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天上には、白い女神様が楽園にお住まいで。
その白い女神様は、白い色を一番愛しておられて、だから、女神様の庭園には純白の花のみが咲いているのだそうだ。
けれども時々、女神様は、純白以外の花も見たくなって、そんな時は、地上に白い花を落とすのだ。同時に、大事な花を守るために、吐息で蝶をつくって。
そして、白い花は人間の女の子に宿り、蝶は人間の男の子に宿る。
二人は、成長して、出合い、運命の花を咲かせる。
純白の花は二人の恋によって色付く。
それが、花蝶の番。女神様の寵愛深い恋人たち。
噴水の音が耳に心地好く響く、ナシアス王宮内の庭園。
リリシアは、贅を尽くしたガゼボでお茶を飲んでいた。
「はい、あーん」
蕩けそうな顔でナイジェルは、リリシアの口元に焼き菓子を運ぶ。リリシアは羞恥で頬を薔薇色にして素直に口を開けた。ここで抵抗すれば、もっと恥ずかしい目にあう。それでも一口毎に、ちゅっと頬にキスがくる。可愛い可愛いと、額にキス、瞼へキス、鼻へキス、リリシアは真っ赤に染まって耐えるしかない。
その時ふわりと風が吹いた。リリシアの、髪飾りの花がひとつ落ちる。
「ああ、風で髪が乱れたね。すぐ直すからね」
ナイジェルは、いそいそとリリシアの髪に手を伸ばした。
ガゼボの回りには、噴水をあしらった水路がたっぷりと水を貯め、飛沫を上げて水を噴き上げながらめぐっていた。園路は、タイルで細やかなモザイク模様が施され、花と緑と光りがあふれている。
リリシアの前には、ナイジェルの兄である、レイシス王子、エリザス王子、オルレアン王子が座り、ナイジェルはうきうきと後ろでリリシアの髪を編み上げていた。
「いいなー、私も番の世話がしたい」
「いいなー、私だって、髪も爪も全ての手入れが完璧にできるのに」
「いいなー、王子教育で、料理までマスターしたのに。パンケーキの名人になったのに」
三人の麗しい王子たちが、ナイジェルとリリシアをみて、指をくわえていた。
「兄上たち。僕は蝶宿りでしたが、兄上たちは蝶宿りではありません。あるかないかの蝶代えを、いつまで待つおつもりですか?」
「ずっとだよ。ゲオルグ叔父上のように、花狂いのまま生涯独身もいいではないか」
「花蝶ならば、はっきりと形になってわかりやすいが、ナシアスの男は、魂の半分がどこかにいる。黒蝶の末だからね。番以外は愛せない」
「一目見れば、わかるのに。ずっと探しているのに。ああ、蝶がいれば、蝶追いができれば、一直線に番の元へいけるのに。父上のように花蝶でもないのに、自分の番を見つけられるなんて奇跡に等しいのに」
三人の王子は、そろってため息をついた。
ナシアス王家の花至上主義は有名だ。
政治、経済、一般教養はもちろん、将来の番を守るため、武芸百般から野営の仕方まで。何より一番大事な王子教育の必須項目は、番の生活を快適にささえる知識である。
ドレスの着付け、髪結い、お茶やお菓子やお飾りの知識もぬかりない、とにかく、細やかな気遣いで溺愛してーーある意味、溺愛するあまり、他人に触れさせたくないが故の独占ともいえるがーー掌中の玉のごとく磨いて、手を尽くし、やさしさで何重にもくるんで、大事に、大事にするのだ。
「私たちは黒蝶の末だから、花が番の可能性が高いが、花が別の男の番のうちは、はっきりと自分の番だとわからない。それに、その男と幸福ならば…。花のしあわせこそが、すべてだからね」
「そうだね。でも、蝶代えになったならば、女神様が、その男に見切りをつけて別の男に蝶を移す、蝶代えになった時には」
「女神様も残酷だ。単純な色は嫌だと、どの花にも試練を与える。リリシアの薄紅色だって、まだ見ぬ左手の蝶への期待で淡い色に、そして、アレックスの奴に傷つけられたからこそ、ナイジェルの愛でより一層鮮やかな色になった。でも、女神様は慈悲深い。自分の大切な花を守るための蝶だ。その蝶が花を幸福にできないのであれば、必ず蝶代えがある」
蝶代えの蝶は、ナシアス王族の元へやってくることが多い。
地位あり、権力あり、財力あり、美貌あり、愛情はもっとありの天井知らずのナシアス王族である。花を幸福にするための適任者としては、最適なのだ。
ただ、ナイジェルのように、蝶宿りとなることは稀だった。
最初から溺愛まっしぐらだと花の色が単純になるからと、女神様は、花の色が深くなるような、複雑となるような試練を、花に与えるのが常だった。
風が、ふいた。
微かに、甘い香りのふくまれている風だった。
それは花の香りだった。
そして目の前に蝶がいた。甘い花の香りを羽衣のようにまとって、蝶がレイシスの目の前でひらひら飛んでいた。
激しい衝撃と感動にレイシスは大きく喘いだ。
「蝶代えだ…」
ナイジェルの、エリザスの、オルレアンの顔に、みるみる歓喜が広がった。
「蝶追いだっ!」
「レイシス様の蝶追いが始まるぞっ!」
「大門を開けろ!皆の者、レイシス様とともに出るぞっ!!」
ザザザザッ、と大波のように、周囲にいた近衛兵たちが走り出す。
レイシスは静かに立ち上がった。
今まで泡ひとつ浮かばなかった心が、微かな花の香りを貪り高揚した。
香りに、体も心も、すべてが急ぎ立てられる。
背が高く、厚い胸と細い腰、均整のとれた体躯は、名工の手による彫像でも再現できない完全な造作だった。レイシスは、その凄絶な美貌を弟たちに向けた。
「後を頼む」
ドオォーン、ドオォーン。
銅鑼が鳴り響く。
巨大な大門が音をたてて開かれ、騎兵の集団が飛び出していく。
それは、まさしく一匹の銀の龍のようであった。
騎兵の兜や鎧は陽光をあびて銀色に輝き、龍の鱗をおもわせた。
大地を力強く蹴る馬蹄の響きは、龍の咆哮のようだった。
長く続く騎馬の先頭にいるのは、信じられないことに一匹の蝶だった。儚く、触れるそばから壊れてしまいそうな半透明の白い蝶が、馬より速く一直線に飛んでいく。
そのぴったり真後ろを地響きを立てて全力で走るのは、ナシアスの紋章をつけたレイシスの駿馬だ。
番、
私の魂の半分よ、震えていないか?
番、
私の世界のすべてよ、泣いていないか?
番、
黒蝶の末、レイシス・サン・ナシアスが、今迎えにいくぞ。