「急に留守にして悪かった。こんなに長くかかるとは思わなかったんだけど……何度も訪ねてくれたみたいだね」

「あの……心配しました。余計なことかもしれませんけど。木脇さんが出掛けられたその日に、私も色々聞かされて。それでずっと戻っていらっしゃらなかったから」


喉の震えを堪えてカナタは言った。一方的な内容になっているのが自分でも分かったが、普段通りに組み立てていたら何も言えなくなりそうだった。嬉しかった。


「ありがとう。色々聞いたっていうのは……」

「スケッチブックの事です。木脇さんの部屋にあったからホテルのものかと思ってたら、木脇さんのものだってホテルの人が」


カナタは姉に聞かされた当日の話を、かいつまんで説明した。


「ああ、この絵を見てたんだね。巧く隠しておいたつもりだったんだけど。じゃ驚いたろう」

「じゃあ、やっぱり木脇さんが描いたんですか」

「ん……話すと少し長いんだ。僕もまだ外から電話しているんだけど、夜にはホテルに戻るから、よかったらハルカと一緒に今夜か明日にでも来るかい」


青年は屈託のない口調で言った。


「ミズキも喜ぶよ」

「行きます! 今夜、姉が帰ってきたらすぐ!」


少し遅くなるかもしれないが、ハルカと一緒なら両親も何も言わないだろう。もともと手のかからない双子なのである。


「暗いから車に気を付けておいで」

「子供じゃあるまいし」


珍しく冗談めいた忠告をくれた積太に、カナタは受話器越しの笑顔で答えたのだった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

広い競技場のフィールドを人垣が幾重にも取り囲んでいた。

様々に配置された障害物(セクション)の上を少女の影が渡るたび、人垣からため息にも似た賛嘆の声が洩れた。


難易度の高い(トリック)をリズミカルにこなしていく少女はハルカである。

時には誰よりも速く、時にゆったりと繰り広げられる彼女の技の数々を、とある雑誌の記者はオーケストラのようだと表現した。指揮者はもちろん彼女自身だ。

急角度の斜面(バンク)を高速で駆け上がったハルカは台の上から得意のオーリーを決めた。地表から跳んでも高さ1mを超える、プロ顔負けのオーリーである。

背の高いセクションの頂点から放ったそれは、驚嘆の沈黙をもって迎えられるに十分な美しい放物線を空中に描き切った。

車輪が再び地面を噛むと同時に、40℃の大気を震わせて、喝采の嵐が巻き起こる。採点係の審査員たちまでが、ペンを投げ出して手を叩いた。汗に光るハルカの頬には、してやったりの笑みが浮かぶ。こうなるとハルカはもう止まらない。

既に勝利の確約されたフィールドで、天才の資質を惜しみなく発揮しながら、次々と超難度の技を決めていく。カメラマンたちは後の競技の事も忘れて切り通しにシャッターを切った。

怒涛のような歓声を浴びながら舞い続ける少女は、たしかに一人の指揮者に違いなかった。


亮二もまた人垣の最前列で彼女を見ている。

普段から見慣れているとはいえ、大舞台でのハルカの技の冴えは亮二の想像すら超えるものがある。世界レベルのトリックの数々に、少年も心からの拍手を送った。

ハルカの滑り(ライディング)は特徴的で、競技中は常に進行方向だけを見ている。基本の一つだが、ハルカの場合はそれが極端である。

彼女を師とする亮二もまたその傾向が強かった。結果として、お互い観客を見ない。競技場の内と外を隔てて視線が合うような事はまずなかった。亮二にとっては最近それが多少不満でもあったりするのだが……。

とはいえ、今日のような芸術的なライディングを見せられては不満の一つも出るはずがない。

午後に控える自分の出番を前に、否応もなく少年の士気は上がった。


大歓声の裡にハルカの競技は済んで、インタビューを終えた彼女と亮二は揃って昼食を取った。

昼食と言っても会場のすぐ隣にあるラーメン屋である。パン嫌いのハルカは会場で振舞われているサンドイッチやホットドッグが食べられない。向かいのハンバーガーショップなど論外だった。


