魔獣と化して
「そいつはもう駄目だ!! 完全に魔獣と化したぞ!! 離れろ!!」
俺がグズリの変調を悟ったとき、その近くにはまだ異変に気が付いていない者が数人いた。
『カァアアアー――!!』
元より大柄だった体を数倍に膨れ上がらせた魔獣グズリは、耳を劈く奇声を発して腕を振るった。
全くの不意討ちで、近くにいたハミルの魔導兵が一人、攻撃に巻き込まれる。
魔導鎧が衝撃を吸収するが、それでも一撃の勢いは殺しきれず洞窟の壁へと叩きつけられていた。
「グズリ!? てめえ、なにとち狂ってやがる!?」
グレミーの声にもグズリはもはや反応せず、瑠璃色の眼光を輝かせて次なる獲物を探し求めていた。
グズリが再び見境なしに暴れまわる中で、ハミル魔導兵団の学級長レーニャが隙を見て仲間を介抱しに走る。
「大丈夫ですか!?」
気絶しているのかぐったりと動かないハミル魔導兵であったが、レーニャに悲壮感が見えないことから命は取りとめているようだ。
(とは言っても、魔導鎧がなければ即死だったろうな……)
魔獣と化したグズリの腕力に対して、正面からまともに向かうのは愚かな選択だろう。
――だと言うのに、無謀にも魔獣グズリに真正面から向かっていく一団がいた。
「くぁあああっ!!」
雄叫びを上げながら、赤褐色の闘気をまとった騎士ガザンが巨大棍棒でグズリに殴りかかる。
大上段から打ち下ろされた棍棒を、魔獣グズリは片腕を振るって弾き返した。
丸太のような太い腕と巨大な棍棒が衝突し、辺りの空気を震わせる。
本来なら、闘気をまとった騎士の攻撃を生身で受けるなど不可能なはずだが、元から強靭な熊人グズリの体は魔獣と化すことで尋常ではない硬さの肉体となっていた。それでも幾らかは効いている様子で、グズリの右腕は大きく陥没していた。
だが狂える魔獣となったグズリは自らの体の損傷を気にかけることなく、ガザンへと襲い掛かってくる。
『ゴォフゥ――ッ!!』
闇色の毛皮がざわざわと音を立て、黒い靄を口から吐き出しながらグズリが突進してくる。
「奴の足、止めろ!」
ガザンの声にコンゴ魔獣討伐隊の術士が即座に前へと出る。筋骨隆々の女術士が、身の丈ほどもある錫杖をグズリの足元の地面に突き立てて呪詛を吐く。
『荒ぶるもの、戒めよ! 縒り紐の蔓草!』
地面から複雑に絡み合った植物の蔓が伸び、グズリの足へ絡みつく。最初に絡みついた数本はグズリの突進力の前に引き千切られるが、わずかずつ勢いを削ぎながら次々と蔓が絡み付いていき、ついにグズリの足を地面へ縫いとめることに成功する。
「今! かかれ!」
ガザンの号令と共にコンゴ魔獣討伐隊、五組の騎士と術士が一斉に魔獣グズリへと躍りかかる。
本来なら後衛を務めるはずの術士まで重量感のある武器を手にして突撃していく様子は、騎士と術士の役割というものを考え直させる光景であった。
「コンゴの戦士、参る!」
腰溜めに突撃槍を構えて、土色の闘気をまとった騎士が突進する。
まともに受ければ体に穴が開くだろう一撃を、グズリは器用にも体を半身だけ移動させて、槍を腕と脇で挟み込み突進の勢いを殺してしまった。
「なっ、なんと!? だが、浅はかなり魔獣!!」
突撃槍を持つ騎士の背後から、筋肉の塊が飛び出してくる。
騎士の背中を乗り越え、グズリの頭上から降ってきたのはコンゴ魔獣討伐隊の女術士だ。
丸太のように太い六角棍を振りかぶりながら、腕に刻まれた魔導回路を強く輝かせている。
