第3章:新たな始まり
## 第3章:新たな始まり
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ソルトレイクシティ近郊のモーテルの部屋は狭く、カーテンから漏れる朝日が部屋を黄色く染めていた。ヴィクトリアは窓際に立ち、駐車場に停めた車を確認した。彼女たちはサンフランシスコを出てから36時間、ほぼ休みなく東へと進んできた。疲労が彼女の体中に満ちていたが、まだ安心することはできなかった。
ベッドではリジーがようやく深い眠りについていた。ここ二日間、少女は驚くほど強く振る舞ってきた。状況を詳しく説明していないにもかかわらず、リジーは何かが起きていることを直感的に理解しているようだった。
「私たちは逃げてるの?」最初の数時間後、彼女は単刀直入に尋ねていた。
「新しい場所で新しい生活を始めるのよ」ヴィクトリアは正直に答えた。「今までの生活から...離れる必要があるの」
リジーはそれ以上質問しなかった。彼女はただ黙ってうなずき、窓の外を見つめ続けた。時折、彼女は目を閉じ、まるで何かに集中するように眉をひそめていた。
ヴィクトリアはモーテルの粗末なコーヒーメーカーを起動させた。テレビをつけて、クローズドキャプションでニュースを確認する。彼女の顔が映し出されるのではないかという恐怖があった。しかし、今のところ何もなかった。
そのとき、リジーがうめき声を上げて起き上がった。彼女の目は焦点が合っていなかった。
「リズ、大丈夫?」ヴィクトリアは駆け寄った。
リジーは混乱したように周囲を見回し、それから母親を見つめた。「結花が見えた」彼女はかすれた声で言った。
ヴィクトリアは息を飲んだ。「どういうこと?」
「夢の中で...でも夢じゃなかった」リジーは説明しようと苦心していた。「結花が暗い場所にいて、でも怖がってなかった。彼女は隠れてる」
「彼女は...無事なの?」ヴィクトリアは恐る恐る尋ねた。
リジーはゆっくりとうなずいた。「結花は大丈夫。彼女はそう言ってた...頭の中で」少女の表情が深刻になった。「でも、おばさんは違う。おばさんは...捕まった」
ヴィクトリアの体が凍りついた。ミレイが捕まったのなら、彼女もすでに追われているに違いない。時間はなかった。
「他に何か見えた?」彼女は急いで尋ねた。「結花がどこにいるとか?」
リジーは首を振った。「分からない。でも、暗くて、狭い場所。それと...」彼女は眉をひそめた。「海の匂いがした」
モントレーのキャビンだろうか?それとも別の場所?どちらにしても、結花は無事だと知って安心した。少なくとも、今のところは。
「結花はまた会えるって言ってた」リジーが小さな声で付け加えた。「いつか必ず」
ヴィクトリアは娘を抱きしめた。リジーの能力は予想を超えて発達していた。初めは単に「色を見る」程度だったものが、今や結花と直接的な精神的繋がりを持つまでになっていた。それは驚異的であると同時に、恐ろしいことでもあった。
「ママ、私たちは安全?」リジーが尋ねた。
「すぐに安全な場所に着くわ」ヴィクトリアは約束した。「今日中にはシカゴに着けるはず」
「そこに住むの?」