「この暑いのにラーメンかよ……」

「ごめん。おごるよ」

「馬鹿言え。まあ空いてるしな」


亮二の言葉通り、店内は空席ばかりが目立った。冷房が強烈に利いていて、寒いくらいだったのは意外である。


「客が来ないからヤケになって冷やしてるんだよ」


メニューを眺めながらハルカが言った。混み合うファーストフードや会場内よりは、多少の寒暑に耐えても空いた店の方がいい。ファンや会場の友人たちと接するのも大会の楽しみの一つだが、食事時くらいはゆっくりしたかった。


「揚げ焼きそば」

「俺は炒飯を」


看板(・・)のラーメンを無視されて鼻白む店員の様子にも気付かず、二人は午前中の競技者たちの論評に熱中しはじめた。


料理が運ばれて来てしばらくすると、店のドアが開いて日曜らしくないスーツ姿の若い男性客が入ってきた。

ちょうどそちらを向いて座っていた亮二と目が合って、お互いが軽く会釈を交わす。知った顔である。


「倉田さん」

「よう、亮二君。ひさびさ」


倉田は今日の大会を取材に来ている記者の一人だ。

特に若年層のライダーたちを中心に長く取材しており、ハルカはもちろん亮二やロイとも面識が深い。


「ハルちゃんも、久々。さっきの競技は凄かったよ! もう国内じゃ敵無しだねえ」


二人の席の傍まで来て、倉田記者は言った。水を運んで来た店員が当惑して立ち尽くしているのにも一向に構う様子がない。


「そろそろ本場(・・)の大会に出てみるのもいいんじゃないか?」

「アメリカかあ、英語できないからなー」


身を乗り出して訊いてくる倉田に、ハルカは極力本心とは逆の答えを返した。この若手記者に言質を取られたら、一か月後には彼女の出場が決定事項として雑誌に発表されてしまう。

もっとも、若いライダーたちを活躍の場に引き上げようとする彼の姿勢は、ハルカも嫌いではなかった。


「ハルちゃんの実力があれば言葉なんか使わなくても友だちはたくさんできると思うけどな。まあ考えておいてよ」


倉田はそつ(・・)のない笑顔で言って、


「ところで、二人の仲はその後どうなんだい?」

「そういうのオヤジ趣味って言うんですよ。倉田さんまだ(・・)二十四歳でしょ」


ことさらに無垢な瞳を向けて、ハルカが千枚通しの皮肉を返す。


「あ、相変わらずキツいなあ……亮二君、同情するぜ」

「倉田さん、水持って帰られちゃいましたよ」


亮二は苦笑して言った。ハルカの毒舌は自覚がある分だけ妹よりもたちが悪い。


「午後は亮二君も競技だろ? ハルちゃんも垂直競技(バーチカル)が残ってるのか。二人とも頑張ってくれよ」


倉田はそう言い残すと、カウンター席の方に歩いて行った。


「アメリカの大会はこんな規模じゃないんだろうな」


亮二は煤けた窓から、賑わう会場の方を見やって言った。ハルカの目指すものを少年は知っている。


「ロイに聞いてみたらいいじゃない。前に出てるんでしょ」

「小学生の頃の話だろ。町レベルの大会なんか聞くまでもねえよ」

「……あ、そういえば英語の通訳なんてロイに頼めば――」

「カナタに頼めば何にも問題ないよな!」


響いてくる少年たちの会話に耳を傾けながら、倉田は楽しそうに煙草をくゆらせている。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


表彰式が済んで、インタビュー、参加者同士の挨拶と一通りの儀式が終わると、全国から集ったスケート愛好者たちも、三々五々と帰途につきはじめた。


「ハルカ、打ち上げつきあいなよ」


高校生の女子ライダーたちが誘ってくれたが、ハルカは軽く詫びて断った。


「ごめん、()は出るから」

「あら、珍しい。じゃまたね」


優しい年上の友人に手を振って、ハルカもまた熱戦の舞台を後にした。


混雑した地下鉄から下りのJR線に乗り換え、空いたボックス席に腰を落ち着けると、ハルカはようやく息をついた。


「亮二! 機嫌直しなよ、上出来だったって」

「……ああ」


腕を組んだまま夕映えの街を睨みつけていた亮二は短く答えた。

出場したフリースタイルでの彼の成績は四位。周囲の予想を上回る堂々たる結果といえたが、同い年のロイ・ラッセンに僅差で三位の表彰台を譲る形になったため、亮二の悔しがり方は一通りではなかった。

