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「すまない、私のセリーヌ。私の番」
「すまない、心細かっただろう?」
「すまない、来るのが遅くなって」
ベッドの上にすわるセリーヌを見て、深く切られた傷が血を溢れ出すように、レイシスはぼたぼたと涙をこぼした。
「私のセリーヌ。側にいってもいいだろうか?」
「私の番。私は貴女の番、レイシス・サン・ナシアス。貴女の蝶だ」
傷ついているセリーヌを気遣って、走って近づきたいのをぐっとこらえて、ガラスの橋をわたる慎重さでレイシスはセリーヌに近づく。
セリーヌは、突然あらわれた美貌の主が宝石のような涙を流すのを見て、驚きに声も出ない。しかし、彼が自分の蝶であることは理解できた。心がざわめいたからだ。
レイシスの目はセリーヌをとらえて離さないが、それでも、ちらりと部屋を見渡した。
治療室らしく清潔な室内だった。薄い布を幾重にも重ねたカーテンが微かに揺れる天蓋付きのベッドには、白をベースとしたたっぷりとレースのついた最高級の絹寝具。大きな花瓶には、大輪の花が大量に生けられていたが、どの花も香りのほとんどない花ばかりだ。
配慮が細かく行き届いた室内に、レイシスは満足した。
リザの王太子は目端のきく人物のようだ、と。
粗暴な弟に早くから蝶代えの可能性を予測したリザの王太子は、リザに潜入していた者を探し出し、渡りをつけ、同時に影に日向にセリーヌを守ることに努めた。
リザを守るために。
ナシアスの豊饒と安寧が花狂いの王族あってからこそ、と大陸中の人々が知っている。女神の加護が王族にあるがゆえの大地の豊饒であり、王族が番の幸福のために代々名君として統治しているがゆえの安寧であることを。
しかし花狂いの王族が途切れる時、それは終わる。
500年続く豊饒と安寧が永遠のものではない、ということを、どれだけの者がわかっているだろうか?大陸の半分を支配する国が倒れる時、ナシアスに頼っていきてきた周囲の国々はどうなるか、リザの王太子には想像ができた。
だからこそ、セリーヌを守ってきたのだが。
事件は起きてしまった。
優秀なセリーヌに嫉妬した愚弟が手をつけた女官をたぶらかし、考えの足りない女官は愚弟の甘い言葉に酔って、セリーヌに酸をかけたーーリザの滅亡へ、愚か者たちの浅はかさが手に手を取り合って踏み出したのだ。
「セリーヌ、私は貴女の蝶です。わかりますか?」
片膝をついて、レイシスはそっとセリーヌの手をとった。
小さくセリーヌは頷いた。しかし、包帯でまかれた顔を恥じるように、下を向いてしまった。
「セリーヌ。花蝶は、いわば強烈な一目惚れです。ですが、その後を維持するか消滅させるかは、本人次第です。私は貴女をずっと愛し、貴女からずっと愛されたい。私は貴女の蝶であり続けたい。どうか、私の魂の半分よ、貴女を愛する私の心を信じて下さい」
「でも、私は顔が…」
「今の貴女を見て一目惚れなのです」
うつむいたままのセリーヌに、レイシスの言葉は届かない。レイシスはハッとひらめいた。
「顔、顔ですね。顔が問題なのですね。わかりました。私も顔に酸をかけます」
レイシスは、同行してきた部下たちに視線をやった。
「酸をもて。ただし、セリーヌと同じ場所にかけるのだぞ。セリーヌとおそろいにするのだ」
おそろい、とどこか嬉しそうにするレイシスに、部下たちもセリーヌもぎょっとする。美を極めた美貌の主は、しかし本気だった。
「セリーヌ、おそろいです。おそろいっていい言葉ですね」
にっこり笑うレイシスに、セリーヌはすがりついた。
「や、やめて下さい。そんな恐ろしいことはやめて下さい」
「しかし、私の一目惚れを信じてもらうにはいい方法だと思うのです」
「し、信じます。貴方は私の蝶で、私を愛してくれています、ね?だから、酸はやめてくれますね?」
「ああ!セリーヌ、信じてくれるのですか?では、私が生涯貴方を愛することも?」
