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第2章:警告

# 共感の回路


### 1


早朝のAether Dynamics社の駐車場は、ほとんど空だった。ヴィクトリアは車のエンジンを切り、周囲を警戒しながら深呼吸した。彼女が今からしようとしていることは、軍人としての誓いに反することだった。だが母親として、彼女には選択肢がなかった。


彼女は研究棟に入り、バッジをスキャンした。通常のセキュリティ手順を経て、彼女はミレイの個人ラボに向かった。予想通り、科学者は既に作業を始めていた。


「おはよう、神崎博士」彼女は公式な口調で言った。監視カメラを意識してのことだ。


ミレイは顔を上げた。「カペリ軍曹、今日も早いですね」


「博士、新しいセキュリティプロトコルについて話し合う必要があります」ヴィクトリアは言った。「監視カメラのない会議室を使用できますか?」


ミレイの目に警戒心が浮かんだが、彼女はうなずいた。「B2階の小会議室は今日は予約が入っていないはずです」


二人は黙って廊下を歩いた。小会議室に入ると、ヴィクトリアは即座に部屋のスキャンを始め、監視装置がないことを確認した。


「この部屋はクリーンです」彼女は声を落とした。「聞いてください、博士。時間がないので率直に言います。軍はあなたの娘を『確保』する計画を持っています」


ミレイの顔から血の気が引いた。「何を言っているの?」


「『被験者Y.K.の確保』と記された作戦計画を見ました」ヴィクトリアは急いで言った。「来週の実行を予定しています。彼らは結花さんを『保護的監視下』に置く予定です」


「誘拐のことね」ミレイの声は震えていた。「彼らが結花に興味を持っていることは知っていたけど、ここまですぐに...」


「なぜ彼らはそこまでするんですか?」ヴィクトリアは尋ねた。「《Spectral Void Eye》はまだ開発段階ですよね?」


ミレイは椅子に沈み込んだ。「ええ、そのはずよ。研究はまだ初期段階だわ。結花の場合は特殊な状況が重なったの」


「どういう意味ですか?」


「《Spectral Void Eye》は本来、視覚の修復が目的だった」ミレイは説明し始めた。「結花の場合、彼女の脳の可塑性と特有の神経構造が、予想外の適応を見せたの。彼女が感情を視覚化し、他者の感情を『読み取る』能力を発達させたのは、実は偶然の産物だった」


「そして軍はその能力に目をつけた」


「そう。でも重要なのは、これがまだ完全に理解されていない現象だということ」ミレイは強調した。「大人の被験者では、同様の効果を再現できていない。結花の能力は彼女特有のもので、まだ研究段階なの」


ヴィクトリアは眉をひそめた。「彼らは結花を手に入れて、その能力を解明しようとしているんですね」


「そう思う」ミレイは立ち上がり、焦りの表情で部屋を行ったり来たりし始めた。「でも、なぜあなたは私に警告してるの?これはあなたの任務に反することでしょう?」


「私には娘がいます」ヴィクトリアは静かに言った。「リジーと同じ年齢の。もし誰かが彼女を研究のために連れ去ろうとしたら...」彼女は言葉を切った。「私は母親として、あなたを助けなければならないと感じています」


