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レイシスたちの国境入りは、海鳴りのような歓呼の声で迎えられた。
「ナシアス王国に栄光あれ!豊饒よ永遠なれ!」
「レイシス王子、セリーヌ様、おめでとうございます」
「ナシアス!」
「ナシアス!」
「ナシアス!」
天へと昇るような大歓声であった。
窓から屋上から地上から、至るところから、人々の手によって花弁が一面にまき散らされ降り注ぐ。色とりどりの花弁の降り敷く道を、高くナシアス王国の旗を掲げて、隊伍を組んだ騎馬が馬蹄を響かせ堂々と行進した。
「私のセリーヌ。今夜は、この地の領主の館で宿泊します。野営ばかりで疲れたでしょう?」
「いいえ。毎日楽しかったです。それに、こんなに歓迎されて私ナシアス王国にくることができて良かったです」
ふふ、と子猫のように笑うセリーヌにレイシスの鼓動は高鳴る。その姿を目に映す度に、その声を聞く度に、レイシスは幸福になる。愛しくて可愛くて心惹かれて離しがたい、レイシスの宝物。
「ああ!なんて可愛いことを言うのでしょうか、私のセリーヌは。これから王都までは長いですが、道々民たちはもっと増えて、私たちを歓迎してくれることでしょう」
館では、緊張と興奮で顔を赤らめた領主が出迎えに待ち構えていた。夫人と娘もその横にいた。
挨拶を受け館に入ったが、レイシスは娘の目付きが癇にさわった。胸を大きく開けて着飾った娘だった。レイシスの唯一無二の至上の存在セリーヌを、爛々と睨んでいた。
その不愉快な視線を遮るように、レイシスは抱き上げていた大事な大事なセリーヌをしっかりと抱きなおす。セリーヌは、極上のレースでつくられたベールを、銀に大粒の白真珠をあしらった芸術的な蝶の髪飾りで留めて顔をかくしていた。ベールで足元が危ない、と外ではレイシスが抱き上げての移動が常だった。
旅の疲れがでたのか、セリーヌは夕食も食べずに眠ってしまった。天蓋のベッドではなかったので、レイシスはセリーヌの姿をかくすために、ベッドのまわりに衝立を二重に立てさせた。
「痛み止がきいたか?」
レイシスは、セリーヌが飲んでいたお茶に視線をとめた。
「はい。効能はよいのですが、眠くなる副作用がありまして」
医師の言葉にレイシスは頷く。
「だが、苦くもなく飲みやすい。副作用もそれだけだ。今後の痛み止はこれにしよう」
1グラムでその10倍の金が必要となる薬茶が、セリーヌの痛み止として決まった。医師がさがると、次は副官が進み出る。
「領主の娘のことですが、以前レイシス様の側室候補となった娘でした」
「側室?私は知らないぞ」
「候補者だけで1000人以上いましたし、水面下での選定でしたので、お耳にはまだ入っていなかったか、と。蝶宿りのナイジェル様に何年間も花があらわれませんでしたので、次代の王位を殿下方の、その、お嫌でしょうが継承していただいた時のための…。レイシス様は王位の最有力でしたから」
「王位か。どの世代も王位を押し付けあって揉めたが…。他の女と子を成した者には、蝶は来ないからな」
自分は果報者だとレイシスは思った。
500年の間に、何人の王が血を残すために、悲嘆の果てに番を諦め王位についたことか。何十人の王子たちが、番を夢みて独身のまま花狂いとして死んでいったことか。ナシアス王国の豊饒と安寧のために身を捧げ、いつか会いたい、ひとめ会いたい、と思いながら。
ふと、弟たちのことが頭によぎった。
末弟のナイジェルは番のリリシアを得た。
エリザスとオルレアンは?
