重要参考人保護申請/3
「……今日は災難だった……」
昼休み。
やってきた保健所の職員だという男性は、幸人の目からは医療関係者っぽくは見えなかった。
白衣も着ていない、感染予防の防護服を着ている訳でもない。
普通の、灰色っぽいスーツを着たまだ若い二人組で、検温をしたり、一人一人の目を確認したりしてから、手に持った書類に何かを書き付けていた。
驚いたのは、その場に、この学校の有名人が立ち会ったことだ。
鷹沙宮為仁王。
代々、皇族の多くが通う学校としても有名だった学修院だが、今も幸人より一年先輩である三年生に、宮家の人が通っていたなんて。
皆は知っていたようだったが、幸人は今回の話で初めて知った。
「和人―――ああ、小石川和人だけど。彼は親戚だからね。何があったのか、ちょっと気になったんだ」
為仁王は、話しかけてきた女子生徒に肩を竦めてそんなふうに言った。
「えっ、小石川って宮さまと繋がりがあるんですか?」
「うん、外戚だから皇統には関係がないんだけどね。何代前だったかな……、うちから小石川に婿入りした先祖がいたんだよ」
そう言われれば、為仁王と小石川はちょっと似ている。
顔立ちがそこまで似ている、という訳ではないけれども、すっきりした細面の切れ長な目は一緒だし、何となく、空気感のようなものが似ている気がした。
もっとも、為仁王は落ち着いた雰囲気で、小石川のように騒がしくはないが。
「えー、凄いじゃん。小石川っていいとこの坊ちゃんだったんだ」
「あー、でもうちに通ってるのって、割と大半が、いいとこの坊ちゃん嬢ちゃんではあるよな……」
そういえば、と呟いた生徒に、そうだな、と皆が同意する。
都内にある私立でも、代々の皇家が通う伝統。偏差値もそれなりに高く、卒業生の殆どの進路は官僚か医者、旧財閥の商社や銀行など。
ここはそういった学校で、つまり、そういった家庭環境にある者が多く在籍しているということでもあった。
校風は質実剛健で、浮かれたところがない。育ちの良い者が多いから、落ち着いているし、浮ついたところもない。勉強、進学、成績にやたらと必死な、ガツガツしたところもない。
総じて、学校全体が鷹揚なのだ。良くも悪くも。その雰囲気が好きで、幸人は進学先をここに決めた。
……そのことで、兄とまた一悶着あったことは、今は思い出したくない。
幸い、小石川以外に感染疑いのある者は出なかった。
昼休みと、五校時目の一部を費やした検査はそれで終わり、そして今。
全ての授業を終えた放課後、一時間ほど図書館で自習をした幸人は、ようやっと帰宅の途に就いている。
「……まだ暑いな。もう九月も半ばなのに」
学修院高等部の持つ敷地は大きい。
校舎、校庭、実習棟、部活棟、第二運動場。体育館に、大きな中庭。
二十三区内にあるとはとても思えない贅沢な造りをしていて、その全周をぐるり、石垣と木々が囲っている。
特に校門とその脇に延びる校庭の辺りは大した物で、普通に歩いているだけでは中が窺えないほど、うっそりと茂る木々に囲まれていた。一見してちょっとした森か林だ。
背の高い木々が落とす日陰の中を歩きながら、幸人はじわりと額に滲んできた汗を拭った。
午後五時半、夕刻。まだ陽は落ちる気配を見せず、ただ、さすがに少しは勢いを弱めて、西の空に輝いている。
「さて、今日はどうするか」
放課後、幸人には決まった予定がない。
生活費だけはたっぷりと与えられていたので、バイトをする必要はなかった。そもそも、バイトをするには学校に許可証を貰う必要があり、その申請のためには保護者のサインがいる。
そのために、年に一度も顔を合わせる事のない父に連絡を取るのは、ハードルが高い。よってできない。
まだ進学先を決めてもいないし、特に不自由も感じていないので塾に通う必要もない。
学校帰りに連れ立って遊びに行くような友人もいない。趣味は読書と勉強と筋トレぐらいで、だからどこかに寄る必要もない。そのためのものは、全て自宅に揃っているからだ。
―――お前なあ、もう少し楽しく生きたらどうだ。
普段ならそう茶化してくる声も、どうしてか今日は聞こえて来なかった。朝礼の時、……そうだ、小石川が倒れた時だ。
あの時、ぽつりとこぼした一言を最後に、もうずっと、「彼」は黙ったままでいる。
『来る』
いったい何が来ると―――来た、というのだろう。今になって、ふとそう思った。
すぐに小石川が倒れてしまったので、それきりになってしまったが。いつも余裕のある明るい口調をしている「彼」の、ほとんど初めて聞いた深刻そうな声だった。
もっとも、意味など何もなかったのかも知れない。「彼」は幸人の生み出したイマジナリーフレンドで、つまり幸人の想像力や思考、知識、教養の範囲からはみ出るものではないのだから。
もしかすると、人格すら幸人の中にあるものを掻き集めて出来ているのかも知れない。そう考えると、少しおかしかった。だって幸人は、あんなふうに陽気でも、人懐っこくもない。
「……いきなりは、消えてくれるなよ」
イマジナリーフレンドは、そのほとんどが、幼い子供の頃に形作られ、成長とともに消えていくのだという。
「さすがに、寂しいだろ」
ずっと、一緒にいた。いてくれた。例え幻想でも。
家に寄りつかない家族、最低限の家事だけをして帰っていくハウスキーパー。一人きりの暮らしの中で、幸人に寄り添ってくれたのは「彼」だけだった。
あの、意味の解らない一言が最後に、なんてなってしまったら。そう考えるだけでぞっとする。
未だに、幸人の傍には誰もいないのだ。家族も、友人も。
「あー……」
幸人はガリガリと後頭部を掻いた。髪の内側が汗に濡れている。
「ホント、暑いな……」
木漏れ日の落ちてくる木陰の中を、駅に向かって一人、歩いて行く。他の生徒達はまだ部活の真っ最中で、帰宅部の連中はとっくに学校から出ていた。広い敷地はまだ終わらなくて、擦れ違う人もない。
どこかで、ジジ、と、終わりかけの蝉が鳴く音がした、気がした。
「……え?」
影が。
―――ぶわり、と、伸びる。
「なん、だ?」
足下を埋める、木の影。数十メートル先の歩道までを覆う木陰が、急にその色を濃くした気がした。
地面に落ちる濃いグレーが、色さえ飲み込むような漆黒に。どろり、と粘度を増して、舗装された道をぬかるませる。
「いや、何だよこれ。気持ち悪ィ、嘘だろ」
幸人はぶんぶんと首を振った。暑いから、暑すぎて、熱中症にでもなってしまったのかと思った。そのせいで視界が歪んでしまったのかと。
けれど、そうやって見た地面はちゃんと舗装されたしっかりとした歩道で、ただ木立から落ちる影だけがねっとりと。
伸びて。
数メートル先からじわじわと伸びてきて、ぐん、と広がって、足下から膝の辺り、腰、胸、やがて長身の幸人の背を追い越すまでにぶわり、と。
―――飲み込まれる。
目の前の出来事に追い付かない頭の片隅で、ぼんやりとそんなことを思った、一瞬。
『幸人!』
今日、ずっと黙り込んでいた「彼」が、一声、鋭くそう叫んだ。