部屋は一瞬静まり返った。ミレイの目に涙が浮かんだ。


「ありがとう」彼女はついに言った。「でも、あなたはこれで大きなリスクを冒している」


「分かっています」ヴィクトリアはうなずいた。「だから、私たちは慎重に行動する必要があります。あなたには何か計画がありますか?」


ミレイは深く息を吸った。「計画らしい計画はないわ。でも、結花を安全な場所に移す必要がある。問題は、どうやって...」


「軍の監視の目を欺く必要があります」ヴィクトリアは考え込んだ。「あなたは今、24時間監視下にあります。私を含めて」


「でも今、あなたは私の味方よね?」ミレイの目が希望に輝いた。


「はい」ヴィクトリアは決意を固めた。「私はあなたを助けます。ただし、条件があります」


「何?」


「私も一緒に行動します」ヴィクトリアは言った。「あなたを助けた後、私は軍に戻ることはできません。リジーを連れて、あなたと結花と一緒に行動します」


ミレイは驚いた顔をした。「それはあなたのキャリアだけでなく、人生そのものを危険にさらすことになる」


「分かっています」ヴィクトリアは言った。「でも、私はもうこの計画の一部になることはできません。特に子供が関わっているとなると」


「分かったわ」ミレイはうなずいた。「私たちは一緒に行動する。でも、どうやって?」


「まず、結花の現在の状況を教えてください」ヴィクトリアは実務的な口調に切り替えた。


「彼女は学校に通っているけど、放課後は常にパターン化された行動をしているわ。家に帰って、宿題をして、ときどき友達と遊ぶ」ミレイは説明した。「彼女にはボディーガードを付けていないけど、家の周りには監視カメラがあるはず」


「学校が最も脆弱なポイントかもしれませんね」ヴィクトリアは考えを巡らせた。「でも、あまりに公の場所でもリスクが高い」


「それに、学校で何かあれば、結花が危険にさらされる」ミレイが付け加えた。


「私に少し時間をください」ヴィクトリアは言った。「計画を立てる必要があります。とりあえず、普段通りに振る舞いましょう。疑われてはいけません」


二人は会議室を出る前に、もう一度確認し合った。


「カペリさん...ヴィクトリア」ミレイが小声で言った。「本当にこれでいいの?あなたの人生を台無しにしてしまうかもしれない」


「私の娘には安全で、倫理的な世界で育ってほしい」ヴィクトリアは答えた。「あなたの研究は人類にとって重要だと思います。でも、それが強制的に軍事利用されるのを見過ごすことはできません。特に子供を犠牲にしてまで」


ミレイはうなずいた。「分かったわ。私たちは一緒にこれを乗り越える」


彼女たちはラボに戻り、通常の作業を再開した。表面上は、何も変わっていないように見えた。しかし二人の間には、新しい絆が形成されていた。母親としての絆。そして何よりも、正しいことをしようとする者たちの間の絆。


その午後、ヴィクトリアはリジーの学校から電話を受けた。


「カペリさん?」学校看護師の声が聞こえた。「リジーが体調不良を訴えています。頭痛と視覚の異常があるようです。迎えに来ていただけますか?」


「視覚の異常?」ヴィクトリアは身を硬くした。「どういう症状ですか?」


「彼女の言葉では、『人の周りに色が見える』そうです。発熱はありませんが、少し混乱しているようです」


ヴィクトリアの手が震えた。リジーの症状は、ミレイが結花について描写したものと不気味なほど似ていた。しかし、それはどうして可能なのだろう?リジーには《Spectral Void Eye》のような技術的介入は何もないはずだ。


「すぐに向かいます」彼女は答えた。


彼女はミレイに短い説明をし、許可を得て施設を出た。車を運転しながら、彼女の心は混乱と不安で一杯だった。リジーの症状、結花の能力、そして二人の少女たちの間にある不思議な共通点。


そして何より、彼女が下した決断の重さが彼女の肩にのしかかっていた。自分の行動が、リジーの未来にどのような影響を与えるのか?


### 2


「ママ、人の周りの色が見えるの」リジーは学校の保健室のベッドで小さな声で言った。「先生の周りは青と灰色で、ジェシカの周りはオレンジと赤くて…怖い」


ヴィクトリアは娘の額に手を当てた。熱はなかった。リジーの瞳孔は正常に見え、外傷の兆候もなかった。


「いつからこんな風に見えるようになったの?」彼女は静かに尋ねた。


「今日の算数の時間から」リジーは答えた。「最初はぼやけた感じだったけど、だんだん強くなってきた」彼女は突然ヴィクトリアの顔を見つめ、目を細めた。「ママの周りには紫と金色がある。それに…心配してるでしょ?」


ヴィクトリアは息を呑んだ。リジーの描写はあまりにも正確だった。恐怖と心配が彼女の胸を締め付けた。


「リズ、他に何か変わったことある?頭痛とか、めまいとか?」


「ちょっと頭が痛いけど、大したことない」リジーは肩をすくめた。「でもこれってすごくない?影のコミュニケーター、本物になったみたい」


帰宅途中の車の中で、ヴィクトリアの頭は混乱していた。リジーの症状は明らかに結花の能力と類似していた。しかし、どうして可能なのか?リジーには神経インターフェースはない。何の手術も受けていない。普通の、健康な10歳の女の子のはずだ。