「しばらくの間ね」ヴィクトリアは答えた。「おばあちゃんのいとこのマリアおばさんが私たちを迎えてくれるわ」
実際には、マリア・ベルッチは彼女の母方の大叔母で、イタリア系移民コミュニティの中心的存在だった。ヴィクトリアが最後に会ったのは10年以上前だったが、彼女は血縁を大切にする女性だった。そして何より、政府の監視から距離を置く生き方を好む人だった。
「シャワーを浴びたら出発するわよ」ヴィクトリアは言った。「朝食は車の中で食べましょう」
彼女は自分のバッグから小さなラジオを取り出し、周波数を合わせた。地元のニュース放送が流れ始めた。
「...サンフランシスコの研究施設から重要なデータが盗まれる事件が発生。当局は軍の契約研究者である神崎ミレイ容疑者の行方を追っている。神崎容疑者は10歳の娘と共に逃走したとされるが、娘の所在は現在も不明。関係者によれば、盗まれたデータは国家安全保障に関わる機密性の高いものとされる。軍当局は...」
ヴィクトリアはラジオを切った。状況は予想通りだった。ミレイは捕まり、結花だけが逃げ延びたのだ。そして今、彼女自身も「関係者」として追われているに違いない。
シャワーを終えたリジーが部屋に戻ってきた。「ママ、何か悪いことしたの?」彼女は突然尋ねた。
ヴィクトリアは言葉を選んだ。「悪いことじゃない。正しいことをしたの」
「でも、私たちは逃げてる」
「時々、正しいことをするためには大きな犠牲を払わなければならないの」ヴィクトリアは説明した。「いつか、すべて話すわ。約束する」
数分後、彼女たちは再び車に乗り込んだ。ヴィクトリアは慎重にモーテルを出て、ハイウェイに戻った。彼女は後部座席に座るリジーをバックミラー越しに見た。少女は窓の外を見つめながら、何かを考えているようだった。
「何を考えてるの?」ヴィクトリアは尋ねた。
「結花とおばさんのこと」リジーは答えた。「おばさんは捕まったけど、結花は大丈夫。それがよく分からない」
ヴィクトリアはため息をついた。「結花のおかあさんは、結花を守るために自分を犠牲にしたのかもしれないわ」
「どうやって?」
「私には分からない」ヴィクトリアは正直に答えた。「でも、母親は子供を守るためなら何でもするものよ」
リジーは考え込んだ様子だった。「だから私たちも逃げてるの?私を守るため?」
「そうよ、リズ」ヴィクトリアは言った。「あなたは特別な女の子。そして、あなたのような特別な人たちを利用しようとする人もいるの」
「私の『色が見える』能力のせい?」
「それもあるわ」
沈黙が車内を満たした。数マイル走った後、リジーが再び話し始めた。
「結花は私より強いよ」彼女は静かに言った。「彼女は怖がってないの。でも...寂しがってる」
ヴィクトリアは胸が痛んだ。10歳の子供が一人で逃げているなんて。でも、これが最善の選択だったのだろう。結花とリジーを一緒にすれば、軍にとってはより価値のある「セット」になってしまう。彼女たちは別々に行動しなければならなかった。
昼過ぎ、彼女たちはネブラスカ州に入った。風景は単調になり、地平線まで延びる平原が続いていた。リジーは後部座席で本を読みながら、時折目を閉じて集中するような仕草をしていた。彼女は結花とコンタクトを取ろうとしているのだろうか?
