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 毎日の修行をおこなっている場所を根の谷という。地表を這っている木の根に天翔丸が足をひっかけてすっ転ぶと、陽炎はその無様な姿を冷たい瞳で見下ろし無感情な声で言った。

「いつにも増して集中力がありません。どうしたんですか?」

「……うるせえよ」

 言い返しながら、天翔丸は溜息をもらす。

 なかなか強くなれないという悩みに加えて新たな悩みが発生し、それが昨夜からずるずる尾を引いている。女を抱くも抱かないも個人の自由だと思うが、異常などと言われてはさすがに気になった。

 天翔丸は身体を起こし、陽炎を見上げた。

「あのさぁ……」

 言いかけたが、すぐに思い直した。

(復讐相手に相談してどーする)

 しかし他に適当な相談相手はいない。こんなことを琥珀に相談するわけにもいかないし、黒金に言ってもからかわれるだけだろうし、雲外鏡は眠りっぱなしで呼びかけてもちっとも起きてくれない。悩みを解決する糸口が見つからず溜息をついたとき、陽炎が言った。

「八雲に何か言われたのですか?」

 図星を突かれて天翔丸はどきりとした。何も言っていないのに心中を見抜かれてしまった。この男にはこういう鋭さがある。

「いつも言っているでしょう。あの男の言うことなどまともに聞く必要はありません。余計なことは考えず、いまは鞍馬天狗としてふさわしい力が身につくよう、武術の修行に集中なさい」

 天翔丸は忌々しげに舌打ちした。陽炎は鞍馬天狗が修行さえすれば他はどうでもいいのだ。こっちの気持ちや悩みなど、余計なことと言い捨てて気にもとめない。

 こんな非情な男に一瞬でも相談をもちかけようとしたことを苦々しく思っていたとき、ふいに陽炎が空を見上げた。その蒼い瞳が鋭利に細くなる。

「どうした?」

「何か来ます」

 厚い雲がたちこめている空には何も見えなかったが、気を澄ましてみると天翔丸にもその気配が感じとれた。

「妖気!」

 それもかなり強い。

 次の瞬間、雲の中から何かがとび出してきた。妖気を放つそれは少女。ひらひらした美しい衣をまとった若い女が空を泳ぐように飛んでいた。

「げっ、女が空飛んでる!」

「雲外鏡、あれは」

 陽炎の呼びかけに応じて、天翔丸の胸元の鏡が青白く光り、ぱっちりと開けた無数の目で女を凝視して言った。

「ほう、こんなところで珍しいのう。ありゃ山姥じゃ」

「山姥〜!?」

 幼い頃、幼なじみの真砂から聞かされたことがある。山で人を喰らうという老女の妖怪の昔話。だが実際に天翔丸が目にした山姥は、どっからどう見ても若々しい。天翔丸より少し年上の、美少女と言っても過言ではない容姿だ。

「山姥って、婆さんの妖怪じゃないのか!?」

「山姥とて生まれつき歳をとっているわけではない。若い山姥もおる」

「なんで山姥が空を飛んでるんだ!?」

「羽衣を着ておるからじゃ」

 うら若き山姥は羽衣をひらひらとはためかせて蝶が舞うように飛びながら、せわしなく後ろをふりかえっている。

 山姥が出てきた雲から、今度はウンモーという鳴き声が聞こえ、次の瞬間巨大な黒牛が飛びだしてきた。

「げげっ、牛が空を走ってる! なんだありゃ!?」

 雲外鏡はあくび混じりに答えた。

「あれは牛鬼(うしおに)じゃ」

 通常の牛の三倍はあろうかという巨体で、恐ろしげな鬼を思わせる表情をし、大木のような太い足で力強く宙を蹴りながら駆け、頭にある二本の牛の角を突きだして、牛鬼は逃げる山姥を追いかけていた。