家に着くと、彼女はすぐにミレイに連絡した。


「ヴィクトリア?大丈夫?」ミレイの声には心配が滲んでいた。


「リジーに奇妙な症状が出ています」ヴィクトリアは状況を説明した。「結花の能力と同じような症状です」


電話の向こうで長い沈黙があった。「それは…理論的には不可能なはずよ」ミレイはついに言った。「《Spectral Void Eye》がなければ、そのような知覚は…」


「でも起きています」ヴィクトリアは窓からリジーを見ながら言った。娘はソファに座って本を読んでいたが、時折周囲を不思議そうに見回していた。「何が起こっているのでしょう?」


「わからない」ミレイは認めた。「でも、これが偶然とは思えないわ。リジーをここに連れてこられる?彼女を検査してみたい」


「危険すぎます」ヴィクトリアは即座に答えた。「施設内の監視が強化されています。リジーを連れて行けば、すぐに質問攻めにあうでしょう」


「そうね…」ミレイは考え込んだ。「では、私が結花を連れてあなたの家に行くことはできる?」


「それも難しい」ヴィクトリアは言った。「あなたの行動は常に監視されています」彼女は少し考えた。「でも、別の可能性があります。私は明日オフで、施設外での警備交代があります。その隙に、公園で『偶然』会うというのはどうでしょう?子供同士を遊ばせるという名目で」


「それなら自然に見えるかもしれない」ミレイは同意した。「サンマテオパークはどう?午後2時に」


「了解しました」ヴィクトリアは言った。「気をつけて」


翌日、ヴィクトリアはリジーをサンマテオパークに連れて行った。彼女は周囲を注意深く観察し、監視の兆候がないことを確認した。


「リズ、今日は特別なお友達に会うの」彼女は娘に言った。「結花という女の子と、彼女のお母さん」


「彼女も色が見えるの?」リジーが興奮した様子で尋ねた。


ヴィクトリアはうなずいた。「そうみたい」


ミレイと結花は予定通り2時に現れた。結花はリジーよりも小柄で、左目を覆う小さな装置が特徴的だった。モデルはかなり小型化されており、普通の人なら義眼と見間違うかもしれないほどだった。


子供たちは初対面にもかかわらず、すぐに親しくなった。彼らは公園の遊具に走って行き、大人たちはベンチに座った。


「結花は周りの状況を察知しているわ」ミレイは娘たちを見ながら言った。「彼女によれば、リジーの周りには『金色の光』があるそうよ」


「リジーも同じことを言っていました」ヴィクトリアは答えた。「結花の周りに『虹色の光』が見えると」


「これは…前例のないことね」ミレイは深刻な表情で言った。「理論上、このような知覚能力は《Spectral Void Eye》のような神経インターフェースがなければ不可能なはず」


「他に説明はありますか?」


「1つの可能性として」ミレイはためらいがちに言った。「非常に特殊な状況下で、強い精神的共鳴が起きることがあるかもしれない。特に発達中の若い脳では」


「精神的共鳴?」


「そう。私の研究の過程で、《Spectral Void Eye》は単なる入力装置ではなく、ある種の…『増幅器』としても機能することが分かってきたの」ミレイは慎重に言葉を選んだ。「結花の場合、装置が彼女の自然な能力—人々の感情を直感的に理解する能力—を増幅している可能性がある」


「そして、リジーもその能力の素質を持っていると?」


「可能性としてはね」ミレイはうなずいた。「でも、なぜ今突然その能力が現れたのかは説明できない」


ヴィクトリアは思い返した。「サイエンスフェアのあとから始まりました。彼女の『影のコミュニケーター』を発表した後に」


「彼女の作品が、潜在的な能力を活性化させたのかもしれないわ」ミレイは考え込んだ。「でも、これは全て仮説に過ぎない。実際のところ、私たちはまだこの現象を十分に理解していないの」