「今日は何回か感じたよ」リジーが突然言った。「結花のこと」
「今も?」
「うん。彼女は移動してる。でも、安全」リジーは言った。「彼女はママに会いたがってる。でも、それが危険だって知ってる」
「賢い子ね」ヴィクトリアは言った。
「結花のママは私たちを助けたの?」リジーが尋ねた。
「そうよ」ヴィクトリアは答えた。「彼女は私に警告してくれたの。だから私たちは安全に逃げることができた」
「彼女は戻ってくる?」
「分からないわ」ヴィクトリアは正直に答えた。「でも、彼女は強い人よ。絶対に諦めない人」
その夜遅く、彼女たちはようやくシカゴの郊外に到着した。ヴィクトリアは地図を確認しながら、マリアおばさんの住所を探した。彼女の家はシカゴ西部のイタリア系コミュニティの中心にあった。
古いアパートの建物に着くと、玄関先にはすでに小柄な高齢の女性が立っていた。彼女は両手を広げ、まるで何年も待っていたかのように彼女たちを迎えた。
「ヴィッキー!」マリアは彼女を抱きしめた。「やっと来たのね。心配したわ」
「マリアおばさん、迷惑をかけてごめんなさい」ヴィクトリアは言った。
「家族に迷惑なんてないわ」マリアは断固として言った。「それに、あなたのお母さんが私を助けてくれたことを忘れたとでも思ってるの?」
彼女はリジーに視線を向けた。「これがエリザベスね?最後に会ったときは赤ちゃんだったわ」
「みんなリジーって呼ぶの」少女は恥ずかしそうに言った。
「さあ、中に入りなさい」マリアは彼女たちを促した。「温かいスープとベッドが待ってるわ。明日になれば、すべてもっと良く見えるようになるわ」
アパートに入りながら、ヴィクトリアは初めて数日間の緊張が少し緩むのを感じた。彼女たちはまだ安全ではなかったが、少なくとも一時的な避難所を見つけたのだ。
マリアは二人をダイニングルームに案内し、熱いミネストローネスープを出した。「さあ、食べなさい」彼女は命令するように言った。「それから話をするわ」
シカゴの街の灯りが窓から見え、遠くには湖が月明かりに照らされていた。新しい街、新しい始まり。そして、まったく新しい戦いの始まりでもあった。
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マリア・ベルッチのアパートは、シカゴの西部、テイラー・ストリート近くにあった。一世紀近く前にイタリア系移民が集まり始めたこの地域は、今でも伝統的なレストランやベーカリー、食料品店が立ち並んでいた。三階建ての古いレンガ造りの建物は、時代の変化に抵抗するように堂々と立っていた。
「私たちはここで何と名乗ることになるの?」リジーは新しい部屋のベッドに座りながら尋ねた。マリアは二階の小さな二部屋を彼女たちのために用意してくれていた。
「当面はトスカーノよ」ヴィクトリアは答えた。「エリザベスとヴィクトリア・トスカーノ。私の母方の旧姓を使うの」
「私、エリザベスって呼ばれるの嫌い」リジーが顔をしかめた。
「リジー・トスカーノでもいいわよ」ヴィクトリアは微笑んだ。「重要なのは、カペリという名前を使わないこと」
一週間が過ぎ、彼女たちは徐々に新しい環境に順応し始めていた。マリアは多くを尋ねず、必要なものをすべて提供してくれた。新しい服、学校の登録に必要な書類、そして何よりも安全な避難所を。
「私の兄マリオは偽造書類の専門家だったの」マリアは軽く言った。「禁酒法時代の名残ね。今は彼の息子が家族の伝統を受け継いでるわ」
数日後、ヴィッキーの手元には新しい社会保障番号と身分証明書が届いた。すべて正式に見えるが、完全に偽造されたものだった。
「仕事を見つけなきゃね」彼女はマリアのキッチンで朝食をとりながら言った。「あなたに迷惑をかけ続けるわけにはいかない」
「急ぐ必要はないわよ」マリアは手を振った。「でも、もしどうしてもというなら、レオナルド・デリでアルバイトがあるかもしれない。オーナーは私の甥っ子よ」
