毒味役令嬢は、王杯の猛毒を飲み干して差し上げますわ 〜前世は治験モルモット、毒なんぞ効きませんの〜
「毒味役ごときが、私の王杯に口をつけるな」
戴冠式の大広間に、王太子ジークベルトの声が響き渡った。
数百の視線が、私——エルフリーデ・フォン・ヴァイセンフェルスに突き刺さる。
私は差し出しかけた手を、静かに引いた。
「かしこまりました」
それだけ。喚きも、涙もない。
(ええ、承知しておりますとも。私はただの『毒を代わりに飲む道具』ですものね)
代々、ヴァイセンフェルス家は王家の毒味役を務めてきた。婚約者という肩書きは名ばかり。私の役目は、王杯に盛られた毒を、この身で検めること。
それだけの、道具。
「聞いたか、皆の者。古臭い毒味の因習など、この私が終わらせる」
ジークベルトが得意げに顎を上げる。その傍らで、寵姫アマーリエが袖で口元を隠し、微笑んだ。
(あら。扇で口元を隠す癖……嘘をつくときの、あなたの仕草でしたわね、アマーリエ様)
私は菫色の瞳を伏せた。血色の悪い白い肌を「病弱令嬢」と嗤う者たちは知らない。この肌は、数多の毒をこの身で無効化してきた証なのだと。
前世——私は現代日本の臨床試験施設で、あらゆる薬物と毒物に耐性を極めた研究者だった。通称『毒が効かない女』。治験モルモットと自嘲したこともある。
その魂を引き継ぎ、私は【状態異常無効】のギフトを得て、この世界に生まれ落ちた。
「田舎者の令嬢よ、下がれ。今日この日、お前の役目は消える」
「……かしこまりました。では、下がらせていただ——」
言いかけて、私は足を止めた。
ジークベルトが掲げた王杯。
その縁の、わずかな変色。
立ち上る、微かな苦扁桃の匂い。
(……苦扁桃の匂い。シアン化合物ですわね。即死性の神経毒。……素人仕事ですこと)
心臓が、静かに冷えていくのを感じた。
これは、本物だ。
◇
冷静に、状況を分析する。前世の研究者気質が、こんな時にこそ働く。
(誰が盛ったか……いえ、答えは決まっておりますわね)
視線の先で、アマーリエが扇の陰でうっすらと笑っていた。
(あなた、隣国と通じていましたわね、アマーリエ様。暗愚な王太子を毒殺し、傀儡の弟王子を立てて、国を売る。私を戴冠式で追い出したのは、この毒を見抜けるのが私だけだから)
半年前から、違和感はあった。厨房への隣国産香料の流入。貯蔵庫に紛れ込む見慣れぬ薬包。密書のやり取り。
私はすべて、集めてきた。「田舎者」と侮られ、誰にも警戒されなかったからこそ。
さて——ここで下がれば、ジークベルトは杯を呷り、その場で絶命する。
(ここで下がれば、殿下は杯を呷って絶命する。……それはそれで、ざまぁではありますけれど)
いいえ。それでは駄目だ。
(いいえ。それでは駄目。この男が死ねば、母が命を懸けた役目が『無意味だから』廃されたことになってしまいますもの)
この男が死ねば、アマーリエの筋書き通り。国が売られる。
そして——毒味役の因習は、「危険だから」ではなく「無意味だから」廃されたことになってしまう。
母が、命を懸けて守った役目が。
私は振り返った。下がる寸前の、その一歩で。
「殿下。最後にひとつだけ、よろしいですか」
「なんだ、まだ何か——」
「——その杯、私が飲み干して差し上げますわ」
言うが早いか、私はジークベルトの手から王杯を奪い取った。
「な——貴様、何を勝手に!」
悲鳴。ざわめき。
そして満座の前で、私は一息に、猛毒の王杯を飲み干した。
喉を焼くような苦味。前世で幾度も味わった、死を運ぶ味。
——だが、この身には効かない。
静寂。
誰もが、私が倒れるのを待っていた。
だが——私は指一本、震わせない。
静かに杯を伏せ、口元を拭う。
「あら。何ともありませんわね」