二人が話している間に、子供たちはブランコから降りて、木陰で何やら熱心に話し込んでいた。時折、二人は笑い、驚いたように互いを見つめ合った。


「脱出計画の話に戻りましょう」ヴィクトリアは低い声で言った。「私は警備のローテーションを確認しました。明後日の夜が最も弱点があります。二次的な警備チームが担当し、私は休暇申請を出しています」


「警戒レベルは?」


「標準より低いはずです。ヘイガン少佐は会議でワシントンに行っています」ヴィクトリアは説明した。「作戦の概要はこうです。あなたと結花は通常通り家にいます。私はリジーを連れて、あなたたちを『訪問』します。そして四人一緒に移動します」


「どこへ?」


「北部に。私の祖父がモントレーの近くに古いキャビンを持っています。滅多に使われず、登記上は別の名義になっています」ヴィクトリアは言った。「そこで次の行動を決めることができます」


ミレイは少し迷うように見えた。「あなたは本当に…私たちと一緒に逃げる気?キャリアも、すべてを捨てて?」


「もう決めたことです」ヴィクトリアは強く言った。「軍が子供を研究対象として強制連行しようとしている。私はそれに加担するつもりはありません」


「理解できるわ」ミレイはうなずいた。「結局のところ、これは子供たちのための選択ね」


その時、子供たちが走ってきた。二人とも目を輝かせていた。


「ママ!」リジーが興奮した声で言った。「結花と私、お互いの考えが分かるの!」


「どういうこと?」ヴィクトリアは驚いて尋ねた。


「言葉じゃなくて…」結花が少し恥ずかしそうに説明した。「でも、お互いが何を感じてるか分かるの。色とイメージで」


ミレイとヴィクトリアは顔を見合わせた。状況はさらに複雑になっていた。


帰り際、ヴィクトリアは駐車場で見知らぬ車に気づいた。暗い色のセダンで、中に誰かが座っているようだった。警戒本能が働き、彼女はリジーの手をしっかりと握った。


「自然に振る舞って」彼女は小声で言った。「でも、急いで車に乗るのよ」


彼女たちが車に乗り込むと、セダンがエンジンをかけた。しかし、彼らは動き出さなかった。単に様子を見ているようだった。


ヴィクトリアは冷静さを保とうとしたが、内心は激しく動揺していた。彼らは監視されていたのだろうか?それとも単なる偶然か?


家に着いて夕食の準備をしながら、彼女の携帯電話が鳴った。ヘイガン少佐からだった。


「カペリ軍曹」彼の声は普段より冷たかった。「明日朝一で、私のオフィスに報告してもらいたい。重要な話がある」


電話を切ると、ヴィクトリアの手は震えていた。計画が露見したのだろうか?そして、時間はもうないのかもしれない。


### 3


ヘイガン少佐のオフィスは、窓のないB4階層にあった。壁には軍の功績証と、様々な実験プロジェクトの写真が飾られていた。ヴィクトリアは緊張を悟られないよう、軍人らしい毅然とした姿勢で立っていた。


「カペリ軍曹」ヘイガンは窓のないオフィスの中央に座り、彼女をじっと見つめていた。「最近、あなたの行動に関する報告を受けている」


「どのような報告ですか、少佐」彼女は平静を装った。


「昨日、あなたは休暇中に神崎博士と接触したようだな」彼は無表情で言った。「それに、あなたの娘も一緒だったと」


ヴィクトリアの心拍数が上がった。彼らは監視されていたのだ。しかし、どこまで知っているのだろうか?


「はい、サンマテオパークで偶然会いました」彼女は淡々と答えた。「娘が遊びたがっていたので連れて行ったところ、博士と彼女の娘さんもそこにいました」


「偶然、か」ヘイガンは皮肉な笑みを浮かべた。「そして二人は長い間、ベンチで何を話していた?」


「個人的な会話です」ヴィクトリアは言った。「母親として共感できる部分がありましたので」


「カペリ軍曹、私はあなたを信頼している」ヘイガンは突然口調を変えた。「だからこそ、神崎博士の監視をあなたに任せた。彼女は私たちのプロジェクトにとって非常に重要な存在だ」


