「想いの透明な欠片」 §3
琅砂は高さ7cmほどの"ヤマイヌ"の人形を玩んでいた。
ヤマイヌ。
二足で自立が可能な犬のような顔かたちを持つ全身が毛むくじゃらの生き物。
昔話でいうなら、満月の夜に変身した後の狼男の印象にちょっと近い見た目かもしれない。
楕円を複数組み合わせた幾何学形のテーブルの上には、顔つきや体の色が少しずつ違う、似たようなヤマイヌの人形があと20個近くも並んでいる。
隣の卓では、糸季先生が玻月と鈴々花に言って、ヤマイヌたちが暮らす集落の模型を整えさせていた。
「砂袋を持ってきてちょうだい。
南の砂漠に砂が足りないから、もう少し足しましょう。
玻月さん、東側に木が集まりすぎているようだから、ほかの地域に散らばしてくれる?」
丈の長く伸びた黒い上着を翻し楕円形のテーブルの周りを歩き回りながら糸季先生が指示を出す。
上着の下は琅砂たちの制服とそう変わらない服装なので、糸季先生は外見だけなら教官というよりやや年齢が上というだけの入所者の一人に見える。
「糸季先生、砂漠に雨を降らしてもいい?」
癖のある髪を二本のお下げに結った鈴々花が丸顔に人なつっこそうな笑みを浮かべて言った。
砂袋を持っていない側の手に〈雨〉の模型を握っている。
〈雨〉の模型は、テグス様の糸で幾本も青い雨粒が垂れている灰色の雲の部品を、細い鎖で台の上部から吊り下げた形をしていた。
「その案は却下、いったいどこの世界で砂漠に雨が降るんだよ」
「あら、だって人間の世界じゃないんだから、少しくらい不思議な現象が起こったって……」
自分より上背でまさる玻月に取り上げられた〈雨〉を奪い返そうと、鈴々花は腕を伸ばして跳ね回った。
「だからって、ほしいままに集落の形を変えると、ヤマイヌたちの暮らしが混乱するだろ」
玻月はきっぱりと言うと〈雨〉のことは西端の丘の頂上へ置いてしまった。
鈴々花は救いを求めるように背後に立つ糸季先生を見上げた。
先生は言った。
「鈴々花さんと玻月さんの考えは違ったわけね。
うーん。
どこの世界でもある部分はほしいままだし、だれかから見ればどこかの部分はいびつなのだから、どちらが正しいかにこだわるより仲よくできる答えを選んだほうがいいんじゃないかしら。
でもそうねえ、いまは砂漠に砂を足すほうを先にお願いするわ」
糸季先生は村の模型の前まで歩いてくると、砂漠の一画を指して鈴々花を促した。
琅砂は頬杖を突き、空いた手でヤマイヌ人形をなでながら、そのやりとりを見ていた。
「琅砂さん、箱からヤマイヌを出し終えたなら、こちらも手伝って」
糸季先生に呼ばれ、返事をしながら立ち上がる。
領域Aからの退所の時期や許可取得の方法について、琅砂は何も知らされていなかったし、ほかの少女たちも何か知っているようすはなかった。
ただ、入所から一年が経過したいま、受講課程が入所まもなくのころに比べて社会再適応訓練を強く意識したものになってきた印象や、入所者の顔ぶれの絶え間ない入れ替わりのようすなどから、一生ここに閉じ込められたままということはなさそうだと考えていた。
受講中、作業中、食事や入浴の時間、入所仲間と過ごす自由時間――……
ありとあらゆるふるまいについて、うまくいったと思えば退所につながる評価を受けられたかもしれないと内心で喜び、失敗すれば退所が遠ざかったかもしれないと怖れた。
領域Aの秘密主義は少女たちの表面を奇妙に穏やかにした一方、少女たちみなをひどく臆病にした。
外にいたころ、琅砂は生き延びるために毛を逆立て牙を剝いて自分を脅かすたくさんの影に抵抗した。
ここに来てからの琅砂は反対に、生き延びるためにどんな受け入れがたいものでも笑って受け入れ、行儀のよい少女を演じつづけようとしている。
領域Aの少女たちの間ではこんな話がまことしやかに囁かれていた。
入所者の感情制御に対する段階評価が退所許可の決定を下す判断基準の一つになっているという話だ。
これが本当だとしたら自分の救済の日はまだ当分来そうにないなと琅砂は憂うつに考える。
