桜の木の下で男気が溢れ出す
大喜利的な例題より作成しております。
麗らかな風が頬を撫でると剛太郎の瞼はより一層重さを増した。
昨夜の狩り場での疲労感が今になって堪えてくる。 止めておけばよかった、早く寝ればよかったと毎朝同じことを思うのだが剛太郎はそれに夢中になるとついつい時を忘れでしまうのだ。だだし、剛太郎が夢中になる理由はそのオンラインゲームが秀逸であるということだけではない。
剛太郎はその場所が好きだった。そこは噎せ返るほどの熱気を伴った男達が集う戦場。たかがゲームの画面に映し出されるアバターであるのにそこから滲み出るような人間味が堪らなく剛太郎を引き付ける。そしてその場には男の汗と涙と情が溢れていた。
剛太郎は好きだった。そこに溢れる男の香と女々しいビギナーを守る自分の姿が。
その可憐なるビギナーに感謝されればこの上ない喜びを感じる。たとえオンラインの向こう側にいるのが冴えない中年男であったとしてもそれは構わない。ゲーム画面の中のキャラクターさえ可愛らしければそれでいい。
ただし条件はある。どんなアバターでもよいというわけではない。やはり趣向は大切である。のっけから筋肉モリモリのアバターを選んでいる新人は嫌いだ。例外としてモフモフなキャラには少し惹かれるところがあるのだがしかし、そこに罠がある事を十二分に知り尽くした剛太郎はあえてそこには近付かないようにしている。
自分の趣向を折り曲げる事をせず剛太郎は譲ることをよしとしなかった。
そしてもう一つ、剛太郎はボイスチャットを使わない。それが自分の幻想を砕く凶器であることが分かっているからである。
結論として突き詰めて言えば、好みはやはり守ってあげたくなるような美少年系のキャラクターということになる。
陣川剛太郎17歳。これは実に言いにくい事ではあったが、彼は言ってしまえば筋金入りのチェリーボーイ好きであった。
校門のすぐ脇にある桜はすでに見ごろを終え、残された花弁の隙間から淡い緑を覗かせている。大きく張り出した枝をそよ風が撫でると花弁が雪のように宙を流れた。
先程まで丸くなっていた背筋を伸ばし厚い胸板を張り出して、野性味あふれる精悍な顔が宙を見上げる。
春になり少々威力を増した日差しにも相まって美しい花弁の流れを追う剛太郎の瞳は意図せず細くなるのだが、それでも剛太郎はその美しさに見惚れていた。
「おはよう、剛太郎!」
重い体を引きずり、強い眠気で微睡んでいるところに声が掛かった。それは剛太郎のよく知った声であった。剛太郎の背筋に緊張が走る。
声は後ろから聞こえてきたが剛太郎にはその声の主が誰であるかなど詮索する必要もない。どのような状況下に置かれようとも剛太郎はその人物だけは直ぐに特定出来てしまう。
剛太郎の嗅覚はいつだってその者の匂いを捉えることが出来る。だから例えその人物が後ろにいて目視出来ずともちゃんと気付くことが出来るのだ。それは日頃の格闘技の鍛錬によるものでも、あの熱い戦場での経験に基づくものでもない。理由は剛太郎の胸の底にそっと秘められているので口には出せなかったが確かにそこにある事だけはしっかりと認識できていた。
「……あ、あああぁ、綾之助」
「剛太郎、今日の英語の課題ちゃんとやってきたか?」
輝く笑顔がそこにあった。少しソプラノ掛かったその声も耳に心地よかった。それが先程まで眺めていた散り行く淡い桃色の花弁のイメージに重なり、剛太郎の胸をキュンと締め付ける。
しかし、剛太郎は直ぐに我に返る。次郎の言葉の中に数時間後に訪れるであろう我が身の危機を感じ取ったからである。それは難題であった。そして直ぐにどうにか対処できる問題でもない。
想像できる範疇の危機は前もって予期して備える。これは戦場では当たり前のことだ。
だが剛太郎は失念していた。
「英語の課題……」
不味いと思う。その事から逃避をするように剛太郎の口から思わず言葉が漏れた。そして自分の吐いた音を耳にすれば、その言葉は更に自分を追い込むようであった。逃げたいと思う。一刻も早く。その問題を回避したいと思う。英語の担当教師の顔を思い浮かべ、あの至極サディスティックな金髪女教師の侮蔑を含んだ見下げる視線を思い出すだけで汗が噴き出した。剛太郎の鼓動が更に速さを増した。
「……あっ、やっばぁい、忘れてたぁー」
現実を逃避し過ぎたために声が上ずり裏返る。口調もなんだがおかしくなった。
剛太郎の武闘派的な巨躯から発せられた乙女チックな裏声が、登校中の多くの生徒でごった返すその空間を凍りつかせる。
剛太郎の背中を汗が流れた。剛太郎は全身から羞恥心を噴き出して下を向いた。成す術を失った剛太郎は災難が通り過ぎるまでその場で耐え忍ぶことしかできなかった。
しかしそのような光景を全く意に介しない人物がそこいた。綾之助である。
「はぁ……やっぱりか……」
小さくついた溜息が可憐であった。
綾之助は、仕方ないなというふうに困った顔で首をちょんと傾げ両手を腰に当て剛太郎の顔を覗き込んできた。再び剛太郎の胸がキュンと音を鳴らす。そして思う。その華奢な体のどこにこのような胆力が備わっているのだろう。ジワリと感動が込み上げ思わす涙腺が緩む。三度胸が鳴ると剛太郎の周囲に展開した妄想フィールドに薔薇の花が咲き乱れた。
もはや胸の鼓動は止められない。剛太郎は慌てて自分を見つめる綾之助のキラキラとした丸い瞳から顔を逸らした。
「…………」
「――ったく、だと思った。仕方ないなぁ、俺のノート写させてやるよ」
助けてやるという綾之助の声を天使の声として剛太郎は聞いた。これであの英語教師の責めからは逃れられると安堵する剛太郎であるが、その救済のことばかりが綾之助の声を天使の声だと思わせたのではない。
うっとりとして空を見上げればそこに青い空が見えた。
(――ああ、青い、今日の空はなんて青いのだろう……)
「――剛太郎! おい! 剛太郎!」
「お、おお、すまん、すまん、綾之助。感謝する。放課後なんか食いに行こう。もちろん私が奢らせてもらう」
礼の言葉を心を込めて口に出す。だがその言葉を言い終えた時、剛太郎の頭の中に煌く閃光が走る。
(――おお! なんと! これは何という天の配剤か!)
憂い事が無くなりサッパリとした剛太郎は男らしい振舞いを取り戻した。いや、男らしさを取り戻した理由は問題が解決したということばかりではない。そこにはしっかりと「男らしさ」をアピールしたい男心があった。そして勿論こと綾之助に感謝の意を込めて放課後の約束を取り付けたのにも別の理由が生まれていた。
剛太郎は振り返り己の中の狡猾さを恥じた。しかし想いはどうしようもない。
放課後に綾之助と食事をする。剛太郎の中でこれはもはやデートである。
事が決れば待ち遠しい。あのヒステリックな金髪女軍曹のことや、Englishの課題のことなどもうどうだっていい。きょうの放課後、何かが起こるかもしれない。
剛太郎は胸に奇跡を頂き心を躍らせていた。
生徒玄関の正面入り口の前で、そよ風は新芽の香りを運び、春はより一層の希望を生徒達にもたらせていた。剛太郎にもう眠気はない。ギラギラと心は熱く燃え盛っていた。