うっ、と言葉を詰まらせたセリーヌだが、レイシスの目は本気だ。疑う余地もなく心から言っている。しかも、NOの選択肢は酸である。レイシスの部下たちの、にじりよるような懇願の視線が痛い。
セリーヌが迷ったのは、ほんのひと呼吸だった。
花蝶なのだ。今、お互いに一目惚れ状態にあり、相手は言葉を尽くして自分に愛を捧げてくれている。今後はわからなくとも、今、信じあうことはできる。ましてや、蝶は花を守るべき存在。
「はい。私を生涯愛してくれるのですね?」
「セリーヌ、セリーヌ。愛しています。私は死ぬまで貴女のものです。貴女も死ぬまで私のものです。私のセリーヌ、私の花、私の番」
傷を労って羽でつつむように、やさしくセリーヌをレイシスは抱きしめた。その後ろで部下たちが、セリーヌに感謝して頭を下げている。それを見て、セリーヌはちょっとだけ遠い目をした。
顔の傷がどうのと言っている場合ではないかも、と。
愛よりも恋よりも、必要なのは根性になるかもしれない、と。
レイシスは嬉しそうにサッと抱き上げると、セリーヌを自分のマントの中にいれた。スタスタ歩き出すレイシスに、セリーヌはあわてた。
「ど、どこへ?」
「ナシアス王国に帰ります。セリーヌの家族もいっしょです」
「え?でも…」
「医術の水準はナシアス王国の方が高い。それに20年もかけて、いつか番を迎えるために王宮に部屋を用意してあるのです。大丈夫です、何もかも揃っています」
20年…、ナシアスの花狂いの王族は有名だが、それが我が身となるとーーだが、セリーヌはここで踏ん張らねばならなかった。聡明なセリーヌは、すでにリザの国としての命運が自分にあるとわかっていた。
「待って下さい。国王陛下と王太子殿下に一目だけでも…!やさしくしてもらっていたのです!」
「彼らは彼らの思惑があって、セリーヌにやさしくしていたのですよ?」
「わかっています。思惑のない人などほとんどいません。無償の愛だけを与え続けて生きていけるほど、人生は安易ではありません。でも、優しさは誰にとっても必要なのです。その恩をかえしたい、と思うのはダメなことでしょうか?」
レイシスは足をとめた。
部屋の外には、リザの王太子と重臣たちが恭敬な態度で深く頭を下げて待っていた。深々と頭を下げる王太子を見て、セリーヌが言葉を重ねる。ここが勝負、と。
「お願いします。リザ国が好きなのです」
セリーヌの強い眼差しに、レイシスは小さく息を吐いて自分の感情を整理した。
「確かにリザ国の王太子は有能です。新たな国王として朝貢を許可しましょう」
王太子の体がわずかに歓喜にゆれたが、頭を上げることはなかった。まだ、そこまで許されていない。
「それから、処刑は許しません。長く、生かすように」
愚弟と愚かな女の運命が決まった。処刑がない、と聞いて最初は喜ぶだろうが、すぐに自分から殺してくれと願うだろう。殺されるよりも生かされる方が苦痛な方法などいくらでもある、と王太子はほんの少しだけ同情した。そう、ほんの少しだけ。自分の都合のよいようにしか物事を考えず、リザを滅ぼしかけた者など彼自身が許せるはずもなかった。
セリーヌも、マイルスのことはなにも言わなかった。
マイルスは、セリーヌに何をしたのかはわかっているだろうが、セリーヌにしたことがどのような結果を招くのかは、理解していなかった。
セリーヌも王太子も、国を民を守らねばならない立場にいるという自覚がある者たちだった。
レイシスの部下たちは表情をゆるめた。
セリーヌ様は賢妃となられるだろう、と。
次代も、豊饒と安寧のナシアスは続くのだ、と。
ナシアスでは過去代々、王子たちによる王位の押し付けあいが悩みの種であった。国内に番がいるかもしれない、とどの王子も優れた統治者になったが、王位だけは嫌った。国王になれば、世継ぎを残さねばならないからだ。女性側も地位や財力など、愛情以外を目的とする者が選ばれたが、今世代には、蝶を宿したレイシスとナイジェルがいる。
早くセリーヌの花が咲くことを、切に願う家臣たちであった。