自分のデッキを踏み割ろうとした彼をハルカがひっぱたいて制止し、口論の末お互いろくに口も利かずにここまで戻って来たのだった。


「次は勝てるよ。マジで上手くなってるもん」

「ああ」

「ミスもなかったし、ベストは出せたでしょ」

「ああ」

「叩いたのは悪かったよ」

「ああ」

「もう! 聞いてんのかよ!」


ハルカは憤然と立ち上がって向かい合って座っていた亮二の脇へと席を移した。


「亮二が上手くなって嬉しいって言ってるんだよ」

「わかってるよ――お前のおかげだ」


亮二はようやく振り向いた。

暮れかかる夏の日が少年の右頬を染めていた。口元に怒りの名残があるが、目は穏やかさを取り戻していた。


「わかってるなら礼なんかしないでよ――次は勝つか?」

「ああ」

「よし。一緒に――」


言いかけて、はたと止め、ハルカはつと顔を寄せた。

唇が触れ、すぐに離れた。


「一緒にアメリカ行こう!」


差し込む夕陽に照れ笑いの横顔を晒して、少女は言った。


「お前……そういうのは男の科白だぞ」

「そんなのないよ。言葉は言うべき人のもんだわ」

「ちぇっ、パン食えるようにしておけよな」


少年は恋人の顔を覗き込むと、借りを返すようにもう一度唇を重ねたのだった。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


古井実の駅で亮二と別れたハルカが家路に着く頃には、暮れなずんでいた夏の一日もすっかり夜へと移り変わっていた。


数時間前に立っていた街とは何もかも違う田舎町の澄み切った夜気を、ハルカは深々と吸い込んだ。

昨日、今日と色々なことがありすぎて、少し疲れたように感じる。しかし、気の滅入るような本当の疲れではない。思い出が記憶される時の、自覚のない幸福な変化に伴う疲れだ。

ハルカは亮二の顔を思い浮かべて、胸が温かくなるのを感じた。


恋というのは予想がつかないものだ。ハルカが心のどこかで怖れていたようなことは何もなかった。いまでは何を恐れていたのかも思い出せないほど、あるべき高さにある自分を感じる。

歌い出したいような気持ちを抑えて、ハルカはゆっくりと夜道を滑り出した。全3種目で主を優勝に導いたボードは、車輪の軽い響きと共に、通い慣れた路を辿っていく。


大丈夫だ、あたしは落ち着いてる。

浮き立つ心を何度も自制しながら、ハルカは地面を蹴っていった。

スピード狂の彼女にしては、夜道とはいえ信じられないほどの安全運転である。

それが、ふと吸い込まれるように夜空を見た。

下弦の月はまだ山の端を離れない。広々とした夜空を渡る藍色の帯――。


――天の川。


呟きは、突然のクラクションにかき消された。細い路地から飛び出して来た運送会社のトラックが、振り向く間もなく少女に襲いかかった。強い衝撃と共にハルカは暗い路面へと投げ出された。トラックのタイヤがデッキを踏み割るぞっとする音が夜道に響き、全身の苦痛に耐えていたハルカはそのまま意識を失った。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