「承知しています」


「だが、あなたがもし彼女と...不適切な関係を築いているなら、それは問題だ」


「不適切とは?」ヴィクトリアは眉をひそめた。


「感情的な結びつきだ」ヘイガンは立ち上がり、部屋を歩き始めた。「あなたの仕事は彼女を監視し、必要なら抑制することだ。友情を育むことではない」


「私は任務を忠実に遂行しています」ヴィクトリアは冷静に答えた。


「ならば良い」ヘイガンは彼女の前に立った。「もう一つ重要な情報がある。プロジェクト・オラクルは新たな段階に入る。今週末、神崎結花を保護下に置く」


「結花?」ヴィクトリアは驚いたふりをした。「なぜ子供を?」


「彼女は単なる子供ではない」ヘイガンの目が興奮で輝いた。「彼女は私たちの理論を実証する生きた証拠だ。彼女の脳と《Spectral Void Eye》の統合は、予測をはるかに超える成果を上げている」


「それは理解していますが、彼女を母親から引き離すのは—」


「感傷に流されるな、軍曹」ヘイガンは厳しく言った。「これは国家安全保障の問題だ。結花の能力を理解し、複製することができれば、軍事通信の革命が起こる」


ヴィクトリアは黙って頷いた。


「計画は既に進行中だ」ヘイガンは説明を続けた。「週末、結花は特別施設に移送される。神崎博士には彼女の安全と健康を保証するが、当面の間、接触は制限される」


「博士は抵抗するでしょう」ヴィクトリアは言った。


「だからこそ、あなたの協力が必要なんだ」ヘイガンは彼女の肩に手を置いた。「あなたは母親として、彼女を理解できる。彼女を説得してほしい」


「少佐、それは—」


「命令だ、軍曹」彼の声は鋼のように冷たくなった。「明日、あなたは博士に状況を説明する。彼女の協力が得られれば、全員にとって最善だ。拒否すれば...より強制的な手段を取らざるを得なくなる」


「了解しました」ヴィクトリアは厳しく敬礼した。


「解散」ヘイガンは椅子に戻り、書類に目を落とした。


オフィスを出たヴィクトリアは、冷静さを保つのに全力を注いだ。彼女の頭の中は混乱していた。時間はほとんど残されていない。彼女の警告が正しかっただけでなく、状況は彼女が思っていたよりも切迫していた。


彼女は一度トイレに立ち寄り、鏡の前で深呼吸した。次にすべきことは明確だった。ミレイに最新情報を伝え、彼女と結花が今夜にも行動を起こせるよう支援する必要がある。


研究室に向かうと、ミレイは顕微鏡を覗きながら何かのデータを記録していた。彼女はヴィクトリアが入ってくると顔を上げた。


「どうだった?」彼女は小声で尋ねた。


「話があります」ヴィクトリアは公式な口調で言った。監視カメラを意識してのことだ。「セキュリティプロトコルの更新について説明する必要があります。少し歩きましょうか?」


二人は施設の中庭に出た。春の陽光が暖かく、周囲には科学者たちが休憩をとっていた。監視の目を欺くため、彼女たちはリラックスした様子で歩いた。


「状況は予想より悪い」ヴィクトリアは小声で言った。「彼らは週末ではなく、明日結花を連れて行く計画だ」


ミレイの顔から血の気が引いた。「明日?」


「ヘイガンは私に、あなたを説得するよう命令した」ヴィクトリアは言った。「協力しなければ、強制的手段を取ると」


「どれくらい時間がある?」


「計画の詳細は知らされていないが、おそらく24時間以内」ヴィクトリアは言った。「今夜行動する必要がある」


「分かった」ミレイは静かに決意を示した。「準備はできている」


「私にはこれ以上協力できない」ヴィクトリアは悔しそうに言った。「彼らは私を監視している。あなたたちと一緒に行動すれば、全員が危険にさらされる」


「理解しているわ」ミレイは言った。「あなたが警告してくれただけでも十分よ」


「でも情報なら提供できる」ヴィクトリアは早口で言った。「結花の移送には特殊部隊が関わる。標準的な警備体制では足りないと判断したようだ。彼らは明日の朝7時に配置につく」


