10
王都にもどる日が決まり、レイシスは猛烈に忙しくなった。
立太子と、セリーヌとの嬉しい婚約式の準備である。驚くべき手際の良さで次々と決めていくが、セリーヌの衣装と装飾品がなかなか決定しない。もちろんレイシスが拘るせいである。
「美しさは必要だ。が、重いものは駄目だ、セリーヌが疲れてしまう。真珠も宝石も最上級を使え。私の衣装はセリーヌとおそろいで。いっそ、私もベールをかぶるか?」
と細かく要求して、より完成度をあげていく。
「王都に帰れば、まず黒蝶にそろっての挨拶がある。ああ、王都からあの本は届いたか?」
その日、セリーヌはレイシスから1冊の古い本を渡された。
「黒蝶の記録です。私のセリーヌ」
「黒蝶の?」
「はい。ナシアス王家の祖です。はじまりの王です。民間にも伝承は流れていますが、これは詳しい記録で王家の者は必ず読みます。セリーヌも読んでもらえますか?」
セリーヌは慎重にその本を手にとった。古すぎて破れてしまいそうでこわい。丁寧に丁寧にページをめくった。
その夜は婚姻式の祝祭であった。
小国であるが古い血筋を誇るその国には5人の姫がいた。今夜は、世継ぎ姫の結婚であった。入婿は隣国の第二王子で、隣国の国力を証左するような華々しい行列で入城した。
「わたしも宴に出たかったなぁ」
末姫は5歳。夜会に出席するには後10年必要な年齢だ。
「おや?私たちとのお茶会ではご不満ですか?」
双子の侍女が茶目っ気たっぷりにきく。末姫の婚約者はにこにこして椅子に座っている。いつものお茶会のメンバーはこの4人であった。
「いじわるぅ。だってみんなくるくるダンスして楽しそうなんだもん」
「では姫様。僕と踊りませんか?」
少年は姫の手をとって、ふわりと抱き上げた。そのままクルリクルリと回って姫を楽しませる。
「大好き。ナシアス、大きくなったら花嫁さんにしてね」
「姫様こそ、僕を花婿さんにして下さいね」
「じゃあ、誓いのキスね」
んちゅっ、と小さな唇が重なった。びっくり顔の少年に姫は、くふふっと嬉しそうに笑う。
「ドキドキ、お胸がドキドキするぅ」
「それは僕の台詞です」
少年は真っ赤になっていたが、ふと眉をしかめた。鼻をスンと鳴らす。
「焦げ臭い?」
双子の侍女の一人がバルコニーに駆け寄る、もう一人は扉から飛び出していった。
「王宮に火の手があがっています!」
末姫の部屋は王宮から少し離れた離宮にある。バルコニーに出ると煙の匂いと多数の怒声が遠くから聞こえた。
「裏切りです。第二王子に!隣国に裏切られました!世継ぎ姫様と国王陛下が…!!」
双子のもう一人がもどってくるなり叫んだ。
「姫様、お逃げ下さい!花婿行列は兵士の偽装でした!城の井戸には毒が入れられて、こちらの兵士は半壊状態です!」
少年は15歳。しかし国一番の実力をもつ騎士だった。
「姫を僕の背中へ!紐でくくりつけて!」
油を使ったのだろう。火の手が速く王宮が炎の海に包まれていく。人々の苦痛の断末魔が、怨嗟の咆哮が、大気を裂いて鼓膜に流れ込む。
「こわいよぅ。父様は?姉様は?どうして、どうして、どうして?」
「姫様、必ずやお守りいたします。大きくなったら花嫁さんになって下さるのですよね?」
「うん、うん。ナシアスは花婿さんになってくれるのよね?」
ばらばらと大粒の雨が降るような音がした。
少年が右手を一閃すると、人間の首が幾つもとんだ。少年の剣の技量は凄まじく、人間の域を凌駕していた。
縦横無尽に敵を切り、神業のごとく葬った。
城下にも敵は潜んでいたのだろう。城中が敵で溢れていたが、小国の生き残っている兵士も多くあちらこちらで剣戟の音が高くあがっていた。
双子の侍女も剣を振り敵を薙ぎ倒す。
血で血を洗う修羅の中、姫を背負った少年と双子の侍女は塊となって、熱い血飛沫を絶えることなく降らせ地面に血の川をつくって道をなし、疾風のごとく走り抜けた。