「ハルカ……ハルカ」


誰かが名前を呼んでいた。

名前(・・)を呼ぶのはカナタではない。それに声は男のものだった。

父だろうか。違う。


「亮二――?」


掠れた声で呟いて、ハルカは重い瞼を開けた。擦り剥いた頬が鋭く痛んだ。

目の前に、白い大きな姿があった。


「ミズキ……木脇さん」


愛犬の隣にしゃがみ込んで、ハルカを呼んでいたのは彼だった。


「ハルカ! 気がついたかい」

「うん。あたしボーッとしててトラックに……」


ハルカはアスファルトから身を起こして、不思議そうに自分の手足を眺めた。

あちこち擦り剥いてはいるが、どこも大きな怪我ではない。


「ミズキが間に合ったみたいだね。急に引綱(リード)を振り解いて駆け出したから何事かと思ったよ」

「あっ」


ハルカは思い出した。トラックが衝突してくる直前、背後からの衝撃が彼女を突き飛ばした事を。


「戻って来たミズキに引っ張られて来てみたら、君が倒れていて驚いたよ」


と、積太は言った。


「どうしてあたしだって分かったんですか?」

「ミズキが君を覚えてるからね。それに近くにこれが」


ハルカが積太の手元を見ると、無残に割れてしまったデッキが目に入った。


「壊れてしまっているみたいだけど――(ハルカ)が無事で本当によかった」

「あ、ありがとうございます……あたし」


死ぬとこだった、と言おうとしたが、喉に貼り付いて言葉が出なかった。ささくれたデッキの断面が街灯の光を受けて、ひどくよそよそしいものに見えた。本当に久々にハルカは泣きたくなったが、ミズキが大きな身体を寄せて来てくれたので涙は出なかった。


「ミズキ、ありがと」


ハルカはトラックの事を聞いた。


「ひどいやつだ。君をはねていない事がわかると僕らにこの場を任せて逃げてしまった。僕の目が見えれば捕まえておいたのに」


積太は悔しそうに言った。


「この町の男はあんなじゃなかった」


ぽつりと洩らした青年の口許を見やって、ハルカは目が覚めたような気分になった。


「いいんです、木脇さんとミズキに助けてもらえて、それだけで十分」


痛みをこらえてハルカはどうにか立ち上がった。


「歩けるかい」


気配を察して青年が言った。


「うん。木脇さん、この町に住んでたの?」

「えっ」

「さっき、この町の男は、って言ったからさ」


ハルカは何気なく訊いた。十日間の留守中、青年は何をしていたのだろう。

事故のショックが和らぐと、疑問が次々と浮かんできた。


「ああ、口が滑ったな。実はそうなんだ。今夜カナタと君が来たら話すつもりだったんだけど」

「今夜? あたし何も聞いてませんけど」

「お昼頃に電話で話したんだよ。ハルカが帰ったら一緒に来るってことになってた」


と、積太は言った。


「でも今夜は休んだ方がいいかな。怪我、してるだろう」

「こんなの。スケーターにとっちゃ掠り傷くらいいつもの事です」


ハルカは強がってみせた。


「それにカナタに明日まで待てなんて頼んだら、何て言われるか。すごく楽しみにしてるんです、木脇さんと会うの」

「そうか、じゃ僕が出向こう。遅くに迷惑かな?」

「全然!」


意外な青年の申し出に、ハルカは喜んで答えた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


カナタの淹れた薄いコーヒーが、三つのカップから柔らかな香気を立てていた。


打ち身と擦り傷だらけの姉を、カナタは慣れた手つきで治療していく。治療と言っても消毒して絆創膏や湿布を貼る程度だから手当て(・・・)と呼んだ方が正確かもしれないが、とにかく怪我人から文句が出ない的確な処置だった事はたしかである。


カナタが怒った顔で治療を続ける間、ハルカは気まずそうに空いた手でコーヒーを啜っていた。

積太と一緒に帰る、と家に連絡した時まではよかったのだが、顔に酷い擦り傷を作って帰宅したハルカを見て家族全員が青くなった。

普段めったに怒らない両親もたまりかねたように二言三言の叱言(こごと)を言ったが、何よりカナタがヒステリックに双子の姉を咎めたてたので、結局は姉妹の間を取りなすような変なお説教になった。


自分たちの部屋に戻ってからも、カナタの機嫌は穏やかではない。積太は応接室でしばらく父親と世間話をした後、二人の部屋に通されていた。彼はいつも通りの微笑でコーヒーカップを傾けている。