菫色の瞳を上げ、私は微笑んだ。氷のように冷えた、慇懃な微笑を。
「……ということは、殿下。これは毒ではなかった、と証明されてしまいましたわね」
ジークベルトの顔が、みるみる青ざめていく。
「毒味役を『不要』と仰ったあなたは——たった今、私に命を救われたのですわ」
◇
「な……何を、言って……」
ジークベルトが後ずさる。彼はまだ理解していない。自分が今、死の淵から引き上げられたことを。
「証拠を、お示ししましょう。ヴィルヘルム殿、鑑定を」
私は懐から一枚の布を取り出した。飲み干す寸前、密かに杯の縁の毒を染ませておいたもの。前世からの、検体保存の習慣。
宮廷魔術師ヴィルヘルムが進み出る。当初、私を軽んじていた彼の眼鏡が、布に触れた瞬間、大きく見開かれた。
「これは……シアン系の神経毒。しかも——隣国ロスヴァイセ産の製法と、完全に一致します!」
広間がどよめいた。
「令嬢、あなたはこれを、飲み干す直前に採取したと? 倒れる危険を冒しながら、証拠を確保したと言うのですか……その分析、その手法、宮廷魔術の常識を覆します……!」
「ええ。そして——」
私は、もう一束の書簡を掲げた。
「これは、レーヴェンシュタイン伯爵令嬢アマーリエ様と、隣国使節の密書。半年分ですわ」
アマーリエの扇が、床に落ちた。
「な……なぜ、それを……」
「毒味役は、厨房にも貯蔵庫にも出入りできますの。『田舎者の毒味役ごとき』と侮ってくださったおかげで、誰も私を警戒しませんでしたわ」
私は淡々と続ける。声を荒げることなど、一度もない。
「あなたは暗愚な王太子を毒殺し、傀儡の弟王子を立てて国を売るおつもりでした。この王杯の毒は、その第一歩。……違いまして?」
「黙りなさい! 田舎者の分際で——!」
本性を剥き出しにしたアマーリエに、私は静かに首を傾げた。
「あら。ようやく素のお顔が。……扇で口元を隠す余裕も、もうございませんのね」
証拠、手続き、正論。すべてが揃った断罪の前に、彼女の美貌の仮面は、無様に崩れ落ちた。
◇
「アマーリエ・フォン・レーヴェンシュタインを、反逆罪により捕縛する」
低く、しかし広間の隅々まで届く声。
漆黒の髪、縦に裂けた金色の瞳。第二王子にして辺境防衛軍総帥——『氷の将軍』コンラート・フォン・ロートリンゲンが、扉から歩み出た。
衛兵が殺到し、喚き散らすアマーリエを引き立てていく。
「殿下……いや、ジークベルト。貴様は毒味役を侮辱し、暗殺されかけたことにも気づかず、婚約者に命を救われた。王位を継ぐ資格は、もはやない」
ジークベルトはへたり込み、初めて理解した顔で私を見た。
「私は……私は、救われて……? そんな、私が、王太子である私が……」
失ってから、ようやく気づく。だが、遅い。
コンラートが私の傍らに立つ。
「見事だった、ヴァイセンフェルス嬢。……いや」
無表情の将軍が、わずかに視線を落とす。
「お前が毒に強いのは、知っていた。証拠集めにも、密かに協力していた」
「存じておりましたわ。厨房に流れた情報、時折消えていた証拠の痕跡。……あなただったのですね、コンラート様」
「……だが」
彼は、いつになく不器用に言葉を継いだ。
「俺の前では、もう毒を飲むな」
満座の中、氷の将軍が見せた、無骨すぎる案じ方。
私は少しだけ、面白くなってしまった。
「ふふ。将軍ともあろうお方が、私ごときを案じてくださるとは。……ところで、コンラート様」
私は声を潜めた。彼にだけ聞こえるように。
「執務室の引き出しに隠していらっしゃる砂糖菓子。あれは、隣国産の砂糖を使っていますわね。……甘党でいらっしゃる?」
コンラートの縦長の瞳孔が、かつてないほど揺れた。
「……なぜ、それを」
「毒味役ですもの。甘い匂いには、敏感ですのよ」
