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夜の闇の中へ流れる星のような速さで疾駆していく一団を、成す術もなく見送ったレイシスの部下たちは握り締めた拳を震わせた。
揺らぐことない忠誠を誓う主を、もはや止めることはできなかった。
レイシスが率いる騎馬の一団は、あっという間に光がまったくささない夜の中に消えていった。
「どうかご無事で、女神よ、黒蝶の末にご加護を」
館に残ったレイシスの部下たちは天に向かって祈りを捧げた。
「なに!?コルトドアが領主の娘の部屋から見つかっただと!?」
レイシスの副官は、館の一室で部下たちに次々と指示を出しながらその報告をきいた。
「はい。あのたぎる血も凍るようなレイシス様の目にも笑っていた娘は異常でした。痛い、と喚いていましたが、切られた時も苦痛をあまり感じていない様子でしたし。それで部屋を調べたところ、コルトドアが」
「我が国に持ち込むとはコルト国め、許しがたい!」
「はい。コルトドアはコルト国で開発された画期的な鎮痛剤でした、当初は。兵士や病人を中心に瞬く間に流行り、苦痛や恐怖を感じさせず多幸感をあたえるーー強い中毒性もあって、コルト国では多数の常用者がでて国を傾けさせました。我が国では麻薬として禁止されましたが、コルト国から密輸が繰り返され果ては略奪行為まで。そのために、ナシアス長城の関所門は閉じられることになりました」
「そうだ。関所門を閉じれば、地続きの恵の影響を不思議なことにその国は受けれなくなる。コルト国は元のやせた土地にもどりーー我が国はコルト国の民に食糧や薬の援助はしたがーーそれで、セリーヌ様を?番の命を盾にとられれば、ナシアス王族はどのような要求であろうと飲まざるを得なくなる。だから拐ったのか、我らの大事なセリーヌ様を!?」
副官はこめかみに青筋を立てて、怒りのあまり剣を床に突き刺した。咆哮のような声が空気をビリビリゆらす。
「大切なセリーヌ様を我らから奪ったのか!!セリーヌ様はレイシス様が一生に一度の恋をする唯一のお方ぞ。忘恩の徒どもめが!ナシアス王国の大地の豊饒の恩恵を何百年も受けながらその恩も忘れ、仇で返すのか!!」
闇夜にその松明は数千と燃えていた。
馬の嘶き。
兵士の怒号。
土を抉るように響く軍靴。
細い崖道を駆け抜けようとしていたレイシスに、その時、甘美な花の香りがやさしい腕で包み込むように届いた。
「セリーヌ!!」
瞬間に判った。
セリーヌに花が咲いたことを。
手の甲からレイシスの蝶がふわりと飛び立つ。
一直線に、今通りすぎたばかりの真っ暗な崖の下に向かって蝶の姿が暗闇に消えていく。レイシスは迷わなかった。蝶を追って馬に鞭をいれ、底の見えぬ斜面を一気に下った。
「レイシス様!?」
部下たちもレイシスを追って、躊躇なく馬を崖の下に向かって駆けさせた。
そして、レイシスはセリーヌを見つけた。
「ああ」
レイシスは声を上げて馬から飛びおりた。
「ああ」
踏み出す一歩が血ですべった。
「ああ」
美貌を歪ませ這うようにセリーヌに駆け寄った。
「あああっ」
セリーヌの前で膝をつくと、血溜まりがぴしゃんと水音をたてた。
セリーヌは夥しい血の海の中で、砂浜に打ち上げられた人魚のようにぐったりと動かなかった。
「あああああああああっ」
血まみれのセリーヌをかき抱いてレイシスは絶叫した。大気を切り裂けるような、悲しみの、苦しみの、怒りの、絶望の、人間の喉から発したとは思えないほどの悲嘆の叫び声だった。
誰かにーーレイシスに呼ばれている気がした。
ずっとずっとずっとセリーヌの名前だけを呼び続けて、レイシスが泣いている気がした。
だからセリーヌは目覚めなければと思った、泣いているレイシスを黒蝶にしないために。
底に沈むまどろむ意識を無理矢理に、水面を目指して泳ぐ魚のように上昇させる。花蝶の絆が、細い糸のように水面まで導いてくれた。
ヒュッとあえぐように息を吸い、目覚めたセリーヌの目の前にはレイシスがいた。
レイシスの血色は悪く、目は落ち窪み頬がこけていた。
視線を動かすと、どこかの部屋にいてたくさんの人々がレイシスの背後にいた。