「よりによって私が行かなかった時に事故らなくてもいいでしょ。心配で休めやしない」


カナタの叱言はもはや愚痴に近い。

たしかに妹が一緒なら亮二とのキスは未遂に終わった可能性が高い訳だが――。


「だから事故ったわけじゃないって」

「それはミズキが助けてくれたからでしょ! たまたま木脇さんの帰りと重なってなかったらどうなってたか……」


カナタは厳しく言った。当のミズキは居間で両親の歓待を受けている。ペット禁制のマンションなので家族揃って動物に憧れているのである。


「ごめんなさい、木脇さん。お待たせして」


ようやく治療を終えたカナタとハルカが、車座を組んで青年の傍に腰を下ろすと、わだかまっていたキリマンジャロの香りがふわりと三人の間に立ち迷った。

カナタの表情も心なしか和らぐ。


「お話、聞かせてくれますか?」


青年は肯き、物静かな声で語り始めた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


灼けつくような太陽の日差しは、その夏も古井実の町を照らしていた。

空梅雨となった水無月の頃より数えて、もうふた月ほども雨らしい雨が降らない。農家では作物の生育が心配されていた。

日本晴れの青空の下、陽炎に霞む街並みが広がる。


「――美しい町だった。今でも、思い出すよ」


積太は屈託なく言った。

町の中央には、いまはなくなってしまった大きな工場があった。家々の屋根は低く、工場の煙突は西見から桜台まで、町のどこからでも望むことができた。赤レンガの巨大な外観と、吐き出される煤煙は、当時の古井実のシンボルだった。

国会議員何某と繋がりの深い町長が先年誘致したこの工場が、町の経済を根本から変えたと言っていい。伝統的な農業と宿場の収益で成り立っていた財政が、連日フル稼働を続ける新工場の出現でにわかに潤った。多数の労働者が県内外から移住し、人口の増加も目覚ましいものだった。


誰もが誇らしげに見上げるこの高い煙突を、しかしいま、索漠とした眼差しで遠望する男女がいた。中心地からは少し距離のある、見晴らしの良い高台である。


「また内閣が変わるってさ」


嫌悪感を滲ませて言ったのは、まだ幼さの残る顔立ちの少年だった。短く刈り込んだ頭に古びた麦藁帽子を斜めに被り、鍔の縁から空を睨むようにわずかに頤を上向けて話す癖があった。


「工場ができて町も変わった。景色も人も」

「積太は嫌いなの、あの工場が」


少年の右後ろに佇む少女が言った。少年よりは一つ年上の、すらりと背の高い少女だった。


「嫌いだよ」


煤煙から目を離さぬまま、少年は言った。

工場は兵器廠だった。


「あんなものを日本中に建ててどうする気だろう。大陸での戦争もまだ済みそうにないのに、もう次の戦争に備えてるんじゃないか」


流れる汗を拭いもせずに彼は言った。町内にも兵役に取られたきり帰って来ない者がいくらもあった。少年はこの辺りでは富裕な役人の長男だったが、内心では画家になりたかった。幼馴染の少女はそれを知っている。

