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レイシスは上機嫌であった。
脳内では、天使がラッパを吹き教会の鐘がリンゴーンと鳴っていた。愛しています、という言葉を人間ならば酸欠間違いなしな力でぎゅむぎゅむ抱き締め、至福にひたっていた。
セリーヌが目覚め、女神の試練が終わった。
試練は花が咲くと終わり、その後は花と蝶両者に女神の加護があたえられる。
しかも、愛していますと。控え目なセリーヌが、愛していますと。
美貌の主なので微笑んでいるだけに見えるが、脳内では、愛していますを抱き締めたままゴロゴロゴローッと転がるレイシスであった。
副官も上機嫌であった。
女神を信仰するこの世界において、女神の寵花である天花は崇拝の対象となる。もともとレイシスの番として敬愛していたが、女神を敬信する副官にとってセリーヌは、生きた偶像として限界突破の存在となったのだ。
氷のような無表情の美形であるが、内心では天花~♪我らが天花~♪と自作の讃美歌がリフレーンしていた。
そんな混ぜるな危険!状態のふたりがあわさって、セリーヌの側にいるのだ。
レイシスは嬉しげにセリーヌの右手に頬ずりをしているし、左側には副官をはじめ女神の信徒たちが恭しく礼をして頭を下げている。
目を覚ましたばっかりに、と16歳の少女がちょっとだけ思ってしまっても罰は当たらないと思うセリーヌだった。
だが、自力で死の辛苦の底から這い上がってきたセリーヌは強かった。
「皆様、お仕事にもどって?」
とパンと手を叩いて人々を解散させ、レイシスにはあーんと口を開ける。セリーヌに給仕できて大満足のレイシスに、笑顔もサービス。
「セリーヌ!!」
感極まって再びスリスリスリーッと手を撫でまくるレイシスを見て、セリーヌは思った。
体力と気力で踏ん張らないと。
食べて眠って、体力と気力でまずは死なない様に頑張ろう、起こったことはあるがままに受け入れて強くたくましく生きるべし、と決意するセリーヌに、額の花はさらに透き通る水のように清く宝石のように輝き美しく咲くのであった。
セリーヌが運びこまれた屋敷の門の外には、消えても消えても灯される、回復を祈る夥しい灯火が延々と続いていた。民たちは折り重なるように列をなして祈り続け、セリーヌの目覚めを聞くと歓声を上げて喜んだ。
同時に、コルト国への憎悪は計り知れない。
ナシアス王家に忠義を尽くすのは騎士だけではない。ナシアス王国全土の民が巨石のごとし忠心を王家に持ち、親から子、子から孫へ、代々と500年間の恩恵に感謝を捧げてきたのだ。
ゆえに、黒蝶の血筋として基本的に王子しか産まれぬナシアス王族にとって番がどれほど大切な存在であるか、血の存続がナシアス王国民にとってどれほど切望のものであるか、赤子以外は誰もが知っている。
その大切な番を誘拐したのである。許せぬ大罪であった。
しかも、セリーヌは天花なのだ。
普段は温厚な農民までもが鍬や鎌を振り上げて、コルト国への関所門に集まった。兵士たちは必死に民衆を宥めるが、内心では自分たちこそが一番槍として攻め入りたいぐらいだった。
けれども、コルト国の周辺国はもっと切実だった。
コルトドアを密輸されて腹がたっていたところへ、この事件である。もしも、とばっちりで自国の関所門が閉ざされでもするものならば死活問題であった。
数日後には足並みを揃えたかのように、こぞってコルト国に宣戦布告をして、瞬く間に攻め滅ぼしてしまった。
これを聞いて、コルト国に天誅を下す気満々だった人々が、不満を募らせたのはいうまでもない。
しかし、そこにナシアス王族が現れたのである。第2王子エリザスであった。
「皆の気持ちは嬉しく思う」
王族の姿を近くで見て、その声を聞いて感激している人々に、エリザスは秀麗な顔でにっこり笑った。エリザスは自分の顔の使い方をよくわかっていた。
美しさで民衆の心を鷲掴みにしたエリザスは、言葉巧みに誘導し、自分の望む方向へと人々をその気にさせた。つまり、コルト国へ討ち入りじゃー!!の集まりではなく、セリーヌの快癒を祈る集会へと早変わりさせたのである。
最後の締めとして、ともに回復を祈ってくれた礼だと豪華な食事や酒が振る舞われ、人々は満足して家路についた。
「私は思うのですが、エリザス様の天職は詐欺師ではないか、と」
子供の頃からの付き合いの無礼な側近に、エリザスは腹黒い微笑をみせた。
「口先だけで血の1滴も流れない。よいではないか、平和こそ繁栄の礎だ」
「はい、最善の方法ですとも。次も民衆を丸め込んで下さいませ」
「コルト国のおかげで、あちこちで民が怒りの武装をしているからな。静めるのも王族の務めだ」
第3王子オルレアンは、医師団を率いてレイシスのもとに駆けつけた。彼自身も国有数の優れた医師である。
「兄上、オルレアン参りました」
痩せてしまったレイシスの姿に、オルレアンの眉根が寄る。
「よく来てくれた、ナイジェルは王宮か?」
「はい、王宮に残ってくれています」
暗黙の了解として、ナイジェルには次代に血を残す役割が課せられていた。そのため、最初の子を成すまでナイジェルとリリシアは王宮の外に出ることはできない。もっとも王宮は、ひとつの街より大きいので何一つ不自由することはなかった。
「コルトドアはどうなりました?」
「捕まえた誘拐犯どもが白状したが、国内ではまだここだけだ。水際で止められてよかったが、オルレアン、おまえの目的はこれだろう?」
「はい。コルトドアは、末期の死病の患者には必要な薬なのです。量さえ間違わなければ、痛み止としてコルトドア以上に有効な薬はありません」
「毒にするのも薬にするのも人間の管理と使い方次第だ。オルレアン、任せてもよいな?」
「兄上、ありがとうございます。このオルレアン、兄上の信頼を裏切りません」
オルレアンは王子として医師として誇りをもって宣言した。