世界の終結
[Dec-25.Mon/00:00]
四つん這いの、獣を彷彿とさせる構えの吸血蜘蛛と、アキラは対峙する。
『シィィィ……』
大きな口を開け長い舌を出し、尖った薄汚れた歯を剥き出しに、吸血蜘蛛は鳴く。
「ンの、蜘蛛野郎!」
一足飛びで吸血蜘蛛の懐まで入り込んだアキラは、心臓めがけて篭手弓を放つ。が、吸血蜘蛛は恐るべき機動力で横っ飛びにかわし、左腕を袈裟斬りに薙ぐ。
「フッ!」
それをしゃがんで避け、唸りをあげて飛来する吸血蜘蛛の右の第二撃を、バク転の要領で避け、再び懐に潜り込む。
「四〇〇〇年の歴史を、なめんなよ」
全体重を乗せた右の肘打ちが吸血蜘蛛の胸部に直撃、右肘を軸点に裏拳、その反動を利用した左の掌底。流れる様な連撃は全て、吸血蜘蛛の胸に直撃する。そのどれもが、人間が相手ならば文字通り必殺の一撃である。
素早く洗練された、激流の河川の様な拳法・金剛八式。
急所を突き薙ぎ払い、必殺を目的に撃つこの拳法を受け、
吸血蜘蛛の反撃の一手を横払いに喰らい、身長一九〇強はありそうなアキラの身体が吹き飛んだ。
「フグッ!?」
一回二回三回と、ピンボールの如くアキラの身体が石の剥きだした荒原をバウンドする。
四回目のバウンドを迎える寸前で、アキラは空中で体位を強引に変え、全身の筋肉のバネを駆使して何とか着地する。
が、まるで槍と形容する他ない吸血蜘蛛の追撃の突きが飛来する。
「チィ!」
身を捻りこれをかわし、フロントステップで再三、吸血蜘蛛の懐に潜るアキラ。
手足が長い吸血蜘蛛が相手ならば、むしろ距離を取る方が危険だと践んだからだ。
格闘技の世界では、頭がくっつく程の近距離で闘う方が安全だというアキラの経験があるからこそなせる芸当である。
「殺!」
全身を深く沈め、吸血蜘蛛の膝を払う様に手刀を撃つ。
ガクリと体勢を崩し、下がった吸血蜘蛛の腹部を打ち上げる掌底の一撃。吸血蜘蛛の巨大な身体が、ほんの僅かに浮く。
そのまま、右足を軸に吸血蜘蛛の側面に回り込み、長い膝を蹴りで折る。
「東洋人は身体が小さい分、こういうセコい闘い方を最も得意とする」
伏せかけ、といった様相の吸血蜘蛛の腹部めがけ、回し蹴りをブチかました。
全長四メートルは軽く越しているだろう吸血蜘蛛の巨体が、まるで水切り石の様に軽々しく吹き飛び、荒原を数度、バウンドした。
「もっとも、俺には英国紳士の血も混じっている訳だがな」
[Dec-25.Mon/00:10]
「スゲェ……」
こめかみから流れる血も忘れて、僕はアキラの強大さに身震いした。
僕の腕の中には、吸血蜘蛛の爪により腹を裂かれた、ぐったりとしたルーナの身体がある。息はあるが意識はない。恐らく、インパクトの瞬間、とっさに飛んで衝撃を殺したのだろう。思ったよりも傷は浅い。
何より、その浅い傷は早くも直りかけている様だ。
血は完全に止まっているのが何よりの証拠だ。
「……ルーナは、大丈夫そうだな」
狙撃銃の銃床を握り締め、僕はそっとルーナを地面に寝かせた。
「とにかく、まずはアレをどうにかしなくちゃな」
視線をルーナからアキラへと移す。
復活した吸血蜘蛛を動きだけで翻弄し、小回りの利いた小攻撃だけで立ち回っている。確かに一見すれば押している様に見えるかも知れないが、実際は苦し紛れの特攻に過ぎない。
僕は狙撃銃に突撃銃用の弾倉を装着、レバーを引いて弾薬を装填する。
暗闇の中で闘うアキラと吸血蜘蛛を肉眼で追いかけながら、スナイプ。
急に音が途切れ、暗い筈の一帯が真っ白になり集中は絶頂に達した。極限の集中、無我の境地。
先刻、忠告された通り、僕は無我の境地を展開したまま、アキラに警告する。
「アキラ!」
僕の叫びに、アキラは振り返らずに答える。
「あ!?」
「避けろとは言わない、当たるな!」
「何言っ……ウゲェ!?」
僕のやろうとせん事を理解したのか、アキラは頭を抱えてその場に伏せた。
刹那、
ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドゥン!!
