3
王座の国王はまだ壮年であったが、一気に老人になったかのような嗄れた声で、自分の3番目の息子に問うた。
「今、何と言った?」
「ですから、蝶が消えました。これで、あの忌々しいセリーヌとやっと婚約破棄ができます。その許可をいただきたい、と」
「いつ、蝶が消えたのだ?」
「さあ?私の蝶は背中にあったので、気がつきませんでした。昨夜、カトリナに指摘されて」
「謹慎中なのに、女を引きこんだのか!?セリーヌ嬢をあのような目にあわせておきながら!!」
激怒した国王だが、しかし、すぐに身を震わせた。
「く、くる…!」
国王の傍らに控えていた重臣たちも、そろって蒼白になった。
「き、きますぞっ!必ずや、きますぞっ!」
「ちょ、蝶代えになったからには、お、おそらくナシアスが…!」
ここは、ナシアスの北にある小国群の1国リザ。ナシアスと隣接する国々がそうであるように、リザもナシアスの豊饒の大地の地続きゆえに、その影響を受けることができた。肥えた土地と穀物や作物の実りは、小国ながらリザを立派な農業王国としてくれた。
「こ、国境から早馬はあったか?」
国王は、体をカタカタと揺らして側近の腕をつかむ。青ざめた顔の側近は首を横にふったが、安堵はできない。
「どの王子がくるのだ!?」
「まさか、まさか、レイシス王子ではあるまいな?」
「不吉なことを言うな!国が滅びる!」
「あの悪魔は、冷酷で慈悲がないのだぞ!」
血の気を失った重臣たちが喧喧囂囂とするなか、第3王子マイルスだけがきょとんと立っている。
「レイシス王子とは、千の耳と千の目を持っていると言われる、あの英邁な?」
「それは表の顔だ。裏の顔は苛烈な魔王だ」
父親に怒鳴られるが、マイルスには、何故皆が形相をかえて右往左往するのか理由がわからない。
「どうして皆、おびえているのですか?」
「愚か者!教育を受けておらぬのか!?よいか、ナイジェル王子の番の母国は、ナシアスから国交を断絶されたのだぞ。ナシアスに切られたとなれば、他の国々からも相手にされなくなる。あの国は、交易の要として繁栄してきた国だ。もはや、衰退の道しか残っておらぬ。ましてや我が国は、ナシアスの豊饒のおこぼれをもらって成り立っている国ぞ。ナシアスを怒らせて、無事にすむはずもない」
「だから何故、ナシアスが怒るのですか?」
「お前が蝶を失ったからだ!あれほどセリーヌを大切にしろ、と口を酸っぱくして言ってきたのに!もしも、蝶代えがレイシス王子ならば、あの悪魔はーー」
「悪魔は?」
部屋に、凛とした涼やかな声が響いた。
竜の爪で心臓を鷲掴みにされたかのように、部屋にいる全員が硬直する。恐ろしすぎて振り返りたくなかったが、それでも、ぎくしゃくと国王は扉のほうへ顔を向けた。
最悪にして最凶の頭脳の主にして、生きて動いていることに感動するほどの圧倒的な美貌の王子、レイシスがそこにいた。
ただちに国王は膝をついた。重臣たちも。マイルスだけが、レイシスの美貌に驚愕したまま、口と目をポカンと開けて立っていた。
ゴキンッッ!!!
骨の折れる音とともに、マイルスの体が壁まで吹っ飛んだ。
無言でマイルスに近づいたレイシスは、拳を1発マイルスに叩きこむと、もう後も見ずに部屋から出ていく。その目は、蝶だけを見ていた。
国王たちは、腰がぬけたかのように、震えてレイシスを見送った。そこへ、兵士が一人飛びこんできた。
「城の、城のまわりを数万の軍勢が…っ!!」
「ああ、わかっておる。リザはおしまいだ」
国王は、顔を変形させて血を流して呻く息子を見て、弱々しく呟いた。
セリーヌ・ザイン。
口の中で、レイシスは番の名前を噛みしめる。その名を呼ぶだけで、口が甘露で満たされるようだった。
すでに、リザ国に潜入させていた者たちの報告で、セリーヌの身に何があったのか、レイシスは知っていた。
セリーヌとマイルスは、幼い頃はとても仲がよかったそうだ。
幼少時に、花と蝶が宿り、この吉事に周囲は二人を婚約させた。
しかし、成長するにつれ、セリーヌは美しく優秀になり、マイルスはそうはならなかった。努力を嫌うマイルスは、ただただ楽なほうへと流れ、顔と地位だけはあったので女性を侍らせ、称賛され、おだてられることを好んだ。
国王はマイルスを諌め続け、セリーヌに対しては、マイルスの素行の悪さを謝罪するため、何より、女神の花を大切にするために、王宮内に美しい部屋を与え重きをおいた。
それが余計にマイルスを、嫉妬させた。穏やかで優しいセリーヌは、常にマイルスを立てたが、マイルスの心には、もはや愛情ではなく嫉妬心だけが育っていった。
事件が起こったのは、セリーヌが16歳になった時だった。
マイルスが手をつけた女官が、セリーヌの顔に酸をかけたのだ。とっさに、右手で目をかばったので目だけは無事だったが、右頬から顎、首筋にかけて肌が変色し、右手の中指と人差し指は酸でとけて癒着した。
そのセリーヌを見て、マイルスは嘲笑った。
国王は激怒して、マイルスを謹慎させたのは20日前のことだった。
そして、今。
レイシスは、王宮内の治療室の前に立っていた。