身を焦がす番への欲求と身を裂かれるような番への喪失感に、百の夜を千の夜を万の夜を番の姿を番の心を希ってすごすのか。過去の花狂いの王子たちと同じように。
「王位には私がつこう。せめて少しでもエリザスとオルレアンの負担を減らしてやりたい」
部屋にいた者たちは一斉にレイシスの前で膝を折り、深く頭を垂れた。王の誕生に心は沸き立つが、眠っているセリーヌがいる。
「よい。皆の者。今は仕事中だ。立って続きを。ああ、それと、王になろうが側室は無用ぞ。私には愛しのセリーヌがいる」
「花蝶の番であらせられる殿下に側室など。首をはねられて当然の暴挙でございます」
「わかっているならば、それでよい。では、次の者、セリーヌの新しい髪飾りについてだが」
と言いかけてレイシスは口を閉じた。
何か、感じた。
何か、違和感があった。
蝶があざとなって宿る手の甲に、微かな微かな傷みがあった。
「セリーヌッ!!」
眠るセリーヌの妨げにならないように、部屋の端にいた。館で一番広い部屋なので端から端まで距離はあったが一瞬だった。衝立をはね除け、ベッドをレイシスは見た。
セリーヌはいなかった。
レイシスの部下たちが、ベッドの側の壁や床を飛び付くようにして調べる。
「ここだ!」
部下のひとりが壁の一部をドゴンと押すと、ぽっかりと暗い穴ができた。すぐさまレイシスが飛び込もうとするが、副官たちに力づくでとめられる。
「危険です。兵士を先に入れます」
「私が行くッ!!セリーヌがッ!!」
すでに部屋の外で待機していた兵士たちが大量に入ってきており、部屋にあった蝋燭を持って次々と穴に突入していた。
「領主を呼べ。家族と使用人もだ」
副官が指示をとばす。
「殿下。セリーヌ様の行方を探す情報が必要です。手を放しますが、落ち着かれていますか?」
「ああ、ああ、放せ。大丈夫だ」
部下たちに押さえられて、獣のようにフーッフーッと荒い息を吐くレイシスだが、激情にかられる己れを諌めた。噛み締めた口の端から血が流れる。
領主一家と使用人たちは、兵士に剣を突き立てられて引きずられるようにやってきた。その中で、領主の娘が不気味に目を輝かせていた。
「ーーおまえか」
レイシスが領主の娘を見る。その目は。見られた者がその瞬間に心臓が止まらなかったことが不思議なほど、冷酷な目であった。
魂切るような、背筋が凍る目を向けられても、領主の娘はにこやかに笑っている。領主は真っ青になって震えながら、自分の娘を揺さぶった。
「お、おまえは何をしたのだ!?」
「何も?正しいおこないをしただけよ。だいたいお父様が悪いのよ。私をあんな田舎の領主と結婚させようなんて。私は未来の国母よ。王の後宮に入って王子を産んで、皆に傅かれる身分になるのよ。なのに、番だなんて。私の邪魔する者は許せないわ。しかも、あんな醜い女が」
娘は父親に顔を向けていたが、ふらふらと視点の定まらない目をぎらぎらさせて笑っていた。娘の気味の悪さに領主の背に汗が流れる。
ザクッ。
レイシスの剣が、娘の頬の薄皮をそぎ切った。
「セリーヌはどこだ?」
「痛い、痛いわ。私はレイシス様の子を産む女ですよ、ひどいわ」
血を流す頬を押さえている手の、小指の指先1センチを正確に落とす。
「きゃああ。痛い、ひどい」
さらに小指をもう1センチ。
「セリーヌはどこだ?」
「痛い、痛い、痛い。知らないわ、お金で街のならず者を雇っただけよ。あいつらがあの女を処分するって。私は館の秘密の抜け道を教えただけよ」
「ハハハ。リザ国に浅慮の者がいたが、我が国にはもっと思慮のない者がいたとは」
「殿下。ならず者の腕前ではありません。いかにセリーヌ様が二重の衝立でかくされて、薬で眠っていたとはいえ、同じ部屋にいた我々に察知されず、無音で気配もなくセリーヌ様を誘拐するなど」
忠実な副官が冷静に考えを述べる。
「ハハハハハハ」
レイシスの笑い声がとまらない。
ようやっと、ようやっと見つけた番を、500年間守ってきた民が害するのか。500年もの間、ナシアス王国の豊饒と安寧に身を捧げた我らへの報いはこれか?