シカゴでの生活は始まったばかりだったが、ヴィクトリアの心は常にサンフランシスコに引き戻されていた。軍のことを、ミレイのことを、そして最も痛ましいことに、結花のことを考えずにはいられなかった。
「結花から何か?」彼女は夜、リジーの部屋を覗きながら尋ねた。
リジーは頭を振った。「昨日から感じてない。でも、彼女は隠れてる。だから静かにしてるんだと思う」
「彼女が無事でいることを祈るわ」ヴィクトリアは言った。
「そうだよ」リジーは不思議な確信を持った声で答えた。「結花は賢いし、強いよ。私にはわかるの」
リジーの能力は依然として謎のままだった。医学的に説明できない現象。そして何より、それが軍の注目を引く理由になりかねないことが、ヴィクトリアの最大の懸念だった。
翌日、彼女はレオナルド・デリで仕事を始めた。カウンターでのサービスと、時折の配達の仕事だった。彼女の軍での経験や教育背景からすれば大幅な降格だったが、現金収入があり、質問が少ないという利点があった。
「軍にいたんでしょ?」レオナルド・ノビが彼女を面接したとき、唯一尋ねた質問だった。
「どうして分かったの?」ヴィクトリアは緊張して尋ねた。
「姿勢」彼は肩をすくめた。「それと、目の動き方。常に周囲を観察している」彼はにやりと笑った。「私の兄弟も海兵隊にいたんだ。似たような雰囲気がある」
「軍との関係は...複雑になってしまったの」彼女は慎重に言った。
「詳しくは聞かないよ」レオナルドは手を上げた。「マリアおばさんが保証してくれれば、それで十分だ」
三週間が過ぎ、彼女たちの生活には一定のリズムが生まれていた。リジーは地元の小学校に通い始め、ヴィクトリアはデリで働き、夜はマリアとイタリア語の練習をした。表面上は、彼女たちは単に新しい街に移住した母子のように見えた。
しかし、平穏な日々の下には、常に緊張が走っていた。ヴィクトリアは一日に何度も後ろを振り返り、追跡の兆候がないか確認していた。彼女はインターネットカフェを利用して、身元を隠しながらニュースをチェックした。
「プロジェクト・オラクル関連データ盗難事件の容疑者、神崎ミレイ博士が拘束下に」という見出しが彼女の目に飛び込んできた。記事によれば、神崎は「国家安全保障に関わる研究データを違法に持ち出した」容疑で、場所不明の施設に拘留されているとのことだった。彼女の娘の行方は依然として不明とされていた。
そして、もう一つの記事が彼女の心臓を止めそうになった。
「Aether Dynamics社セキュリティ責任者、失踪。軍曹ヴィクトリア・カペリ(34)は神崎事件の直後に姿を消し、10歳の娘も共に行方不明。当局は関連性を調査中」
彼女の写真は掲載されていなかったが、名前が公になったことで、事態はさらに危険になった。
その夜、リジーが学校から帰ると、彼女の表情は曇っていた。
「どうしたの?」ヴィクトリアは娘の肩に手を置いた。
「学校で変なことがあった」リジーはテーブルに座り、バックパックを床に落とした。「算数の先生の周りの色が真っ黒になって、それで彼女が突然泣き始めたの」
「何が起こったの?」
「私が見てたら、先生が『私を見ないで』って言ったの」リジーは困惑した顔で説明した。「でも、普通に見てただけなのに」
ヴィクトリアは動揺した。リジーの能力が学校で問題を引き起こし始めていた。これは予想していたことだが、こんなに早く起こるとは思っていなかった。
「他に何かあった?」
「校長先生が私を呼んで、『どうして先生を怖がらせたの?』って聞いた」リジーの目に涙が浮かんだ。「でも、何もしてないよ」
「明日学校に行って話をするわ」ヴィクトリアは約束した。
しかし、学校に行く前に予期せぬ訪問者が現れた。その日の午後、デリで働いていると、軍の制服を着た男性が店に入ってきた。ヴィクトリアの血が凍りついた。彼女は即座に逃げ道を計算し始めた。
しかし、男性は彼女に気づいた様子もなく、サンドイッチを注文した。彼女はフードと帽子で顔を隠し、別の同僚に交代を頼んだ。バックルームから、彼女は緊張しながら男性を観察した。