雷よろしく、断続的に爆音が宵闇を引き裂く。
僕は半自動で308ウィンチェスター弾を全弾、吸血蜘蛛にブチ撒けた。
それらは全て、腕と言わず腹と言わず足と言わず、吸血蜘蛛のありとあらゆる部位に突き刺さる。
『グゲゴォオオェ!!』
醜く嘶き、唾液をまき散らしながら、吸血蜘蛛が横に吹き飛ぶ。
「ってゴルァ待てやカナタァ!!」
次の瞬間にはアキラは立ち上がり、僕に怒りの矛先を向けてきた。一応、背後の吸血蜘蛛にも注意を払っているようだ。
「だから俺を殺す気かテメェ!」
「何でだよ!お前が言った通り、ちゃんと先に注意しただろうが!それがどんなに大変な事か分かって言えやゴルァ!!」
「知るかよンな事!大体、『当たるな』ってどんな警告だよ!?テメェこそこっちに来て拳でこの化け物と対峙してみれ!」
「人には得手不得手ってのが――ッ後ろ!」
「分かってる!」
言葉と同時に、アキラはバックステップ。
ズガァァア!吸血蜘蛛の一撃で、一瞬前までアキラがいた場所が抉られる。
「クッソ……」
撃ち尽くした二〇連弾弾倉を新しく装着し、構えようとして、僕は驚愕した。
吸血蜘蛛の巨体が。
全身に浴びたライフル弾をものともしない、強靱な巨体が。
アキラの長身を飛び越えて、僕めがけて駆けてきた!
「マズい!カナタ、逃げろォ!!」
叫びながら、アキラが吸血蜘蛛を全力で追う。氣という力を使っているのか、一足で数メートルの距離を進んでいる。
だが、長い手足を駆使した、蜘蛛を思わせる走行をする吸血蜘蛛には、届かない。
僕はというと、引き金を引けないでいた。
二十数メートルもの距離を僅か半秒で詰めた吸血蜘蛛が、横薙ぎに僕の身体を弾き飛ばした。
強い衝撃。自動車にノンブレーキでぶつかられた気分だ。
「あがぁ……」
肺の空気を全て吐き出し、僕の身体が紙屑の様に風を切り、ぐんぐんと勢いをつけて飛ぶ。地面には大きめの石や岩が剥きだしていて、打ち所が悪ければ死は免れない。
しかし僕にはアキラみたいな、空中で体位を変えるなんて真似は出来ない。
地面が迫る瞬間が、スローモーションに見える。
が、地面スレスレ、逆さまのまま飛んでいた僕の髪が垂れて露出した地面に触れる距離まで接近したところで、僕の身体が制止した。
「カナタ、大丈夫?」
飛んでいた僕を受け止めたのは、紛れもなくルーナだった。
腹部の傷は完全に癒え、全快したルーナが僕の身体を両手で支えていたのだ。
「お前……どうして……」
「アキラがカナタの名前、叫んだでしょ?それで目を覚ましたのよ」
逆さまというのが情けない事だが、今は敢えて無視しておく。
ルーナは僕をゆっくりと地面に下ろし、キッと吸血蜘蛛を睨みつける。その目つきを見て、僕はゾッとした。
夜、憂いと儚さに満ちた悲しそうな目とは違う。
朝、僕を起こした時の楽しそうな目とは違う。
昼、電車に乗った事に感動した喜びの目とも違う。
それは僕が初めて見た、烈火の様な明らかな怒り。
「アキラ。休んでて。そいつ、私が殺すから」
冷めた、まさしく絶対零度の声。
目は据わっていて、しかし吸血鬼の尖った犬歯は剥き出しに、ルーナは立ち上がり、吸血蜘蛛に歩み寄る。
「たかが異端風情が、……よくもやってくれたな」
ゴキゴキ、とルーナの指が鳴る。
口調は荒々しく、吸血蜘蛛とアキラは固まっている。
「……Delenda est Carthago」
ルーナが、何かを呟く。
特殊部隊に入った時に教えられた言語に単語が該当した。これは、恐らくイタリア語だ。
『カルタゴは滅ぼさねばならない』
確か、プリニウスの博物誌の一節の言葉だ。向こうでは『邪魔者は殺す』と言う意味の諺だった気がする。
「我が子孫、我が親類、我が親友よ。異形の民、カインの末裔の化け物。我が爪によって挽き肉と化せ」
スッ……と静かに右手を挙げ、ルーナが一歩目を踏み出す。
僕はかなり吹き飛ばされたらしく、吸血蜘蛛との距離は八メートルは離れていた。
にも関わらず。
映画のフィルムが途切れたみたく、ルーナは瞬きの間に吸血蜘蛛の懐に居て、その長い腕を引き散切っていた。
残像すら映さずに。
『グギァァァァァァァァァァァァァァァァ!』
吸血蜘蛛が叫び、返り血を浴びながら、ルーナは構わずに呟く。
「去ね、下郎めが」
ビヒュン!
ルーナの一閃。吸血蜘蛛の頭が軽々しく飛んだ。
「これで終わり……かな?」
いつの間にか僕の隣にいたアキラが、ボソリと呟いた。
あっけない幕引きではあったが、僕らの闘いがこの瞬間、終了した。
[Dec-25.Mon/00:20]
「ほぅ……」
真祖には程遠いが、それなりには使い道がありそうだ。魔術天使は双眼鏡から目を離し、ニヤリとほくそ笑む。
「粉然。なかなかの収穫であった。果然。楽しめたわ」
膝丈のコートを翻し、魔術天使は屋上を後にした。
「吸血蜘蛛の改善点を解釈した。漆黒真祖よ、礼を言おう」
名残台詞は中空に溶け、いつの間にやら降り出していた雪にかき消されていく。