「つまり、今夜が唯一のチャンス」


「そう」ヴィクトリアはうなずいた。「それと、モントレーのキャビンは無事だ。鍵はこれ」彼女はさりげなく小さな鍵をミレイに渡した。「住所はメモに書いてある」


ミレイは鍵を握りしめた。「ヴィクトリア、あなたはどうするの?」


「私と娘は別の計画がある」彼女は言った。「あなたが安全に逃げるためにも、接触は避けるべきだ。今後はあなたと結花のことは、知らないことにする」


二人は中庭の一周を終え、建物に戻った。


「カペリさん」ミレイは公式な口調に戻った。「セキュリティプロトコルの説明、ありがとうございました」


「どういたしまして、博士」ヴィクトリアは答えた。そして小声で付け加えた。「幸運を」


その日の残りは、通常業務をこなすことで過ぎていった。ヴィクトリアはミレイの監視を続け、表面上は何も変わっていないように振る舞った。しかし、彼女の内心は激しく動揺していた。


夕方、ミレイが帰宅する時、彼女たちは最後に目を合わせた。言葉は必要なかった。二人はもう会えないかもしれないと理解していた。


ヴィクトリアはその夜遅く、リジーを抱きしめながら、明日何が起こるかを考えていた。ミレイと結花は今頃動き出しているはずだ。成功すれば、彼女たちは夜明け前にモントレーに着いているだろう。


成功を祈りながらも、彼女は不安を感じていた。自分の関与が発覚すれば、軍法会議に掛けられる可能性もある。だが、それ以上に彼女を悩ませたのは、リジーの状態だった。彼女の「視る」能力は日ごとに強くなっていた。このままでは、彼女もまた軍の関心を引いてしまうかもしれない。


夜が更けていく中、彼女はある決断に至った。モントレーのキャビンには行かない。ミレイと結花の痕跡を消すためにも、彼女とリジーは違う方向へ向かう必要がある。彼女の母方の親戚がシカゴに住んでいる。そこなら一時的に身を隠せるかもしれない。


リジーの額にキスをして、ヴィクトリアはパッキングを始めた。最低限の荷物だけ。記録に残らない現金。そして新しいアイデンティティのための書類。軍での訓練が、思いもよらない形で役立つことになった。


午前3時、彼女の携帯電話が鳴った。見知らぬ番号からだった。


「カペリ」彼女は警戒して答えた。


「非常事態だ」ヘイガン少佐の声が響いた。「神崎博士が施設のデータを持ち出し、逃亡した。娘も連れている。すぐに現場に来い」


ヴィクトリアは驚いたふりをした。「了解しました。すぐに向かいます」


「それと、カペリ」ヘイガンの声は鋼のように冷たかった。「この件についてあなたに尋ねることがある。回答の準備をしておけ」


電話が切れた。ヴィクトリアは目を閉じ、深呼吸した。ミレイは行動を起こした。そして今、彼女も行動する時だった。


「リズ、起きて」彼女は娘の部屋に急いだ。「今すぐ出かけるよ。冒険の時間よ」


「今?」リジーは眠そうに瞬きをした。「でも暗いよ」


「だからこそ冒険なの」ヴィクトリアは優しく言った。「質問は後でね。今は急いで準備するの」


30分後、彼女たちの車はハイウェイを東に向かって走っていた。ヴィクトリアのキャリア、彼女の人生のすべてが彼女の後ろに残されていった。しかし、彼女は後悔していなかった。彼女は正しいことをしたのだ。母親として、そして人間として。


彼女の携帯電話は既にオフにして窓の外に投げ捨ててあった。もう後戻りはできない。


「ママ」リジーが後部座席から言った。「結花とおばさんはどうなるの?」


「彼女たちは自分の道を行くの」ヴィクトリアは答えた。「私たちも自分たちの道を行く」


「でも、また会える?」


ヴィクトリアは返答に迷った。「いつか、きっと」


空が白み始める中、彼女は決意を新たにした。これは終わりではなく、新しい始まりだった。そして何よりも、彼女は思考の多様性と個人の自由に価値を置く世界のために戦う準備ができていた。

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