彼は通りすがりの軍人に過ぎなかったのかもしれない。しかし、リスクを取るわけにはいかなかった。
「今日は早く帰るわ」彼女はレオナルドに告げた。「具合が悪くて」
「大丈夫か?」彼は心配そうに尋ねた。
「ただの頭痛よ」彼女は嘘をついた。「休めば良くなるわ」
家に帰る途中、彼女は何度も方向を変え、追跡されていないことを確認した。たまたまの事かもしれないが、彼女は用心し過ぎるということはないと考えていた。
アパートに着くと、予想外の光景が広がっていた。リジーはマリアと共に、テーブルで何かを熱心に書いていた。
「何してるの?」ヴィクトリアは尋ねた。
「リジーが素晴らしいアイデアを思いついたのよ」マリアが答えた。「彼女の『特別な目』のことを漫画にしてるの」
テーブルの上には、カラフルなクレヨンで描かれた一連の絵があった。主人公は明らかにリジー自身をモデルにした少女で、人々の周りの「感情の色」が見えるという設定だった。
「『カラー・リーダー』っていうタイトルよ」リジーは誇らしげに説明した。「彼女は人の気持ちが見えるから、困ってる人を助けられるの」
ヴィクトリアは娘の創造性に感心すると同時に、不安も感じた。リジーは自分の能力を理解し始め、それをある種のスーパーパワーとして捉えているようだった。
「素晴らしいわ、リズ」彼女は微笑みながら言った。「でも、これは私たちだけの秘密にしておくべきじゃない?」
「でも、漫画なら大丈夫でしょ?」リジーが反論した。「みんな、ただのお話だと思うよ」
「それでも、今は用心したほうがいいと思うわ」ヴィクトリアは静かに言った。
その夜、リジーが眠った後、ヴィクトリアは小さなノートブックを取り出した。彼女はここ数週間、考えを記録し始めていた。混沌とした思考を整理するためだった。
「思考の多様性」という言葉を彼女は最初のページに書いた。その下には、彼女が考えていたことが続いていた。
「人間の思考と感情の均質化は、最終的に人類の弱体化をもたらす。軍が《Spectral Void Eye》のような技術を通じて追求しているのは、思考の統制であり、これは人類の進化に反する。思考の多様性こそが、我々の種の強さの源泉である。」
彼女はペンを置き、書いたものを見つめた。これらの考えは、彼女がかつて軍で教わったことと真っ向から対立するものだった。しかし、ミレイとの出会い、そしてリジーと結花の特殊な能力を目の当たりにして、彼女の世界観は根本的に変化していた。
ノックの音が彼女の思考を中断した。マリアが部屋に入ってきた。
「眠れないの?」彼女は優しく尋ねた。
「考え事が多くて」ヴィクトリアは答えた。
マリアはテーブルに座り、古い指輪をいじりながら言った。「私の夫マルコは、ムッソリーニの時代にイタリアから逃げてきたの。彼は言っていたわ—『思想の統制は、常に最初に来るんだ』と」
ヴィクトリアは驚いて見上げた。まるで自分の考えを読まれたかのようだった。
「私から見れば」マリアは続けた。「あなたは単なる逃亡者じゃない。あなたは何かのために戦っている」
「私は...子供たちのために戦っているの」ヴィクトリアは静かに言った。「彼らが自分自身であり続けられるように」
「そう」マリアはうなずいた。「でも、それだけじゃない。あなたはアイデアのために戦っている。そして、アイデアは人よりも強いのよ」
彼女はヴィクトリアの手を取った。「私たちのコミュニティには、あなたのような人が必要よ。特別な子供を持つ他の親たちもいるわ。彼らも恐れているの」
「特別な子供?」ヴィクトリアは息を呑んだ。
「そう」マリアはうなずいた。「リジーだけが特別じゃない。他にも、『違う』子供たちがいるの。最近、増えてるみたい」
マリアの言葉がヴィクトリアの中で共鳴した。リジーと結花だけではなかったのだ。何か大きな変化が起きつつあった。そして彼女は、その変化の只中にいた。
