重要参考人保護申請/4
「――――――っ!」
ゴウッ、と。
炎が上がる。幸人の目の前、まるで薄く膜を張るように燃えている。
暑い。―――熱い。
咄嗟に顔をかばった両腕が、その肌が、チリチリと灼ける。けれど不思議と、その炎は幸人を焼かなかった。
ただ、引き延ばされた影を。
今にも幸人を、頭からぐわりと飲み込んでしまいそうだった影を逆に喰らい尽くして、激しく燃え立つ。
「……へえ?」
炎と影の向こうで、ジャリ、と小石を踏む音がした。
「やるじゃん。さすが兄弟」
ジジ……、とくすぶる薪のような音をたてて、影を喰らった炎の最後の一片が、燃える。
その向こう側には、三年前に失踪したと噂だった、中学時代の同級生が佇んでいた。
◇
あれから三年も経った、というのに、肉の薄い、どこか少女めいた華奢な体つきが変わっていない。話した事はなかったが、やけに目を引く存在だった。
「お前……、まさか、乙津……なのか?」
乙津郁。
地元の、幸人が通っていた公立中学校の同級生。
二年生、三学期のある日、何の前触れもなく姿を消した彼が、まるで時を止めたかのように、あの時のままの姿でそこにいた。
「当たり。よく憶えてたね、喋ったこともそんなになかったのに」
乙津はニヤニヤと笑っている。唇の端だけを歪ませるような、嫌な笑い方をしていた。
こんな顔をするヤツじゃなかった。それだけは憶えている。
だけど。
「まあ、憶えてても忘れてても、どっちでもいいんだけど」
弧を描く狐のような目の奥に、底知れなく凝る、陰のような昏い何かが燃えているのだけは、あの頃のままだと思った。
「さて、佐峰幸人。十七才、学修院高等部二年に在学中。家族構成は父と兄の二人、母は君を出産してすぐ産褥にて死亡。その為、家族にはほぼ放置されている。―――これ、君だよな。合ってる?」
こてん、と可愛らしく首を倒して問われたその内容に、幸人は眉をひそめた。
亡くした母。数えるほどしか、会った事のない父。顔を合わせる事はあっても、罵倒か怨嗟しかぶつけてこない兄。
……考えないようにしていた幸人にとっての「普通」を、突きつけられてもまだ平気だと思える境地には至っていない。
「お前……」
ぎり、と身体の脇、握り締めた拳に爪が食い込む。
何なんだ。何なんだ、いったい。
暑くて、歩いていたらいきなり影が伸びて。ねばついた、何か訳の解らないものになって。それだけでも意味が解らないと思うのに、何もない空間がいきなり燃えて。消えたと思ったら突然、いなくなったはずの同級生が現れて、嫌な現実を突きつけてくる。
何もかもが解らなかった。おかしかった。いつもとそう代わり映えのない学校生活を送ったはずだった。そのまま一日が大過なく、今日も過ぎていくはずだった。なのに、何なんだよこれは。
八つ当たり気味な怒りが、ふつふつと湧いてくる。不審と不快を全力で込めて、幸人は元同級生をきつく睨みつけた。
けれど。
「ハハッ、いい顔! それだよ、それ。親に捨てられた子供の顔だ。だから俺は、君を迎えに来たんだよ」
睨む幸人に少しも怯まず、肩を揺らして乙津は笑った。
今度は、口元だけではない。心から愉快だとでも思っていそうな、そんな本気の笑みだった。
「捨てられた子だから、選ばせてあげるよ。復讐したいだろ? 取り戻したいだろ?」
「……何を言ってるんだ、お前は。意味が解らない」
どいつもこいつも。
何でいきなり、こんな訳の解らないことを俺に突きつけてくるんだ。こっちは、それどころじゃないってのに。
幸人はギリ、と奥歯を噛みしめる。パニックに陥りたいのに、そうもできない。いや、今自分は充分混乱しているのに、大人しく混乱させて貰えない。そんな感じだ。
だが、乙津は幸人を少しも慮る気がないようだった。
肩を揺らしてニヤニヤと笑いながら、構わず続ける。
「強がらなくていいよ。子供なんてさ、バカなもんなんだ。捨てられてんのに、こっちは捨てられない。あわよくばって期待して、また捨てられる。何度も何度も、その繰り返しなのにさ」
でも、だから。
「力で取り戻すしかないじゃん。やり返さなきゃ、やってらんないだろ。だから選べよ」
俺と来るか、それとも。
「敵になるなら、―――なあ、ここで死んでくれる?」
まるでこのあとお茶でもどう? と聞こえて来るような軽さでそう言った同級生の右手には、あの得体の知れない黒い、ねばついた影が、意志を持って生きているかのように、うぞうぞとおぞましく蠢いていた。
「っ乙津……、お前それ、」
『聞くな幸人! 逃げろ!!』
焦った声。「彼」がここまで取り乱すのを、幸人は今まで見たことがない。
逃げなければ。
目の前にいる乙津は、見知った同級生ではなく何か、得体の知れないものになっているのだから。
……そう思うのに、足が絡め取られたかのように動かない。
「そう邪険にしなくてもいいでしょ、兄弟」
乙津は手の上に影を遊ばせながら、クスクスと笑う。何だろう、この絶対に敵わないと思わせるような、圧倒的な気配は。
「まだ選ばせてる最中なんだから。こっちに来るなら、殺しはしないよ?」
『戯れ言を抜かすな!』
「悲しいな、本気だよ。やっと会えたんだからさ、少しぐらい話をしてもいいじゃない?」
膨れ上がる緊張に息が切れる。ハ、ハァ、と短い息を喘ぐように継ぎながら、幸人は奇妙なそれ、に気付いた。
『……お前達と話すことなど、何もない』
「酷いな、兄弟。まあ、会った事もなかったけどね。これでも、気に掛けてはいたんだよ? 生まれてすぐに殺された、俺たちの」
『―――煩い!』
ぱぁん、と前髪の先で空気が弾ける。
『俺は違う! 俺は、…………っ』
「……可哀相にね。何も違わないよ、お前も―――捨てられた子だ」
……乙津は、いったい誰と話している?
「自覚しなよ。お前も結局、俺たちと同じだよ」
『違う! 俺は少なくとも、捨てられてはいない!!』
「なあそれ、本気で言ってる? むしろ、それより悪いじゃん。だってお前、殺されてるんだよ」
ハ、とまた、短い息がこぼれた。汗がつう、とこめかみを伝って落ちる。暑い。―――熱い。
乙津は、「彼」と話している。俺にしか聞こえないはずの声と。所詮、俺が生み出したものでしかない、俺にしか解らないはずの存在、イマジナリーフレンドと。
そんなはずがないのに。
―――だから、俺はそのイマ……なんちゃらじゃないって言ってるだろう?―――
これまでにも毎日のように、繰り返されてきた「彼」の声が蘇る。
もしかして、あれが本当だったのだとしたら。
「なあ、もういいじゃん。こんな問答をするためにここに来た訳じゃないんだけど」
『―――ならば、とっとと去ね』
「そう言うならさあ、早く選んでよ。意地張ってないでさあ。俺たちと来れば良いだろ? 取り戻そうよ、母上を」
それなら、今までさも当然のように寄り添ってきた、傍に居た、自分の中に居た「彼」はいったい。
『何をふざけたことを!』
誰、なのだろう?