レイシス様、名前を呼びたいが喉が張りついていて声にならない。
全身がけだるく寒かった。なのに、体中が痛く熱かった。頭をわずかに動かすことも苦痛であったが、セリーヌはレイシスに向かって口を小さく開けた。
あわててレイシスが、水差しをセリーヌの口にくわえさせる。
ほんのひとくち水を飲み、ようやくセリーヌはか細い声を出した。
「レイシス様、いっしょに飲みましょう?」
部屋には、医師たちやレイシスの部下たちが大勢いた。特に部下たちは一瞬だけ目を見開いた後、すぐさま行動した。
「レイシス様。セリーヌ様とご一緒に薬湯をお飲み下さい」
杯を乗せた盆を、副官がレイシスの前に出す。レイシスはセリーヌから目を離さず杯を飲みほした。そこではじめて口中が干上がっていたことに気づいた。すかさず副官が2杯目を渡す。好機とばかりに滋養のある食事が次々と運ばれてきた。
セリーヌはスープをひとくちだけ飲み、
「レイシス様、いっしょに食べて?」
とレイシスを誘った。
「いっしょ?」
「いっしょ、ね?」
それだけ言うとセリーヌは再び眠りに落ちたかったが、レイシスが食べ終わるまで熱のある膜のかかった目をなんとか維持した。
「レイシス様、いっしょに眠って?」
広いベッドにレイシスもともに横たわると、微かに微笑んでセリーヌはその頬にちゅっとキスをした。熱に浮かされ朦朧としている今だからこそ、セリーヌの嘘のない気持ちが前面に出る、顔の傷ゆえに今まで言えなかった言葉も。
「愛しています」
はじめて自分の心をレイシスに告白して、セリーヌは再び眠りに身をゆだねた。
セリーヌが拐われた夜から3日たっていた。
この間レイシスは食べず飲まず眠らず、ただただセリーヌの側にいた。
セリーヌは骨折と出血多量で3日間昏睡状態だった。目を離した瞬間セリーヌは死んでいるかもしれないと思うと、レイシスは恐怖で胸が締め付けられて眠ることなどできなかった。
そうして、たった今目覚めたセリーヌは。
レイシスのことだけを案じて心配りをして、また眠ってしまった。
花蝶の絆故かお互いを思いやる心のためか、セリーヌは、食べず飲まず眠らずで倒れる寸前のレイシスの状態を一目見て理解したのだろう。
「ああ、セリーヌ。私のセリーヌ」
ベッドに横になったまま、レイシスは透明な涙をはらはら流した。
「3日間うわ言でも黒蝶にならないで、と繰り返していた。私を心から私だけを心配して、今も、今も、私のことを労って水を飲ませ食事をさせーー愛しています、と言ってくれた。私の魂の半分は、なんと尊く清らかなのか」
「まことに。そのかけがえのないお心故に天花が咲いたのでしょう、セリーヌ様は」
副官は深く同意して、畏敬の眼差しでセリーヌの額を見た。
かそけく光る花が、セリーヌの額に咲いていた。
ただひたすらレイシスのことだけを思って咲いた花は、レイシスと同じ瞳の色をしていた。春の雪のように儚く、薄雲に覆われた月のように淡く光る、紫色の美しい花ーーそれは、天花と呼ばれる稀なる花だった。
通常は女性の手に咲く花が額に咲く時、天花という女神の寵花となる。女神が、花の色だけでなく、その心まで愛でられた証として額に咲くのだ。
「天花は、献身の花とも慈愛の花とも言われています。セリーヌ様は死の淵で、レイシス様のことを心から慕われ案じられた。レイシス様の瞳と同じ色の花を咲かせられるほどの清浄なるお心をもって」
感動で火照る顔を副官は、誇らしげに輝かせていた。我らが天花、ナシアス王国の吉祥なる天花、と。
「副官殿。セリーヌ様は峠をこえたばかり。まだまだ予断をゆるさぬ状態です。レイシス殿下も休養が必要です」
「もちろんです。レイシス様、セリーヌ様のお世話をなさりたければ心身ともに健康でなければ。我らが天花なのですよ」
「何が我らが天花だ、私のセリーヌだ。わかっている、眠るとも。私がセリーヌの蝶だ。セリーヌの世話役はゆずらんぞ」
医師は厳しい顔をしているが、それでもセリーヌの一度の目覚めは部屋に明るい空気を流した。
眠れぬ夜をすごしたのはレイシスだけではない。貴重なる天花の喪失を、この3日間誰もがおびえていたのだ。