「彼らに会わせてもらえる?」ヴィクトリアは尋ねた。
「明日」マリアは約束した。「明日、あなたに紹介するわ。そして、あなたが考えていることを彼らに話して」
マリアが去った後、ヴィクトリアは再びノートに向かった。「思考の多様性」という言葉の下に、新たな一行を付け加えた。
「これは単なる哲学的概念ではない。これは運動になり得る。そして、私はそれを始める準備ができている」
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聖アンソニー教会の地下室は、かつては日曜学校のために使われていた場所だった。今夜は、ただの七人の大人と五人の子供たちが集まっていた。窓のない部屋は蛍光灯の光で青白く照らされ、折りたたみ椅子が円形に配置されていた。
「皆さん、これが私の姪のヴィクトリアと、その娘のリジーよ」マリアが紹介した。
集まった人々は微笑みながら彼女たちを見た。彼らは一見、ごく普通の人々に見えた。様々な人種的背景を持つ親子たちが、何らかの共通点によって結びつけられていた。
「私たちはみんな同じ理由でここにいるのよ」マリアは続けた。「私たちの子供たちは『特別』なの」
いわゆる「支援グループ」ではないことがすぐに明らかになった。これは秘密の集会だった。子供たちは部屋の隅で静かに遊んでいたが、彼らの様子は一般的な子供たちとは少し違っていた。彼らは時折、大人たちには聞こえない何かを聞くように頭を傾けたり、空間の特定の点を見つめたりしていた。
「私はデイビッド」アフリカ系アメリカ人の男性が最初に話し始めた。「息子のイーサンは二ヶ月程前から『見える』ようになった」彼は言葉を選びながら続けた。「最初は医者に連れて行ったけど、彼らには理解できなかった。そして軍の人間が関心を示し始めたとき、私たちは逃げ出した」
「私はソフィア」ラテン系の女性が言った。「双子の娘たちは...互いの考えが分かるの。最初は普通の双子のテレパシーだと思ったけど、これは違う。彼女たちは離れていても通信できるようになった」
次々と、親たちは自分の子供の「特別な」能力について語った。共通点があった—子供たちはすべて10歳前後で、約三ヶ月前から能力が現れ始めたということ。そして、彼らの能力が注目を集め始めると、親たちは子供を守るために逃げ出さなければならなかった。
「あなたの話も聞かせてもらえる?」デイビッドがヴィクトリアに尋ねた。
ヴィクトリアは深呼吸し、慎重に言葉を選んだ。「私は軍のプロジェクトに関わっていました。Aether Dynamics社で行われていた研究です」
部屋の空気が変わった。彼らは彼女を新たな視線で見始めた。
「プロジェクト・オラクル?」ソフィアが小声で尋ねた。
ヴィクトリアは驚いた。「どうして知っているの?」
「噂よ」ソフィアは言った。「軍の特殊プロジェクトで、子供たちの...特殊能力に関するものだという」
「その通りです」ヴィクトリアは認めた。「私は、結花という少女とその母親ミレイの監視を担当していました。結花は最初のケースでした—脳とテクノロジーのインターフェースを通じて、特殊な能力を発達させた子供」
「リジーには義眼がないのに」デイビッドが指摘した。「なのに、彼女もその能力を持っている」
「それが謎なんです」ヴィクトリアは言った。「リジーの能力は、結花と出会った後に現れました。まるで...感染したかのように」
「感染」医師らしき男性が言葉をかみしめた。「あるいは共鳴かもしれない」
「アレクサンダー博士は神経科学者よ」マリアが説明した。「彼は子供たちの状態を研究してる」
「共鳴という表現は適切かもしれない」アレクサンダーは言った。「これらの子供たちは互いに影響し合っているようだ。一人の能力が他の子に『伝染』する。でも、従来の医学では説明できない」
「重要なのは、軍がこれに非常に関心を持っているということ」ヴィクトリアは強調した。「彼らは子供たちを研究対象として連れ去ろうとしている。研究と軍事利用のために」