しかし所詮は無理だった。周囲の大人や情勢が、なにより少年自身の責任感が、自由に夢見る事を到底ゆるさなかった。

少年は父親の言いつけ通り、画家への道をあきらめ高校に進学した。


「積太は」


と少女が言った。


「戦争が嫌なのね」

「うん。あんな恐ろしい事はいくら勝ったって聞くのも嫌だよ。銃剣も大砲もまっぴらだ。戦地から帰った人にはずいぶん得意になって話す人もいるけど」

「男のくせに」


少女が笑った。むろん本音ではない。からかうのが面白いのだ。

刹那的で中身のない愉しさに彼女は寂しさを紛らせた。恐れているのは彼女の方だった。

少年はまた黙って町を眺めた。

いずれ自分は下士官になる。その時、戦争が今より激化していれば、十中八九は死ぬだろう。


「笑われるのは癪だな」


初めて口許を緩めて少年が言った。


「怖がるのと逃げるのは別の事なのに」


振り返ると少女と目が合った。


「戦うのと死ぬのだって別の事よ」


少女は言った。


「撃つことと撃たれることも別。くだらないようでも覚えておかないと、あなたみたいな人はすぐに諦めるわ」

「諦めやしないさ、僕だって男だ。もし何年かして出征することになっても――必ず瑞生のところに帰ってくるよ」



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


戦時下に交わされた多くの約束と同じように、少年と少女のそれもまた、正しく果たされることはなかった。


最前線に送られた新任下士官が生還を信じて激戦する一方で、皮肉にも彼を待つ娘の方が、兵器廠を狙った大規模な空襲に巻き込まれて瀕死の重傷を負い、他の住民ともども避難してきた町外れの高台で、満足な手当ても受けられぬまま命を落とした。

住民の救助に奔走した積太の父親も、二次の爆撃でこのとき帰らぬ人となった。何も知らぬまま積太は戦い続け、一週間後に死んだ。補給のままならぬ最前線で飢えと熱病に衰弱しきった末の戦死だった。


「――半世紀以上も前の話だよ。信じろっていう方が無理だと思うけど」


積太は隣で聞き入る双子の姉妹に、むしろさっぱりとした口調で言った。

コーヒーはまだ湯気を立てていた。居間の方から両親の笑い声が聞こえた。ミズキが愛想を返しているのだろう。


「からかってるならやめて下さいね」


ハルカが口を開くより先に、カナタが真面目くさった表情で言った。初めて会った時から不思議な青年だとは思っていたが、それでも彼の話をにわかには信じ切れなかった。

勘のいいハルカは今の話をどう聞いたのだろう。

確かめる前に、積太が答えた。


「からかってはいないよ。カナタ、手を」


青年はカップを置いて、床の一点を指差した。


「そこに置いて」

「はい」


言われるままに手を置くと、


「動くなよ」


そっと積太の手が重なった。

カナタの顔が強張る。すぐに積太は手を離した。

直前までコーヒーカップの表面を撫でていたのに、青年の指は氷のように冷たかった。


「あまり触れてると身体に悪いんだ。少しは信じてもらえたかな」

「どうして嘘ついたんですか? 旅行で来てる、って話だったのに」


言いながら、ハルカはずっと心に引っ掛かっていた積太との出会いの場面を思い出していた。

あの日、遮蔽物も脇道もない直線道路の真ん中に、青年とミズキの影は突然現れはしなかったか。

そして今夜、彼女を事故から救った時も、積太はハルカに手を触れようとはしなかった。


「ごめん、あの嘘のことは謝るよ。僕らが里帰りする時のルールでね、身分を知られるのはちょっとマズいんだ」


青年は悪戯っぽく笑って、コーヒーを啜った。


「いまはいいんですか、話しちゃって」


冷たい手のショックからやや立ち直ったカナタが訊いた。


「目的が済んだからね。どのみちもう戻らないと……」

「……」


カナタは暗い窓の方に目を背けた。仕方のないことだと無理に思った。積太がただの旅人だったとしても、いずれはその日が来る。ずっと不在だったこの一週間を思えば、最後に会えただけでも幸運だったのだ。

そのうえ、何よりも大切な姉の命を救ってもらっている。


「目的って、もしかして絵を描くこと?」

「うん、それもあるけど、家族と瑞生の消息が知りたかったんだ。あっち(・・・)じゃ確かめられないからね」

「見つかったんだ」

「ああ」


ハルカの問いに短く答えて、青年の口許には寂しげな色が浮かぶ。積太はそれ以上言わなかった。


「ミズキの名前はその人から貰ったんだね」

「うん、もともと名前のない犬なんだ。里帰りする人間があると案内するように育てられた子なんだよ」

「目が見えないのも里帰り(・・・)のルールなの?」

「そうだよ。()の故郷は見られない」

「だったら」


ハルカは身を乗り出した。


「どうして絵を?」

「あの画帳のことか――あれはミズキと一緒に貸してもらった特別な物でね。里帰りした人が故郷の変わってない風景を探して描くものなんだ。僕の場合は五十年以上も経ってるから何もないかと思ったけど、西見の神社がそのままだったのを知った時は嬉しかった。僕らには変わっていないものだけが見えるんだよ。感じられる、と言った方がいいかな。それをスケッチするんだ。里帰りの記念にね。人も町も変わってしまったけど、変わらない場所も確かにある。五十年、百年の昔から」