「殿下。3万の兵士を四方へ走らせました。すぐに、すぐにセリーヌ様は発見されるはずです」
副官のすがるような声に、レイシスはピタリと笑いをとめた。ゆるりと首を動かし、副官を見る。
「セリーヌを見つけよ」
「はっ。我が命、我が身、我が人生、すべてを掛けて勅命承りました」
部屋中の者が頭を垂れていた。兵士たちは片膝を立て、縄で縛られている領主、使用人たちは両膝をついて額ずいて。痛いと喚いている娘以外は。
「あの、あの、あの」
額ずいたまま、少年の使用人が声を上げた。
「コ、コルト国…。お、お嬢様がならず者の格好をしたコルト国の者と話しているのを、数日前に見ました。あ、あの国の者がナシアス王国の言葉を話す時、ら、ら行の発音が少しだけ上がるのです。ぼ、僕の母がそうでして。ふ、普通の人はわからないぐらいの差なのですが」
兵士が少年の体を起こす。少年はガタガタ震えていたが、必死で続けた。本来、王室への民たちの忠誠心はとてつもなく厚い。
「コ、コルト国への近道があるのです。が、崖道で危ないので、と、通る人がいないような。で、でも母から教えてもらって、す、すごく近道になる道なのです」
「縄をとけ。おまえ案内できるか?」
コクコクコク、少年は首がちぎれるのではないかと思うほど首を縦に動かす。
レイシスは、じっと自分の手の甲でアザとなって眠る蝶を見た。蝶は動かない。蝶が一直線に飛ぶのは、番と初めて会う時と番の花が咲いた時だけだ。
これも女神の試練なのか?
同じ部屋にいたのだ。誰が気がつかなくとも、レイシスは、レイシスだけはセリーヌのことならばわかるはずだ。花蝶の絆があるのだから。
セリーヌの花の蕾は膨らんでいた。レイシスの愛情だけで花が咲く寸前だった。
しかし、ナシアス王族の溺愛だけで咲く花の色を、女神は好まない。
だからーー?
セリーヌは、激しく揺れる馬の背で意識を取り戻した。
夜道を松明の火だけを頼って全力疾走で馬を走らせる愚か者はいない。それは無謀というものだ。しかも崖の細い道を。
だが、その一団は無謀な行動に一か八かの勝機をかけていた。
「まずいぞ。もう追手がきている」
後方に一丸となって動く火の列が見えた。
動揺が馬に伝わったのか、足を滑らしかける。何とかバランスを戻したが、馬の背にくくりつけられていたセリーヌはその衝撃で紐が切れ、真っ暗な闇の崖下に吸い込まれていった。
「ここまできたのに!崖下に降りる道はどこだ!?」
「そんな時間はない。今回は諦めて逃げるぞ!!」
暗闇に蹄鉄を響かせて一団が走りさる。その背を、ナシアス王国の騎兵が先を競うように雄叫びを上げ追いかけていく。
「セリーヌ様を取り戻せッ!!」
オオオオオォォォ、大音声が夜空をかけ崖下のセリーヌにも届いた。
ナシアス王国の騎兵は、崖下のセリーヌに気がつかない。
セリーヌは、自分の状態がわかっていた。
どこもかしこも痛い。体中で痛くないところはないぐらいだ。血も大量に流れている。
今、助けてもらえないと、セリーヌは死ぬ。
セリーヌが死ねば、レイシスは?
幸福そうに笑っていたレイシスは?
ーーレイシスは、黒蝶になるかもしれない。
それほどに深く深く、愛されている自覚がセリーヌにはあった。
ーー黒蝶になれば、番を求めて求めて魂すらけずって、そして…。
死ねない、レイシスを黒蝶になんて。幸福そうに笑っていたレイシスを黒蝶になんて。
死ねない、私のために泣いてくれた人なのに。
死ねない、やさしいやさしい人なのに。
死ねない、私の花よ、私の蝶を呼んで。
死ねない、私の花よ、咲いて咲いて咲いて、私の蝶を黒蝶にしないで。