「何のために?」別の父親が尋ねた。
「人間の潜在能力を解明し、軍事目的に利用するため」ヴィクトリアは言った。「彼らは思考の統制を追求している。均質化された思考。兵士たちが完全に連携して行動できるように」
部屋が沈黙に包まれた。
「でもそれは...間違っている」ヴィクトリアは続けた。「多様な思考こそが人類の強さなのに、彼らはそれを抑制しようとしている。思考の多様性は、進化の原動力です」
「思考の多様性...」アレクサンダーがその言葉を繰り返した。「良い表現だ」
「これは単なる理論的な議論ではありません」ヴィクトリアは熱を込めて言った。「私たちの子供たちが危険にさらされています。彼らの自由と未来が」
「でも、私たちに何ができるというの?」ソフィアが尋ねた。「私たちはただの親よ」
「一人では何もできません」ヴィクトリアは認めた。「でも一緒なら...私たちは互いを守り、情報を共有し、そして最も重要なことは、これが起きていることを世界に知らせることができます」
「つまり、公に出るべきだと?」デイビッドは懐疑的だった。「それでは子供たちが危険に—」
「いいえ、まだその時ではありません」ヴィクトリアは頭を振った。「まずは互いの安全を確保し、ネットワークを構築する必要があります。似たような状況にある他の人々とつながり、証拠を集め、理解を深める」
話し合いは夜遅くまで続いた。彼らはお互いの連絡先を交換し、次の会合の日程を決めた。マリアは、他の場所にも同様のグループがあることを示唆した。ミネアポリス、デトロイト、そしてさらに遠くに。
帰り道、リジーはヴィクトリアの手をぎゅっと握った。「他の子たちと遊ぶの、楽しかった」彼女は言った。「彼らは私と同じように見るんだよ」
「どういうこと?」
「色とか、形とか。ただのライトショーじゃなくて、本物の意味がある」リジーは説明しようと努力した。「私たち、互いのことがよく分かるの」
ヴィクトリアはうなずいた。「あなたたちは特別なのよ、リズ。あなたたちには、他の人には見えないものが見える」
「それって悪いこと?」少女の声には不安が混じっていた。
「いいえ」ヴィクトリアは強く言った。「それは素晴らしいこと。世界がもっと複雑で、もっと美しいものだと理解できるんだから」
それから数週間、彼らは定期的に会合を重ねた。場所は毎回変え、通信は暗号化され、細心の注意が払われた。少しずつ、彼らは「思考の多様性運動」の基盤を形成していった。アレクサンダー博士は子供たちの能力についての研究結果を共有し、デイビッドは安全な通信システムを構築した。
ヴィクトリアは運動の理論的基盤を築くことに集中した。彼女の軍での経験と、神崎ミレイとの関わりから得た知識が、彼らの理解の中心となった。
「この運動は、単に子供たちを守るだけのものではありません」彼女はある会合で言った。「これは人間の進化の方向性についての議論なのです。私たちは均質化された思考に向かうべきか、それとも多様な思考を育むべきか」
彼女のノートは、マニフェストのような形を取り始めていた。
「思考の多様性:人類進化の本質的経路」
その中で彼女は、人間の思考の均質化がもたらす危険性と、多様性こそが真の進化の道であるという彼女の信念を詳細に論じていた。
7月のある暑い夜、リジーが悲鳴を上げて目を覚ました。ヴィクトリアは即座に娘の部屋に駆け付けた。
「どうしたの?」彼女は震える娘を抱きしめた。
「結花が...結花が危険な目に」リジーは泣きながら言った。「彼女を見つけようとしてる。悪い人たち」
「結花と話せたの?」
リジーはうなずいた。「夢の中で。でも夢じゃない」彼女は震える手で額の汗を拭った。「結花は言ってた、『彼らがデータを手に入れた』って」
「どんなデータ?」
「分からない。でも結花はすごく怖がってた」リジーは言った。「それと...」彼女は躊躇した。
「何?」