『堅き者、打ち砕け! 玄武の岩塊!』
六角棍が振り下ろされる直前、先端に灰色の岩の塊が出現して、強かに魔獣グズリの頭頂部を打ち据えた。
鈍く、重い破砕音が響き渡り、グズリの頭頂で巨大な岩がばらばらに弾け飛ぶ。
衝撃でグズリの上半身がぐらりと傾いだ。
通常生物よりも遥かに頑強な魔獣相手に、魔導と体術を組み合わせた攻撃で立ち向かっていくコンゴの女術士。
「武闘術か、荒業だな……」
術士とは思えない力強い攻撃動作に俺は思わず見入っていた。どれほどの修練を積めばあそこまで強力な武闘術を使えるようになるのか。
だが、魔獣グズリもまた尋常の敵ではなかった。
脇に抑え込んだ突撃槍ごと騎士の体を持ち上げ、距離を詰めようとしていた別の騎士に向けて投げ飛ばす。
「ぐぅっ!?」「ぬわっ!!」
二人の騎士は折り重なるように倒れこみ、慌てて体勢を立て直している。
闘気をまとった騎士が衝突することで、お互いに予想以上の痛手を受けたようだ。
(……闘気を打ち破るには闘気をもって当たるしかない、とは言うが……闘気をまとった騎士を投げ飛ばしてぶつけるとは……)
騎士に対抗する術を追い求めていた俺でも、こうした対処法は思いつかなかった。もっともこんな真似ができるのも魔獣グズリの驚異的な身体能力があってこそだが。
『カァアアアッ!!』
魔獣グズリが吠え、両腕を交互に振るう動作を繰り返し、足元に絡みついた蔓草を鋭く伸びた爪で切り裂く。
戒めから解き放たれたグズリはコンゴ魔獣討伐隊の包囲から飛び出して、たまたま突進した先にいた医療術士ミレイアに爪を振るった。
「――え?」
事態についていけず、呆けていたミレイアの眼前を熊の爪が通り過ぎていく。
白い法衣が翻り、ミレイアはわけもわからぬまま横転して地面を転がると、数秒後には仰向けで倒れていた。
「させるものかっ!!」
ミレイアに追撃を加えようとしていたグズリに向かって、騎士セイリスが果敢に斬りかかった。
しかし、既に理性を失っているだろうはずのグズリは、器用にも大きな体を丸めて横っ飛びに転がり、冷静にセイリスの太刀筋を読んで攻撃を避けてみせた。
――そこへ、俺の放った呪詛が炸裂する。
『六面猛火!!』
黄金六面体結晶の黄鉄鉱に刻まれた魔導回路が光り輝き、拳大の火球が六発、魔獣グズリの体に直撃して次々と爆炎を吹き散らす。
苦悶の声を上げて後ずさりするグズリ。体のあちこちが焼け焦げて、闇色の毛皮が一部で剥がれ落ちる。
表面的に軽い火傷を負わせた程度だ。ただの獣ならば、今の攻撃で毛皮どころか肉と脂肪を蒸発させているはずなのだが、さすが魔獣と言ったところだろうか。
「……師匠、お見事です」
「いや、俺の攻撃は大して効いていない。やはり、魔獣はしぶといな……」
グズリからは注意を逸らさずに、俺はゆっくりと後退していく。
コンゴ魔獣討伐隊のように、前へ出て戦うことを俺は好まない。騎士と違って術士は、一撃でも攻撃を受ければ致命傷になりかねないからだ。特に、魔獣などといった非常識な敵なら尚更である。
退いたついでにちらりとミレイアの方に視線をやると、彼女はようやく起き上がってこようとしていた。騎士のナブラ・グゥが助け起こしている。
先ほどグズリの急襲があったとき、ナブラ・グゥがミレイアを押し倒すようにして庇っていたのだ。
「あ、ありがとうございます……助かりました」
「いや、気にしないで」