「答えになってないわ。見えないのにどうして昔から変わってないって分かるの?」

「ん、説明するのが難しいんだけど――いまの僕に見えるのは昔に見たものだけなんだ。記憶の中にないものは見えない。だから普段は真っ暗闇の中を歩いてるのと大差ないけど、ごくたまに明かりの灯ったような場所があって、そこは昔と変わってない場所ってこと」


ハルカやカナタにとってみれば、戦争の頃の話などは遠い伝承でしかない。両親だって戦火とは無縁の世代である。積太にとっての風景が、この町に残っていなくとも無理はなかった。


「でも来てみて良かったよ。戦争が終わって半世紀以上が経ってもこの町は平和で、あの嫌な工場の臭いもしない。君たちにも会えたしな」

「よくないですよ。用事が済んだらさっさと帰っちゃうんだから」


恨みがましくカナタが言って、すぐに寂しそうな笑い声を上げた。ハルカは何も言えず、妹と青年を交互に見た。


「ごめんな」


冷たい手がもう一度だけカナタの髪を撫でてくれた。

それだけで言いようのない疲労が全身に染み渡って、カナタは安息混じりの小さなため息をついた。


「いまので許してあげます。その代わり、私たちの大会の話くらい聞いて行って下さいね」









◇◆◇◆◇◆◇ エピローグ ◇◆◇◆◇◆◇


カナタの関東大会から二日が過ぎた。


姉妹は町を見渡す高台に立って、いくぶん草臥れた蝉の声を聞いている。

木蔭にひっそりと立つ碑の下に、持参した色鮮やかな夏の花々が手向けられていた。土や草木の匂いが濃い。


「静かなとこだね」

「そう? 賑やかじゃん」


手を合わせた双子は互いに言った。

ミズキと青年が町を去ったあと、普段は風邪もひかないカナタが珍しく熱を出して二日ほど寝込んだ。

妹が気を落としていることを知っていたハルカは、できるだけ傍にいて元気づけてやった。

他の家族が寝静まった後、カナタは一度だけ涙を見せたが、翌日には体調を取り戻した。

関東大会では惜しくも入賞を逃したものの、残り少ない夏休みを有意義に過ごすべく、相変らず日々の予復習には余念がない。


ハルカはデッキを新調した。

新しいデッキの調達に同行したカナタは、「一番危なくないのにして下さい!」と強硬に言い張って、ハルカと顔なじみの店主を驚かせた。

割れてしまった思い出のデッキは、修復を終えて双子の部屋の壁を飾っている。


ハルカは石碑の裏に回って、刻みつけられた被災者たちの名をもう一度眺めた。

年齢の順で並べられているらしいその悲しい名簿の一番下の方に、青年の想い人の名があった。


「ずっと待ってたんだね、ここで」


姉の思いを見透かしたように、カナタが同じ感想を洩らした。


「もう二度と会えないのに、名前だけになっても待ってたんだね。それを木脇さんは手探りで捜して、ちゃんと見つけてあげたんだ」


カナタはハルカの隣に寄って来て、どこか懐かしそうに人々の名を見た。


「こういうの二世の縁って言うのかな。私なんか自分の町にこんな碑があることも知らなかった」

「あたしは宿命論なんかキライだけど」


男のように腕を組んでハルカは笑った。


「でも想いの強さってのは大事よね」


おりから蝉の声が高まり、木の下闇に目を上げると、生い繁る樹々の間から、広がる古井実の町が見えた。


赤レンガの工場は今はない。


「ここも五年でスケートのメッカね」


眼下に故郷を望みつつ、姉はカナタにそう宣言した。






(終)


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