「想いの透明な欠片」 §8
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これは赤梨の森に暮らす一匹のヤマイヌのお話です。
ずんぐりとした体いちめんに茶色い体毛を生やし、ふさふさのしっぽを生やし、きらきらと毛づやを光らせたヤマイヌです。
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領域Aを出た後、琅砂は結局元いた町に戻ってきた。
琅砂には身寄りも家もなかったから、戻らなくてはいけないということもなかったのだが。
かつてのチームの仲間がまた迎え入れてくれるとも思えなかった。
退所者向けの仕事斡旋システムは全国どこにいても退所後3年間は利用できるということだった。
希望があれば、領域Aの紹介する福祉エージェントを保証人に学資ローンを組んで進学することも可能だし、住み込みで働ける寮付きの職場を紹介することもできる――退所前の社会再適応支援面談で領域Aの職員からそう聞かされてもいた。
「67年の「逸脱青少年再適応支援法」の成立後、制度的には相当便利になっている。
きみのような若者の、ドロップアウト以降の受け皿に関しても、層の厚さが誇れることについては――」
領域Aから出ていくことは、同時にあっけないほど簡単に圧倒的な自由のただなかに放り出されるような感覚を琅砂に与え、琅砂は自分の体の色が透明になってしまったような気がした。
心細さから琅砂が"冷たい世の中"に激しく悪態を吐くと、面談担当だった中年の男性職員は愉快ではなさそうに顔をしかめて言った。
退所から一か月以上も経って、鉄道駅構内の休憩スペースにあった有料公共情報端末に、やっと鈴々花から渡された記録カードに適合するカードスロットを見つけることができた。
読み込めたその中身は、ごく小容量のテキストデータだった。
256GBの容量の中に、たった20KBのデータが一つきり。
赤梨の森で日々を過ごす一匹のヤマイヌの物語――。
本当にすべて鈴々花の考えて書いた話なのか、琅砂は知らない。
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そのヤマイヌは赤い屋根のお家に住んでいました。
家には裏に小さな畑があり、前には細い小川が流れていました。
ヤマイヌは小川ですくった水を飲んだり、家で溜めた赤梨の数を数えたり、屋根の上で空を眺めたりしながら毎日を送っていました。
夜になったと思ったら、また一瞬で空が明るくなっていたり、起きて最初の食事のための水を汲みに出たときにはおもてに夕陽が射していたり、ここでの時間の経ち方は一定ではありませんでした。
昼と夜の長さはいつもまちまちで一日の境目すらはっきりしませんでした。
気が向けば、小川に架かった橋を渡って、散歩や赤梨採りに出かけていきました。
赤梨の村には、あちこちに赤梨の森があり、入っていけばいつでも食べ物になる赤梨にありつくことができたのです。
出歩けば村のどこからでも、村の真ん中にどっしりそびえる天まで届くほどの大きな木を見ることができました。
木はいつでもとびきり大きな狼の頭のようにもこもこと葉を茂らせて、赤梨の村の全体を見わたし、ヤマイヌたちの暮らしを見守っていました。
このヤマイヌは丘のてっぺんから大きな木のことをずっと眺めていることがありました。
足元のくさむらではやしたてるように鳴く虫の音に体いっぱい包まれながら。
木は、星の輝く夜空を背負い、遥かに地上を見下ろす高さまで長い影をくろぐろとそびえさせておりました。
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かといって、継ぎ目なく別な施設へ移り、あくせく仕事や勉強に精を出す気分にもなれなかった。
そう律儀に義理を果たしてやるほど、今の世の中に義理がないと、領域Aの職員にたしなめられた後も琅砂は考えていた。
――今になって嵐二のたがが外れたわけも少しはわかるような気がしていた。だれだって機会があれば、ちょっとぐらいいい思いをしていいんだし、きれいでいる理由もなければ、どこまでだって汚れていくのもしょうがない。
琅砂は、琅砂の個人データに基づきシステムが自動的に提案する日雇い仕事の、人を人とも思わないような安い報酬でどうにかしのぐ日々を続けた。
(個人所有および携帯の許可が下りず小型情報端末が買えなかったので、システムの使用方法は駅の公共端末で覚えた。)
廃業ホテルを改造した集合住宅の独房同然の一室を借りて当面の住処とした。
大家をしている老夫婦は、裏では繁華街の裏社会で闇賭博の胴元をしているという噂もあった。
領域Aの制服は返してしまったが、退所時に返された元の服はもう体に合わなくなってしまっていたから、ほかに型の気に入ったスカートを古着屋で見つけて買った。
食料品店や酒屋の店番で気の立った買い物客につっかかられたときは愛想笑いでごまかしていいかげんにいなした。
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家と畑と森を行き来する毎日の繰り返しがこのヤマイヌの日常でした。
雑草が伸びれば抜いて畑の手入れをし、食べ物が少なくなれば森へ赤梨を採りに行きました。近所の森を眺めていて、切り拓き新しい畑を作ってみようかと考えることもありました。
畑の作物が育てば獲り入れて実りをほかのヤマイヌたちと分け合いました。
よそのヤマイヌに乞われて畑の手入れを手伝いにいくこともありました。大きな畑を持つヤマイヌのところはどこもこのヤマイヌの畑よりたくさんの種類の作物を育てていて、収穫の量もずっとたくさんでした。
新しい畑を一から作る手伝いを頼まれることもありましたが、これは少し大変でした。
もし任されたのが石ころだらけのひどい荒地だったりしたら、耕すだけでも一苦労だし、せっかく畑ができても育つ作物の種類がとても限られているということだってあるからです。
逆に土は肥えていても育てるようにいわれた作物の種類が難しく、なかなか育たないということもありました。
畑仕事が思うようにいかないときには、ヤマイヌはがっかりしました。
村でお祭りがあると、大勢のヤマイヌたちと丘の上に集まりました。
燃えさかるたき木を囲んで輪になり、疲れ果てるまで踊りまわりました。
踊り疲れて草っぱらに座り込むと、ヤマイヌは決まってあの木を仰いだものでした。
梢が夜空に霞んで見えないほどの高い高い大きな木は、折り重なる野や丘の向こうに、いつもどっしりと重々しい姿で立っていました。
――あんなにおおきいとつよそうでいいなあ
あるとき、思わずヤマイヌは、木を見上げながらそんなことを言いました。
近くに座った別な白い毛のヤマイヌがそれを耳にして言いました。
――なぁに、ちいさくてよわいってのもいいもんさ。
つよいってことは、そのぶんうばうことやきずつけることも、よけいにできるってことだからな。
だから、きっと、つよくなんてならないほうが、いいやつのままでいられるんだ……
ヤマイヌはそっちのほうを見ましたが、言ったヤマイヌの表情は、宵闇に隠されて見ることができませんでした。
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