そう言うグゥの背中には、薄らと熊爪の四本筋が傷痕として赤く浮かび上がっていた。グズリの攻撃を受けたのがミレイアなら、おそらく背骨を抉り取られていただろう一撃だ。
「……兄様! お怪我をしているじゃないですか!!」
「大したことないよ」
妹のルゥが駆け寄ってきて、兄グゥの背中を痛々しげに見つめる。その様子を見たミレイアがグゥの背中へ静かに手を添えて、治癒術を行使した。
(――破れるを塞げ――)
『皮肉再生……』
背中の皮膚が再生し、グゥの背中にあった傷痕は跡形もなく消えてしまった。
「これで大丈夫です」
「ありがとう。助かったよ」
「いいえっ!! こちらこそ、本当に、その……助けて頂いて……」
何故か尻すぼみに声が小さくなり、ミレイアは顔を赤く染めてもじもじし始めた。
グゥの方もそんな彼女を見て、どうしてか顔を赤らめ視線を宙にさまよわせている。
そんな二人をじっとりと冷え切った目でルゥが観察していた。
この戦闘時にいったい何をやっているのだろうか、彼らは。
『ゴォオオッ!!』
グズリの咆哮に、俺は瞬時に意識を目の前の敵へと戻した。
火球の攻撃を受けていきり立ったグズリは、口から真っ黒な涎を垂らしながら一直線に俺の方へと突撃してくる。
どうやら俺を一番の敵と見なしたらしい。
すかさず俺の前に立ち、グズリを迎え撃つ態勢に入るセイリス。
まだまだ危なっかしいところはあるが、旅を経てセイリスの戦闘技術も向上していた。
上半身の姿勢はまっすぐに保ったまま崩さず、足運びは軽やかに、乱暴に振るわれるグズリの爪を巧みに刀身で弾いて受け流す。
けれども、セイリスの方からはなかなか打って出ることができないでいた。半端な斬撃では固い毛皮に阻まれてしまうし、斬撃が通ったとしても一撃で致命傷を与えなければ、手痛い反撃をくらうのが目に見えている。
一進一退の攻防が続いているが、戦闘が長引けばセイリスが不利。
ただ、俺もコンゴ魔獣討伐隊も加勢する機会を逸していた。下手に飛び込めばセイリスの邪魔になるし、嵐のように暴れまわるグズリの腕に思わぬ一撃をくらう恐れもある。
一瞬、セイリスとグズリの間合いが開いた。
誰もがその一瞬に、グズリを仕留める必殺の一撃を叩き込もうと身構えた。
そして、誰よりも早くグズリに向かって飛び出して行ったのは――。
「グズリ……てめえとの誼だ。俺が引導渡してやるよ」
弾丸の如く飛び出した狼人グレミーが、魔獣グズリの脇腹に妖爪鎌鼬を深々と突き刺していた。
グズリはこれまでになく大きな咆哮を上げて、両腕を高く掲げるとグレミーへ抱きつくように爪を振り下ろした。
硬い爪がグレミーの肩と背中を引き裂く。それでもグレミーは一歩も引かずに、むしろ踏み込んで妖爪鎌鼬を深く深く捻じ込んだ。妖爪の突き刺さった傷口から、黒い靄が勢いよく噴き出している。
妖刀や霊剣の類は幻想種に対して、彼らを滅ぼす強い効果を発揮する。それは魔獣に対しても効果的であり、グレミーの持つ妖爪もまたその特殊な力を宿していた。
「来世でまた……一緒に暴れようや……」
グレミーは大量の血を零しながら、小さな声でグズリに語りかけた。
もはやグズリの体からは黒い靄も立ち昇ることなく、闇色の毛皮は薄ぼけた灰色に変わっていた。
瑠璃色に輝いていた両目も、次第に光を失って白く濁っていく。
グレミーとグズリは互いの体に爪を刺し合ったまま、その場で立ち尽くしたように動かなくなった。
グレミー獣爪兵団は全滅した。