初めて、氷の将軍が動揺した。その耳が、ほんのり赤い。
「……この話は、他言無用だ」
(あら。耳まで赤くなって。……可愛らしいところがおありですのね)
断罪の緊張が解けた広間に、ほんの少しだけ、温かな空気が流れた。
◇
その夜。ヴァイセンフェルス家の私室で、老侍女ヨハンナが一冊の古い手記を差し出した。
「お嬢様。……もう、お渡ししてよろしい頃かと」
皺深い手が、震えていた。
「これは……母様の?」
「はい。前代毒味役であられた、奥様の手記でございます」
頁を繰る。見慣れた、けれど懐かしい筆跡。
『——今日もまた、毒を飲んだ。娘には、この因習を継がせたくない。』
『毒味役とは、王家のために命を削る道具。私は道具として死ぬのだろう。だが、せめて。』
『因習を終わらせ、娘には自由を。それだけが、私の願い』……ここで、途切れて。
手記は、途中で途切れていた。
そう——母もまた、毒味で命を落としたのだ。私が幼い頃に。
「奥様は」ヨハンナの声が滲む。「最期まで、お嬢様の未来だけを案じておられました。『あの子には、道具ではなく、一人の人間として生きてほしい』と……」
私は、初めて気づいた。
「……私が半年をかけて証拠を集め、因習そのものを断ち切ろうとしたのは。ただ生き延びるためでは、なかったのですわね」
母の願いを、この手で叶えるためだったのだ。
菫色の瞳から、感情を映さぬはずのその瞳から、一滴、雫がこぼれた。
「母様。……終わらせましたわ。毒味役の因習は、今日で最後」
手記を胸に抱く。
「あなたの分も。あなたが飲んだ毒の分も。私は、生きますわ」
ヨハンナが、涙ながらに深く頭を垂れた。
「……ええ、ええ。奥様も、きっと、お喜びに……」
静かな断罪の裏に隠されていた、母娘二代の物語。
スカッとした逆転の奥に、ひとひらの涙が、静かに落ちた。
◇
季節は巡り。
ロートリンゲン王国は、毒味役の因習を正式に廃止した。命を削る道具として人を使う時代は、終わったのだ。
アマーリエは反逆罪で失脚。隣国の陰謀も露見し、国境の防衛はコンラートの手で固められた。ジークベルトは王位継承権を失い、静かに歴史の影へと消えた。
そして私は——コンラートの治める辺境の地に、新たな居場所を得た。
『毒物学者エルフリーデ研究室』
看板を掲げた小さな館で、私は毒の研究に明け暮れる。誰かの命を守るために。
「令嬢。……いや、エルフリーデ」
コンラートが、ぶっきらぼうに紙包みを差し出す。
「……菓子だ。研究の合間に、食え」
「あら。将軍自ら、砂糖菓子の差し入れですか。よろしいのですか、貴重なコレクションを」
「……うるさい」
耳を赤くして顔を背ける氷の将軍に、私は小さく笑った。
窓の外、辺境の空は高く澄んでいる。
母の手記は、今も私の机の上にある。因習を終わらせ、娘には自由を——その願いは、確かに叶った。
「毒が効かない体で、今度は毒に苦しむ人を救いますの。——ええ、前世の分も含めて」
私は試薬瓶を光にかざす。
その時、館の扉を叩く者があった。
息を切らした伝令——ヴィルヘルムが、一通の書状を差し出す。
「エルフリーデ様! 隣領の晩餐会で……貴族が三名、原因不明の症状で倒れました! 医師も匙を投げ……どうか、お力を!」
私は静かに立ち上がった。菫色の瞳が、久しぶりに鋭く光る。
「症状は? 摂取から発症までの時間は? ……ふむ。遅効性の植物毒、といったところかしら」
コンラートが、無言で剣を取った。
「……行くのだろう。ならば、俺も行く」
共に来る、という意思表示。
「参りましょう、コンラート様。——毒の匂いがしますわ。ええ、とても『素人仕事ではない』匂いが」
新たな毒殺事件の影を追って。
毒が効かない令嬢の、第二の人生は——まだ、始まったばかり。