「結花のママは...実験されてるって」リジーの声が震えた。「結花は言ってた、彼らがママを使って何か悪いことをしようとしてるって」
ヴィクトリアの血が凍りついた。彼女はミレイが拘束されていることを知っていたが、「実験」という言葉は新たな恐怖を呼び起こした。
「結花は今どこにいるの?」
「隠れてる。でも、もう安全じゃないの」リジーは言った。「彼女は...いつか私たちに会いに来るって言ってた」
「いつ?」
「彼女にも分からない。でも彼女は約束した」リジーの表情が少し明るくなった。「結花は強いよ。彼女は諦めない」
翌朝、ヴィクトリアはアレクサンダー博士に連絡を取った。彼らはカフェで短い会話を交わした。
「神崎博士への実験」アレクサンダーは眉をひそめた。「彼らは彼女の研究を続けているのかもしれない。あるいは...」
「あるいは?」
「彼らは彼女自身を研究しているのかもしれない」博士は静かに言った。「もし彼女の娘が特殊能力を持っているなら、母親も同様の素質を持っている可能性がある」
「でも結花の能力は《Spectral Void Eye》から来ているはずです」ヴィクトリアは反論した。
「本当にそうかな?」アレクサンダーは考え込んだ。「あるいは、《Spectral Void Eye》は単なる増幅器なのかもしれない。子供たちに既に存在する何かを増幅しているだけで」
彼の理論はヴィクトリアの心に響いた。これが本当なら、軍の関心はさらに危険なものになる。彼らは単なる技術的応用を超えて、人間の能力そのものを変えようとしているのかもしれない。
その夜、ヴィクトリアはマニフェストに最後の一節を書き加えた。
「私たちは転換点に立っている。人類の意識が新たな段階に進化しようとしている今、私たちは重大な選択を迫られている。均質化された思考による制御と効率を選ぶか、それとも多様な思考による創造性と自由を選ぶか。『思考の多様性運動』は後者を選ぶ。私たちは、人間の意識の自然な進化を守るために立ち上がる。」
彼女は窓から夜空を見上げた。どこかに結花がいて、おそらくミレイは苦しんでいる。そして彼らは皆、同じ戦いの一部だった。思考の自由のための静かな革命。それはまだ小さな火花に過ぎなかったが、彼女はその火を絶やすつもりはなかった。
「リズ」彼女は静かに娘の部屋を覗いた。「まだ起きてる?」
「うん」リジーはベッドで起き上がった。彼女の左目はわずかに青く輝いていた。新たな発達だった。
「大丈夫?」
「結花と話してた」リジーは言った。「彼女、私たちに伝えて欲しいことがあるって」
「何?」
「『ホモ・センティエンティス』」リジーは慎重にその言葉を発音した。「彼らがそう呼んでるんだって。私たちのような人たちを」
「誰が?」
「彼女のママを実験してる人たち」リジーは言った。「彼らはそれが『人類の進化の次の段階』だって言ってるんだって」
ヴィクトリアはその言葉を繰り返した。「ホモ・センティエンティス」—感覚する人間。意識的な人間。
「他にも何か言ってた?」
リジーはうなずいた。「彼女は言ってた、『彼らは集合を望んでいるけど、私たちは多様性を守らなければならない』って」
その言葉はまるで彼女自身のマニフェストのエコーのようだった。彼女は結花が知らないはずの言葉を使っていた。あるいは、二人の少女たちの間には、言葉を超えた何かが流れているのかもしれない。
「私たちは守るわ」ヴィクトリアは約束した。「リズ、あなたはただの子供じゃない。あなたは何か大きなものの一部なの」
「それって怖いこと?」リジーが小さな声で尋ねた。
「いいえ」ヴィクトリアは微笑んだ。「それは素晴らしいことよ。あなたたちは進化の最前線にいるの。そして私たちは、その進化が正しい方向に向かうよう、力を尽くすわ」
彼女は娘をベッドに寝かせ、おでこにキスをした。窓から見える月明かりの中で、彼女は決意を新たにした。これは単なる逃亡ではなく、運動だった。彼らはまだ少数だったが、彼らの声はやがて大きくなるだろう。
「思考の多様性運動」は始まったばかりだった。