夜の闇が悲鳴も怒号も血臭も、その指先を伸ばして食らうようにのみこんだ。
「ここまでくれば」
森の中に駆け込んだ4人は、油断なく辺りを警戒して跳ねる息を整えた。
「さあ、姫様。背中からおろしますよ」
姫の小さな体に手を添えた時、ぬるりとおぞましい感触があった。
「姫様!?」
姫は声を出さないように自分の手に噛みついたまま、半分意識を失っていた。その背中には切られた傷があった。
少年はずっと背中を守るように戦った。侍女たちも少年の背中を守っていた。しかし敵が多すぎた。乱戦につぐ乱戦で、流れ矢のように偶然の一撃が姫に入ってしまったのだ。
姫は声を上げなかった。姫が悲鳴を上げれば、少年も侍女も足を止めただろう。敵兵に囲まれた状態で足を止めれば、少年が圧倒的な剣技の主でも只では済まない。ましてや少年に劣る侍女たちは死んでいたかもしれない。
だから、姫は自分の手を噛んだ。声を出さぬように、痛みに耐えられるように。
「ナシアス…、ぶじ…?」
「姫様、今、血を止めます。しっかりして下さい!」
少年と侍女たちが応急措置をするが、血が止まらない。
姫は自分の歯形の残る手を見た。花の蕾が膨らんでいた。
「お花さん…、咲いて…わたしのお花さんお願い、わたしの蝶に加護を…」
花が咲けば、花と蝶両者に女神の加護が与えられる。花が死んだとしても、蝶には加護が残る。
少年から蝶が飛び立つ。
花弁が1枚1枚ゆっくりとほころんでいく。姫の血を吸って真っ赤に染まりながら。
美しい深紅の花が咲いた。それは姫の血の色だった。
「うれし…ナシアスに加護…。女神様…感謝いたします」
こぽり、姫の小さな口から血が溢れた。双子の侍女のすがるような悲鳴があがる。
「いやだっ!姫様!死なないで下さい!僕の花、散らないで!!」
少年の絶叫とともに、花に寄り添う蝶が色を変えていく。半透明の白い蝶が花と同じ血の色に。そして、少年の絶望を吸いとったように黒く、黒く、真っ黒に。
光さえ拒絶し遮断する闇色の黒蝶は、自分の花の色を巻きとるように、血の色を食らうように侵食して黒い花へと変貌させた。
「花嫁さんっ、僕の花嫁さんになってくれるって約束したでしょう!?姫!姫!僕の花!」
涙が姫に振り落ちる。
「…好き…ナシアス」
ごめんね、父様より姉様より好きなの。
ごめんね、小さくても恋はできるの。
ごめんね、残すあなたに言ってはいけないけれど。
「好き」
残酷な言葉を残すわたしをゆるして。
「姫を失ったナシアスは女神と契約しました。花をも食らう黒蝶には女神と繋がる力があったから」
セリーヌのぽろぽろ零れる涙をレイシスはやさしく吸いとる。
「500年前は、大小の国々が乱立して戦う血生臭い戦国の世でした。それは女神の望む世界ではなかった。女神から特別な加護を授けられたナシアスは、たった5年で大陸の半分を平定してーーそれは豊饒の力の限界があったからでーーナシアス王国という平和の世をつくりました。同時に、花のための王族の誕生でもありました」
「女神様との契約ですね?」
「はい。ナシアスは死した姫に自分の魂の半分を押しつけた。いつか再び生まれかわってひとつになるために。これが番のはじまりです。以来、黒蝶の子孫は魂がかけて生まれてきて、生涯番を求めるようになりました。黒蝶の遺体は、王宮の地下深くにある地底湖に沈んでいます。冷たく凍る湖の底に、姫とともにーー王都にもどった時には、私のセリーヌ、鎮魂の礼を拝しに私といっしょに」
「いっしょに、ええ、いっしょに」
セリーヌはレイシスの手を握った。レイシスの手はあたたかかった。セリーヌの手もあたたかかった。
二人はお互いが生きている体温を感じ、あたたかさを噛みしめた。




