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レイシスが蝶追いのために出立した翌日、黄金の装飾で満たされた豪奢な部屋の窓辺で、リリシアは膝に本をのせて座っていた。
本のページをめくる手が止まったままのリリシアの顔を、ナイジェルは案ずるようにのぞきこむ。
「どうしたの?」
ナイジェルの心配げな眼差しを受けて、リリシアは本を置いて向き直った。自分を気遣ってくれることが、素直に嬉しい。だからこそ、
「昨日のお話を聞いて、心配になりましたの。まるでナシアス王族は、蝶のスペアかキープのような役割を女神様からいただいているのではないか、と」
「そうだよ。それが黒蝶の契約だから」
「でも、でも、あれほど番の方を求めておられるのに」
「できることならば、自分の手で幸福にしたい。けれど、他の男のもとで幸福なら、それを壊す必要はないよ。番の幸福こそが、すべてだからね」
番の幸福がすべて。レイシス王子もそう言った、エリザス王子も、オルレアン王子も頷いていた。ナイジェルまで同じことを言うのだと思うと、王子たちの気持ちがあまりにもせつなくて、リリシアは涙が出そうになった。
「大丈夫だよ、リリシア。父上のように、花でない番を見つける王族もいる。それにスペアやキープの役目のおかげで、このナシアス王国は、女神様の加護をいただいている。穏やかな気候に実りあふれる国土。もしかしたら、王国内に番がいるかもしれない、と思うだけで、この豊饒のために身を捧げることができるのだよ」
とうとうリリシアは泣き出した。
なんと深い愛だろう。見返りを求めず、ひたすら愛を注ぐ王子たち。けれども、それは、まるで、まるで。
「呪いのようです。愛と言う名の呪いのようです」
小刻みに肩を震わせ、顔をおおって泣くリリシアを、やさしくナイジェルは抱きしめた。
「だから、花狂いの王族と呼ばれているのだよ、ナシアス王家は。黒蝶が、番のために魂を半分にした時から、その血を継ぐ僕たちは、番しか愛せない僕たちは、花狂いになって、番のために生きて死ぬ。ねぇ、リリシア。リリシアは僕と出会って、不幸になった?」
「いいえ、いいえ。左手の蝶は、私の希望でした。双花だからと、愛を誓っても心を移すかもしれない、と私を信じてくれる人はいませんでした。アレックス様も私を虐げた。でも、本来、蝶は花を守るための存在。双花の試練を、ともに乗りこえるのがアレックス様でないのならば、きっと左手の蝶が私の救いの人だと、と。双花は、私の苦しみでしたが、同時に、生きる支えでした。ナイジェル様と出会えて、私は今しあわせです」
「僕も、しあわせだ。でも、500年もの歴史をもつナシアスにおいて、父上のように花蝶以外で番を見つけた者は、たったの2人なのだよ。それほどに自力では、番を見つけることは困難なのだ、本当に奇跡のように。リリシアが左手の蝶が希望だと言ってくれたように、僕たちにとっても、スペアだろうがキープだろうが、蝶は希望なのだよ。その上、飢餓におびえなくてもいい豊かな国土を民に与えられる。ねぇ、双花のように、悪いことも善いこともあるのならば、花狂いも悪いことではない、と思うんだ」
抱きしめながら、ナイジェルはリリシアの耳の柔らかい部分を、鳥のようについばむ。リリシアの耳は、熟れたサクランボのように色づいた。
「それにね、僕たちナシアス王族は、女神様の、花に与える寵愛が人の形となったようなものーー黒蝶が女神様とそう契約したのだから」
レイシスの蝶追いは、10日目にはいった。
過去には、100日も蝶を追った王族もいる。
何度も馬をかえ、ひたすら速く、疾く、走り続ける。大陸の半分を支配するナシアスの、財力と軍事力がそれを支えた。
残った3人の王子も、レイシスを支援するために忙しく働いた。
「蝶は北へ向かっている。このまま、国外に出るやもしれん。北の小国群に、先触れの使者を出せ」
と、重臣たちに指示を出すエリザス。
「兄上は1000人で出られた。今は2万か?せめて3万はほしい」
と、各所に手配の書類をかくオルレアン。
「食糧と軍馬は足りているか?各国に潜入している者たちからの情報は?」
と、副官たちと相談するナイジェル。
その一方で、日常の政務もこなす。英邁な王子たちを敬い、堅く忠誠を誓う臣下たち。ナシアスは、500年の繁栄に腐敗の影はなく、その栄華のもと大過ない日々を送る国民たち。
ナシアスに花狂いの王族がいればこその安寧と豊饒だと、誰もが知っているが故に、レイシスの蝶追いは吉事として熱烈に歓迎された。ましてや、この目で生涯みることなど叶わない確率の蝶追いである。
「レイシス殿下、万歳。万歳」
「すごい。騎馬がどこまでも続いている!」
「やれ、嬉しや。生きているうちに、このような慶事を目にできるとは」
道の両端にいる民たちは、興奮して口々に声を上げる。
とぎれることのない人々の歓声のなかを、王国最強と謳われる騎兵が、万の軍馬を巧みな馬術にものを言わせて走らせ、ナシアスの旗を誇らしげに高々と掲げ、風のように進んでいく。
その数、2万。
さらに後方で続々と増えつつある騎兵をみて、レイシスは美しく笑った。
「私の大事な番。万が一にもその身に何かあれば、その国を一夜で滅してやろう」