気分のむらを顔に出さずにふるまうのは決して得意ではない。
入所直後からいっしょに行動している玻月の皮肉な物言いに腹を立てなくなるまでずいぶんかかった。
新入りの少女から挑発的な態度を取られるようなことでもあれば、いまだにすぐ激昂してしまう。
琅砂は考える。
ここで直接自分のふるまいを評価しているとしたら糸季先生だ。感情制御に対する評価の話が本当だとしたら、自分はいまどの段階にあるのだろうか。
「わかった、赤梨がたくさん採れましたからおすそ分けしますって」
鈴々花が絵札を片手に玻月へ話しかけている。
アカナシはヤマイヌの食べ物になる果実で、森の樹木に年中生っている、ということになっている。
「贈り物? そんな雰囲気でもないけどな」
玻月が隣の席から絵札を覗き込んで言った。
〈赤梨の森〉は絵札と人形と集落の模型を使って行う簡単な心理テストだ。
横30cm、縦20cmほどの大きさの絵札が10種類ほど用意されており、ヤマイヌたちが集落で過ごすさまざまな場面がえがかれている。
参加者たちは二人一組を作って絵札を一枚選び、絵を見ながらどのような場面なのか想像して話し合う。状況が想像できたら、集落の模型とヤマイヌ人形を用いた即興劇を行い、絵札の場面を再現する。
話し合いと即興劇の内容が、糸季先生の記録によって心理状態を判定する材料に使われているらしいが、琅砂たちは今までいちどもテスト結果について知らされたことはない。
「じゃあねえ……もらった赤梨に毒梨が混じっていたので投げ返しているの」
鈴々花の笑い声が弾けた。
琅砂は、模型の細部を見るために据えられた台座付きの双眼鏡を覗きながら、玻月と鈴々花のやりとりを聞いていた。
10人掛けのテーブルの大半を占めるほど大きなフィールドの模型は、中央にある一本の大木を緩やかに起伏をえがく野原が取り巻き、幾本かの小川が流れている。野原のあちこちには樹木や水辺の部品の配置にしたがって森や池が点在していた。
「あの木はなんて種類の木なのかな」
思わず呟いた直後、琅砂は耳元に温度を感じて、はっと身構えた。
「さあねぇ」
ファンデーションの芳香が粉っぽく鼻をくすぐり、いつのまにか糸季先生が双眼鏡を覗く琅砂の顔のすぐそばへ顔を寄せていた。大人なのだから当たり前なのだが、糸季先生が化粧をしていることを意識したのは初めてのことだった。
琅砂は自分のほうは素肌を晒していることが急に気恥ずかしいように思えてきた。
「うろの中にヤマイヌたちが溜めたたくさんの赤梨が詰まっていたりして」
とっさに思いつきを口にしてあがっているのをごまかす。
「すてきな思いつきね。
だけど、すぐ一つに決めてしまうよりは――少し時間をかけて、たくさんの思いつきを溜めて、そうね、集めてから改めて考えてみてはどうかしら」
糸季先生が身を翻した後も、あたりの空気に残った体温がまだねっとりと耳元に絡みついていて、琅砂はしばらくぼんやりと温もりの中に身を浸していた。
円形に切り取られた視界の向こうに小川の光景が見えている。
こと、こっ、こっ、こと
緑の凸凹した野原の部品の上を、鈴々花の太っちょな指が動かすヤマイヌが、まっさおな塗料が一筋にえがく水脈のほうへ近づいてゆく。
「南の野原のヤマイヌさーん、急ぎのお届けものですよう」
「はいはい、いま受け取りにまいります」
玻月の動かすヤマイヌが反対側から対岸へ向かっていくのも見える。
二匹のヤマイヌが受け渡している荷物の中身は、結局、毒梨ではないことになったようだ。鈴々花のヤマイヌは岸辺で立ち止まり、小川を挟んで反対側にいる玻月のヤマイヌへ包みを放り投げた。
といっても所詮は人形を使ってのまねごとなので、ヤマイヌ人形たちが本当に動いて場面を再現してみせたわけではない。鈴々花と玻月が互いに自分のヤマイヌ人形を振り動かして演じているだけだ。
「明日のお祭りで配る花の種が届きました」
「あぁ、やっと来たのか。
遅れていたのでまにあうかとずいぶん心配したんだ」
琅砂はレンズ越しに、鈴々花のヤマイヌと玻月のヤマイヌがはしゃぎあうのを見ていた。