 山姥が天翔丸たちに気づき、美しい顔をしかめながら怒鳴った。

「おい、そこのこわっぱと黒衣の男、何をぼさっとしておる! さっさとわらわを助けろ!」

 助けを求めるにしては態度がでかい。

 天翔丸が眉をひそめていると、山姥は舌打ちしながら素早くこちらの背に回ってきてぐいぐい前に押してきた。

「わっ、な、なんだよ!?」

「なんでもいいから、さっさとあの牛を成敗しろ!」

「せ、成敗って……!」

 反論する間もなく、大岩のような牛鬼がこちらへむかって猛進してきた。

 天翔丸は動揺しながらも、とにもかくにも七星をぬこうと柄に手をかける。するとその手に大きな手が重なって止められた。

「私が」

 言うや否や陽炎は霊符を矢のように飛ばし、突進してくる牛鬼の手前にある一本の枯れ木に貼りつけた。

「破ァ!」

 陽炎の霊力で符が青白く光り、刹那、枯れ木が粉々に砕けて破片が飛び散った。その破片が牛鬼の目に入り、視野を閉ざされた牛鬼は周囲の木々に激しくぶつかりまくる。

 陽炎は天翔丸を抱え上げて跳躍し、安全な岩陰に避難した。だが山姥は現場に残されたままだ。

「おい、おまえも……!」

 逃げろ、と天翔丸が言おうとしたそのとき、山姥は自ら牛鬼に突進していった。

「きえええええっ!」

 山姥は気合いの声をあげ、いきなり手近にあった杉の木を回し蹴りでへし追った。

「いいっ!?」

 仰天する天翔丸の目の前で、山姥はめきめきと倒れていく大木をがしっとつかむと、

「くらえっ!」

 牛鬼めがけて勢いよくふり回した。牛鬼の巨体は大木に打ち飛ばされ、まるで毬のようにくるくる回転しながら空の彼方へふっ飛んでいった。

 山姥は紅で彩られた口を大きくひろげて哄笑した。

「はっはっは、まいったか牛め! 顔を洗って出直して来いっ!」

 天翔丸はあんぐり口を開けたまま呆然とした。見た目、山姥の身体つきも腕もふつうの女のように細くか弱そうに見える。か弱いどころか、これぞまさしく怪力だ。

 山姥はまるで箸でも放るように丸太を投げ捨てると、手をはたきながら陽炎に言った。

「でかしたぞ、黒衣の男。牛の視界を封じるとは、なかなか気の利いた助力じゃった。褒めてつかわす」

 威丈高な態度でそう言って、ふいに「ん?」と目をこらすようにこちらを見た。そして大股でずかずか近づいてくると、天翔丸を邪魔だと言わんばかりに押しのけ、背後にいた陽炎の顔を無遠慮にじろじろと見て目をうっとりとさせた。

「そなた、いい男じゃのう。わらわと交尾して子を作らぬか?」

 天翔丸はぶほっと吹きだした。

「わらわは山姥じゃ。しかも山姥一族直系の姫じゃ。どうじゃ、交尾したくなったじゃろ?」

 陽炎は眉一つ動かさずに淡々と言った。

「他山に入ったからには、まず主に挨拶するのが筋でしょう。こちらがこの鞍馬山の主、鞍馬天狗です」

 陽炎によって前に押し出された天翔丸を、山姥はまったく興味なさそうに一瞥して、

「邪魔するぞ、鞍馬天狗」

 とそっけなく言うと、また陽炎に熱いまなざしをむけた。

「交尾じゃ。わらわと交尾じゃ。異存はないな?」

「山姥の結婚および交尾には、一族の長老たちの許可が必要なはずです」

「大丈夫じゃ! そなたのような美形が相手なら、婆様(ばばさま)たちもきっとお許しになる! 歳をくっても婆様たちとて女じゃ、いい男には弱い! その顔で押しきれる!」

 ものすごい理屈だ。

 でも、と天翔丸はにやりとした。これはなかなかおもしろい出来事のように思われた。山姥の強引な申し出に冷酷無比な男がどう対処するのか、天翔丸は興味津々に見物した。

「山姥と交尾する資格は私にはありません。確かめられよ」

 そう言って、陽炎は手をさしだした。

 山姥は自分の掌と陽炎の掌を合わせると、眉根を寄せてうなった。

「うむむ……そうか。口惜しいが、仕方がないの。交尾はあきらめよう」

 どうやら話は決着してしまったらしい。もっとも何がどうなって決着したのか、天翔丸にはさっぱりわからない。

 山姥は天翔丸にむかって傲然と言い放った。

「おい、鞍馬天狗。わらわは腹が減ったぞ。飯と酒を用意せい」

 つくづく態度がでかい女だ。

 無礼な言動に天翔丸がむっとすると、陽炎が耳打ちしてきた。

「修行はひとまず休止にします。あなたは山姥を巣へ案内し、おもてなししてください」

「ーー怪しい」

 天翔丸は不信感をあらわに陽炎をにらみつけた。

「修行を休止して山姥をもてなせだと? いつも何より修行を優先させるくせに、どういうつもりだ? 怪しすぎる! 何かたくらんでるだろ?」

「山に来たものを迎えるのは主の役目です。山姥一族とこれを機に親交を結んでおくのも悪くないでしょう」

 でしょう、などと言われても何が良いのか悪いのか、天翔丸にはまったくわからないので答えようがない。

「いいですね? 私は食事と酒を用意してきますから」

 その言葉で、天翔丸は山姥をもてなしてやることにした。なんにせよ、大好きな酒が飲めるなら大歓迎である。


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